めんどくさいのは愛ゆえ(1)

 今が真冬でないことを、幸運に思うべきなのかもしれない。
 真っ青な空の下、照りつける太陽が水に濡れた項をじりじり焦がしていく。姿の見えないセミの合唱を聞きながら、前髪から滴る雫が乾いたアスファルトに染みをつくるのを、ただぼんやりと見つめていた。
 僕は運が悪い。
 それは、最近ついてないなぁ、なんてレベルじゃなくて、いついかなるときも受難と隣り合わせの、悪魔にとり憑かれてるレベルでの運の悪さだ。
 名前を間違われるのはしょっちゅうで、『由川友紀哉』と正しく表記されて郵便物が届くことは、多めに見積もって半分。高校のクラスメイトの中にも、僕の苗字が『吉川』だと思っている人が半分いる。
 昨日は、僕の苗字が『由川』だと知っている(と思われる)、時々話しかけてくるクラスメイト三人に誘われて学校帰りファミレスに寄った。僕が注文したメニューだけいつまで経ってもこないのでウエイトレスに確認したら、不機嫌な彼女に舌打ちされ、みんなが食べ終わった頃に届いたハンバーグには僕の嫌いなパイナップルが乗っかっていた。青ざめる僕を尻目に、クラスメイトたちは手を打って大笑いしていた。やっぱりはずさねえ、と言って。
 こんなことは日常茶飯で、他にも行列に並ぶと僕の前で売り切れたり、信号待ちをしていたら野良猫に足を踏まれたり、凹凸のない平地でつまずいたり、犬のフンを両足で踏んだりする。
 僕は運が悪すぎる。ほら、今だって―。
「ユキちゃん!」
 ガラリと開かれた引き戸から、サンダルをつっかけた下林さんの奥さんが慌てて出てきた。手には空のバケツが握られている。
「ごめんね、下に人がいると思わなくて」
 首にかけたタオルを外して、下林さんの奥さんは白パンみたいにモチモチした手で僕の濡れた顔を拭ってくれた。どうやら二階のベランダから注がれた水が、学校からの帰り道ぼんやり歩いていた僕を直撃したらしい。
「平気です。暑かったからちょうどよかったかも」
「やぁだ、ユキちゃんたら」
 パシッと小気味よく僕の肩を叩くと、下林さんの奥さんは玄関先のプランターで栽培しているミニトマトの、赤くなっている三つをもいで僕の手に持たせた。笑顔で手を振る彼女に笑い返して会釈をし、僕はその場を後にした。
 バケツの水を浴びた代償が、ミニトマト三つ。これが果たして釣り合っているのかどうか。フルーツみたいに甘くみずみずしいトマトをひとつ咀嚼しつつ、それでももやもやが晴れないまま歩いていると、前方から見知った二人組がこっちに向かってくるのが見えた。
 手島兄妹だ。
 都会でも田舎でもない、平凡で特徴のない町に似合わない美男美女。ファッション雑誌からそろって出てきた恋人同士のような二人が、民家の並ぶ小道を歩いている不自然さ。
「なにしてんの? ずぶ濡れじゃん、ユキコ」
 目の前で立ち止まった妹の絵里が、僕を見下ろすように顎を上げて、いつもと変わらない威圧的な態度でそう言った。彼女は僕と身長がほとんど変わらないのに、嫌みなほどに脚がスラリと長い。
 絵里は、いつも僕のことをユキコと呼ぶ。彼女がまだ幼稚園に通っていた頃からずっとだ。焼けない生白い皮膚と、精悍さとは程遠い女性的な顔立ちを揶揄しているらしい。初めの頃はそう呼ばれることに抵抗していたのだけど、幼い彼女の意思は鋼鉄のように固く、僕は早々に諦めることになった。
 それに僕の方が大人だし。年下の女の子相手に張り合っていても仕方がない。見た目は大人っぽいけれど、なんせ彼女はまだ中学一年生なんだから。
「いやなんかね、暑いなーとか思いながら歩いてたら、ちょうど下林さん家の、ほらあの新しくできたパン屋さんの斜向かいの、下林さんの奥さんが、二階のベランダからお水を」
「ださっ」
 僕のいまいちまとまらない説明を最後まで聞かず、絵里は簡潔な感想を述べた。
「なにそれ」
 今度は僕の手の平に乗ったミニトマトを見て、整った眉を寄せる。
「これ、その、下林さんの奥さんが育ててるのをもらったんだけど、食べる?」
「食べるわけないじゃん」
 普段通りの一刀両断。僕に対する絵里の態度はいつもこうだ。絡んでくるのも切り捨てるのもいつだって向こう。僕は五つも年下の彼女に振り回されまくっていた。
 僕とトマトに興味を失くした絵里は話しかけてきたときと同じ唐突さで僕の横を通り過ぎていった。作り笑いのまま歪んだ唇がひくひく震える。
 兄妹の兄の方はと言うと、炎天下でやりとりする僕らをちゃっかり木陰に入って見守りつつ、煙草に火を点けていた。
「未成年がタバコ、いけないんだよ」
 言いながら近づくと、貴洋はそれを一口だけ吸って天に吐きだし、口癖のめんどくせー、をひとこと洩らしてから、残りは小さな携帯灰皿にもみ消して仕舞った。
「着替えれば?」
 節の出っ張った小麦色の指先で、僕の制服の襟を摘んで引っぱる。驚く間もなくすぐに離れていった長い指を、無意識に目で追ってしまった。もう何もない襟元には、時間差で甘くて苦い煙草の匂いが残った。
「おうち帰って着替える」
 ドキドキしつつもそれだけ伝えると、貴洋は頷いて立ち去ろうとするので思わず呼び止めてしまった。
「なに?」
「あ……、食べる?」
 ミニトマトのヘタを摘んで苦笑い。なにをしているんだ僕は。絵里みたいにこっぴどく断られるところを想像して青ざめる。
「あの、これ下林さんとこの奥さんがくれ、たの……」
 恐ろしい沈黙を埋める説明を始めた僕の手首を掴んで、貴洋は僕の指先からぶら下がる赤い実を食べた。
「あま」
 状況を把握するのに五秒、『あま』が『甘』に変換されるのに五秒。十秒後、僕のテンションと体温は一気に上昇し、気恥ずかしさと嬉しさが相まってペラペラしゃべり始めた。
「フルーツみたいでしょう? 厚い皮が弾けた中身がみずみずしくて。バケツの水かぶったのも悪くなかったかも―」
「おにいちゃーん、まだぁ?」
 前方の三叉路から、さっきとは打って変わって甘ったるい声。あのブラコン女だ。
「早く帰って着替えな、風邪ひく」
「うん」
 今度は引き止めずに手を振る。長身の後ろ姿が遠ざかっていくのを見送りながら、僕はそっと身震いした。貴洋に捕まれた手首と、薄い唇が触れた爪の先が熱をもっている。
 神様はちゃんと見ていた。僕に降りかかる小さな不幸の数々は、禁忌を犯した罰だ。
 僕は、両親を事故でなくして以来世話をしてもらっている手島家の長男、幼なじみの貴洋に恋をしていた。



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めんどくさいのは愛ゆえ(2)


 僕が五歳の春の時、両親が飛行機事故で死んだ。母方の祖母が危篤状態で、僕を手島家に預けて北海道に飛んだ二人は、一命をとりとめた祖母に安堵して帰る飛行機で事故に遭って死んだ。笑えない笑い話だ。
 十七歳の今、父と母が墜落する飛行機に乗っていたことを想像すると、恐ろしくて胸の中が冷たくなる。でも五歳当時の僕には目の前で起こる出来事がすべてで、両親の死を人づてに聞かされてもうまく理解できなかった。
 お葬式で初めて会った親戚の中には、涙を流しながら僕を抱きしめてくるおばさんや、突然キャッチボールに誘ってくるおじさんなど、(今となればわかるが)突飛な行動に出る大人が続出し、僕は両親不在の初めての仰々しい行事で、ひとり異世界に巻きこまれたような気分になっていた。
 そんな僕を現実に引き戻したのは、貴洋だ。
『死んだ人とは、もう会えねーよ』
 ぼんやりと周りの状況に流されていた僕は、この貴洋の何気ない一言で号泣し始めた。死んだら会えない。可哀想だと、あまりにひどい話だと騒ぎ立てはしたけれど、こんな当たり前のことを教えてくれる大人はいなかった。
 いつまでも泣き止まない僕に、貴洋は次第におろおろしだした。いつもは僕を泣かすことに命をかけているような男が焦っているのでだんだん愉快になってきて、僕は勝手に涙がこぼれるのをいいことに、ここぞとばかりに泣きじゃくっていた。
『泣くなよ』
 困り果てた様子の貴洋が、驚くことにそんなことを言って僕の前から消えた。しばらくして戻ってきた貴洋の小さな手の中にはどこから採ってきたのか、八重山吹の花があった。
『やるから』
 泣きやめ、ということらしい。目の前に突き出された茎の緑と花の山吹の濃く力強い色合いに、僕はどん底のなかで希望を見た気がした。滝のように流れていた涙も止まり、落ち着いた僕を見て、珍しく動揺していた貴洋の顔もようやく安心した表情に変わった。
『ありがとう、大事にするね』

 確かその時、僕はそう言った。まさかその言葉通り、当時の濃い色のままの八重山吹が、今も僕の手元にあるだなんて貴洋は思っていないだろう。
 押し花になった八重山吹は、僕の大切な思い出コレクションのひとつだ。そのほかにも、スミレ、マーガレット、ツルニチニチソウ、ワスレナグサの押し花がクッキー缶の中に保管されている。そのどれもが両親の死の直後、暗く落ちこむ僕を見かねて貴洋が道端で摘んできてはプレゼントしてくれたものだった。
 あのお葬式の日を境に、貴洋の僕に対する接し方がガラリと変わった。それまでは臆病で小心者のくせになかなか泣きはしない僕を必死で泣かせようと、驚かせてみたりお気に入りのおもちゃを奪ってみたりと躍起になっていたのが、いざ泣き顔を見せると、貴洋は僕を泣きやますことに必死になってしまった。
 そのどちらの態度も、僕にとっては嬉しかった。僕だけを見てくれていたから。そう、あの貴洋によく似た涼しい目元の、気の強い美人の妹が生まれるまでは、貴洋は僕だけのものだった。
 クッキー缶から出して自室の床に一列に並べた押し花をじっと眺めていると、部屋の扉がノックされた。
「ユキちゃんいるー?」
 急いで押し花を缶に仕舞って返事をした。入ってきたのは貴洋と絵里の母親、カエさんだ。彼女はガーリーな見た目や所作をしているが、壮絶な半生を送っている。絵里が生まれた直後、夫の浮気が発覚するやすっぱり離婚し、先代から受け継いだタバコ屋『手島商店』を商いつつ、女手ひとつで二人、プラスなかなか貰い手が決まらない友人の子である僕まで引きとって育てあげる、という信じられないバイタリティーの持ち主だった。
「来月のお誕生会のケーキ、チョコと生クリームとどっちがいーい?」
 子供のように首を傾げながらカエさんが言う。来月、八月の十七日は、僕の誕生日だ。そして同時に僕の苦手なパイナップルの日でもあり、さらに苦手な絵里の誕生日でもある。
 昨年の誕生日、シャンパン片手に生クリームたっぷりのショートケーキを一気食いしたカエさんが、夜中青ざめた顔でトイレと自室を行き来していたことを思い出す。
「今年は小さめのチーズケーキにしようよ。ワインに合うかもしれない」
「まあ! 私のこと気づかってくれてるのね。 なんていい子なんでしょう」
 兄妹はケーキを食べないので、お酒好きのカエさんを思って提案すると、大仰に両手を広げた彼女にひしっと体を抱きしめられた。
「家庭内セクハラ」
 開けっ放しの扉の向こうを、低く甘い声が風のように一瞬で横切った。
「あら、貴洋もう帰ったの?」
「コンビニ行くついでに絵里送っただけ」
 絵里を送るついでにコンビニに行った、がたぶん正解。
 姿は見えないが廊下からそんな声がして、パタンと扉の閉まる音が鳴る。手島家二階の僕の部屋の隣が貴洋の自室だ。彼はどうやらそこに収まったらしい。
「相変わらず無愛想ね、ユキちゃんと違って」
「僕はペラペラしゃべりすぎるから。男だったら貴洋みたいに無駄がないのがかっこいいよ」
「わかってないわねぇ、ユキちゃん。あれは単なるむっつりスケベよ」
 僕を拘束していた腕を解いて、ビシッと貴洋の部屋側の壁を指差し、カエさんは実の息子を一言でそんな風に斬った。むっつりスケベな貴洋を想像して一人赤面しつつ、僕はここ最近、ずっと頭を悩ませていることをカエさんに小声で打ち明けた。
「最近、貴洋が冷たい気がするんだけど、気のせいかな」
「あら、あの子、ユキちゃんになにしたの?」
 言うや否や、隣の部屋に乗りこもうとするカエさんの腕を捕まえて、僕は視界がぶれるほど首を横に振った。
「なにもされてないよ! 違くて、ただ、どこの大学に行くか、聞いても教えてくれないからちょっと気になってるだけで」
 高校三年の夏休み前ともなると、みんな志望大学をだいたい決めている時期だ。僕自身もこのあいだ学校から渡された進路希望調査の紙に、理学部を志望すると書いた。
 僕には植物園で働く夢がある。両親が生きていた頃、花や草木が好きな僕に二人はよく、『将来は植物博士だ』なんてすりこんでいた。
そのまま時が止まってしまった二人の洗脳が効いたのか、僕の植物熱は一向に下がる気配を見せず今に至る。両親が遺してくれた、二人が僕の将来のためにこっそり積み立てていた大切なお金を、夢のための手立てに還元することに少しだけ誇りを持っていたりする。
 迷いなく学部をしっかり決めているのに、肝心の大学をどこにするかを僕はまだ決めきれていなかった。情けないことに、高校までずっと一緒の学校に通ってきた貴洋と離れ離れになることが怖いのだ。一緒の家に住んでいるためほぼ毎日顔を合わすのに、贅沢に慣れきった僕の精神は、大学もおそろいでないと気がすまないらしい。
「さ、さあ~、どうなのかしら。あたしもよく、知らない、かも」
「貴洋どこの大学に行くか、カエさんにも言ってないの!?」
 そんな大切なことを親にも報告してないなんて! 僕は驚きすぎた勢いで、カエさんの華奢な両肩をガシッと掴んでしまった。
「あ、ごめんなさい」
 咄嗟に手を放す。オホホ、と妙な笑いを返された。
「あ、下! お客さんが来たかも」
 突然そんなことを言い出して、慌てて部屋を出ようとしたカエさんが振り返る。
「誕生日のチーズケーキ、超~おいしいお店探しとくから!」
「なんで、いいよマキノ屋ので」
「いいのいいの」
 なぜか申し訳なさそうに両手を振ってそう言いながら、カエさんは今度はゆっくり部屋を出て、すごい物音を立てながら転げるように階段を下りていった。
「びっくりさせちゃったかな」
 力いっぱい肩を掴んでしまった自分の手の平を見て反省する。しかし驚いた。




めんどくさいのは愛ゆえ(3)


『秘密―』
 僕が軽いノリで志望大学を聞いたとき、貴洋は一拍おいてその一言を発し、片方の口角を上げて僕を見下ろした。あとを継がせない空気を一瞬で作りあげられた僕は、貴洋の思惑通り、開いたままの口を静かに閉じるしかなかった。その貴洋の反応は、僕のように進路に迷っている人間のごまかしなんかじゃなく、先を決めている人間の余裕だった。
 貴洋は僕との会話において、いつも聞き役に徹していることが多い(そもそも僕がしゃべりすぎるのが原因)のだけど、質問を投げかけたらだいたい素直に答えてくれる。筋の通ったきっぱりした人だから、そのときはその質問に答えたくなくてそんな反応を示したのだろう。
 理由は、なんなのだろう。僕に志望大学を秘密にする理由。想像すると怖くなる。
 昔から小さな不幸の連鎖に陥っている僕に、貴洋だけはいつも優しかった。クラスメイトは僕の不幸体質を笑いのネタにするし、カエさんは毎度のことに慣れきって日常化しているし、絵里の場合はきっちり蔑んだあとに興味をなくす。そんな反応のなか、貴洋だけは注意を促してくれたり、対処を指示してくれたり、優しい言葉ではないけれどいつも的確に、ちゃんと手を差しのべてくれる。
 生まれたときからずっと一緒で、ずっとそうやって甘やかされ続けてきた。貴洋にとっては仕方なしの義務でしかなかったのかもしれないけれど、僕にとってその差しのべられた手は唯一の救いで、なくてはならないものだった。崇拝にも近い、危険な感情。それを恋だと判別するのには、少しだけ勇気が要った。でもそのもやもやがなにかを決定づけなければやり切れなくなった頃には、もう自分の感情が恋以外のなにものにも当てはまらないところまで行き着いてしまっていた。
 手遅れだった。いや、僕がこの世に生まれ落ちた瞬間から不幸の呪いは始まっていたから、貴洋を好きになったことが禁忌で、僕に振りかかる不幸が罰だとすると、僕は初めから彼を好きになるようにできていたって言うほうが正しいのかもしれない。それは植物と太陽の関係に似ていると思う。僕は種を蒔かれたときから彼を欲していて、貴洋なしでは成長できない、呼吸すらできない。
 そんなふうにずっと見守ってくれていた貴洋が、初めて意図的に作った僕との距離の意味を、ここ数日考えたり考えないようにしたりあえて無心になってみたりと、僕の脳内では混乱が続いていた。
 貴洋はカエさんにも志望大学を教えていない。親に秘密にしている理由はわからないが、驚いた反面、内心ホッとしていた。僕一人が貴洋に距離をおかれてるわけじゃないんだ。


「県外か県内か、私立か国公立か、なにか一つでも決めてることはないのか」
 担任の言葉に僕は少し考えるふりをしてから首を横に振った。
「もう少しだけ待って。夏休み明けには必ず決めますから」
「―ならいいが」
 渋々納得した様子にほっと息を吐きつつ、職員室に戻る担任の横にぴったり張りついて、媚びるように両手を擦り合せながら尋ねる。
「ねえ先生、一組の手島くんって、どこの大学受けるか知りません?」
 本人に聞いても教えてくれないので、僕はカエさんや先生など周りの大人たちから情報を得ようと、裏であざとく動いていた。
「人のことより、自分のことを考えろ」
「それを教えてくれたら、自分のことも考えますから」
 急に立ち止まった隣から、頭に軽いゲンコツが落ちてくる。
「痛たー」
「ふざけてるヒマないぞー」
 僕をぶった手をヒラヒラ振って、担任は去っていった。
「ケチ。知ってんなら教えてくれたっていいじゃないかー」
 脳天を擦りつつ教室に戻ろうと振り返ると、目の前になんと貴洋が立っていた。
「うあー」
「なんだよその平坦な驚き方は」
 なんて偶然なんだ。厄災だ。今日ひとつ目の不幸だ。
「先生となに話してた?」
 淡々と問われて、こっちも何事もなかったように曇天の窓の外に目をそらす。
「なんか……、気候の話、とか?」
「そうやって重ねた嘘が、のちの不幸に繋がるんじゃね?」
「聞いてたんじゃん!」
 最悪だ。よく見ればここは一組の扉の前。いまは昼休み、貴洋は食堂に向かうのか、廊下に出てきたところだった。あまりの運の悪さに絶望して頭を抱えうずくまった直後、食堂へ急ぐ生徒の誰かの膝が後頭部を直撃して僕はべしゃっと廊下に倒れこんだ。
 のちの不幸がこんなすぐにやって来るなんて、さすが僕だ。
「不幸じゃねえよ、ただの不注意」
 僕の思考回路が見えているのか、貴洋が言った。これは彼がいつも言う言葉だ。さっきはついた嘘が不幸に変わる、なんて茶化してみせていたけれど、本当のところはことある毎に僕が報告している不幸の数々を貴洋は呪いだと信じていないのだ。
 床すれすれに差しのべられた手を両手で握ると、ぐいっとすごい力で体を引き上げられた。あっという間に視界が変わって、僕はほとんど自分の力を使わずに立ち上がっていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 貴洋は僕の制服の前身ごろを力強く、でも痛さは感じさせず、一度パシッとはたいた。倒れたときに付着した埃がシャツからパラリと落下するのを見ている間に、貴洋は僕の前から去っていた。



めんどくさいのは愛ゆえ(4) R-18


 夏休みに入ると、受験生の分際でなんの余裕か、貴洋はアルバイトに今まで以上に精を出し始めた。
 急行列車が止まる、隣駅の歓楽街のはずれにあるバー。僕はもちろんそんな夜のお店に行ったことがないのだけれど、そこが貴洋のバイト先だった。
 平日の週三日、十八時から二十二時まで。それが高校一年の夏から始まった、貴洋のアルバイトの勤務ペースだった。今までそのペースは、店に人手が足りないとき以外大幅に狂うことはなかったのだけど、夏休みに入って一週間、貴洋の生活は毎日のように夕食前にバイト先へ向かい、朝方帰ってくると眠りにつくというスタイルに変わってしまった。
 貴洋は、一体いつ勉強をしているのだろう。
「あーもうっ」
 暑いのと考えすぎて脳が休まらないのとで、床に就いてから何度も浅い眠りと起床を繰り返していたのだけど、ついにその中途半端な状態に嫌気が差して布団から飛び出した。
 部屋の明かりを点け、カーテンを全開にし、片側だけガラス窓を開ける。外はまだ薄闇だった。時刻は午前三時五十分。
 思わずため息が出る。早起きは三文の徳らしいので、人より早く起きたぶん勉強でもすればいいのだけれど、とてもテキストを見る気分にはなれなかった。
 この大事な時期に勉強がまったく手につかない。意識は常に散漫で、寝ても醒めても貴洋のことが頭にちらつく。ほとんど休みを取らず深夜勤務に勤しむ貴洋とは生活リズムが真逆になるため、ここ一週間は顔を見ても挨拶程度しか交わしていない。
 なにかが動き出している、そんな嫌な予感がする。今は静かな海に泡立つさざ波程度の動きかもしれないけど、それはいずれ来る嵐に繋がる予兆のように思えて不安でならない。
 セミすら鳴かない夜明け前の静かな窓の外から、チリンと軽快なベルの音が鳴った。なんだろうと不思議に思って窓から顔を出すと、薄暗いなかで自転車にまたがった貴洋がこっちを見上げていた。
「寝てねーの?」
 周囲に音がないため、隣り合ってしゃべるくらいの調子で貴洋が尋ねてきた。
「いま起きたの」
「下りてこいよ、散歩しようぜ」
「こ、んな時間に!? 僕まだ顔も洗ってないよ、それにパジャマだし、髪もボサボサ―」
 し、と子供にするみたいに唇に人差し指をあてて貴洋が目を眇める。突然のお誘いに驚いて、声量のコントロールを忘れていた。バカ、と動いた唇に謝ろうと両手を合わせたら、パチンと派手に音が鳴って二人同時に噴きだした。しばらく上と下で無言の苦しい笑いが続いたあと、息もきれぎれ、貴洋が囁いた。
「そのまんまでいいから降りてこいよ。こんな時間、誰も外歩いてねーから」
 貴洋に見上げられることに慣れていない僕は、上目づかいに手招きされたことに舞い上がってしまって、なにも考えず頷いて部屋を出た。そこが地獄だとわかっていても、あの目で見つめられたら喜んで下りていったに違いない。
「なにそれ」
 足音を立てず、そっと玄関を出た僕の手元を見て貴洋が言った。
「まちがって持ってきた、みたい」
「なにをどう間違って、枕抱えてくっかな」
「戻してくる」
「いいよ」
 回れ右した僕の小脇に抱えた枕をスルッと抜き取り、前かごに突っこんだ。
「乗んな」
 荷台を指差されて一瞬固まる。二人乗りなんていつ以来だろう。待たせるのも悪いので自転車をまたいで荷台に腰を下ろした途端、スーと抵抗なく自転車が前進した。
「うあっ」
 力の入っていない上半身が後ろに傾く。危ないと思った矢先、前からにゅっと伸びてきた貴洋の手が、バランスを失いかけた僕の腰を掴んで前のめりにさせた。鼻先が背中にぶつかる。陽を浴びたみたいに温かなシャツから、煙草と女性物の香水が染みた夜の匂いがした。
 無音の薄闇の中、ふたりを乗せて軋む自転車の漕ぐ音がやけに耳についた。貴洋の肩に乗せた自分の手が汗ばんでいく。広い背中に自分の吐く息がかかるのがいやで、少しだけ顔を背けて肩甲骨にこめかみをくっつけた。
「ど、どこ行くの?」
「決めてない」
 町外れのひとっけのないアーケードの中に自転車がすべり込む。
「あ!」
 昔からあるゲームセンターの前を通りかかったとき思わず声が出た。急ブレーキをかけた貴洋がハンドルを握ったまま振り返る。
「あ、ほらあれ、懐かしくない? 昔のまんまだね」
 僕は自転車が停止したのをいいことに荷台から降りた。触れ合うほど距離の近い状態が長く続くことが久々すぎて、胸やら呼吸やら、いろんなとこが極限状態だったのだ。
 閉まっているゲームセンターの外に、網がかけられた古いゲームの筐体がおかれていた。磁石に引き寄せられる金属のように、体が自転車から離れてそっちに向かう。
「このゲーム、小学校の時よくやったよね。ひとり用なんだけどふたりで協力してさ。貴洋がレバー担当で、僕がボタン担当……」
 貴洋がうしろに近づいてきているような気がして振り返ってみたけれど、期待した目線の先は無人だった。アーケードの中央から、まだ自転車にまたがったままこっちを見ている貴洋にゆっくりと視線を移す。
「もう忘れちゃった?」
「覚えてるよ」
 そう言って胸ポケットから煙草を取りだすので、僕は急いでもとの場所へ戻った。火を点ける前だったから唇に挟まったそれを奪う。
「体によくないんだよ。肺がまっくろけになるって」
 貴洋には健やかに長く生きてほしい。
「お前は俺のおかんかよ」
 呆れたように言って笑う。奪ったはいいものの持て余していた煙草を返すと、貴洋はそれを吸わずに箱に戻した。
 ここ最近の貴洋は、思い出話に乗ってこない。これも貴洋が冷たくなった気がする原因のひとつだった。以前は昔話が出ても気にならないくらい、自然に会話が流れていた。でも今の貴洋からは、意図的に会話を断ち切ろうとしたような意思が見えた気がする。
 貴洋の気持ちに、どんな変化が起こっているのだろう。知りたい欲求が生まれると、同時に目を開いて真実を知ることの恐怖も生まれる。
 プールから上がったあとみたいに全身をぶるりと震わせた僕の肩を叩いたのを合図に、貴洋は自転車をおして歩きだした。
「大学、決めたか?」
「……まだ」
 貴洋は?
 尋ねそうになって下唇を噛む。 
 質問しても返ってくる答えは、きっと前と同じ『秘密』だ。それは経験上わかっていた。普段はめんどくせーとかだりーとか言いつつも人(絵里と僕)のお願いを聞いてしまうようなところがある貴洋だけど、一度自分で決めたことに関してはどんなに周りが懇願しても譲らない信念を持っていた。周りに流されるままに生きてるように見せかけて、人生の大切な局面ではちゃんと筋を通す。
 だから、貴洋が『秘密』と言ったということは、それは何度聞いても答えは同じ、『秘密』なのだ。
「はっきり決めたほうが、その大学の傾向があるから勉強しやすくなるぜ」
 志望大学をはっきり決めている余裕から、そんなセリフが出てくるのかもしれない。
「そんなのわかってる」
 貴洋と同じ大学に行きたい。その大学に僕の志望する理学部があるか知りたい。あったらそこに決めるし、なければ、またそのときちゃんと考えるから。とにかく離れたくない。ずっと一緒にいたい。
 ため息をひとつ吐くあいだに、頭の中では言えない本音が渦まいた。
「お前ってさ、ちょっと変わったところがあるから人にいじられやすいだろ」
 唐突に貴洋がそんなことを言った。たしかに、クラスメイトからはよくこの不幸体質をからかわれている。
「でも大学ってたぶん、高校みたいに常に誰かと群れていないと後ろ指さされるようなところじゃないと思う。自由で、好きな勉強だけに集中できる環境って、ユキに合ってると思うぜ」
 どういう意味だろう。大学に行かないだなんて一言も言ってないのに、なぜそんなことを言うのだろう。
 キコキコ手押しで自転車を進める貴洋のあとを歩きながら、言われたことを何度も頭の中で繰り返して真意を探る。貴洋がなにを伝えようとしているのか、そのひとつの可能性にたどり着いたとき、胸のどこかがチクリと痛んだ。
 今のは、貴洋なりの決別の意思表示だったんじゃないか。自分とは別の大学になるけれどお前ならひとりでやっていける、というメッセージに受けとめられなくもない。
 僕は急に歩くのが嫌になって、その場に立ち止まった。
 あくまで仮定だ。僕の想像の中の可能性のひとつに過ぎない。そう自分に言い聞かせる。
 先を行っていた貴洋が立ち止まっている僕に気づくと、その場に自転車を置いてこっちに戻ってきた。
「どうした? 青い」
 青い、っていうのはたぶん、僕の顔色のことだ。両親が死んで間もない頃、よく言われたからわかる。
 貴洋は僕の頬に手のひらを添えて、お医者さんがするみたいに親指で目の下の皮膚を下に引っぱった。目の表面に涙の影がないか見ている、僕が泣いていないかどうか確かめるためのこの行為も、小学生のとき以来だった。僕はいま、相当悲惨な顔色をしているらしい。
「帰るか」
 泣いてないことを確認して顔から離れていく右手を、思わず掴んで胸元に引き寄せた。さっきは近くにいることに耐えられなかったのに、今度は離れていく手が不安で自分から距離を縮めている。
 さっきなんで、あんなこと言ったの?
 自分がいないとこでも、お前ならうまくやっていけると、そう言いたかったの?
 尋ねたら答えてくれるかもしれない。でもいまの僕にはその答えを知る勇気がなかった。
「どこにも、行かないよね?」
 不安な気持ちは、そんな子供っぽい言葉になった。じっと見つめていると、黒と白のくっきりした対比の、涼やかな目元に吸いこまれそうになる。胸の底に沈んだ不安を、欠片も残さず取り除いてほしかった。大丈夫だよって、どこにも行かないって。
 言葉を待っていた僕の右頬に、貴洋の手のひらが触れる。さっきみたいに涙を確かめることはせず、親指でそっと唇の表面を撫でた。
「な、に……?」
 驚きすぎて固まっていると、ゆっくり背を屈めた貴洋の唇が、僕の前髪に触れる―
 直前だった。
 ガラガラガラ、と静かなアーケードに場違いな轟音が響く。
「はえーな、おめぇら」
 やけに甲高い声のおじさんが全開にしたシャッターの前で伸びをして言った。
 はえーのはあなただ。
 そう反応する前に貴洋が僕を解放して、おじさんに淡々と答える。
「うるさかった?」
「そうでもねえ、おれはいつもこの時間だ」
 豆腐屋でも魚屋でも八百屋でもない、本屋がなぜ早朝にシャッターを開ける? 意味がわからない。
 屈伸運動をするおじさんと二言三言交わしてから、貴洋が自転車を押して戻ってきた。
「帰ろうぜ」
「う、うん」
 おじさんの登場で、さっきふたりの間に一瞬流れた、濃厚で甘い空気はすっかり消え去っていた。転がっていた小石を、貴洋がつま先で蹴って道の端に避ける。その少々乱暴な仕草に機嫌が悪いのかな、とか考えていると、荷台に乗った僕の手を後ろ手に探って自分の腰に巻きつかせた。行きに落ちかけた僕を気づかう、貴洋のいかなる状況でもぶれない優しさに、思わず頬がゆるむ。
 無言で自転車を漕いでいた貴洋は帰宅すると、寝る、と一言呟いて自室に入ってしまった。枕を抱えて廊下に立ち尽くす。
「なんだったんだろう」
 乾いた唇の表面に触れた指先。前髪を掠めた貴洋の唇。身体と頭の芯を焦がすようなチリチリした熱のやり場に戸惑って、僕は自室に入るやベッドの中にもぐりこんだ。
「なになになに?」
 いまになって心臓がどきどき鳴りだした。
「さっきのなに?」
 答える人なんていないのに、ひとりで質問を繰り返す。疑問符ばかりで埋めつくされた脳内と、制御できない熱が溜まって暴走する身体。
「やだもうなに?」
 とにかくどうにか身体の熱だけでも鎮めないと内部から爆発しそうだった。ガサゴソと布団のなかでパジャマとパンツをずらし、勃起した性器をふるえる両手で握る。快楽と罪悪感と隣室にいる貴洋という現実の間で揺れながら、僕は唇を噛みしめてあっという間に射精した。



めんどくさいのは愛ゆえ(5)


 自分の誕生日に朝っぱらからひとりエッチする空しさったらない。精液で汚れた手を洗面台で洗い流しながら深いため息をはく。
 あの日、貴洋と早朝サイクリングをした日以来ずっと、僕は狂ったようにひとりでしまくっていた。うまく眠れずベッドで悶々としていると、貴洋が夜勤から帰ってくる。隣室から漏れる物音に下半身が勝手に反応するのをどうしても制御できない。性器に手を触れてしまうと、頭のなかは貴洋でいっぱいになる。日に日に妄想はエスカレートし、今日なんかはもう貴洋と僕のふたりでどろどろでエロエロのめくるめく行為が繰り広げられていた(頭の中で)。
 生活サイクルが違うためあの日以来、実物の貴洋とは会話という会話を交わしていない。だから本人に直接、あのとき僕に触れたことの意味を聞く機会はなかった。あったところで聞く勇気はなかっただろうけれど。
 だから僕の頭と身体は、二週間前のあの日のままだった。いったい貴洋は僕になにをしようとしたのか。答えのわからない疑問に頭を悩ませつつ、性欲で暴走する身体を制御できないまま。
 記憶が薄れることが怖くて、頭のなかで何度も貴洋が僕に触れたシーンを丁寧に反復した。そうやって毎日必死で思いおこしてはいたが、やっぱり限界はあるみたいで二週間も経てば記憶は曖昧になってゆく。時間の経過とともに記憶の鮮明さは失われていくのに、頭のなかの混乱はどんどん複雑化して、もう受験勉強どころじゃなくなっていた。
 とにかく、いまの状態を変える打開策を見出さないと。それになにより先に自慰行為をやめないと。身体がバカになってしまう。
「だめだ、こんなんじゃ」
 かすれ声で呟いた直後。
「おはよー、そしてハッピーバースデー!」
 背後で開いたドアから、朝のテンションではない声を張りあげてカエさんが飛び出てきた。やましい気持ちを払拭しきれていなかった僕は、その突然の出来事に声も出ず、手だけ洗面台に残して腰から崩れ落ちた。
「まあ、そんなびっくりした? オーバーなんだからぁ」
 キャハ、と笑って僕の頭にタオルを乗せてくれたカエさんになんとか笑い返す。今日はいつもの三割増テンションが高い。
「そうだ、今日はユキちゃんと絵里の誕生日だから、貴洋にはバイト休むようにちゃんと言ってあるからね。それと、わたしは花火を買ってー、ついでにケーキ取りに行ってー、料理の準備してー……」
 忙しい忙しい、と呟きながらカエさんが洗面所を出ていく。僕は立ち上がって汚れきった精神を清めるごとく、顔を冷水でばしゃばしゃ洗った。
 水に濡れた顔を鏡に映す。数日前よりやつれているように見えた。その原因は明らかで、睡眠不足と暑さによる食欲減退、勉強がはかどらないことの心労に自慰行為のしすぎ。できることから改善しなければならないのはわかっているのだけれど、どれもうまくコントロールできないから困っている。
 でも、と僕は鏡の中のユーレイみたいな僕に笑いかけた。今日はいろいろ悩むのをやめにして楽しもう。誕生日の今日くらい、なにかいいことがある気がする。貴洋も久々に夜勤を休むということだし。
 邪心と悩みを払い落とすように頬を両手で叩く。鏡に映る顔に赤みがさすと、さっきより元気に見えた。

 夕刻から絵里と僕の誕生会が始まった。まだ陽も落ちきっていないうちから花火をして、カエさんのお手製料理を食べて、有名店のニューヨークチーズケーキに刺したロウソクを吹き消して、食卓からリビングへ。やるべきことはすべてやり終えて、みんな自分の居心地のいい場所でまったりとしていた。
 ソファーの前に座って、テレビに映るお笑い芸人の漫才を見るともなしに見ながら、兄妹の食べない半円形のチーズケーキを食べる。テレビの芸人のボケがいまいちよくわからなかったが、後ろの三人が笑うので、僕も一緒になって笑った。
「ねえお兄ちゃん、前髪切って」
「めんどくせー」
 背後で交わされるたわいない兄妹のやりとりに耳が集中する。
 前髪を眉下で切り揃えている絵里が、手先の器用な貴洋にこのお願いをすることは珍しいことじゃない。僕の見るかぎりでは三回に一回は叶えられているお願いだった。
「ねえ、誕生日なんだからいいじゃん、それくらいやってくれても」
 無言の貴洋に、絵里は早くも誕生日の切り札を出した。だりー、と言いつつ立ち上がった貴洋に隠れて、絵里が小さくガッツポーズを作る。
「なによ、ユキコ」
 無意識のうちに振り返っていたらしく、僕の視線に気づいた絵里が笑顔から一転、こっちを睨みつけてきた。
「なんでもない」
「うらやましいんでしょ」
「う、うら、うらやましくないよ」
「どもってんじゃん、ださっ」
 そう言い捨てると、絵里は前髪を指でいじり始めた。会話を一方的に断ち切られたストレスを解消するため、僕はおいしいから少しずつ食べていたチーズケーキの残りを全部口のなかに放りこんだ。
「お兄ちゃんは、ユキコよりあたしのお願いをたくさん聞いてくれる」
 ケーキを詰めこんでフグみたいに膨れている僕に向かって、会話を終わらせたはずの絵里が唐突にケンカを売ってきた。とりあえずいましゃべれないので、そうだね、って言う代わりに目だけで微笑んで頷く。こっちには大人の余裕があるのだ。うら若き娘のケンカを買う気はない。
「お兄ちゃん、大学行かないんだってさ」
 仏様みたいに微笑んでる僕に、得意顔で絵里が言う。なにを言われたのかわからず、笑顔のまま、詰めたケーキを奥から順に咀嚼しながら喉に流しこむ作業に没頭していた。
「こら、絵里っ! なに言うの!」
 キッチンでコーヒーを淹れていたカエさんが飛んできて絵里の口を塞ぐ。絵里の言った単純な言葉の意味を解釈するのに、僕は三十秒も費やした。
「……………………? ぐぇっ!」
 チーズケーキが喉に詰まる。カエさんがキッチンに戻って急いで麦茶を届けてくれた。そのなみなみに注がれたグラスを、僕はローテーブルの上に引っくり返した。
「わー!」
「きゃー!」
 大騒ぎする女性ふたりと喉を詰まらせたままの僕。布巾やタオルが宙を舞い、勢いづいた空のグラスは転がりに転がって、扉の前に立つ貴洋の足の前で止まった。
「どうした?」
 ハサミとつげ櫛を持って戻ってきた貴洋に手を伸ばす。
「お、おみず、お水を…………!」
 瀕死のゾンビみたいな格好の僕の手に貴洋は冷蔵庫から取りだしたペットボトルを持たせた。ゴクゴク喉に流しこんで一息ついたのと同じころ、女性二人のテーブルと床の拭き掃除がちょうど終わった。
「なんだったわけ?」
 ひとり事態が掴めていない貴洋は不思議そうな顔をしていた。
「ユキコがチーズケーキで喉詰まらせて、麦茶引っくり返したんだよ」
「いつものことじゃん」
 告げ口をした絵里に淡々と返して、貴洋は口笛を吹きながら散髪の準備をし始めた。数秒後、場の空気の重さに気づいた貴洋が目を眇めて周りを見回す。
「なに?」
「貴洋は……、だ、大学に行かないの?」
 喉を潤したばっかりなのに、うまく口が回らなかった。カエさんが絵里の頭に拳をコツンとぶつけるのが視界の端に映る。
「ああ、行かない」
「なんで内緒にしてたの?」
 畳みかけて尋ねると、貴洋は深く息を吸ってから、あきらめたようにため息をついた。
「絵里、前髪は明日な」
「ええー、なんでー!」
 やだやだ、と駄々をこねる絵里をカエさんが宥めるあいだ、貴洋はいま自分で用意したばかりの新聞紙や手鏡を黙々と元に戻して、誰とも目を合わさずにリビングを出て行った。
 貴洋は怒っているのだろうか。いったいなにに?
 怒って然るべきなのは、僕のほうだろう?
 怒りを内包した負のエネルギーでリビングを飛び出し階段を駆けあがる。ノックと同時に突き破る勢いで扉を開けると、ベッドに腰かけていた貴洋は僕が来るのがわかっていたのだろう、こっちを見て待っていた。
「なんで? なんで内緒にしてたの? なんで怒ってるの?」
「怒ってねーよ」
「じゃあなんで内緒にしてたの、そんな大事なこと。大学行かないってどういうこと?」
「とりあえず落ち着け」
 ほら、とガムをくれるので、急いで包装を解いて口に入れると奥歯でがしがし噛んだ。
 頭に血が上っていた。カエさんと絵里は知っていたんだ。知らなかったのは僕だけ。手島家の人々に仲間はずれにされていたこともショックだし、それに、あのみんなに平等に接するカエさんに嘘をつかれていたことにも相当こたえていた。カエさんに貴洋の大学の話をふったとき、どこか態度がおかしかったことを思いだしていると、僕の脳内に弁明をするかのように貴洋が口を開いた。
「母さんと絵里には口止めしてたんだ。ユキにはこのこと絶対に言うなって」
 カエさんは僕の質問より先に交わしていた貴洋との約束を守ったということだった。平等主義のカエさんらしい理に適った行動であったことがわかってほっとする。
 その一方で、怒りに染まって沸騰しそうだった脳みそに、別の種類の影が落ちた。
「どうして……」
 そこまでするの?
 僕は自分が知らないあいだに、貴洋に嫌われるような行動をとっていたのだろうか。頭から急速に熱が奪われていく。すごい勢いでうずまいていた怒りの感情は、みるみるうちに萎んで消えて無くなった。
 僕たちの通う高校は自由な校風の公立校だが、その自由さは風紀が守られていて勉強ができる上で成り立っている。なかには落ちこぼれも少しいるけれど、貴洋と僕は常に成績上位をキープしていた。それはもちろんこの先の大学受験に繋げるための勉強だと思っていたから、僕のなかに貴洋が大学自体を受けないという選択肢は存在しなかった。
 僕の想像の及ばない外側に、貴洋の答えがあった。そしてそれを頑なに僕に知られないよう口止めという細工まで施していた事実を前にして、僕の精神はボディーブローをくらい続けたボクサーのように、ひどくまいってしまった。
「仲間はずれに、することないじゃん」
 思わず恨み言を吐きだしていた。ガムを噛む気力も失って、包み紙に取りだす。
「悪かったよ、謝る」
「み……認めちゃうの!?」
 あまりのショックで、出したばかりのガムを手でニュッと握りつぶしてしまった。
「お前は俺が大学行かないって言ったら、自分も行かないとか言いだしかねないだろ?」
「い、いー……い? 言わ……言わ……」
「自覚があるだろうよ」
 言いよどんでいると、指を差されて指摘される。認めるわけにはいかないので下唇を噛んでしゃべることを拒否していると、貴洋はさらに追い打ちをかけてくる。
「それに過去例もある。ユキなんでうちの高校受験した? もうひとつ上、狙えただろ」
「そ、れは」
「校風もさして変わらない、向こうのほうが家からも近いし施設だって充実してる。それになにより向こうは理系に強いことで有名だよな、なのになんで?」
「あの、だからー、向こうの高校はね、えっとー……、なんて言うか、ほら、方角的に鬼門っていうか……、うん」
 貴洋の白眼視に耐えられず、僕はゆっくりと視線を斜め下に移した。こめかみから変な汗がたらりと垂れる。
「苦しいな、その言い訳」
 名探偵・貴洋の推理の前に、僕はもうなすすべがなかった。
 高校受験の際、僕は貴洋にどこを受けるのか聞いてから、行きたかった志望校を捨てて、一ランク下げたいまの高校を受験した。そのことについていままで貴洋から直接言及されなかったから、ばれてないのだと思っていた。
 結局、僕は中学三年生のころからなにも変わっていないということだ。まったく同じ行動をしている。
「だって、一緒のとこに行きたかったの!」
 追いつめられた人間のとる行動は降伏か逆ギレか。後者を選んだ僕は、地団駄を踏んで自分の髪をわしわしかき混ぜた。
 その手首が温い手の平にきゅっと拘束される。怒られる、って思った。だから咄嗟に顔を背けたんだけどなにも起こらないから、おそるおそる視線を戻した。
「ユキは変えたくない? いまの状況を」
 怒っているだろうと思っていたのに貴洋の表情はひどく穏やかで、ただ僕を見つめる目だけが怖いくらい真剣だった。
 状況を、変える?
 真っ直ぐ見つめてくる視線に刺されながら、僕は貴洋の言った言葉の意味を急いで解釈しようと試みた。
 ここ最近の貴洋の言動を思いおこす。思い出話を避けたり、バイトの時間を増やしたり、隠し事をしたり。貴洋の変わりたい先には僕のいない新しい世界が待っているのだろうか。
 いやだ。変えたくなんかない。ずっといままでどおり一緒にいたい。
 見つめられるままに見返していた濁りのない漆黒の球体から、さっと目を背ける。きつく掴まれた手の拘束から逃れようと腕を揺すってもビクともしない。足の裏から這い上がってくる恐怖に怯えて、僕は貴洋に腕を掴まれたまま両耳を塞いだ。
「変えたくない、全然変えたくない。いまのままがいい」
「お前、俺の言った意味わかってる?」
「いやだ。無理。絶対いや。ずっとこのままがいいの」
 また貴洋がなにか言おうとしたので、僕は耳を塞いだまま目をつむり、わーわーと意味のない言葉を叫びながら次を継がせないようにした。
「わぁわーぁ、マー……、むぐっ!」
 手の平で口を覆われて、驚きで目を見開く。目を細めて僕を見下ろす貴洋は、呆れと怒りのオーラに包まれていた。
「ユキは、俺と家族にでもなりたいわけ?」
 家族。それは僕の持っていない単位で、なによりも近しい、切っても切れない間柄。どんなことがあっても別れられない、夢のようなグループだった。
 絵里も言っていたけれど、貴洋は僕のお願いより彼女のそれを優先する。そう、それは家族だからなのかもしれない。
 目の前に提示された、家族という失った強固な絆の幻想に、僕は目が眩んでいた。
 口がふさがれていてしゃべれないので、がくがくと首を縦に振った。
「アホくさ」
 呆れたように貴洋がそう言った直後、一切の身体の拘束が解けた。だらん、と手足が弛緩する。突然のことに、自分の部屋を出ていく貴洋に声をかけることもできなかった。
 アホくさい、と言った。貴洋は僕とは家族になりたくないらしい。絵里はよくて僕はだめ。大学へは行かないと言う、現状を変えたいとも言う、思い出話はだめ。貴洋がどんどん僕から離れていっている今の状況が、いったいなにを示唆しているのか。
 膝が震えて立っていられないので、僕はその場に座った。
 貴洋は僕の世話を焼くことが嫌になったみたいだ。金魚のフンみたいにつきまとう幼なじみに、忠告したり手を差しのべたり、わがままを聞いてやったり。それに疲れて今の状況から変化することを望んでいる。即席で立てた仮定は、恐ろしいほどに現実味があった。
 早朝サイクリングに誘われたあの日、僕は浮かれていた。久々に体が密着して、頬に触れられて、前髪を唇が掠めた。あの出来事が、大切に思われていると、僕を勘違いさせた。
 僕はあのとき、貴洋からなにか、特別な愛情を受けとめたような気になっていた。あの書店のおじさんが登場する直前。体験したことのない濃密な空気が二人を包んでいた瞬間。
 でもそれは僕の希望が絡んだ、都合のいい曲解だった。そうあってほしかったと、僕自身が望んだだけのことだと今ならわかる。
 よくよく思い出してみれば、僕たちのあいだに特別ななにかがあったわけじゃない。ただ唇に指が触れて、顔が近づいてきただけ。それは顔色の悪さをもう一度確かめようとしたのかもしれないし、僕の髪についたホコリを息で吹き飛ばそうとしたのかもしれない。
 決定的なことはなにひとつ起こっていなかった。ただ、僕ひとりが舞いあがって、冷静さを失っていただけだ。
 夜更けまで床に座りこんでいたけれど、そこに部屋の主が戻ってくることはなかった。





めんどくさいのは愛ゆえ(6)

「お兄ちゃんがなんで大学行かないか知ってんの?」
「知らない」
「うちのタバコ屋継ぐんだって」
「手島商店?」
「そう、将来的にね」
「将来的にだったら、いまとりあえず大学いけばいいのに。頭が良いんだからもったいないよ」
「行く意味ないって言ってたよ」
「バカじゃないの?」
 テレビからワイドショーの流れる涼しく快適な昼下がりのリビングで、絵里と僕は柿ピーを食べながら貴洋の噂話に明け暮れていた。
「柿とピーの比率を考えながら食べてよ!」
「細かいなー、どうだっていいじゃん。なんか最近ユキコ生意気すぎ」
「うるさい」
 僕は居候の身だし、絵里が年下で女の子だからって理由で、彼女に対して遠慮したり気を使ったり(一応)していたんだけど、ここ数日はそうやって取りつくろうのをやめている。なんせいまはそんなことに気持ちを費やしている余裕がなかったし、それに絵里は貴洋に優しくされているのだからそれで十分じゃないか、という大人げない悪心もそこに混じっている。
 あれから一週間、僕とはほとんど口も聞かないくせに、貴洋は誕生日の翌日、約束どおりちゃんと絵里の前髪を切りそろえていた。腹の立つことに。
「お兄ちゃん、高校卒業したあともしばらくは今のお店でバイトすんのかな?」
「しばらくってどのくらい?」
「さあ、三、四年? 今も休みなしで働いてるし、なにか特別楽しいことでもあるんじゃないの?」
 ワイドショーに引けを取らない好奇心と推測のみで、僕らの曖昧な会話は成り立っていた。『特別楽しいこと』というのをぼんやり想像していると、隣で絵里がまたピーナッツをよって食べているのが視界に入った。
「絵里がピーばっかり食べるからもう柿だらけじゃないか!」
「ほんっと細かいわね。足せばいいんでしょ、足せば!」
 キッチンに行って戻ってきた絵里は、柿だらけの皿にピーナッツを大量投入した。どっかと再びソファーに腰を下ろして、これでいいんでしょ、とパリポリピーナッツを食べ始める。
 絵里に優しく(?)していたときは、こんなに会話が続かなかった。いつもすぐさま切り捨てられてオワリだったのに、あけすけな態度をとるようになったらやけに絡んでくるから不思議だ。
「ねえ、お兄ちゃんのバイト先に一緒に行ってみない?」
「へ?」
「あたし、普通にしてても高校生に見えるから、化粧したらちゃんと大人に見えると思うんだよ。てゆーか、あんたが問題か」
 隣で手を打って笑う絵里をひと睨みして、僕は貴洋が働くまだ見ぬ夜の世界を空想した。黙っているのが落ちこんでいるように見えたのか、絵里が(自分で言ったくせに)フォローするように僕の肩を叩く。
「だいじょぶだって。服装とか髪型でごまかせばユキコもなんとかなるから。ね? 一緒に行こうよ。お母さんには内緒でさ」
「だめだよ、子供が夜中にそんなとこ行ったら。僕がひとりで様子を見てくるから。絵里はおうちで待ってなさい」
「はあぁー? なに言ってんの?」
 憤慨して喚きちらす絵里が投げたクッションを受けとめ、僕は立ち上がって彼女を見下ろし大人な態度で忠告した。
「だめなものはだめ。カエさんに報告するよ?」
「サイッテー! バカ、ナス! 呪われろ! あんたなんかどうやっても中学生にしか見えねーよ!」
 僕は罵声にぐっと耐えつつ、手のつけられなくなった絵里をリビングに残してその場をあとにした。

『なにか特別楽しいことがある』
 絵里が推測した貴洋が毎日のようにバイト先へ通う理由を、僕は鵜呑みにした。
 もしかしたら最初は大学を受けるつもりだったのに、バイトが楽しすぎて受験を取りやめにしたのではないか、という行き過ぎた想像までして勝手にイライラしていた。
 絵里の提案どおり、貴洋のバイト先へ(絵里をおいて)乗りこむことに決めた。ちょっと様子を見るだけ。ばれないように遠くから、貴洋がどんな風に働いているのか。なにかよっぽど楽しいことがそこにあるのか。
 思い立ったが吉日、タンスを引っくり返して大人っぽく見える洋服を探した。翡翠色のスリムパンツに黒のTシャツ。髪を横わけにしてきっちり固める。なにか足りないので貴洋のクローゼットからチャコールグレーのサマージャケットを拝借した。袖が長すぎるから折りたたんで捲る。肩のラインも合ってないけど、きっと夜だから気づかれないだろう。
 手島家の女性ふたりが寝静まった夜中、僕はこっそり家を出た。夕食時にカエさんに頼んで借りておいたレンズの大きいバッタみたいなサングラスと、まだ僕を罵倒することをやめない絵里に吹きつけてもらったオリエンタルな香りの香水を身にまとい、戦場に向かうような気持ちで目的地を目指した。
 電車で一駅、ネオンのきらめく華やかな通りを抜けてたどりついた先、戸建ての木製扉に打ちつけられた『HONEY』の文字を確認して立ち止まる。ここが貴洋のバイト先だ。なかの見えない扉をおそるおそる開けてみる。防音扉だったらしく、店内はたくさんの人の声と音楽で騒々しかった。
「入らないの? きみ」
 前に意識を集中していたため、背後から肩を叩かれて飛び上がった。まぶしいレモン色のノースリーブワンピースを着たおねえさんが、ニッコリ笑って立っている。
「いま、夜よ」
 パステルカラーのネイルを塗った指がサングラスに触れようとするので慌てて一歩後ずさったら、頑丈な防音扉で後頭部を打った。
「いー……ったぁ」
「あら、大丈夫?」
「へ、平気です。よくあることですから」
 この顔の半分を覆うサングラスが無いと、僕はきっと子供に見えるだろうし、貴洋にも僕の存在がばれてしまう。夜でも似合わなくても外すわけにはいかない。
「さあ、入りましょう」
 レモンのおねえさんが後頭部を押さえる僕の手をとって、店のなかへといざなう。
 縦に長い奥行きのある店内は人で溢れていた。サングラスをちょっとだけ下にずらして店の様子を観察する。キラキラ光るジュークボックスからは、古い洋楽が大音量で流れている。目がチカチカするような真っ赤なソファーに、色とりどりの酒瓶、ポップアートのポスターがいたるところに貼られている店内を見回していると、幻覚キノコでも食べたような錯覚を起こしそうになる。
「ねえ見て、かわいい彼氏ができたのよ」
 レモンのおねえさんがダーツをするお友達らしき集団に、とんでもない僕の紹介の仕方をした。
「違います、さっきそこで会って」
「やだカワイイー!」
「きゃー、肌真っ白プニプニ~」
 フレンチネイルのおねえさんの爪の先端が僕の頬に刺さる。
「オトコ? オンナ?」
 ピンクの麦わら帽子をかぶったおにいさんは僕の性別がわからないらしい。悲しい。
「あ! 貴洋くんこっち来て、見てよこの子、かわいいでしょ」
 レモンのおねえさんが手招きする先に視線をやると、サングラス越しに貴洋とバッチリ目が合った。最悪だ。こんなに人が多いのに、入店して三分も経たないうちに貴洋と出会ってしまった。運が悪すぎる。
「なにしてんの、お前」
「貴洋くんの知り合い?」
「弟」
 弟だと?
「似てないね」
「よく言われます」
 質問に淡々と返したあと冷淡な目で僕を見下ろすので、いたたまれなくなって唇を噛んでうつむいた。
「ねえ貴洋くん、今日も仕事三時まででしょう? 終わったらマミとデートしましょう」
 レモンのおねえさんの過激な発言に思わず顔を上げた。Tシャツから伸びる貴洋の小麦色の長い腕に、わざとか無意識か腕を絡ませたおねえさんの胸があたっている。
「マサトさんに殺されるのやなんで、遠慮しときます」
「大丈夫よー。あの人、いっつもマミを放ったらかしにするんだもの。他の人と会ってても気づかないわ」
 貴洋がやんわりとほどいた腕が、また蛇のように絡みつく。
「ね? いいでしょう?」
「さわんないで!」
 すごくイライラしてるのに僕の声に怒りは表現されず、切羽詰まった必死な感じに響いた。応急処置を行う救急隊員のように、僕は貴洋にまとわりつくやわらかい腕を、迅速かつ丁寧にほどいた。さらにふたりの距離を離そうと、貴洋の腕を自分のほうへ引き寄せる。
「やー、カワイイー」
「嫉妬してるの? 弟くん」
 かわいくないよ。嫉妬はしてるよ。それから僕は弟じゃない!
「ほら、弟が浮気はだめだってよ」
「まあ、若いのに倫理観あふれるいい弟さんね」
 みんなして弟、弟って……、あれ?
 僕は脳に魚の小骨が引っかかったような、小さな違和感を覚えた。
 そうだ! 弟に、貴洋の血のつながった家族になりたいと、僕自身が望んだのだった。
 貴洋に弟と紹介されて、周りの人に彼の弟だと認識されて、自分の理想が叶ったというのに、ちっとも楽しくない。
「ま、弟さんがそう言うなら、今日は遠慮しとこうかしら」
 レモンのおねえさんがにっこり笑って僕の鼻の頭を指でつつく。
「っていうか、あんた早くマサトと仲直りしなよ。弟くんだってそれを願ってるよ、ね?」
「そうそう、くだらねーことでケンカしてんじゃねえっつの。な、弟」
「うるさい……」
 必要以上に連呼される弟というワードに僕はキレて叫んだ。
「僕は貴洋の弟じゃない!」
「きゃっ!」
 レモンのおねえさんの短い悲鳴に反応して、貴洋が僕を振り返った。自分でもなにが起こったかわからず、隣の貴洋を見上げる。
「あ」
 貴洋の発した声と同時に、チャコールグレーのジャケットに赤い染みが落ちた。鼻の奥がじんわりぬるくて、これは自分が落とした鼻血だと気がつく。
「ご、ごめんなさい。マミが鼻を触ったから」
「違います、こいつ興奮したら時々こうなるだけだから気にしないで」
 ざわつく周りの反応に動揺していると、貴洋が僕の頭を押してうつむかせ、袋を割って出した冷たいおしぼりを鼻に押し当てた。
「だいじょうぶー?」
 背後からの心配そうな声を聞きながら、貴洋に手を引かれるまま人の隙間を縫って歩く。
 なんて間抜けなんだ僕は。これはきっと絵里の呪いと柿ピーのたたりだ。ピーナッツをたくさん食べると鼻血が出るという噂を聞いたことがある。でもピーナッツばっかり食べていたのは絵里のほうなのに、結局たたりは僕に降りかかる。
「座ってな」
 店の奥の従業員以外立ち入り禁止の部屋で、パイプ椅子に座らされて放置される。これは怒っている。勝手にバイト先に現われて、客との関係をこじらせて、自分のジャケットを血で汚されて怒らない人はいないだろう。
 ジャケットの赤い染みをおしぼりのまだ白いところでこすって汚れを取ろうとしたら、さらに範囲が広がってしまった。あああ。
「これで冷やしとけ」
 すぐに戻ってきた貴洋が、頭の上に細かい氷のたくさん入ったビニール袋を乗せてくれた。怒っているかどうか確かめようとこっそり見上げようとすると、上向くな、と元に戻される。
「フロアに戻るけど、また様子見に来るから。大人しく座ってろよ」
 感情の読めない平坦な声でそれだけ言うと、貴洋はまた店の中へ戻ってしまった。あれだけ客が多いから、ひとりでも従業員が抜けると大変なんだろう。忙しいところにやってきて迷惑をかけるだけの僕を、貴洋はどう思っているのだろう。ただでさえ距離をおかれている状態なのに、今回のヘマでもう完全に嫌われてしまったかもしれない。
 貴洋はまたここに様子を見に来ると言った。急に底知れない恐怖が全身を襲った。次に目が合えば、最後通告を言い渡される。なんの根拠もないのに、そんなリアルな恐怖に怯えてパイプ椅子をガタガタ震わせながら立ち上がった。
 一刻も早く、この場を離れなければ。
 入ってきた扉の真正面に、同じ形の扉がある。そこから外に出られるかもしれない。一歩目を踏みだしたとき、視界が暗いからか血の出しすぎで貧血を起こしていたからか、ふらりとよろついた。その拍子に並べて壁に立てかけてあった、折りたたまれたパイプ椅子のひとつに腕が引っかかった。ガシャーンと音が鳴ってドミノみたいに一瞬で全部がひっくり返る。十脚ほどのパイプ椅子たちがロッカーにぶつかって床に散らばった。金属同士が奏でた派手な騒音の余韻を聞きながら青ざめる。
「や、ば」
 片付けている暇はない。音を聞きつけて貴洋が戻ってくるかもしれない。散在したパイプ椅子を慎重に避けながら裏口から外に出ると、外したサングラスと血だらけのおしぼりを握りしめて、震える足で何度も転びそうになりながら必死になって走った。



めんどくさいのは愛ゆえ(7)

 ひどいことをしてしまった。借り物のジャケットを血に染め、おしぼりや氷袋を用意してもらった礼も言わず、繁忙な従業員たちにパイプ椅子の片付けという仕事を追加してしまった。これは許されることではない。
 貴洋のバイト先になんて行かなければよかった。後悔してももう遅いけれど、時間を戻せるのなら夜の街になんて出向かずベッドに入ってスヤスヤ眠りこけたかった。貴洋が働いている様子をちらっと見て帰るつもりだったのに、予定は狂いまくって鼻血まで出す始末だ。不幸続きのなか唯一幸運だったのは、従業員室の扉が直接外に繋がっていたことくらいだろう。
 今日の不幸はいったいなにが原因だ。なんの因果でこんな罰があたったのか。絵里を店に連れて行かなかったからか、ピーナッツの食べすぎを批判したからか、レモンのおねえさんから貴洋を引き離したからか、優しく接してくれたバーの人たちにキレたからか。思い当たることは山ほどあったけれど、なにが直接の原因かはさっぱりわからない。
 回転しすぎでひとつも考えがまとまらない脳は、ベッドに入って丑三つ時を過ぎてもまだ眠りを求めず興奮状態のままだった。思考はてんでバラバラでまとまらないのに、貴洋に嫌われる恐怖だけはつきたての餅みたいにべったり頭にくっついて離れない。
 時間が過ぎても恐怖ばかりで眠気は訪れないので、ライトを点けてベッドの下を探った。指先に冷たい金属が触れる。その元はクッキーが入っていたブリキ缶を引っぱりだして中身をベッドの上に並べた。色とりどりの押し花をひとつずつ手にとって当時の出来事を思いだす。
 まだ絵里の生まれていないころ、貴洋は僕だけに優しかった。今の貴洋が避けている、僕にとっては大切な思い出の中にダイブして現実逃避していると、ノックもなしに部屋の扉が開かれた。
「ねえ、ユキコどうだった?」
 寝起きドッキリのリポーターみたいに、ゆっくり後ろ手に扉を閉めて明りを点け、絵里が囁きながら部屋に入ってきた。
「なにが」
 楽しい思い出懐古の時間が中断された。いつもいつもいいところで邪魔しやがって。悔しいことにこんな疎ましい存在なのに、貴洋に似てるというだけで僕は絵里のことが嫌いになれない。
「お兄ちゃんのバイト先だよ。行ってきたんでしょ。どうだった? ねえお兄ちゃん楽しそうに働いてた?」
 寝ないで起きていたのか、浅い眠りから覚めてしまったのか、赤い目をした絵里が囁き声のハイテンションでまくし立てる。
「たのし……、そうだったの、かな」
「お兄ちゃん見つけたの?」
「見つけた。しゃべった」
「じゃあどんな様子だったかわかんでしょ」
「いや、なんかいろいろあって」
 鼻血とか、パイプ椅子とか。説明すると馬鹿にされるのは決まってるので、僕は口をにごして笑ってごまかした。
「役立たず」
「うるさい」
「だからあたしがついてくって言ったのに」
「うるさいうるさい」
 非難の言葉をはねつけていると、絵里が僕の手元に視線を落とした。
「なにこれ」
 突然部屋に入ってこられたから、手に取って観賞していた押し花をクッキー缶に戻し忘れていた。
「お、押し花……だけど」
「きれー、これ全部ほんものの花?」
 絵里のことだからきっと、男のくせに少女趣味で気持ち悪いバーカ、ぐらい言うのだろうと身構えていたのに、褒められてしまって肩すかしを食らった。絵里はベッドにとび乗ってスプリングをはねさせると、細長い指で押し花をひとつずつ手の平に乗せていく。
「これ、もしかしてユキコが作ったの?」
 五つの作品全部の台紙に、花の名前と日付が子供の字で記されている。素人が作ったものだと一目瞭然だった。
「そうだよ」
「すごいじゃん! 小さいときに作ったんだ? ほらこの日付、あたしが生まれる前じゃん。でもまだすごいキレイな色してる」
「脱水して乾燥させた花を、空気に触れさせないように保存してるんだ。でも当時と比べたら退色してるかもしれないけど。あと日に焼けないように暗いところに置いとくの」
 目を輝かせてまじまじと押し花を見る絵里の意外な反応がとても嬉しくて、僕は当時カエさんと一緒に生花に丁寧に処理をほどこしたことを思いおこしつつ、ひとりでペラペラしゃべっていた。
「ひとつ、ちょうだい」
「え」
 僕の説明をさえぎった突然の申し出に、瞬間的に体が固まる。
「だめ」
「なんで? 五つもあるんだから一個くらいくれたっていいじゃん」
「だめ、ぜったいだめ」
 大人げないのはわかっていたけどこれだけは譲れない。赤い目で睨みつけてくる絵里が、手に持った押し花を全部自分の背後に隠した。
「あ! だめだって、お願い返して」
 華奢な腕をなんとか前に引っぱってはきたものの、意固地になってる絵里の固く閉じた手の平をこじ開けるのは至難のわざだった。
「これだけはだめなの。ほら、あの白くまの人形あげるから」
 絵里の気をそらそうと枕の上でぐったり寝そべっているぬいぐるみを指さしてみても、睨みつけてくる目を僕から離そうとしない。ものも言わず動かない絵里の赤い目だけが、みるみるうちに水で溢れてくる。
 やばい、泣かせてしまう。
「あの、絵里違うの、あのね」
「一個くらいくれたっていいじゃん!」
 午前三時の静かな家内に、空気を切り裂くような高音が響き渡った。いつもは妙に冷めていて見た目も高校生くらいに見えるから忘れがちだったけど、久々に泣き顔を見ると絵里はまだやっぱり十三歳の女の子だった。
「ご、ごめんね? もう泣き止みなよ」
「じゃあ、一個くれる?」
「だめ」
「うわーん」
 絵里が昼間でも苦情がきそうな声を上げた直後、突然部屋の扉が開いた。
「何時だよいま、うるせーな」
「おにいちゃんっ」
 入り口を振り返って悲愴な声をあげるや、助走をつけた絵里がすごい勢いで抱きついたというのに、貴洋の頑丈な体はびくともしなかった。変なところに感心しながら扉の前に立つふたりをぼんやり眺めていると、鋭い視線に射貫かれる。
「お前はなに勝手に帰ってきてんだよ。椅子に座ってろっつったよな?」
「ご、めんなさい」
 やっぱり怒ってる。目が本気だ、怖い。
 真っ直ぐ突き刺さる貴洋の視線から顔を背けると、疲れきったため息が耳に届く。
「ユキコ、あたしにイジワルすんの。押し花くれないんだよ。こんなにいっぱいあるのに、一個くらいくれたっていいじゃん」
 バーで起きた出来事を知らない絵里が、僕の悲惨な状況に追い打ちをかけるように告げ口をする。これ以上マイナスが加算されると、僕は貴洋に見限られてしまうかもしれないというのに。
「なんか他のもの買ってやるから、絵里は泣き止めよ」
「シュシュとカチューム」
 鼻をすすると、絵里は早口で言った。
「ずっとほしいのがあるの! マイコちゃんと色違いで買おうねって言ってたんだよ」
「マイコちゃんの分も買うのかよ」
「うん、いいでしょ?」
 涙の名残で目をキラキラ潤ませて、絵里は貴洋を見上げる。
「わかった、買ってやる。つーか、お前もう寝ろ、なんでこんな時間に起きてんだよ」
 やった、と小さく叫んだ絵里が貴洋の首に長い腕を巻きつける。ぶら下がる絵里の腰を支えて廊下に出ると、ふたりは小声で話しながら絵里の部屋がある一階へと階段を下りていった。
 いいな、誕生日はもう過ぎたのにプレゼントがもらえて。そしてあんなに躊躇なく体に触れることができて。目の前で見せつけられる兄妹の仲のよさが羨ましくて、僕はいつもそれこそが自分の望む形だと惑わされていた。
 でも違った。僕は貴洋と家族になりたいわけじゃなかった。バーで弟だと紹介されて不愉快になったのは、弟という位置が僕の目指す場所じゃなかったからだ。絵里は貴洋に妹だと紹介されても、悲しくて悔しくて腹が立つことはないだろう。
 自分の貴洋への恋心を自覚していながらも、間近に最強のライバルがいるせいで、気持ちと言動にいつもずれが生じていた。というか、そもそも絵里はライバルじゃない。彼女は貴洋に純粋で清らかな愛情を向けている。僕みたいに不埒な妄想を抱いたりしない。
 夜な夜な脳内で貴洋と裸で絡み合う想像をしておきながら、よく家族になりたいだなんて思えたものだ。いまようやくその不自然さに気がついた。
 気がついたはいいけれど、事態は一歩もいいほうへ転がってはいない。貴洋は僕を遠ざけたがっていて、僕は貴洋とより深く関係を進めてどうこうしたいわけだから、むしろ気づけたことは悪いほうへ転がったといってもいいのだろう。
 僕はこのさきも貴洋と触れ合うことはないまま、頭のなかで欲求を解消するように妄想をエスカレートさせながら生きていくのか。絶望へ向かう未来を想像してどん底に沈んでいると、ノックの音とほぼ同時に部屋の扉が開いた。
「寝た」
 絵里のことだろう。そう言うと、貴洋は僕が乗っかるベッドに背中を凭せかけて床に腰を下ろした。じっと動かない貴洋の背後からそっと前を覗きこむと、絵里に取られた押し花が貴洋の手のなかに全部そろっていた。貴洋のなかではもうとっくに枯れているはずの花を見つけられてしまった。思い出話を避けている彼にとって、忘れたい過去を大切に保管されていることは気分が悪いだろう。そんなつもりで花なんかやったんじゃないと言われたら、僕はきっと立ち直れない。
「ごめん、返して」
 ベッドの上から腕を伸ばすと、ひょいとかわされる。
「なんでなにも言わず帰った?」
 そっちの説明が先らしい。
「怒ってる、から」
「俺が? なにに?」
「勝手に借りたジャケット血で汚した」
「そんなの茶飯だろ」
「あの、実はパイプ椅子全部こかしちゃって」
「想定内だし」
「勝手にバイト先、行ったから」
「あー……」
 肯定した。やっぱり怒ってる。
 ベッドの上で正座して、押し花をひとつずつゆっくり確認するように眺める貴洋の後ろ姿をこわごわ見つめる。心臓が氷にでもなってしまったのか、胸の奥が重く冷たい。最後の審判が下される恐怖に耐えられず、僕は沈黙の海にみずから身を投げだしてしまった。




めんどくさいのは愛ゆえ(8)R-18【終】

「捨てたい?」
 広い背中の向こうにある押し花を見つめながら尋ねると、貴洋がゆっくりと振り返った。
「気持ち悪いんでしょう? 粉々に千切って、捨ててしまいたいんでしょう?」
 自分の発した言葉を、自分の耳が拾って息を飲む。貴洋から返される肯定の言葉を想像したら、目から丸い透明の雫が落ちた。その一粒が呼び水になって、締りの悪い蛇口みたいにぼとぼとと、うつむいた目から布団に涙が落ちていく。
「ま、て。泣くな」
 珍しくうろたえた貴洋の声が耳に届く。もう遅いってば。いま言われても困る。
「見捨てたいやつに追い回されて、うざったいって思ってる? いつから僕のこと嫌いになった? どうやったら元に戻せる?」
 胸の底でくすぶっていた思いが、言葉になって涙と一緒にぽろぽろこぼれだす。
「僕から離れてどこかに行かないで。悪いところがあったら直すから、僕を嫌いにならないでっ」
 泣きながら一気にしゃべったせいで喉が引きつる。呼吸と嗚咽がコントロールできず、熱い目を両手で覆って子供みたいに息を詰まらせた。もう今日で貴洋と僕の友好な関係はおしまいかもしれない。そんなことが頭に浮かんできて、さらに涙の量が増える。
「もう泣くなよ」
 弱りきった貴洋の声が耳元で聞こえた。その近さに反応して目を覆っていた手を思わず外した。貴洋はベッドに腰かけて僕の目の前にいた。
「お前は絵里と違って、なかなか泣かないくせに、一回泣くと泣きやまねーんだから」
 そんなことを言うと貴洋は、さらさらと乾燥した手の平で僕の濡れた頬を拭った。
「泣き止めよ」
 まるで生まれたての小さな動物に話しかけるような優しい声音に、冷えていた胸が体温を取りもどしていく。こんなまっすぐ見つめられて構われることが久々すぎて、結局貴洋の望みは叶えられることなく、悲しいのか嬉しいのか恥ずかしいのか、自分でもわからない涙が目から溢れつづけた。
「俺はふたりの関係を変えるために過去を切り捨てようとしたけど、ユキにとって思い出は大切なものなんだよな」
「貴洋は、大切、じゃないの?」
 呼吸の合間に、なんとか発音した。ふたりを繋ぐ共通の思い出を、僕は捨てることなんてできない。
「大切だよ。でもそれと引き換えにしても、手に入れたいものがあった」
 貴洋の欲しいもの。なんだろう。
 集めている古いレコードか、趣味の釣り道具か。小さいころからおねだりをする貴洋をあまり見たことがないため、彼の物欲をうまく想像できなかった。
「俺の弟になるのは嫌だって、ユキ言ったよな」
 涙の膜で歪む視界に、貴洋の真剣な表情が写る。僕の目尻を拭う親指が、かすかに揺れていた。
「やだよ」
 だって、好きだから。僕は貴洋と恋愛がしたいから。
 言えない言葉は胸のなかで呟いてじっと見つめる。貴洋の僕を見る緊張したような真剣な目が、ゆっくり和らいで柔らかくほどけた。
「そっか」
 嬉しそうでいて、安心したような甘い表情。
「怒ってたんじゃないの?」
「怒ってたよ。お前、顔真っ青だったろ。そのうえ血出して、貧血にでもなったらやべえな、って椅子に座らせたのに、言うこと聞かずノコノコ帰ってきてっから、心配でバイト早退するはめになるし」
 なんだ、ジャケットを汚したことやパイプ椅子を倒したことを怒ってたんじゃないのか。忙しいバイトを早退させてしまった申し訳なさより、心配してもらった嬉しさが勝ってしまって、眉を寄せた貴洋の前で僕はヘラ~と笑ってしまった。
「泣きながら笑うな、こえーよ」
 注意されても頬は緩むし、涙は続々と分泌されていく。もうどちらがしたいのかわからなくなっていると、僕の涙で湿った貴洋の指が下唇の表面をゆっくりなぞった。
「ユキ」
 僕を呼ぶ、緊張で少ししわがれた声。まっすぐ見つめてくる狂おしいほど熱い光を帯びた視線。
 あの日、早朝にサイクリングをした日と同じ目をした貴洋が、真ん前にいる。記憶が薄れないよう、何度も繰り返し思い出したあの出来事が、再び目の前で起こってる。
 僕は咄嗟にその官能を呼び起こす視線から目をそらした。顔を背けたはずみに、貴洋の指が唇から離れる。夢の再来を喜ぶ余裕がいまの僕にはなかった。
 また同じ勘違いをしてしまう。こんな思わせぶりな態度で僕を煽っておいて、日常に戻ったら貴洋はまた何事もなかったように振るまうんだ。事態はなにもいい方へ転がってはいない。貴洋が僕を突き放そうとしている事実は変わらないのだから。
 僕の近くにいたら、貴洋に危険がおよぶ。そんなまっすぐな目で見ないで。妄想がいき過ぎて、現実と脳内の区別がつかなくなって押し倒してしまいそうだ。
「危ないよ」
 僕は咄嗟に貴洋の目を片手で隠した。
「なにが」
「あの、なにって、あのね」
 目を隠した右手をゆるい動作で払われる。貴洋がおでこの真ん中を軽く押しただけで、僕はいとも簡単にころんとベッドに寝かされてしまった。
「そんな近くにきたら、危ないよ!」
 僕の手首をシーツに押し付けて上から覆いかぶさってくる貴洋に、もう一度忠告する。
「危ないってなにが?」
「なにって、貴洋を、お、犯してしまうかもしれない」
「なに言ってんの、お前」
 真上の貴洋が、肩を震わせて笑う。すごく満たされてるみたいな、子供みたいに無垢な笑顔を前に、僕はいまの妙な状況も忘れてすっかり癒されてしまった。
「そんなに俺が好き?」
「へ?」
 ばれてるの? なんで? いつから? 
「弟はいや?」
「やだよ」
 また同じことを聞かれた。家族になりたいのか、弟はいやかって。
 僕はなにか大きな勘違いをしていたんじゃないか。貴洋が言った『状況を変えたい』という言葉は、今の家族のような関係から抜けだして、僕と恋愛がしたいということだったんじゃないか。
「そうなの?」
 脳内の希望に満ちた疑問に答えを求めても、僕の頭のなかが見えてない貴洋にはなんのことだかわからない、と思ったんだけど。
「そうだよ」
「そうなの!?」
「うん」
「なにが?」
「お前は自分の不幸に浸りすぎて、周りが見えてねーんだよ」
 確かに、目先の不幸に気をとられすぎている自覚はある。でも、僕がいま尋ねてるのは、そんなことじゃなくて。
「好きだよ、気が狂いそうなほど」
 そう、それが聞きたかった。
「なんでかわかんねーけど」
 わからないのか!
「でもユキみたいにしちめんどくせーやつ、俺しか面倒みれねーだろ」
 すごい納得できない理由だけど、そんな不満は僕を見つめる愛おしそうな目の力で抹消された。
「ほんとはかわいくて仕方ねーの。家族としてか恋愛対象か、ユキが俺を意識する気持ちがぶれまくってるみたいだったから、しばらく距離おいてみたら追いかけてくるしさ」
 自分の頭のなかがこうもだだ漏れだと、怖さを通りこして諦めの気持ちになる。
「呪いだの因果だのなにかにつけて言ってるけど、両親の死に対してだけは、なににも関連させずにちゃんと真摯に受け入れてる。正直者のユキの、そんなまっとうな心根の部分を俺は尊敬してる」
 僕は貴洋に尊敬されているらしい。驚きで目を見つめると、深く息を吸ったあと小さく笑って僕を見下ろす。今の貴洋は太陽じゃなくて、まるで見上げた僕を包みこむ星いっぱいの夜空のようだ。胸の芯を覆う冷たく硬い塊が、ゆっくりと融けて流れだしていく。
「いま一緒にいたいって、離れたくないって過去にとらわれてるユキの不安な気持ち、俺も少しはわかってるつもりなんだ。でも別々の道に進んだって、未来に新しい形が見えるんならそれもいいじゃん。俺はタバコ屋を継ぐつもりだし、ユキが植物園で働いて帰ってくる家に、俺がいつもいる遠い未来を、想像するいまも悪くねーなって思ってるわけ」
 そうか、僕が不幸でいっぱいいっぱいになってるときも、貴洋はそんな先のことまで考えてくれていたのか。もうだめだ、涙で前が見えない。
「いいかげん、泣き止めよ。俺もう花積みにいかねーぞ」
「うー」
 頬から耳たぶを伝って落ちた涙が、髪と枕を濡らす。
 過去から目を離せず後ろ歩きで未来に進んでいた僕を、光で導いてちゃんと方向転換させてくれる。忘れる必要はないけれど、ちゃんと前を向けって教えてくれる。手を差しのべてくれるのは、いつだって貴洋だった。
「好き」
「え?」
「キスしてくれたら、泣き止んでもいい」
 いまはなにを言ってもお願いが叶えられる気がした。
 僕の手首を拘束したまま、貴洋の顔が近づいてくる。目をつむると、やわい唇がくっついて離れる。目を開けようとするとまたくっついて、しだいに深く長く、しっとり吸いつくみたいに包まれて。
「んー、ぁっ、息できないっ!」
 あまりに苦しいうえ手が自由にならないから、足の裏で貴洋の膝を蹴ってしまった。
「めんどくせーな、お前。泣きやまねーし」
 とめどなく溢れてくる涙が、自分でも物恐ろしくなってきた。
「なにこれ、僕病気かもしれない」
「そのうち止まるだろ」
 そう言うと、貴洋は僕のTシャツの裾をまくり上げた。
「な、なになになに?」
「犯してほしい、とか言わなかったっけ?」
「犯してしまうかもしれない、と言ったの」
 貴洋が僕の胸の上に顔を埋めて、声を上げて笑う。さっきも同じとこで笑われたから、なぜかはわからないがこのセリフが貴洋の笑いのツボなのだろう。
「まあ、とりあえずしようぜ」
 なんだその色気ないの。
 そう思ったけど、言い返せなかった。だって僕も貴洋とそういうことがしたくてたまらないんだから。

 もともと身体は柔らかいほうなのだけど、セックスを始めると僕は軟体動物になったみたいにぐにゃぐにゃになった。貴洋の腰骨と僕の足の付け根がぴったりくっついてる。その肌の色の違いに驚いてる余裕はない。
「痛くない?」
「……くない。な、にこれ」
 時間をかけて貴洋のものを呑みこむために作りかえられた僕の身体は、おっきくて硬い異物が体内に収まった瞬間、快楽の波にさらわれた。
「やだ、もう」
 ひとりで想像しながらしてたときと全然違う。初めてなのに、こんなことまでされると思わなかった。信頼して貴洋にまかせっきりにしてたら、えらい目に合ってしまった。
「もう、ぬ、ぬい、ぬいてー」
「いてーの?」
「痛くないけどっ、んっ、だめっ」
 浅く、深く、予測のつかない動きで自由自在に腰を使う。どうにかやめさせようと髪を掴んだはずなのに、僕はそのまま右手で貴洋の顔を引き寄せて、行為に夢中で意識のいってない半開きの唇に自分からキスをしていた。舌を吸われて腰が跳ねる。身体の内部は燃え滾っているのに、触れ合ったお互いの胸は汗を吸ってひんやりしていた。
「気持ちよさそ」
 キスの合間に貴洋が言う。気持ちいいよ。でもこんなことするって思わなかった。自分の知らない種類の快楽に翻弄されて、一旦は止まっていた涙がまた目尻から頬を伝って落ちる。
 カエさんが貴洋はむっつりスケベだと言っていたのは当たってる。普段のクールさはどこにいったの。荒々しく口づけながら妖艶に腰を揺らす貴洋なんて、僕のどろどろでエロエロの想像の中にすらいなかった。
「あっ、待って、離れて」
「ん?」
「こすれ、ちゃうからぁ……、あ、あ、あーもうっ」
 上半身が重なると、貴洋の硬い腹筋に自分の上向いた性器が触れる。動くとぬるぬる貴洋のお腹でこすれる。
「汚れるよ、んっ、あんっ」
「もうドロドロじゃん? 俺ら」
 目が合うと歯を見せて笑う。なんてかっこいいんだろう。
「いっちゃう、かも」
 うわごとのような言葉が口をついて出る。強烈な快感が長く続きすぎて、意識が朦朧としていた。息を吐くたびに声が漏れて、もうそれを隠す余裕もない。
 揺れる腰に両足を巻きつけてキスをねだると、苦しそうに微笑んだ貴洋が優しく口づけてくれる。唇を触れ合わせたまま、貴洋の動きに合わせて腰を押しつけた。奥の気持ちいいところを何度も突かれて、僕は深いキスのさなか声も出さずに射精した。


 夏休み最後の日、絵里がマイコちゃんと市民プールに行くから連れてけと言うので、保護者がひとりじゃ不安な僕はバイトで疲れて眠っている貴洋を無理やり起こして外に連れだした。
「めんどくせー」
 寝起きのかすれた声で太陽に向かって愚痴る貴洋、の後ろで蝉の死骸を踏む僕。
「ねえお兄ちゃん、泳ぎ終わったあとアイス買って~」
 甘ったれたことを言いつつ貴洋の腕にまとわりつく絵里を後ろから睨んでいると、悪意ある視線を察知して振り返った絵里が僕を見て、キモッ、と一言呟いてまた前を向く。
 あの日から、僕らの関係はなにか劇的に変わるものなのだと思ってたけど、今のところ特になんの変化も見られない。相変わらず仲のいい兄妹に嫉妬している僕自身がいちばん変わっていないのかもしれないけど。
 三叉路で手を振るマイコちゃんを見つけて絵里が駆けだす。ふてくされて蹴った小石がちょうど貴洋のかかとに当たったときだった。
「なにむくれてんだよ」
 振り返った貴洋が僕の顔を覗きこむ。
「別に、今日も仲いいな、って思って」
「なに? 嫉妬?」
 めんどくせー、と暴言を吐かれたことに傷つく間もなく貴洋に肩を押される。街路樹の木陰に入ると腰を引き寄せられてキスされた。
「昼中から、外でこんなこと」
 言葉ではそんな理性的なことを言っておきながら、すぐ離れてしまった物足りなさで貴洋の触れた自分の唇を指でなぞっていた。
「じゃあ今度からは、夜中に家でする」
「うん、そうして」
 それがいい。
 とても素晴らしい提案だったのですぐに同意してしまったけれど、ここまで開けっぴろげだと貴洋にすぐ愛想をつかされるかもしれないと思い直す。
 僕の沈みかけた心は、貴洋の楽しそうに笑う声でポワンと浮上した。
「欲望に忠実なやつ」
 肩を震わせて笑うだけで、それがいいのか悪いのか言ってくれない。
「僕ってめんどくさい?」
 さっきの暴言を時間差で指摘するあたりめんどくさいんだろうな、って思いつつ気になって聞いてみる。
「そこがいいんじゃね?」
「おにいちゃーん」
 前方からセミの合唱に雑じって絵里の呼ぶ声がする。ぼんやり貴洋を見上げてると、笑った形の唇にもう一度キスされた。



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プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
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