リゾート・ア・ゴーゴー(1)R-18

 由井正史は朝、飛行機を降りてからずっと歩き続けていた。亜熱帯の島に降り注ぐ夏の陽射しは、正史の体をじわじわと痛めつけた。雪のように白いうなじは日焼けの炎症で赤く染まり、ビジネススーツに包まれた痩せぎすの体は、慣れない暑さでときおりふらりとよろけた。だが疲労は暑さのせいだけではない。昨日の昼、サンドイッチを少しかじっただけで、そのあと食事をとっていないせいもあった。水分補給は機内でひとくち飲んだオレンジジュースだけ。もうくたくただった。
 でも、そんなことは正史にとってどうだっていいことだった。これから死ぬ人間が、体調の不良を気にするわけがない。
 人のいないほうへ、いないほうへと、ただひたすらに歩を進める。脇目も振らず、意固地になって前進するだけの正史に根負けしたのか、太陽もついに陰り始めていた。林の中の金網フェンスの破れをくぐり、整備されていないススキ野原を手でかきわけ通り抜けたところで、突如、視界がひらけた。
「う、わぁ……」
 ターコイズブルーに浮かぶオレンジの夕日にしばし目を奪われる。ついさっきまで敵だった太陽が、海に抱かれてすっかり棘を落としていた。小さな砂浜におり立ち、ぼんやり辺りを見回す。人影は見当たらない。正史は汗でずれていた眼鏡を正し、そっと微笑んだ。
 無人の海。探していた場所が見つかった。
 ここで死のう。
 鞄から純白のケースに入った指輪と、使い古したぼろぼろのノートを取りだす。最期に、その『いけないノート』をひらいてみた。
 ピーマンを残してはいけない。
 無駄遣いをしてはいけない。
 危ない人についていってはいけない―。
 物覚えが悪いからなんでも書いて覚えなさい、と小学生の頃、母親に渡されたノートだった。初めは言われたことだけを書いていたけれど、真面目でえらいと褒められて、正史はいつしか誰にも命令されないのに自分でノートを書き足すようになっていった。
 遅刻をしてはいけない。
 陰口を叩いてはいけない。
 わがままを言ってはいけない―。
 自分で自分を規制していくほどに、正史の人生はつまらなくなった。でも止められなかった。中学に入る頃にはこのノートが無いと落ち着かなくなっていた。ノートの内容を守って一日を過ごせるとほっとした。自分は正しい人間だと、毎日確認しながら生きてきた。ノートは正史を縛りつける厄介なアイテムであると同時に、気の許せる友人のいない彼にとっての、唯一の心の拠りどころでもあった。
 でもそれも、今日でおしまいになる。
 怒ってはいけない。
 嫌ってはいけない。
 恨んではいけない―。
 どうしても守れないことができてしまった非常事態。その対処法が見つからない。
 正史は、自分でこしらえた牢獄からの脱出方法を知らなかった。規制をうながすノートのおかげで、安全で浮き沈みのない平坦な人生を送ってきたため、想像外の出来事に対する耐性が備わっていなかった。
 受け取ってもらえなかった婚約指輪を、ノートに乗せて砂をかける。脱いだ靴をきっちり揃え、眼鏡を外してぼうっとかすんだ海を見た。死ぬときくらい、すべてから解放されようと思った。ノートに縛りつけられた人生の最期が、都会のはずれにある六畳一間のひとり暮らしの部屋というのはむなしい。都心で生まれ育った正史は、美しい自然のある場所に憧れていた。せめて最後は、高層建築物の見えない、視界いっぱいに広がる大自然に包まれて死にたくて、遠く離れたこの南国の島までやってきた。
 陽に焼かれてぬくもった砂を、素足で一歩ずつ踏みしめる。心地いい波音にいざなわれるように、夕暮れの海にくるぶしまで浸かった。陽に当たりすぎた体を、冷たい海水が優しくなだめてくれる。渇いた喉もきっともうすぐ癒されるだろう。泳げない自分はすぐに死ねるはずだ。意を決して、ゆっくりと顔を水に浸そうとしたそのとき。
 目の前で大きな生き物が水面から飛びだしてきた。派手な水音がして、眼鏡が無いせいでぼやけた視界が黒いものでいっぱいになる。
 海坊主だ! 黒くて大きな海の妖怪。
「ギャーッ」
 取り乱し叫んで、すぐ反省する。死まで覚悟している自分が、目の前の妖怪に怯えているのが滑稽だった。だけど元来が小心のため、死を前にしても怖いものは怖い。恐怖で一歩も動けないでいると、海坊主が正史の二の腕をがしっと掴んだ。
「ひ……っ」
「誰だ、あなたは」
 妖怪が言葉をしゃべった。しかもすごくいい声で。違和感はあったが答える勇気はない。
「なにをしようとしてるんだ、ここで」
 スーツも脱がず海に入る正史を咎めているらしい。海坊主、と勘違いしてしまうようなこんがり日焼けした人間らしき大男は、背後の浜を指さした。そこにあるのはさっき正史が脱いだ革靴と、半分砂に埋まった遺書のようなノート。
「死ぬ気か」
「…………」
 嘘をついてはいけない。
 ノートに書いた内容が頭をよぎる。手放してもまだ、正史の心はノートに支配されていた。答えずにいると、男に手首を掴まれ海から引っぱりだされる。
「い、痛い!」
「しゃべれるのか」
 肩にかかっているワカメか昆布らしきものを砂浜に落とし、片足で跳ねて耳の中の水を抜くような動作をしたあと、男は頑丈そうな白い歯を見せて笑った。
「死ぬくらい、あなたは自分がどうでもいいんだな」
 ぼんやりした視界に映るその姿は、顔から足先まで小麦色の皮膚一枚だった。そして股のあいだには、とても立派なナニかがぶらさがっている。
「いらないものならば、俺がもらおうか」
 俺が………、もらう?
 意味がわからない、と首を傾げた直後。
「ひ、ぃ……、わっ……!」
 全裸男に足を引っかけられ、正史は浜に転がった。水を吸ったスーツが一瞬で砂にまみれる。必死の抵抗をものともせず、男は重みを増した正史の衣服をいっさい、いとも簡単に取り払った。
「いったい、なにをするんですっ」
 あれよというまに裸にむかれ、正史は羞恥で顔を真っ赤に染めて覆いかぶさる自分と同じ全裸の男をにらみつけた。
「気持ちのいいことだ。死ぬ前に天国を見せてやるよ」
「…………ぃっ!」
 カラカラに渇いた喉から、もう言葉は出てこなかった。一日歩きどおしだった正史には、曖昧な視界に映る見知らぬ全裸男から逃げるための気力も体力も残っていない。猿のような長い腕に体を抱きこまれると、なぜだか少し安心した。自分では気づかなかったが、これから死ぬことに多少は緊張していたのかもしれない。海から出たばかりの男の体は濡れてひんやりしていて、正史の火照った体に触れるとしっとりとなじんだ。鼻先にくっついた首筋からは、海と太陽の匂いがする。
「首の裏が真っ赤だな。ずっと外にいたのか?」
 焼けた皮膚に砂が当たるとピリピリ痛む。男はふっと息を吹きかけて首に貼りついた砂を落とすと、正史の体を抱き起こし、自分の膝に座らせた。
「だが、顔は焼けていないな」
 長い親指が頬を優しく撫でた。うなじ以外焼けていないのは、小さい頃からの俯いて歩く癖のせいだった。
 間近にいる男の表情はよく見えなかった。ただその強い力を放つ淡い色をした瞳が、ゆっくりと近づいてくるのはわかった。
「っ、ん……っ」
 唇に柔らかいものが触れる。下唇を挟まれて引っぱられ、チュッと音がして離れると、今度は頑丈な歯で唇を優しく噛まれた。
「んんんーっ!」
 キスをされている。そう気づいてすぐ、鉄板のような胸をこぶしで叩いたが、びくともしない。抵抗もむなしく、歯を割って入ってきた舌に舌を絡められる。
「む、ぁ…………」
 男の唾液はやけに甘かった。無理やりされているはずなのに、ねっとり分厚い舌が口内を蠢くと腰が弾んでしまう。それに気づいた男が深いキスをやめないまま、正史の乳首を指で捏ねだす。
「んふ……、ぁっ」
 自分でさえ触れることのない小さな突起を摘んで引っぱられ、正史はくすぐったさに身をよじった。そうやってしばらく男の硬い指の腹でいじられ続けると、先端が芯をもって尖ってくるのが自分でもわかってしまう。
「んぁ、や、めー……」
 顔を背けてキスの拘束から逃れる。陽を浴びすぎてただでさえ熱い身体が、興奮でさらに体温を上げていく。
「いいからそのまま感じていろ」
 不本意な快感から逃れようともがいているときに、男の魅惑的な声が命令してくる。疲労はピークに達していたため考えることが億劫で、身をゆだねてもいいかとか思ってしまう自分が恐ろしい。ゲイではないため、男に抱かれることにはもちろん抵抗がある。だけど結局すぐに死ぬのだから、自分のどうでもいい身体をどう扱われようとかまわないという気持ちも、どこかに存在していた。
 頭を支えられ、焼けたうなじにシャツをかませて、ゆっくり砂に寝かされる。髪を撫でられ、額に冷たい唇が触れると、なんだか少しほっとして思わず目を閉じた。
 暗い視界の中で波の音にだけ意識を集中していたら、突如、下半身に強烈な快感が訪れる。
「ふわっ、な、ん……?」
 目を開けて顔を起こすと、自分の薄いはずの茂みが真っ黒な毛で覆われているのが見えた。
「なっ! なにし、あ、あああ……っ!」
 ペニスが生温かいものに包まれて扱かれる。ゆっくり上下に動いたかと思えば、突然きつく絞めつけながら素早く往復しだす。
「あ、や……っ、あんっ、くぅ……っ!」
 予測のつかない動きに翻弄され、正史の腰は陸揚げされた魚のようにピクピク跳ねた。ついさっきはどう扱われてもいいと思ったりもしていたが、いったいなにをされるのかまでは具体的に想像できていなかったのだ。
 正史はかつての恋人に、フェラチオをされたことがなかった。その初めて体験する強烈な快感に侵され、理性が脳内で組み立てようとするさきから崩れだす。ひらきっぱなしの唇からは、意と反した快楽にまかせた甘い声が次々つむがれてゆく。
「や、あー……、んっんぁ、あっ」
 乳首を指で挟んで揺らされながら、勃起したペニスをきつく吸われた瞬間、正史の腰が大きく跳ねた。白砂にまみれた透けるように白い腹はところどころピンクに染まり、射精の余韻で小刻みに震えている。男の口から解放されたペニスは、仕事を終えてくったりと薄い茂みの影に隠れた。
「どうだ、気持ちよかっただろう?」
 真上から見下ろしてくる男の焼けた顔を見上げる。眼鏡がないため、顔の造りはやはりぼんやりしていてよくわからない。正史が今認識できる目の前の男の情報は、小麦色の肌に、白く丈夫そうな歯と、強い光を放つ瞳をもつ、変態。
 野外で全裸で変態と。
 いくら死ぬからどうでもいいといっても、自分はいったいなにをしてるんだ。快感から抜けだして冷静になると、正史は途端に気が抜けてしまった。
 真っ赤な夕日を背負って自分を見つめる男を意図的に視界から消す。目をつむってしばらく経つと、波の音に混じって、正史の静かな寝息が浜に響き始めた。





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リゾート・ア・ゴーゴー(2)

 二週間前、正史は同じ職場で働く三年付き合った恋人にプロポーズした。当然受け入れられるものだと思っていたから、質素だが婚約指輪も用意していた。めったに行かない高級ホテルのレストランでコース料理を食べ、最上階のバーで指輪を渡した。梅雨の真っ只中で、せっかく高層階にいるのに見下ろす夜景が雨と霧にかすんで見えないのが残念だった。でもそんなことを考えていた数秒後、予想もしていなかったさらに残念な結末が正史に降りかかった。
『別れましょう、私たち』
 生ピアノの演奏が流れるだけの静かな空間で、ありえない返事が耳に届く。
『え、え……? え、どうして』
『好きな人が、できたの』
 渡したばかりの指輪ケースは中身を確認されることなく、大理石のテーブルの上をスライドして、自分の目の前に戻ってきた。黒光りするテーブルにぽつんと置かれた純白のケースを見つめて放心している正史を前に、千佳子は大きなため息を吐いた。
『正史はいつも優しかったね』
 髪を切ったときも、口紅を変えたときも、新しい洋服を着たときも、ちゃんと気づいてくれる。
 恋人をないがしろにしてはいけない。女性と交際したことがなかった正史は、千佳子と付き合うことになった三年前、自分でそうノートに書き足していた。女性はマメで優しい男に弱いというのをどこかで聞いたことがあった。真面目な千佳子と付き合う上で、それさえ守っていれば安寧に日々が過ぎ、適齢期を迎える頃に結婚ができると踏んでいた。デート現場に現れた千佳子の変化をチェックすることは、正史にとってルーチン化した作業だった。
『でも、それだけだった』
 ピアノの演奏が途切れた空間に、しとしと降り続ける夜の雨音みたいな千佳子の悲しい声が落ちてきた。
『正史が本当は、私に興味がないんだってことに気づいてた。気づいてて気づかないふりしてたの、三年間』
 三年間。その月日の長さに正史は驚いて顔を上げた。目が合うと涙をこらえながら少し微笑んで見せた千佳子は、鞄を手に取るとゆっくり席を立ち、正史の前から去っていった。
 その二週間後、職場の朝礼で千佳子の婚約と結婚退職が発表された。みんなの拍手を浴びて頬を赤らめる彼女の左手薬指には、正史が用意したものと比べ物にならないくらい、大きなダイヤモンドがセッティングされたリングがはまっていた。千佳子との交際は職場で公にしていなかったため、正史に同情する同僚はいなかった。隣の席の女性が、千佳子の婚約者はどこぞの資産家でイケメンの経営者なのだと、と嘘か真かわからぬことを噂していて、周囲の女性たちと玉の輿が羨ましいという話題で盛り上がっていた。
 その日はなんとか仕事をこなして帰宅した。
 恋人をないがしろにしてはいけない。
 自分でノートに書いた内容を忠実に守った結果がこれだ。三年かけた人生計画が台無しになってしまった。そしてこのさきまた結婚を見据え、真面目そうな女性を見つけてマメに優しく付き合っていかなければならないのだ。これからのことを考えると、正史は大きな疲労に襲われた。
 こんなときでも正史は、怒ってはいけないし、嫌ってもいけないし、恨んでもいけない。さんざんな目にあったと冗談交じりにグチる友人もいない。恋人も失くした孤独な正史の唯一の拠りどころであるノートが、重荷になっている。衝動的に破ろうとしたノートの一ページ目の、守らなければいけないという文字が目に入って思いとどまる。三日三晩考えて、結局ノートを捨てることはできないという結論に至った。正史にとってノートは、自分自身より大切なものになってしまっていた。
 そこから決心して行動に移すのは早かった。思い悩む時間を自分に与えないように急いで身辺を整理し、自殺のための準備を整えた。
 二日後、早朝の飛行機で南の島へ飛んだ。旅行などめったにしない正史にとって、島は驚くべき異世界だった。パキッと晴れた空、鮮やかな原色の花、風が運ぶ大地の匂い。自然はテレビや雑誌で見るのと体感するのとでは全然違った。なにもかもが美しく、都会では感じられない穏やかな時間の流れに胸が高鳴った。だがこれから死ぬ人間が生の喜びにドキドキしていていいわけがなかった。正史は自分の革靴が時間の経過とともに砂埃で薄汚れていく過程だけを見つめながら、無我夢中で無人の海岸を探して歩き続けたのだった。


 遠い波の音が耳をくすぐる。正史は夢も見ない深い眠りからパチッと覚醒した。
 ぼんやり滲む視界でシーツを剥ぎ、上半身を起こす。自分がゆうに五人は眠れそうなキングサイズのベッドにも、体を包むさらりとした質感の衣服にも覚えはなかった。間欠的に聞こえてくる波音に、快適な室内、ふかふかのベッド、着心地のいい衣服。自分はうまく死ねて、運よく天国に来られたのかもしれない。そんな非現実的な妄想をしていると。
「起きたか」
 扉がひらかれる。正史は美声が聞こえたほうに目を向けた。昨日と違って服を着ている長身の海坊主を見つけて、夢の天国から一気に現実に戻される。近づいてきてもよく見えない男の顔を凝視していると、これか、と眼鏡を手渡される。昨日、海岸で射精してからの記憶がない。自分の体も眼鏡も、男がここまで運んでくれたのだろうか。
 眼鏡を装着し、正史は室内を見回した。ここはどうやらホテルのスイートルームらしい。居場所を確認してから目の前の男に視線を向ける。全裸で海を泳ぎ、自分にやらしいことをした変わり者はどんな顔をしているのか。
 クリアになった視界に映った男は、信じられないような美青年だった。
 クラシックなブラックスーツが恐ろしいほどよく似合う。熱い胸板はジャストサイズのジャケットに包まれ、裸のときよりいっそう強調されていた。凛々しい眉とライトブラウンの瞳の印象的な彫深い目元。まっすぐ美しい鼻筋。肉厚な唇は大きく、口角がきれいに上がっている。男も女もひと目で惚れてしまうような、類まれなる美形だ。
 そんなはずはない、これはなにかの罠なのだと、正史は何度も眼鏡を外したりつけたりして確かめてみたが、強い目の力と白い歯に小麦色の肌、太陽の香りをまき散らし美声を放つ目の前の男は、昨日の変態だ、という結論にしかたどり着けなかった。
「須藤だ、須藤大樹。このホテルの支配人をしている」
「へっ?」
 支配人? そんな立派な人間が海で全裸で泳いでいていいのか。
「あなたの名は?」
「…………由井正史、ですが」
 頭に浮かんだ疑問は口に出さぬまま、生きているかぎりは嘘をついてはいけないため、警戒しつつも問われたことに正直に答える。
「年は?」
「二十八ですが」
「年上? 信じられないな」
 それはこちらのセリフですが。正史はそう言いかけた口を閉じる。聞くと正史よりひとつ下だという大樹は、大物の風格と自信に満ちあふれた態度で、年より老けて見えた。
「腹は空いてないか?」
 昨日からなにも食べてないため、その質問に答えるより早く正史のお腹がきゅるるると、空腹を主張した。その反応に噴きだす大樹をこっそりにらみつけていると、その大きな手の中にある赤い楕円形のものが目に入った。
「それは」
「アップルマンゴーだ。自社農園で作ってる。食べるか?」
 ホテル経営に加えて農園までやっているのか、と頭では冷静に感心していたが、体のほうは考えるよりさきに勝手にうなずいていた。
 丸一日歩いて体力を使い果たしたあとにたっぷりの睡眠をとると、胃が活動したくてたまらないようだ。大樹は正史の返事を見て満足そうに微笑むと、手の上で器用にペティナイフを使い、割ったアップルマンゴーにさいの目の切り目を入れた。そして金色に輝く瑞々しい果肉をむき出し、正史の口元まで運んでくる。ためらいつつも四角い果肉を一口かじった。酸味と甘みの絶妙なバランス。なめらかな食感に舌がとろけ、二口、三口。そのあとはもうためらいも忘れて大樹の手首を掴み、動物のように一気に食べ干してしまった。もうないのだろうか。あまりに美味しすぎたため、無意識にいやしく尋ねるように目を上げた瞬間、果汁に濡れた唇が奪われた。
「んっ―! ぁふ………っ、んんぁ……」
 舌に舌を絡め、口内の甘い汁を根こそぎ吸いとられる。そのまま腰かけたベッドに押し倒され、真上から存分に口の中を侵された。
「あっ……、ゃ、んめ……っ!」
 渾身の力で大樹のぶ厚い胸を押し、すぐさま寝返りをうって枕に突っ伏す。さっき味わった最高のマンゴーの後味は、口の中から完全に消えてしまった。だけど嘘がつけない正史は文句など言えなかった。食欲を満たされるのと同等に、大樹のキスが気持ちいいのだ。昨日も感じたが、たぶん大樹はキスがうまい。マンゴーをむく手と同じように、口内でうごめく舌も器用なのだろう。正史はキスの余韻に浸りたくなくて、ドキドキうるさい心音を完全に無視することで冷静に立ち返った。
 なにをしてるんだろう、と思う。これから死ぬのにこんなおいしいものを食べたりして。自分のとった無意味な行動に打ちのめされる。無駄な行動をとってはいけない、というノートの内容が頭をよぎる。よくよく考えると、あのみずみずしいマンゴーは生きる目的のある人間が食べるべきだったのだ。今日の夜は反省会だ。いや、今日に夜なんて来ないから反省会もできない。規則を守れないから死のうとしたのに、死ぬ前にノートの規則を破ってしまうなんて、自分はやっぱり失敗人間だ。
「うまかっただろ?」
 それはマンゴーのことか、キスのことか。
 正史の悩みなどつゆ知らず、のんきに際どい質問を投げかけてくる。とにかくこの男と一緒にいると駄目だ。それだけは失敗人間の正史にもわかった。素早くベッドから抜けだすとクローゼットに向かい、急いでスーツに着替える。衣服についていた砂や水は取り除かれ、きちんとプレスされていた。
「お世話になりました、おいくらです?」
 部屋の宿泊代とクリーニング代とマンゴー代を支払わなければならない。鞄から財布を取りだし尋ねると、大樹は楽しそうに笑んだまま悠然と首を傾げた。
「なにが?」
「なにが、って。このスイートルーム、一泊いくらなのかと聞いてるんです」
「ああ、そんなものかまうな」
「なにを言って! かまわないわけにはいきません」
 死ぬ間際に借金など背負いたくない。
「なら、昨日と今、あなたの身体と唇をいただいたから、それと引き換えでかまわない」
 いい男の吐くクサい台詞を耳にして、正史の顔にぶわっと血が昇る。
「僕の身体にそんな価値などあるわけないでしょう!」
 痩せぎすの体に、特徴のない平凡な顔がついてるだけなのに! それももうすぐ死体になるのに!
 羞恥を隠すため、とにかく支払うと躍起になってつめ寄る正史の手から、大樹はひょい、と財布を奪った。
「これを支払ったら、また死にに行くのか?」
「それ、は……」
 ありえないやり方だったが、一応は命を救おうとしてくれた大樹の前で、肯定の返事をするのは良心が咎められた。
「きみには、関係のないことだから」
 正史は見下ろしてくる視線から逃れるように俯いて、ボソボソと答えた。
「そうか」
 はっきり答えたわけではないが、正史が死のうとしていることはわかっているのだろう。にじり寄ってくる気配に怯えていると、すくんだ肩を掴まれる。
「それなら、俺がオススメの死に場所に連れていこう」
「は? …………は?」
 オススメの死に場所って、なんだ?
 驚いているまに、そんな格好じゃ暑い、とスーツを脱がされ、Tシャツと短パンに着替えさせられる。ちょっと、とか、待って、とかしか言えないあいだに、全身に日焼け止めを塗られ、チューリップハットをかぶせられていた。死ぬのにどうして紫外線を気にする必要があるのかという疑問が浮かんだが、それを口に出すこともできないほど正史は呆気にとられていた。
「さあ、行こうか」
「ままま、待って! いらない行かない。ひとりで死ねるから!」
「遠慮なんてするな」
 遠慮なんかじゃないと言っても、大樹はもう聞いていない。嫌がる正史の手首を引っぱって、揚々と歩きだしていた。





リゾート・ア・ゴーゴー(3)

「もう、降ろしてください!」
 バナナボートに乗せられて水上オートバイで引っぱられる。もうなんど海に落ちたか覚えていない。泳げないため落下すると恐怖でパニックになる。そのたび一緒に落ちた大樹に助けを求め、頑丈な胸に抱きかかえられてまたボートにまたがされた。
「そんなに楽しいか?」
 なんでそんな勘違いをしているのか。真後ろから腰に腕を絡めてくる大樹には、正史が楽しんでいるように見えるらしい。
「楽しくないです! 早く死にたい!」
 エンジン音がうるさいため大声で必死に訴えたら、笑い声が返ってきた。むくむくと湧いてくる負の感情を抑えつける。怒ってはいけないと、いつぞやノートに書いたことを後悔していた。
 今日は人生最後の日だというのに、朝にマンゴーを食べてしまった失敗をはじめ、たくさんのいけないことをしてしまっていた。危ないことをしてはいけないのに、大樹の知り合いの男が運転する暴走軽トラックの荷台に乗せられてしまったし、大樹が強引に手を引っぱるから横断歩道の白いラインを二度ほど踏んでしまっていた。
「もういやだ」
 海から上がると、ガクガク震える足がもつれて砂浜に倒れこんだ。しばらくヤモリのような体勢でぬくもった砂に頬をつけ、息を整えていると、ザッザッとこちらに近づく足音が聞こえてくる。
「飲むか?」
 顔を上げると、しゃがんだ大樹がグラスを掲げて見せる。生のオレンジとハイビスカスが飾られた琥珀色の飲み物を、正史はじっと見つめた。ゆっくり上半身を起こし、おそるおそるストローに口をつけて、グラスの中身を半分ほど飲んだ。鼻に抜ける茶葉の香りにうっとりする。まだ目の前にストローがあったから、残り半分のアイスティーも飲み干した。空になったグラスからハイビスカスを指につまんでとった大樹が、なんの冗談か、それを正史の濡れた髪に飾った。
「よく似合う」
 鮮やかな赤色をした派手な花が、自分に似合うわけがなかった。顔が地味だからこれでもつけておけ、ということなのだろう。ふてくされて尖らせた唇に、ちゅっと音を立てて大樹がキスをする。頬についた砂を硬い指の腹で優しく払われると、勝手に心臓がドキドキ主張しだした。
 男相手になにを興奮しているのだと心臓に言い聞かせてみるも、ドキドキは止まない。昨日は一瞬海坊主と勘違いしたりもしたが、眼鏡ありで見る大樹の顔は野性味にあふれているのにどこか洗練されていて、どの角度から見ても美しかった。強い眼差しは正史の心を惹きつけて、見つめられると目をそらすことが難しくなる。傍若無人で強引な態度でさえ、彼の魅力のひとつなのだとわかる。きっと出会った誰もが夢中になる。大樹はそんな男だ。そう考えないと、自分を引っぱり回して悪戯をしかけてくる変態に、ドキドキしている理由が説明できない。
 魅惑的な眼差しから故意に目をそらして、正史は立ち上がった。
「どうした?」
 しゃがんだままの大樹が夕焼けに目を細めながら見上げてくる。その穏やかで優しげな瞳の色に、正史の胸はまた意思を無視して高鳴り始めた。いい死に場所を教えてくれる約束だったのに、大樹は正史を海で遊ばせたり、おいしいものを食べさせたりして、肝心の場所には連れて行ってくれない。このまま近くにいたところで、ドキドキとハラハラが増すだけできっといいことなんてない。
「早く、死に場所に連れていってください」
 これ以上大樹と一緒にいると、死ぬことに迷いが起きそうな予感がした。下唇をギュッと噛みしめて俯いていると、しばらくして、無言で立ち上がった大樹が正史の手を取り、歩きだした。

 陽が完全に落ちた暗い雑木林の中、懐中電灯の小さな灯りが照らす道をひたすら歩き続けた。オススメの死に場所というのは、いったいどんなところなのか。そこにたどり着いた途端、大樹に繋いだ手を放され、ひとり取り残されることを想像すると怖くなった。
 昨日は躊躇なく海に入っていけたのに、たった一日しか経っていない今、死ぬのを恐れている自分がいる。出会ったばかりの大樹が、正史に強烈な影響を与えていた。したくないことばかりさせられていたはずなのに、今日一日を振り返ってみると、そのどれもがいい思い出に変化していた。
「着いたぞ」
 そっけない声に、正史はびくっと肩を震わせた。懐中電灯の光が照らすさきは防波堤だった。海中へ向かう、ひと気のないコンクリートの一本道。
 手を引かれながら、転ばないよう慎重に細道を前進する。末端にたどり着き、大樹が足を止めた瞬間、正史は思わず目をつむり、繋がれた手を固く握りしめた。
「正史、上を見ろ」
 上? 下の海に身投げするはずなのに、このだだっ広い頭上になにがあるというのか。
 正史は自分を見つめる大樹の真剣な表情を確認したあと、ゆっくりと顔を上げた。
「う、わぁ…………」
 視界を埋めたのは、闇に浮かぶ数えきれないほどの光。
 漆黒の空一面は、無数の星々が支配していた。それぞれが光を放ち、夜空のすきまを埋めるように自己を主張している。目に映るすみからすみまで、どこをとっても星だらけ。
「きれい」
 思わずつぶやいて、夜の眩しさに目を細めた。そして首が痛くなっても気にすることなく、正史はしばらく頭上を見つめ続けていた。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。ビリリ、と間近で紙を裂く音がして、現実に戻される。目の前で大樹が、昨日、砂に埋めたはずの正史のいけないノートを破いていた。
「なにをして……っ!」
 咄嗟に奪い返そうとした紙切れは、大樹の手を離れ、宙をひらひら舞って真っ暗な海へ落ちてゆく。
「あー! ああーっ」
 自分より大切なものが、流れていってしまう。コンクリートに膝をついて、凪ぐ海にゆらゆら浮かぶ紙切れを目で追っていると、大樹の静かな声が耳に届く。
「たった今までのあなたは、捨てた」
「捨てた、って」
「死のうなんて考えてたあなたは、もういない。そのかわり」
 今日からはこれ。そう言って大樹は中身がすっぽ抜けて表紙だけになったノートを、正史の手に返した。
 死んではいけない。以上。
 力強い筆跡でスペースいっぱいに書かれた文字は、懐中電灯の丸いスポットライトを浴びてきらきらと輝いていた。
「これからはわがままを言ってもいいし、人に弱みを見せてもいい。ときどきは遅刻したっていいし、腹が立ったら怒ってもいいんだ」
 ノートの中身を読んだのだろう。大樹は正史の正面にしゃがんで言い含めるようにゆっくりと言葉をつむいだ。
「ほっといたって人間いつかは死ねる。だから、生きてるあいだを存分に楽しめばいい」
 煌びやかな星の光を背負って、大樹が歯を見せニッと笑う。その笑顔は生のエネルギーに満ち溢れていた。まっすぐ見つめてくる目の前の健全な精神に、自分のいびつな魂が取りこまれるのがわかった。
 まともじゃない自分。そんな異常な生き方に気づくこともできなかった自分の欠片が、夜の海にばらまかれ、自然と一緒くたになる。眼鏡をかけているのに今はなぜか、目の前の大樹が滲んで見えた。
「死ぬな」
 力強い言葉に、体が震えた。気づいたら、素直にうなずいていた。
「わかればいい」
 満足そうな笑みを浮かべたあと、地面に仰向けに転がった大樹が、隣のスペースを手のひらで叩く。夜空を見上げる大樹の隣に、正史もそっと寝転がった。
 広大で美しい星空を目にすると、自分のちっぽけな体がなんだか妙に愛おしく感じられた。広い宇宙に産み落とされた小さな命を、自ら断つことの無意味さ。大樹は、ノートのせいで自分の周辺しか見えていなかった正史の視界に、何光年も離れた星々を映したくて、この場所に連れてきてくれたのかもしれない。
「どうしてこんなに、親切にしてくれるんですか?」
 不思議だった。昨日たまたま出会った自殺志願者にここまでしてくれる理由がわからなかった。
「一目見て、正史を気に入ったんだ」
「気に入った?」
「ああ、顔が好きだ」
「この地味で平凡な?」
「印象は人によって違う、あなたは美しい」
 断言されて言葉に詰まる。心臓の真ん中から、じわじわと熱が全身に行きわたっていく。自分が美しいわけなんてない。今まで生きてきてそんなことを言われたこともない。だけど大樹がそう言ってくれたから、自分の価値が少しだけ上がった気がした。
「それは、あ……、ありがとう」
「どういたしまして」
 返事のあとすぐ、手を握られた。しばしの緊張があって、二人の体温が同じになる頃には心が満たされていた。
 がんじがらめに絡まっていた心が、大樹の手によってほろほろとほどかれていく。ノートに縛りつけられて見えていなかった当たり前だけどとても大切なことを、大樹は教えてくれた。星々の瞬きが、みるみる滲んでゆく。目尻からこぼれた熱い涙が、眼鏡のテンプルを伝って耳の裏を通過した。
 ノートは、もうない。
 これからは、人前で泣いたっていいのだ。





リゾート・ア・ゴーゴー(4)

 死なないのなら、帰らなければいけない。と言っても身辺整理で解約したため、帰る家はない。そしてなにも言わず一方的に辞表を送りつけてしまったため、仕事ももうない。
「ど、どうしよう」
 翌朝、昨日とはまた別のキングサイズのベッドで目覚めた正史は、手探りで見つけた眼鏡をかけて、ベッド脇に置かれた自分の鞄を引き寄せ、急いで携帯電話を取りだした。
 どうやら昨日も星を見ながら外で眠ってしまったらしく、この場所に自分の足でやってきた記憶がなかった。白を基調にした明るい寝室をきょろきょろ見回しながら、落としていた携帯電話の電源を入れる。不在着信が勤め先の番号で埋まっているのを確認して、肝を冷やす。メッセージを再生すると怒りを抑えた妙に冷静な上司の声が、至急、連絡をするように、と告げていた。郵送した辞表が会社に届いているのかいないのか。もし届いてしまっていたとしても取り消してもらえるよう頼みこんで、二日間の無断欠勤を謝罪すれば、また働かせてもらえるだろうか。それからまた住む場所を探して、家財道具も買い直して。
「急いで戻らないと」
 つぶやくと、急に現実が襲ってきた。また都市部の狭苦しいワンルームマンションで単調な日々を送るのかと思ったら、自然とため息がこぼれた。
「起きたか」
 突然、寝室の扉がひらいてスーツ姿の大樹が現れた。
「おは、よう。あのここって、どこ?」
「俺の自宅だが。それよりなにしてるんだ?」
 鞄を抱いて携帯電話を握りしめている正史を見て、大樹は眉を寄せた。
「帰る、準備を」
 多分ここに自分を運んでくれたのも大樹なのだろう。この二日間、おかしなこともされたが、世話にもなった。大樹と別れることを考えた途端、胸がヒリヒリ痛みだす。それはきっと、ノートの廃棄という自分では絶対できない方法で自殺を阻止し、正史の人生に大きな影響を与えてくれたから、少しだけ寂しい気持ちになっているのだろう。
「きみには、本当にお世話になりました」
 言って頭を下げたとき、手の中の携帯電話が震えた。着信元は勤め先。おそるおそる通話ボタンを押すと、もしもしを言うよりさきに、上司の怒鳴り声が耳に届いた。
「す、すみません。あの、すぐに戻りま―」
 言い終わる前に、手の中から携帯電話がスルッと抜きとられる。
「な、なにす……、か、返して!」
「彼、戻らないそうです」
「なに言って―」
「会社? 辞表? ああ、受理してくれてかまいませんよ」
「だめだめだめだめ!」
 大樹が勝手に話す内容を必死で否定していると、足を引っかけられてベッドに転がされ、口を手で覆われる。
「んんーっ」
「そちらの都合が悪くなければ、譲っていただきたいんです。私にはこの人が必要なので」
 突如、真剣な声音で大樹が言った言葉を聞いて、抵抗していた正史の体から力が抜ける。口をふさぐ大きなぬくい手のひらに、自分の唇が触れているのを急に意識してしまって、心音がトクトクと速まりだす。
「どうか彼を私にくださいませんか」
 両親へのあいさつで耳にするような言葉を、大樹は勤め先の上司に告げている。どう考えても滑稽な場面であるはずなのに、正史は笑うどころか、顔を真っ赤にして目をかたくつむった。
 大樹はなにを考えているのだろう。やっぱり変態だからこんなおかしなことを言うのだ。彼に触れられていることに耐えられなくなった正史はうつぶせに転がり、枕で後頭部を覆った。微かに聞こえてくる退職金とか手続きとかいう言葉も、耳は拾っているはずなのに頭の中で意味に変換されない。
「いいそうだ」
 頭の枕が取り外される。突っ伏していた顔を上げると大樹は満面の笑みを浮かべていた。
「先方はもう戻らなくてかまわないと、おっしゃってる」
「そんなぁ……」
 電話一本であっさり退職が決まってしまった。そもそもは無断欠勤と自分で出した辞表が原因なのだが、それはあくまで死ぬ予定があったからで、生きることになったからには仕事がなくては困ってしまう。でもここ最近、会社の業績悪化で人員削減の噂が流れていたことを思いだす。千佳子の結婚退職も、上司たちに必要以上に喜ばれていたような気がしないでもない。もし噂が本当なら、会社としては社員であるうちは勝手に休んで有給だなどと主張されては困るが、自主的に退職するぶんにはなんの文句もないのだろう。しつこいくらいの着信は、正史の退職の意思を最終確認するためだったのかもしれない。
「帰りたかったのか?」
 ストレートな問いに、しばし考える。
「帰り……、たくない」
 正直に答えてしまってから、正史は夢から覚めて頭を抱えた。帰りたくないからといって、この天国のような島にとどまって、いったいどうして生きていくのだ。
「やっぱり、だめ―っ」
 携帯電話を奪い返そうと伸ばした手をとられ、キスされた。
「ん、ふ」
 朝の光射すさわやかな室内で、舌を吸われながら指先で耳をくすぐられる。たっぷり時間をかけて唾液の交換をしたところで、やっと解放された。
「ここにいろ、帰るなよ」
 真剣な眼差しで懇願されると、心の中がぐずぐずになってゆく。
「でも、ちゃんと戻って仕事しないと、生きてけない」
「ここで、うちのホテルで働けばいい」
「…………、はあ?」
 突拍子もない提案をされ、正史は素っ頓狂な声をあげた。濡れた唇を手の甲で拭って、正史は大樹をまっすぐ見つめた。
「なに、非現実的なことを言ってるんです」
「どこが非現実的? 俺は現実にここで生活してる。正史も今、帰りたくないと言っただろう?」
「それは……、この島が素晴らしいから。でも僕はあくまで旅行者であるから。それはできることなら、もっとずっとここに居たいけど」
「だから住めばいいだろう」
「そんな簡単な話じゃ……」
「簡単だろ? 難しいことなんてひとつもない。一度きりの人生なんだから、あなたの好きなように選べばいい。それとも都会に未練でもあるのか?」
 未練。問われて考える。
 今までの仕事に不満はなかったし、真剣に向き合ってもきた。だけど正史にとってそれは生活のための義務であって特別な思い入れがあるわけではない。唯一の家族だった母親も、結婚して新しい家庭で幸せに暮らしている。ひと月前なら千佳子のことが気になっただろうが、そもそも彼女に振られたことがきっかけでここにやって来たのだ。死のうとしていたくらいなのだから身辺はさっぱりしていて、未練なんて欠片もあるはずがなかった。
「決まりだな」
「ちょ、ちょっと待って!」
 まだ返事もしないうちに勝手に決められたら困る。困るのだけど、断る理由も見つからない。だけどこんなにあっさり決めてしまってもいいものか。あまりの展開の速さに決断を渋ってしまう。でもさっき大樹が正史の上司に電話で告げた内容を取り消して、ふたたび雇ってもらえるよう頼みこむ面倒を想像するとどっと疲れが湧いてきた。そこまでして戻りたくない、というのが正史の本音だった。
「おかげさまでうちのホテルは繁盛していて、仕事はいくらでもある。これから夏休みだろう? さらに忙しさに拍車がかかる。正直、猫の手も借りたいくらいだ」
 猫。たしかに、ずっとデスクワークしかしてこなかった正史は、ホテルの業界では猫レベルの仕事しかこなせないだろう。
「だけど、こんな猫みたいな素人を雇ってもいいんですか?」
 自虐をこめて言ってみせたら、たしかに猫に似てるな、とあらぬところで感心されてしまった。
「誰だって始めは素人だ。うちは一流ホテルのような隙のない接客はできない。だからといって従業員のもてなしの気持ちが他に劣ってはいない。休暇を楽しみに来られたお客様に最高の思い出をプレゼントする。発展途上の新人だってその気持ちさえあればいいんだ」
 どうだ? できるか? と大樹の目が問うてくる。なぜか形勢が逆転している。さっきまでは猫でもいいからうちで働いてくれというスタンスだったのに、今は正史を突き放して自分で選ばそうとしてくる。
 自分の目をまっすぐ見つめる目を見返す。好奇心旺盛ないきいきした瞳に吸い寄せられるように、正史は頷いていた。
「悔しいけれど、やってみたい」
「悔しいって、なんだ」
「なんだろう」
 ノートという抑制を失った反動で心が自由を求めている。ふっと笑みをこぼした大樹の幸せそうな顔を、正史は惚けたように見つめていた。





リゾート・ア・ゴーゴー(5)

 大樹の言ったとおり、夏休みを迎えたホテルは猫の手も必要なほどの盛況ぶりになった。客室は連日、家族連れで満室になり、各部屋にエキストラベッドが追加された。ランチタイムのレストランや喫茶室を利用する宿泊客以外の観光客も増え、ホテル内は毎日活気に満ちていた。
 使用済みのリネンをマットレスからはがし、真新しい糊のきいたシーツに交換する。柔らかな羽の詰まったピローをヘッドボードに絶妙な角度でもたせかけ、ベッドスプレッドをかぶせる。緩やかなカーブを描く皺ひとつないキングベッドを完成させると、正史は満足げにふー、とため息を吐いた。
「由井ちゃん! 次、三〇二号室お願い!」
「はい」
 ベテランの女性社員に声をかけられ、正史はシーツを抱えて部屋から部屋へ移動した。
 この島に留まって働くことになったからには、正史はホテルの仕事に真摯に従事する覚悟を決めた。ホテル内のどの職種に就くかを決めるとき、見た目が麗しいからフロントに立ってお客様を出迎えるのがいい、と大樹は冗談か本気かわからないことを言っていたが、正史は全部署の見学を終えて、神経質な自分には裏方の客室清掃の仕事がいちばん向いていると判断した。
 大学を卒業してからずっとデスクワークに従事していた正史にとって、一日中動き回る客室清掃の仕事は体力的にハードだった。だけどくたくたになって帰ってきたあとも、毎日必ずマニュアルを読み耽った。大樹がノートを捨ててくれたからといって、自分を甘やかしてなまけたり、周りに迷惑をかけることだけは、雇ってくれた大樹のためにも絶対したくなかった。
 そうして一年でいちばん多忙だという盆休みが明ける頃には、努力の成果も実って正史は作業をだいぶスムーズにこなせるようになっていた。仕事に慣れると肉体労働は清々しく、廊下ですれ違う客の笑顔やねぎらいの言葉に喜びがこみあげた。今日も全客室の清掃を終え、いつも通り忘れ物を届けにフロントに立ち寄ると、そこに大樹がいた。
「五〇一号室のお客様の忘れ物です」
「おお、ごくろう」
「どうしてそんなに偉そうなんです?」
「支配人だから」
 腕を組んだまま、忘れ物の日傘を受けとろうとしない大樹の目の前に柄を突きだすと、二人のやりとりを隣で見ていたコンシェルジュの女性がプッと噴きだした。
「本当にいいコンビですね」
「ど、どこがですか」
 不満げにコンシェルジュを見つめる正史の頭の天辺に、大樹が後ろからふざけて顎を乗せてくる。
「同棲してるしな」
「同居ですよ!」
 正史がここで働き始めて、今でちょうど一か月。ホテル内で大樹と正史が二人そろっているところを見た従業員は、口裏でも合わせているのか、みな同じ言葉をかけてくる。いいコンビだとか。お似合いだとか。同居(決して同棲でなく)は部屋があり余っているという大樹の提案で始めただけだし、客のいないところで顔を合わすとしょっちゅう言い合いをしている二人がいいコンビのはずがない。
 ずっと自分を締めつけていたノートから解放された反動で、正史の心はいつも自由を求め、気持ちを抑制せず人に伝えるようになっていた。それは感謝の気持ちだったり、不満の気持ちだったり。プラスの感情であってもマイナスの感情であっても、真実の気持ちは嫌味など付加せずまっすぐ伝えさえすれば、相手を不快にさせず受け止めてもらえるということを、正史はここ数日で初めて知った。
 優しい仲間たちとは楽しくおだやかに会話がはずむのに、なぜか大樹相手だといつもケンカ腰になってしまう。少々きついことを言っても笑顔が返ってくる大樹のふてぶてしさが、正史の言動をエスカレートさせているのだろう。文句を言っても、大声を出しても、わがままを言ってもいいのだと教えてくれた大樹相手に、まっすぐ気持ちをぶつけて会話することが、ほかの誰と話すときより楽しかったし、ドキドキした。
「正史」
「なんですか」
 頭の上が涼しくなったので、顎を乗せられた文句のひとつでも言ってやろうと臨戦態勢で振り返る。
「ありがとう」
「な、なに急に」
 穏やかな顔をした大樹が、気負いなく唐突にそんなことを言いだすので、今度は何事かとドキドキしながらかまえる。
「ここで働くことを短時間で決意してくれたあなたに、感謝してる」
 自分が人とまっすぐ向き合うようになったことで、正史は人から発される言葉の裏表が少しだけわかるようになっていた。表面的なやりとりが世の中には案外多いのだと知る中で、大樹の言葉には、ふざけた冗談の類をのぞいてそれが比較的少ないことに気づいた。
「俺がこのホテルの支配人になったばかりの頃の話なんだが、当時、十年ほど勤務していた三十代半ばのフロントマンが退職したんだ」
 突然始まった大樹の過去の話に驚きつつも、正史は興味を示して言葉の続きを待った。
「自主退職すると言いだした彼の言い分は、まだ大学を出て間もない経験の乏しい若造が、親のコネを使って支配人になるのが許せない、俺が支配人になるくらいなら自分が辞めるというものだった。経験が乏しいのも、親のコネであるのも正論だった。だから一度は引き止めた」
 大樹の実家は九州で老舗旅館を営んでいるのだと、従業員の誰かが教えてくれたことがある。そして大学では経営学と観光学を学び、学生時代のアルバイトも入れると七年間、大樹はこのリゾートホテルと同系列の、九州にあるビジネスホテルで修業を積んだのだという話も聞いた。親のコネだと大樹は言ったが、その一点だけで支配人になれたわけじゃないことは、繁忙期の大樹の働きぶりを見ていた正史にはわかる。
「そのとき彼は言ったんだ。支配人になりたいなら客室の掃除から始めろと。いちばん下っ端の仕事から順に、すべての仕事を経験して支配人になるなら認めてやる、と。俺はその言葉を聞いたその場で彼の首を切った」
 鋭い視線で空を見つめていた大樹が、ふっと目元を緩めて真正面から正史を見据えた。そのどきっとするような優しい眼差しに、どんな表情を返せばいいのかわからず、正史は目を泳がせて微かに俯いた。
「十年間、フロントに立って客を迎えていた男でも、仕事に優劣をつける。面接に来る人間にも、掃除の仕事と聞いて嫌な顔をする者がいる。偏見を持たずに仕事を選べる人間は案外少ないんだ」
 そっと顔を上げると案の定、大樹はこっちを見ていた。その瞳はやわらかな力を放って、正史の不安定な視線を縫いつけた。
「だから半ば俺の独断でここに留まらせたあなたが、真摯に仕事を選び、向き合ってくれてることに心から感謝している」
 躊躇せず頭を下げた、形のいいつむじを見つめる。さっきはふざけていたけれど、大樹は本心では支配人だからとおごったりしない。誠意のこもった言葉が胸の底に沈んだ。自分が無我夢中で取り組んできたこの一か月を、大樹はちゃんと見ていてくれたんだと知った。
「うん」
 とりあえず頷いた。なにを言えばいいのかわからなかったのだ。褒められたことが嬉しくて、だけど顔を上げた大樹が返事を待つようにじっと見つめてくるのでそわそわして。その後しばらく続く沈黙のあいだもなにをすべきかわからず、赤い顔を隠すように俯いて、黙々とフロントデスクの上のペンスタンドやキャッシュトレーの角度を整えていると。
「なあ、正史」
 甘い声がして顔を上げた。大樹が手招きしているので、正史はなんだろう、とフロントデスクのなかに入った。耳を貸せ、という仕草に、大樹のほうへ一歩体を寄せる。
「最近、してないな」
「なにを?」
「ベッドの中でするやつ」
「なー……っ!」
 なにを言いだすんだこんなところで、と言いたかったのだが、一音目を発した自分の声が大きすぎて、正史は手で自分の口をふさいでしまった。ふざけていたかと思ったら急にまじめな話をしだして、困惑しているときにまたおかしなことを言いだす。大樹という人間の脳の構造が、正史にはさっぱりわからなかった。
 正史は同居(同棲でなく)当初、全裸で海を泳いで男の自分におかしなことをしでかす変態とともに暮らすのは不安だったが、案の定、大樹は部屋で風呂上がりの正史を見つけると身体に触れてきた。大きなベッドに押し倒され、口や手を使ってただただ気持ちよくさせられるのだ。だけど誰よりも多忙を極める大樹は、ほとんど自分の部屋へ帰ってくることはなかった。ホテルの系列グループの出張会議で島を離れることも度々あったし、深夜でも問題が起きたら対応できるようにと、繁忙期のほとんどはホテルの仮眠室で休んでいた。
 だから大樹に触れられたのは、初日の海を含めてもまだ三回。大樹の言うとおり、最近はめっきりしていない。そしていつも突っぱねた態度をとりながらも、その接触がないことに不満を感じていることを、正史はここ数日ではっきりと自覚し始めていた。
「キスだけだ、させてくれよ」
 二人で隠れた狭いフロントデスクの中、体が触れそうな距離で耳に甘い声を吹きこまれ、正史の全身は震えた。
「な、にを考えてるんですかっ」
 いくら盆が明けたからと言っても、観光客はまだ多い。誰かに見つかってはいけないから、正史は息だけの声で応酬した。
「今の俺には、正史が足りない」
 大樹に腕を引かれ、正史はよれよれと床に膝をついた。
「おいで」
 さっきより一段、甘い声。
 コンシェルジュは観光客に道を聞かれてホテルの外に出ている。それでも誰も見てないからって、仕事中にこんな場所でこんなこと。
「だめ、だっ……、んっ」
 隠れてする久々のキスは、濃厚で甘くて淫靡だった。急ぐあまりに激しさを増す舌の動きに翻弄されて、唇を離された瞬間、正史は思わず大樹の胸にもたれかかってしまった。
「きみは支配人としては最高だけど、ただ、変態だと思う…………」
 悪態をついても、大樹はただ笑うだけ。自分から顔を埋めた胸に手をつき、体を離して立ち上がりかけたとき、今度は後ろから手首をつかまれた。
「もうそろそろ、俺に落ちろよ」
 思いのほか真剣な表情に見上げられ、一瞬、心臓が止まりそうになった。正史の心はもうとっくに奪われているのかもしれない。大樹にそのことを知られるのが怖くて必死で抵抗しているけれど、理性を手放して大樹を求めている未来の自分が容易に想像できてしまう。
 高速の脈が刻まれる手首を振って、なんとか大樹の拘束から逃れ、正史は歩きだした。外から戻ってきたコンシェルジュとすれ違いざまに会釈してフロントを出る正史の赤く染まった耳に、手強いな、という笑いを含んだ独り言が聞こえてきた。





リゾート・ア・ゴーゴー(6)R-18

 九月に入り、客足が落ちついてきた平日の夕方のこと。正史がホテルの玄関扉につけられた子供の派手な指紋を落としていると、駐車スペースに一台のタクシーが止まった。ひらかれた扉から出てきた女性と目が合う。その瞬間、正史の体は硬直した。相手の女性のほうも、まったく同じ反応を示している。
「正史……」
 タクシーが走り去ったあと、しばらくして女性のほうがさきに声をかけてきた。
「なに……、してるの? ここで」
 ダスターを手にしたスーツ姿の正史を見て、千佳子が驚いた顔で近づいてくる。
「あ、の……、今、このホテルで働いているんだ」
「え……、会社は?」
「辞めた」
 千佳子はつぶらな目をいっぱいに見ひらいて口を両手で覆った。
「いやあの、千佳子のせいじゃないんだ。いろいろ……、そう、いろいろあって。きみのせいじゃないことだけは、わかってほしい」
 うまく説明できずそれだけ伝えると、千佳子は自分を納得させるようにゆっくりと何度か頷いた。
「きみこそ、ここでなにしているの?」
 尋ねると、ああ、と上の空の返事をしたあと、言いにくそうに結婚式の打ち合わせだと言った。
「婚約してる彼がね、こっちの人なの」
「そ、うだったんだ」
「今日は式場の下見に来たんだけど、まさかここが正史の新しい勤務先だなんて、私知らなくて」
 申し訳なさそうに顔を俯ける千佳子に、正史は困ったように笑いながらいいんだ、と告げた。
「僕のことは本当に気にしないでよ。結婚おめでとう。幸せになって」
 口からすんなり祝福の言葉がすべり出る。それは強がりなんかじゃなかった。さっきは偶然すぎる再会に驚いて固まってしまったが、三年間、正史の形ばかりの愛を文句も言わずに受け入れてくれた千佳子には、本当の幸せをつかんでほしいと今は心から思えた。
「ありがとう」
 声を詰まらせて微笑み、千佳子は正史がピカピカに磨きあげた扉の中へ入っていった。
 千佳子に別れを告げられたのが、たった二か月前の出来事だなんて。涼しげなブルーのワンピースの後ろ姿を見送りながら、もし自分が死んでいたら彼女を深く傷つけていただろうことに思い至る。そんなことにすら気づかないほど周囲が見えていなかった正史を、大樹は優しく、強引に、確実に変化させた。あの頃の自分が持っていたものは全部失ってしまったけれど、正史は今のほうがずっとずっと幸せだった。


「昼間の女性は、誰?」
 風呂から上がり、冷えた麦茶を飲んでいたら、無人だと思っていた室内から声がした。
「わ! きみいつ帰ってたんだ。びっくりさせるんじゃないよ。あ。おかえり」
 いつも存在感たっぷりの男が、電気も点けずひっそりとソファーに座っているので驚く。
「夕方、ホテルの玄関口で話していた女性は誰?」
 珍しくただいまも言わず、暗闇から目を光らせて同じことを問うてくる。正史は水滴のついた麦茶のグラスをテーブルに置き、静かに確実に速まりだした心音から気を逸らそうと明るい声を出した。
「前の職場の同僚の人」
 嘘はついていない。元恋人であることは言わないことにした。だってたぶん今自分に向けられている感情は嫉妬だ。大樹のような誰もが羨むいい男が(変態ではあるが)、地味で偏屈な自分に正直な嫉妬心をぶつけてきている。そのあからさまなアプローチは、恋愛経験の乏しい正史にだって伝わってくる。感情を隠さずぶつけてこられるたびに、慣れるどころか、ときめきは増してゆくばかりだった。
「うちのホテルで結婚式を挙げるんだって、言ってた」
 おめでたいね、と同意を求めてみる。もうすぐ妻になる千佳子と自分はやましい関係なんかじゃないというアピールだったのだが、大樹は正史に同調せず、ただじっと強い眼差しで見つめてくるだけ。二か月前に振られた元恋人だと話してもかまわないのだが、嫉妬などされた経験がない正史にとって、これ以上強烈な感情をぶつけられることには耐えられそうになかった。
 大樹が黙って立ち上がる。近づいてくるあいだも視線は一度も正史から外されない。恐怖に似た感情と、それとは正反対にあるようなくすぐったい甘やかさが胸の中に混在している。目の前にやってきた大樹に無言で手をとられても、正史は光る目から目を離せず、引っぱられるままによたよたと後を追った。
 向かう先は寝室。扉を開けた大樹に背中を押され、二人で眠るキングサイズのベッドに転がされる。風呂上がりの軽装は、簡単に取り払われた。久しぶりの行為を前に、緊張と期待で胸が高鳴る。
「俺に見られているのが、気持ちいいのか?」
 このさきされることを想像して反応しているペニスに、大樹の視線が注がれる。スーツ姿の大樹の前で、自分ひとり裸体を晒しているのがたまらなく恥ずかしい。直接手で隠すのがみっともない気がして腿をすり合わせていると、閉じた膝を強引に外側にひらかれた。
「なに、する……っ」
 ベッドに乗り上がってきた大樹が片手で器用に自らのネクタイをほどき、獰猛な視線で見下ろしてくる。
「正史は恥ずかしいのが、好きだよな」
「ちがっ―」
 否定した唇はふさがれた。口の中を舌で舐め回されながら先走りでぬめったペニスを大きな手のひらでこすられると、恥ずかしいのに気持ちよくて頭がおかしくなりそうだった。
「は、ぁ……あ、んっ!」
 脇をくすぐられて、悲鳴のような喘ぎ声が喉からもれた。勃起した乳首を強く引っぱられたあと、微かな痛みで痺れた先端をこりこりと優しく指で捏ねられると、自然と腰が揺れてしまう。徐々に激しくなる大樹の手の動きの中で、自分のペニスが急速に膨れてゆくのが見なくてもわかる。
「あ……、ああ、あ……んっ」
 いく直前、大樹と目が合った。腰が不規則に弾むのが、恥ずかしいのに止められない。下唇を噛んで自分を見つめてくる目から目をそらす。手のひらで受けとめた白濁を、赤く腫れぼったい乳首に塗りこめてくる意地悪な指先をぴしゃりと叩き寝返りを打つと、正史は膝を抱えて長引く快感をやり過ごした。
「正史、怒ったのか?」
「違う…………」
 怒っているわけではない。ただ、服も脱がない男に一方的に高められて、こんな屈辱的なことはないはずなのに、悦んでいる自分に呆れているのだ。
 何度か繰り返された行為の中で、大樹も衣服を脱いで一緒に高まることは時々あったが、挿入に至ることはまだ一度もなかった。正直に嫉妬の感情はぶつけてくるのに、最後まで身体を求められないことがつらい。そしてそこまで求められていないことを不満に思っている自分自身が、なにより怖い。
 自分は性に淡白な人間だと思っていた。大樹との性行為では、千佳子とのときとは明らかに違う、強烈な快感が心と身体を支配する。求めずにはいられない衝動と、与えられる愉悦。羞恥と快楽の共存。大樹に触れられるたびに自分の気持ちが明確になっていく。千佳子に再会しても心はまったく揺れなかった。気持ちは重みを増して一方へ傾いていることを自覚させられた。大樹は俺に落ちろよ、と言った。もしかしたらもう落ちているのかもしれない。それを認めてしまうのが怖くて必死でもがいているけれど、正史が彼に完全に陥落するのはもう時間の問題でしかなかった。
「眠ったのか?」
 動かないでいると、髪をそっと梳かれ、小声で尋ねられる。耳を甘く刺激するおだやかな声がおやすみ、と告げ、大樹は正史の裸体にタオルケットをかけると、明かりを落として寝室を出ていった。


 それから何度か、千佳子は式の打ち合わせのためホテルへやってきているようだった。婚約者の男性は忙しいのか、まだ一度も姿を見せていない。正史が忘れ物を届けにフロントに立ち寄る際、ガラス張りのウェイティングルームで千佳子とウエディングプランナーの女性と大樹の三人で話し合っているのをときどき見かけた。ガラス越しに見る大樹は、先日の夜のことが嘘みたいに千佳子と穏やかな笑顔で対面していた。
「前は千佳子にあんな嫉妬してたのに」
 思わず呟いた自分自身の言葉に、正史はあきれた。向かい合って会話する大樹と千佳子があまりに楽しそうだったので、気に食わなかったのだ。なんて狭量で大人げないのだろう。正史は恥ずかしさで赤く染まった頬を隠すように俯いて、速足で階段を駆け上がった。
 昨日のスイートルームの宿泊客から、ピアスの落し物が無かったかとホテルに連絡が入っていた。剥がしたリネンと使用した掃除機の中身をチェックしたあと、部屋の中を隈なく探した。排水溝にベッドの下、冷蔵庫の中まで。最後にベランダに出たところで、すみっこで光る物を見つけた。
「あった」
小さなピアスを拾い、立ち上がったところでなにげなく手すりから覗きこんだ真下、ホテルの前の道路にタクシーが止まっていた。その前で会話をする男女がいる。それは大樹と千佳子だった。式の打ち合わせが終わって、大樹が千佳子を見送るところなのだろう。二人の姿を見たらさっきの自分の醜い嫉妬を思いだしてしまう。気まずさでひとり、苦笑いを浮かべて手すりから離れようとしたとき、大樹と千佳子の距離がぐっと近くなって、正史の動きかけた体はその場で固まった。
 二人がものすごく顔を近づけて、なにか話している。だけど三階にいる正史の耳には、波の音は届いても地上の会話は聞こえてこない。目をこらしてじっと二人を見つめていると、千佳子がおもむろに薬指にはめていた大きなダイヤモンドの婚約指輪を外した。
「なんだ……?」
 正史は手すりに身を乗りだした。大樹が空いた千佳子の左手薬指に、別の指輪をはめた。そして新たな指輪がはまった指を二人して確認するように眺め、しばらくするとまた元の豪華な指輪に戻された。
「え……」
 大樹が千佳子の肩を何度か緩く叩いた。俯いた彼女の顔は確認できなかったが、口元を両手で覆って涙を流しているように見えた。それは感動したときや驚いたときの千佳子の癖だった。その後しばらくして、タクシーに乗りこんだ千佳子を見送った大樹は、ゆったりした足どりでホテルの中へ入っていった。
「な、に……?」
 呆然とつぶやいて、正史はふらふらした足どりで備えつけのガーデンチェアに腰かけた。混乱する頭を抱える。
「なに……? 今の」
 あの指輪は、いったいなんなんだ?
 結婚を直前に控えた千佳子が、婚約指輪を外してまで薬指にはめた指輪。考えるまでもなく思いついたのは結婚指輪だ。サイズの確認のために事前にはめてみた。そう考えると合点がいく。でももしそうなのだとしたら、なぜ大樹が千佳子と婚約者の結婚指輪を持っているのだろう。打ち合わせに来られない婚約者から大樹が預かったと考えるのには、かなりの無理がある。わざわざ大樹に会う時間があるなら、相手の男性は千佳子に会いにいくはずだからだ。そもそもなぜ千佳子の婚約者は打ち合わせに一度も姿を見せないのか。その疑問が頭をよぎったとき、ひとつの恐ろしい可能性が正史の頭に浮かんだ。
 千佳子の結婚相手というのは、大樹なのではないか。
「そんな、バカな……」
 いき過ぎた妄想に自分で笑ってみたが、出てきた声は力なく途切れた。
 そういえば。前の会社の同僚の女性が、千佳子の結婚相手は資産家でイケメンの経営者だと噂していたのを思いだす。大樹の実家は老舗旅館だ。大樹が若くしてこのホテルの支配人を任されたのは親のコネクションのおかげだと本人も言っていたくらいなのだから、実家は名の通った旅館なのかもしれない。
 そう考えると、資産家、イケメン、経営者。すべて大樹に当てはまっている。
 式当日に交換する、結婚指輪のサイズ確認をした。初めて身につける婚姻の証に、千佳子は感動し、思わず涙をこぼした。婚約者がいつまで経っても式の打ち合わせに姿を現さないのは、もうすでにそこにいたからなのではないか。
 笑い飛ばして終わるはずだったただの妄想は、怖いくらいつじつまが合いすぎて事実と判別できなくなった。だって考えられない。夫になる人間以外が、婚約指輪を外してまで、妻になる人間の薬指に指輪をはめるなんて。
「どうして……っ」
 正史は自分の喉から漏れた悲愴な声を聞いて、泣きたくなった。
 正史が千佳子と再会した日の夜、大樹は珍しく機嫌が悪かった。それは自分と仲良く話す女性に嫉妬していたのだと思っていたが、実際は逆だったのではないか。自分の婚約者である千佳子と話す正史に嫉妬して、当の本人に怒りをぶつけていたのだ。
 だったらどうして大樹は、自分を抱くのか。俺に落ちろよ、と言った言葉にはどういう意味があったのか。いや、そこに意味なんてなかったのかもしれない。結婚を前にした男の考えそうなこと。身を固める前に、おふざけ半分で自殺しようとしている男を誘惑してみた。独身最後の羽目外し、ただそれだけのこと。おかしいと思ってたんだ。あんな誰もが羨むいい男が、地味で平凡で取り柄のない自分みたいな男を、気に入ったという理由だけで構うこと自体、酔狂に過ぎると。そんなふうに考えると、身体には触れるだけで最後まで求められなかった理由にも合点がいく。そしてその死にそびれた男が婚約者の元恋人だと知って、怒りが湧いたのかもしれない。大樹は、大切な千佳子と付き合っていたという男が、自分になびくのを見て楽しんでいたのだろうか。男に触れられて悦んでいる正史の身体を、裏で嘲笑っていたのだろうか。
 エスカレートした醜い思考を頭から追い払う。そんなわけがない。大樹がそんなひどい人間でないことは誰より自分がわかっている。
 ノートを捨ててくれた。命を救ってくれた。自由を教えてくれた。キスの直前、自分を見つめる目の優しさ、ベッドで真上から見下ろしてくるときの獰猛さ。思い返すどの場面からも、ちゃんと大樹の本気は伝わっていた。
 でもそうやってわかったつもりでいたことが、はたして本当に真実だと言えるだろうか。
 大樹とは出会ってまだ二か月ほどしか経っていない。自分は三年も付き合った千佳子のことを、別れを告げられる瞬間までなにひとつ理解していなかった男だ。そう考えると正史は一瞬で、なにが真実なのかなんてわからなくなってしまった。





リゾート・ア・ゴーゴー(7)

 携帯電話に知らない番号から着信があった。かけ直すと千佳子が出て、正史は消去した彼女の電話番号をまったく覚えていない自分自身に驚いた。
「正史、ほんとに、ありがとうね」
 呼びだされて出向いたバーで、カウンター席に座る彼女の隣に腰かけると、千佳子が唐突に言った。
「ありがとうって、なにが?」
 尋ねたら笑顔が返ってきただけで、ありがとうの意味については教えてくれなかった。
 甘いお酒を飲みながら、とりとめのない会話の途中。今日の昼間、タクシーの前で大樹となにをしていたのかと、何度か尋ねようとした。だけど聞いて真実を知る恐怖から、正史はそこに踏みこむことができなかった。それでもやはり気になりすぎていたため、目線はカクテル・グラスの脚をつまむ千佳子の左手薬指の大きなダイヤモンドを凝視してしまっていたらしく、マティーニを一口飲んだ彼女はグラスをおいて、照れたように笑いながら右手できらめく宝石を隠した。
「派手すぎるから困ってるんだけど、彼がこっちに来てるあいだはつけておけって。結婚指輪はこのさき毎日つけるものだから、シンプルなのにしてってお願いしたんだけど」
 昼間に見た映像を頭の中に呼び起こす。大樹がつけた指輪は確かに今、千佳子がはめているものよりずっとシンプルだった。今目の前にある豪奢な指輪も昼間に覗き見たシンプルな指輪も、彼女に頼まれて大樹が準備したものなのだと考えたら、胸の中が焼け焦げそうになった。千佳子に振られて呆然としていた自分が、たった二か月後に彼女に強い嫉妬を抱いているのがなんだかおかしかった。平凡と予定調和を好んでいたのに、大樹に出会って彼に惹かれて、激しく心を揺らしている。
 これは罰なのかもしれない、と思った。
 三年間、ちゃんと愛そうとしてくれていた千佳子と向き合いもせず、自分の都合だけで結婚を申しこんだ男に神様は雷を落とした。心がしびれるような強烈な感情を知って初めて、正史は千佳子が自分を拒絶した理由をはっきり理解した。
 彼女は恋をしたのだ。話しかけても響かない、ノートの内容を遵守することで頭がいっぱいの上の空の男に嫌気がさして。それは短期間で結婚を決めてしまうほどの、強く熱い思い。正史は千佳子の恋心に激しく共感した。自分も彼女と同じように大樹に恋しているのだと、もうはっきりと認めるしかなかった。
「僕はきみを、祝ってあげられないかもしれない」
 偶然会ったときは素直におめでとうと言えたのに、相手が大樹だとわかった途端、嫉妬で祝福どころではなくなってしまった自分の心の狭さがいやになる。
「どうして?」
 千佳子が不思議そうな顔で見つめてくる。
 正史はその疑問に答えることができず、歪んだ微笑みで千佳子に別れを告げ、二人分の会計を済ませるとひとり店を出た。

 夜道をあてもなく歩いた。家に帰って大樹と顔を合わすのが怖くて、ぐるぐる同じ道を行ったり来たり。だけどその単調な作業のせいで、頭の中には考えたくないことばかりが浮かんでくる。二人はお互いをどんなふうに呼び合ってるのだろう、とか。大樹は千佳子になんと言ってプロポーズしたのだろう、とか。安易でくだらない想像が、自分の心にプスプス突き刺さる。やめればいいのに。だけどどうしても帰りたくなくて、正史は不本意な夜の散歩を三時間も続けた。
「どこに行ってた?」
 無駄な時間を過ごしてまで帰宅を遅らせたというのに、扉を開けたら大樹がいた。玄関脇の壁にもたれて腕組みしている不機嫌な男を見つけた瞬間、思わずため息がこぼれた。
「どこだっていいよ」
 壁から離れ、通路をふさぐように立ちはだかった長身の脇を無理やりすり抜けようとしたら、二の腕を強くつかまれた。
「彼女と会ってたのか?」
 どうして知っているのか、と聞くまでもない。大樹は婚約者である千佳子から今晩、正史と会うということを聞いていたのだろう。見下ろしてくる目には、怒りと悲しみが混じったような不思議な色が滲んでいた。彼女と二人きりで酒を飲んでいた元恋人の存在を許せないのかもしれない。ひるまないようにらみ返し、拘束から逃れようと体をよじったら、壁に背を押しつけられてキスされた。
「ンっ…………、ゃ、めてっ!」
 胸をこぶしで押し返す。いったん離れた唇がまた近づいてくるので、正史は大樹の頬を手のひらで思いきりはたいた。
「い、ってぇー……」
「な、にするんだっ」
 目に自然と涙が浮かんでくる。喉が引きつりそうになるのを必死でこらえながら、正史は肩で激しく息をした。
 婚約者の過去の恋人の存在が、そんなに許せないのだろうか。それなら殴ってくれればいいのに。惚れさせて、気持ちよくさせて、とろけさせて、最後に地獄に落とそうという魂胆なのだろうか。
 でも自分が知ってる大樹はそんなことをする男じゃない。一緒にいたのはたった二か月ほどだが、大樹は正義と自信にあふれた太陽のような男だった。卑劣な手を使って人を貶めるようなことなどしない。そう信じたい。信じたいのに、頭の中に何度も何度も大樹が千佳子の手を取って指輪をはめる映像が浮かんでは消え、また浮かび上がる。正史は相反する二つの考えにはさまれて混乱していた。
「まだ彼女のことを、忘れられないのか」
 正史には大樹が、千佳子のことを忘れろと言っているようにしか聞こえなかった。彼女についた過去の手垢を根こそぎ落とすように、自分の気持ちを払拭させようとしているのだと。もしそうなら確認なんかしてくれなくても、千佳子のことなんてすっかり忘れていたのに。大樹に出会って振り回されて、すごい勢いで惹きつけられて。千佳子のことなんて顔を見るまで頭の中から消えていたのに!
 自分の信じたい大樹が、信じられないことばかり言う。大樹は、正史が完全に千佳子を忘れることを望んでいるようだ。数日後、自分の隣に並ぶ花嫁の不快な過去を抹消してしまいたいらしい。それほど千佳子を愛しているのだろう。
 嫉妬に狂って妄想をエスカレートさせた正史は、思わず暴言を吐いてしまった。
「結婚式なんて、失敗してしまえばいいんだ」
 口から出てきたおぞましい言葉に、自分自身で息をのむ。目を見ひらいた大樹の顔から怒りは消えて、深い悲しみの色だけが浮かび上がってきた。
 軽蔑されたのだ。絶対言ってはいけない言葉だった。これで大樹に完全に嫌われてしまう。恐怖で噛み合った歯がガタガタ震えだす。
 俯いた途端、革靴に水滴が落ちた。大樹が近づく気配がして体をこわばらせると、大きなぬくい手が頭にそっと乗っかってきて、ひどく優しい手つきで髪を撫でた。
「もう、忘れろ」
 最後通牒が下された。千佳子のことを忘れろと。
 告げた内容とはちぐはぐの甘い声と手の優しさが残酷だと思った。これ以上惚れさせて、大樹はいったいどうするつもりなのだろうか。
「さわら、ないで」
 心地いい大樹の手の感触から逃れ、正史は涙に濡れる頬を乱暴に拭うと、帰ってきたばかりの部屋から出ていった。


 結婚式当日は、見事な秋晴れになった。
 澄んだ空気の中、波音に混じって幸せの鐘が鳴り響く。きっと今頃は、千佳子の薬指にあのシンプルな結婚指輪がはまり、誓いのキスをしている頃だろうか。
 正史は清掃後の客室の最終チェックを済ませ、ため息を吐いた。幸せそうな大樹と千佳子の姿を想像しながら、勝手に滲み出てくる涙を拭う。朝からずっとそんなだから、充血した目の周りの皮膚がひりひりと痛んでいた。
 もう忘れろ、と言われて正史が部屋を飛びだした翌日から、大樹は家に帰ってこなくなった。始めは正史自身が外泊することを考えたが、商業施設の少ない島でほかのホテルに泊まるのも気がひけ、野宿するほどの勇気もなく、夜半に気まずいまま家へ戻ったのだけど、そこに大樹の姿はなかった。大樹がいないことにほっとしていたのは最初の二日ほどで、ひとりの夜が増えていくにつれて、どうして大樹は帰ってこないのだろう、と考えた。不安に苛まれ、大樹のクローゼットを開けた。そこに何着か吊るされていたスーツの類がごっそり持ち去られていた。箪笥に下着やTシャツもない。もともと物が少なく、装飾品などもない部屋(大樹も寝るだけの空間と言っていた)で、日常使う衣類が欠けると、家具や食器以外の大樹の私物はほとんど無くなってしまった。
 自分は取り残されたのかもしれない、と正史は思った。結婚式を数日後に控えた大樹は、千佳子と二人、一足先に新居で甘い新婚生活を送っているのかもしれないと。妄想の針は決してプラス方向には振れず、考えれば考えるほど辛いイメージで脳内が埋めつくされた。食事は喉を通らず、噛むことすら面倒で水分でばかり栄養を取っていたから毎日涙が流れた。二人で眠ったキングサイズのベッドで枕を濡らす日々が何日か続いた。そんな中でも日中はどうしても職場で大樹と顔を合わしてしまう。気まずさと悲しみでよそよそしくなってしまう正史を前にしても大樹の態度は以前と変わらず、というよりむしろ、より優しくなっていた。顔色が良くないと言って額に手を当ててきたり、痩せすぎだからちゃんと食べろと、自社農園で作ってる色とりどりのフルーツを帰りに持たせたりする。だけどそんな気づかいとは裏腹に、大樹は決して家に帰ってこようとしない。その線引きが、正史に気づかせる。大樹は正史がスイートルームに泊まった初日、代金を支払うと言ったら、身体と引き換えで構わないと言った。だから今、正史に与えられる優しさや、カラフルな色のフルーツや、取り残されたひとりぼっちの家は、もしかしたら正史の身体に触れたぶんの、大樹から与えられる最後の代償なのかもしれないと。
 目に浮かんだ涙を、また乱暴に拭った。おいしいフルーツと大樹のいない家。これで納得しなきゃいけないんだ。そう無理やり自分を説得しようとしても、体が拒否反応を起こしてるみたいに涙がとめどなく溢れてくる。
 なんて自分勝手なんだろう、と思う。きっと失敗人間だから、素直に人の幸せを喜べないんだ。
 付き合ってるあいだずっと、千佳子と向き合おうとせず、三年もの大切な時間を無駄にさせてしまった自分が、やっとつかんだ彼女の幸せを祝福してやれないなんて間違ってる。そう頭ではわかってる。彼女の結婚相手が自分の惚れた相手でも、祝福しなければならないことくらい。だけどそう思う気持ちの反対側で、どうしても大樹を自分のものにしたいと心が叫んでいる。
「おめでとうって、言えない」
 鍵をかけた客室の扉の前で、ボソリと呟く。正史には、嘘で塗り固められた祝福の言葉を、二人に告げることなんてできそうになかった。自分の本当の気持ちを大樹と千佳子に伝えたいだなんて、失敗人間だからこんなこと考えてしまうんだろうな。でもきっと、今を逃したら一生言えないから。このさきずっと、不自然な笑顔を顔に貼りつけたまま、二人と会うのは嫌だから。
 気づいたら走りだしていた。右手にダスターを握りしめ、客室フロアからロビーへ。階段を駆け下り、フロントを横切って玄関扉から外へ出た。
 快晴の秋空。見事な結婚式日和。こんな穏やかで幸福な日に、自分はなにをしでかそうとしているのか。でも足は止まらない。ホテルの裏側から続く緩やかな一本道の上り坂を駆け上がる。小高い丘の上に立つ、小さな教会へ。たどり着いた頃には、ここ最近の不摂生がたたってもうヘトヘトだった。
 頂上には紙吹雪が宙を舞っていた。扉は開け放たれ、親族に祝福されながら新郎新婦がちょうど、チャペルを出てくるところだった。
 全力疾走で息は切れ、疲れきっているのに汗は噴き出てこない。そのかわりに目からは大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ちていく。正史はゆらゆら怪しい足どりで、人の輪の中央にいる新郎新婦らしき二人組に近づいた。
 伝えるだけ、伝えるだけ。
 決して二人を不幸にしたりしません。
 大樹が好きだと伝えて笑い者になるだけ。気持ち悪がられるだけ。絶縁されてしまってもおかしくないけど、もう言わずにはいられない。だって今しかチャンスはない。ここでおめでとう、って嘘の笑顔で言ってしまったら、このさきずっと本当のことを言えない。
 だけど、正史の願いは叶わなかった。
 幸せの輪の中央まであと数歩というところで、背後から肩を掴まれ、止められてしまったのだ。怪しい人間がフラフラと蛇行しながら新郎新婦に近づいていたから、警備員が止めに入ったのだろうと思った。望みが絶たれ、掴まれて強張った肩をしゅんと落とす。涙のあとをダスターで拭って振り返ると、そこにはなぜか大樹がいた。
「あれ……?」
「帰るぞ」
 無表情で告げると正史の手首を掴み、大樹は正史が今来た道を戻り始めた。すごい勢いで引っぱられながら、背後を振り返る。大樹はあの輪の中の千佳子の隣にいるはずなのに。新郎新婦を囲んでいた人の群れが一斉に動き、方々に散らばった。場所がひらけると、千佳子が引っぱられながら坂道を後退していく正史に気づいて手を振った。三、二、一のかけ声のあと、小ぶりな花束が空に高く上がる。人が掃けたのはブーケトスが始まる合図だったようだ。スカイブルーの空に弧を描いたオレンジ色のブーケが、気づいたら目の前に落下してきて慌てて手を伸ばした。おかしなところへ飛ばした千佳子に親族たちから笑い声とともに拍手が送られ、正史に向けてウインクする彼女の隣には幸せそうに笑う見知らぬ男性が立っていた。





リゾート・ア・ゴーゴー(8)

 手首を引っぱられたまま散々歩いてたどり着いたさきは、初めて大樹と出会った浜辺だった。ゆっくりと速度を落とし、立ち止まった大樹が正史を解放する。右の手首を見ると大樹が掴んだ場所だけが赤くなっていて、その触れられた証拠の跡に嬉しくなって正史はふっと頬を緩めた。
 前方で無言で海を眺める大樹の背中を、背後からそっと見つめる。ブラックスーツの後ろ姿はなにを考えているのかわからない。
「そんなに好きだったのか」
 唐突に尋ねられて正史は首を傾げた。たぶん、千佳子のことを言っているのだろう。
「そんなに、好きじゃなかったと思う」
「俺に、結婚式なんて失敗しろ、と言っただろう。もし好きではないというなら、今日、式場にやってきた理由はなんだ」
「あの、それは……、きみが彼女と結婚すると思っていたから」
「…………は?」
 唐突に振り返った大樹が、目をいっぱいにひらいて見つめてくる。
「今日が、きみと千佳子の結婚式だと、思ってたんだ」
 自分はとんでもない勘違いをしていたようだ。だって大樹はここにいる。千佳子の隣には、大樹ではない別の男の人がいた。
 大樹と千佳子は結婚しないのだ。大樹と対面してるとその事実がじわじわと頭に浸透してきて、体中が幸福で満たされていく。
「なんだよ、それ」
「だ、だって、あの……」
 目の前にやってきた大樹が、眉間にしわを寄せて見つめてくる。正史はドキドキ速まる心音に気づかないふりをして、自分が勘違いしたきっかけを話しだした。
「結婚式の十日ほど前、きみがタクシーの前で千佳子に指輪を渡してたのを見たんだ。彼女は婚約指輪を外して、きみがその空いた薬指に新たな指輪をつけたでしょ?」
 大樹が用意した結婚指輪だと思ったのだ。サイズを確認するためにためしにはめてみたのだと。あれがのちに勘違いの妄想をふくらますはめになる決定的な瞬間だった。というか、普通あんなシーンを見たら誰もが勘違いするに決まってる。千佳子の結婚相手が大樹でないというのなら、あのまぎらわしい行動はいったいなんだったというのか。
「ああ。これか?」
 内ポケットを探って、大樹はきらりと光るシンプルな指輪を取りだした。
「そう、それだ。三階から見てたからよく見えなかったけど、そんなのだった気がする。それをきみが千佳子の指にはめたから―」
「正史、これがなにか、覚えてないのか?」
「なにかって…………?」
 呆れた顔で問われて、目の前に突きだされたスクエアの小さなダイヤモンドが埋めこまれた指輪をじっと見つめた。言われてみれば、どこかで見たことがある気がする。
「あなたが彼女のために買った、婚約指輪だろ?」
「あ…………、あー!」
 その指輪にうっすら見覚えがあったのは、自分が買ったものだったからだ。大樹は正史が海で死のうとしたあのとき、砂に埋めたノートと共に、正史が千佳子のために用意した婚約指輪を持ち帰っていたのだ。
「でで、でもなんで、きみはその指輪を千佳子の指につけたんだ?」
 大樹がそんなわけのわからない行動をとったから混乱したのだと、自分の買った指輪を判別できなかった恥ずかしさをごまかすために心の中だけでこっそり責任転嫁していると、大樹が指輪の輪っかから海を眺めてふっと息をこぼした。
「結婚式の打ち合わせのときに、彼女に聞いたんだ。あなたたちがホテルの玄関口で親しげに話しているのを見かけたあと、嫉妬を押し殺してさりげなさを装い、正史とお知り合いですか、と。すると彼女は突然号泣しだした。そのときにすべて、話を聞いた。二人が三年間付き合っていたことも、彼女が正史のプロポーズを断ったことも」
「知って、たんだ……」
 大樹が強引に正史の身体に触れた夜。大樹はあの女性は誰だと執拗に聞いてきた。だけど尋ねる前から、大樹は千佳子が正史の以前の恋人だと知っていたのだ。あのときの不機嫌の理由は、婚約者の元恋人への怒りなんかではなく、正史に真実を秘密にされてごまかされたことへの不満と、やはり自分に向けられた単純な嫉妬のせいだったのだ。
「彼女は、プロポーズまでしてくれた三年も付き合った恋人に、一方的に別れを告げてしまったことを後悔してた」
 なにも悪いことをしてないのに指輪を突き返され、二週間後に別の男との結婚を決めた非常識な女に、怒って当然なのに正史は責めなかった。偶然再会したときこそ、冷たい態度をとられるかと思ったが、正史はおだやかな顔でおめでとう、と言ってくれた。そのことにとても感謝しているのだ、と。
「そのときに、ああ、正史は彼女にふられて死のうとしたんだと、彼女と別れたことが死にたくなるほどつらかったんだと、気づいた」
 大樹の目が目を離すことを許さない強さで見つめてくる。視線に縫い留められたままじっと動けないでいると、ふっと目元を緩ませた大樹が指輪を正史の顔の前に近づけてきた。
「本音を言えば、この指輪もノートの中身と同じように海へ捨ててしまいたい。だけどそうすることは簡単だが、そんなことをしてもあなたの彼女への思いが消えるわけじゃない」
 指輪を純白のケースに仕舞うと、大樹はそれを正史の手に握らせた。
「これは正史が彼女につけてもらうために用意したものだろ?」
「まあ、その予定だった、けど……」
 叶わなかった。受けとってもらえなかった正史の思いがこもった指輪。
「俺は号泣する彼女に同情したわけじゃないんだ。正史が彼女のために買ったものだから。指輪にこめられた正史の思いを無駄にしたらきっとあなたが悲しむし、自分も後悔する。あなたの手に返す前に、指輪の本来の目的を一度きちんと達成させることで、リングにこめられた思いを昇華させてやりたかった」
 大樹からの提案を千佳子は快く引き受け、指輪をつけ涙を流した。千佳子のほうも自分の意思を伝えることで頭がいっぱいで正史の気持ちを考える余裕がなく、プロポーズに対してありがとうの一言も言えなかったことを深く反省していたらしい。バーで会って早々、告げられたお礼の言葉の意味が、今わかった。
「だがそもそも正史の私物を許可なく持ち出して、勝手な行動をとったことはいけない。あなたの気持ちが落ちついた頃に報告するつもりでいたが、彼女の結婚よりさきにけりをつけるべきだと、秘密裏に動いたことは不誠実であるし、軽率だった。申し訳ない」
「あ、謝らないで、そんなふうに」
 砂浜に埋めたままほったらかしていたノートも指輪も、大樹がちゃんと回収してあるべき形に収めてくれた。渡されるべき人を失い、宙ぶらりんになってしまった正史の過去の思いが詰まった婚約指輪。大樹はそれを自分なりのやり方でなんとか救ってやろうとしてくれたのだろう。捨てられなかった婚約指輪を持ちだされて別れた彼女の指に勝手にはめられたなんて話を聞いたら、百人中九十九人は憤慨するのかもしれない。でもそんな大樹のはちゃめちゃな行動が、正史には嬉しかった。
 強引で型破り。でも同時に誠実で温かい。
 その行動ひとつで、すごく大切にされているとわかってしまう。大樹なりの愛情の示しかた。表では子供っぽい嫉妬の感情をむき出しにしていたくせに、裏では正史の気持ちをいちばんに考えてくれていたのだ。
「ありがとう。きみのその気持ちが嬉しい」
 見下ろしてくる目をまっすぐ見つめて心から礼を言うと、珍しく大樹が照れたようにはにかんだ。めったに見られない年下らしい表情を目にして、愛おしさが胸の中にあふれてくる。まっすぐ自分を見つめてくる瞳を信じてさえいれば、真実は必ずその中にあったのだ。偶然見てしまった疑惑を問いつめることもせず、ひとりで妄想をふくらませて大樹を疑ってしまったことを、正史は深く反省した。
「ありがとうと言えば、彼女にも感謝しないとな」
「ん…………、ん?」
 ぽん、と肩を叩かれて、どういうことかと顔を上げる。
「同情はしないが、正史を振ってくれた彼女には感謝したい。まあ彼女自身は後ろめたさを拭えないみたいだったから、正史のことは俺が必ず幸せにするから、なにも心配することはない、と言っておいた」
「は…………? な、な、なに言ってるんだよ、千佳子に!」
 正史の胸に詰まっていた甘やかな気分は、大樹の発言で見事に吹き飛んだ。
「なにって、事実だけど」
 涼しい顔で言ってのけた大樹に愕然として頭を抱える。千佳子がバーで遠慮なく自分の幸せをアピールしてきたのも、このブーケをこちらに向けて投げてきたのも、ちゃんと意味があったのだ。正史が彼女に打ち明けるまでもなく、大樹が二人の関係を彼女にばらしていたなんて。元恋人が男と付き合ってるというのに動揺しない千佳子にもびっくりだが、なにより話が筒抜けているとも知らず、彼女に見当違いの嫉妬をしていた自分が恥ずかしすぎて、正史は抱えた自分の頭をポカスカ叩いた。
「それに、彼女がこっぴどく振ってくれなかったら、正史はこの島にやって来なかったわけだろ?」
 この男は、ぬけぬけと~。
 自分の頭を木魚あつかいで痛め続ける正史の手をとって、大樹は首をすくめてみせた。
「よかったじゃないか、結果オーライで」
「し、し、死にに来たんですけど!」
 もし大樹とこのビーチで遭遇しなければ正史は死んでいたのだ。命を救ってくれた張本人を責める自分もバカバカしいが、あまりに大樹が簡単にありがたがるから、憤慨してみたら―。
「でも俺に見つけられただろ?」
「もしかしたら、見つけられなかったかもしれないじゃないかっ」
「俺が運命の人との出会いに、失敗するような男に見えるか? 大切な人を死なせるわけないだろう、この俺が」
 根拠なき自信でもって言ってのける男に言いたいことは山ほどあるというのに、口はひらきっぱなしでなにも返せないのが悔しい。だけどむちゃくちゃなことを言ってるはずの大樹の声には魔法でも仕かけられているのか、まるでそれが真実かのように伝えられ、聞く者を腰くだけにしてしまう力があるようだ。運命の人とか大切な人とか。そんなありふれた言葉が大樹の声で紡がれると正史の心をときめかせて、白い顔がみるみる赤らんでいく。
「運命とか、なんでそんなのわかるんだ」
「直感」
 野生児相手に論理を求めたのは間違いだった。
「直感で気に入ったような思いなんて、きっと長く続かない」
 不安と不満を混ぜて正直な思いを伝えると、大樹は僕のその反応がおもしろかったのか、口角を上げて嬉しそうな微笑を浮かべた。
「なら、ほかにも挙げてみようか」
「な、なにを」
「正史は憤慨するかもしれないが、あのノートが培ったのだろうストイックでまっすぐな性格は、個性的で魅力的だ」
「そんなことは言われたことがない。いつも融通効かないし頑固だし変わり者だって嫌われる。自分でもそう思う」
 言い返すと、ほら憤慨した、と大樹が笑う。
 ノートが無くなった今でもやはり、根本的な性格は変わっていない。そしてそれが長所でないことだけは自分にもわかる。
「掃除が得意だろ」
「そうじ?」
「正史のメイクした部屋には塵ひとつ落ちていない。客室係のあいだでも評判だ」
「仕事では役立つかもしれないが、そんな細かいやつとプライベートで付き合いたいと思う人なんていない」
 自虐的に言い放つと、大樹はふ、と緩く息を吐いたあと、ちょっと怒ったような雰囲気をまとって、真正面から目を見つめてきた。
「他が正史をどう思おうと俺の知るところじゃない。大ざっぱな自分にはあなたの細やかさは新鮮だし、必要だ。俺が気に入ってるあなたの一部を否定されると腹が立つ」
「な、なんだそれ」
「そもそも正史の自己分析より、俺の直感のほうが正しいに決まってるだろう」
 あんまりな物言いだ、と憤りかけたが、その度を越えた横柄さに呆気にとられてもいて、正史の体からみるみる力が抜けていった。そもそも怒られてる内容が、なんか変だ。
「それに顔も身体も好みだ。見た目の印象より低めの声質も耳に心地いい。笑うと見える八重歯や、眠るときのコンパクトな姿勢、怒ったときにじわじわ目が潤んでくるところなんかも悪くない。それから―」
「も、もういい」
 消えいりそうな声で大樹の枚挙を制止する。まだあるんだが、と首をすくめる大樹に、もういらない、と返して、正史は熱を帯びた頬を両手で隠した。
「ところで、そっちはどうなんだ? ここに来たときは死にたくなるくらい、彼女に振られたのがつらかったんだろう?」
 ぐっと距離を詰められ、思わず目をそらす。
「そんなに好きだったのか」
「だから、彼女への思いは、なんていうか、恋愛感情とかじゃなかった、と思う」
 今現在、大樹に対して抱いている思いとは明らかに違う、安定した義務的な愛情だった。
「でも、死のうとまでした」
「だから、それは、ノートの……」
「ノート?」
「内容を、守れなくなるから」
 怒ってはいけない、嫌ってはいけない、恨んではいけない。
 彼女に別れを告げられたこともショックだったが、なによりそれによってノートの内容を遵守できなくなることに絶望していたのだ。
「は? そっち!?」
 今となっては十分おかしなことだとわかっている。でもそのときは緊急事態でパニックに陥っていたから仕方なかったのだ。必死で自分はおかしな人なんかじゃない、いたってまともなのだと説明したのに、大樹は空を仰いで大笑いしだした。
「あのノート、すごい威力だ!」
「だって! ずっと昔から、守ってきたことだったから!」
 大きな笑い声に消されないように、大声で過去の自分の行動を正当化していると、ふわっと温かい香りが正史の体を包んだ。
「でも、俺が海に捨てた」
 肌身離さず持ち歩いていたノートは、今では、死んではいけない、とだけ書かれた表紙しか残っていない。
「きみには、感謝してる。僕を根底から変えてくれた」
「感謝、だけか?」
 抱きしめる手を緩めて、大樹が顔をのぞきこんでくる。閉じられた口は口角があがって微笑んでいるように見えるのに、強い光を放つ目には彼の本気が滲んでいた。
「俺が結婚すると思って、結婚式なんて失敗してしまえって、言ったんだろ? 彼女に贈ろうとしたこの指輪の存在を忘れるくらい、あなたは夢中だった」
「そ、れは…………」
「言えよ」
 追いつめられて、心臓が壊れたみたいに早鐘を打つ。高慢なセリフに逆らえない。悠然とした面持ちからは想像できない強い意志が、たったひとことの命令にこめられている。
 大樹はきっと、気づいてる。
 正史の千佳子への思いが断ち切れていると知った今、正史が大樹のことをすごく欲しているということを。
 怖いのに、魅惑的な光を放つ瞳から目が離せない。こんなに近くで見つめられるとたまらなくて、もうどうにでもしてくれと言いそうになる。心の奥深くにひそめた自分の思いを、根こそぎ引っぱりだされる恐怖に怯えながらも、気持ちを伝えずにはいられない、その衝動を止められない。
「好きだ。きみが、好きでたまらない」
 のどが震えて、声がひきつる。緊張で赤くなった顔を俯けようとすると、あごを指先ですくわれた。
「俺に抱かれたいと、言え」
 調子づいて、と言おうとしたが、ふたたび目が合った瞬間その言葉は引っこんだ。美しい獣は、色の含んだ強い視線を向けながら、正史の返事を行儀正しく待っている。
 いつもそうだった。大樹は野生児のように奔放なくせに、必ず正史の気持ちを尊重してくれた。ずっと性行為の一線を越えなかったのは、正史の中に千佳子への気持ちが残っていると思っていたからなのかもしれない。
 手加減されていたのだ。正史の思いが百パーセント自分に向いているとわかるまでは。自ら鎖を外した獰猛な野獣を前にして、食われる恐怖と食われたい欲望の狭間を彷徨う。夕日を背負った大樹は決してさきを急かさず、ただ怖いくらい本気の視線を正史に突き刺してくるだけだった。
「もう……」
「ん?」
 首を傾げて見せる悠然な態度が、もういっそ腹立たしかった。
「だ、抱いてくれよ!」
 正史の気持ちなんてとっくにわかっているくせに、どうしてそっちから仕かけてこない。出会った日のように、無理やりしてくれたほうがまだましだと思った。
「よく言った」
「えらそうにっ……、ん」
 口づけられて、言葉の語尾を吸いとられる。すぐに口内に潜りこんできた舌が、ゆったりとすみからすみまで舐めつくす。後頭部を撫でていた大きな手が、うなじをすべってシャツの襟をつまんだ。
「ん、ふ……、ンぁっ、なーっ!?」
 そのまま前に回ってきてボタンを外そうとするので、正史は目の前の顔を押しのけ、その手をつかんで止めさせた。
「こ、ここで、するの?」
「ああ、前に一度しただろ?」
「誰か来たら、どうするんだ」
「誰も来ない。ここは俺のプライベートビーチだから」
「へっ? プライベート、ビーチ?」
 正史は目を白黒させて辺りを見回した。
 無人だ。それはそうだろう。正史が自殺場所に選んだビーチは大樹の持ち物だったのだ。たしかに、今日は大樹の案内による正規ルートでここまでやって来たが、初日にひとりでここにたどり着いたときは、舗装されてない道を通り、すすきを手でかき分けてやって来た。大樹が全裸で泳いでいても誰にも咎められないわけだ。自分とあまりにかけ離れた世界の話を聞いたせいか、正史は頭がくらくらしていた。好きになった男がビーチを所有しているなんて。
「と、とにかく帰ろう。僕みたいに迷いこんでくる人がいるかもしれないから」
「こんなへんぴな場所にある私有地、正史以外誰も入って来ない。だからするぞ」
「いやだ。外でなんかもう無理!」
「まだ抵抗するか」
「こんな明るい場所で、恥ずかしいんだよ!」
 正直に告白すると。
「今更」
 ふっと笑って正史の腕をつかんだ手をほどき、大樹は細めた目をギラリと光らせた。
「観念しろ」
「うっ………………」
 有無を言わさぬ迫力ある視線と一言に、正史は突っかかることをあきらめてしぶしぶ頷いた。赤い頬を両手で隠しながら、いざなわれるままに砂のベッドに転がって見上げると、夕日を背負った大樹が、子供みたいな顔ではにかんだ。





リゾート・ア・ゴーゴー(9)R-18【終】

 波が寄せては引いていく。その永遠の繰り返しのように、自分の体内で起こる律動もこのまま終わることなく続けばいいと思った。
「正史」
 名前を呼ばれて目をひらく。苦しげに眉を寄せた表情と目が合う。正史はその雄の色気に満ちた大樹の顔に見惚れた。
 もうここが外だとか、誰かが来るかもしれないだとか、そんなことは快楽に侵された正史の頭からはすっぽり抜け落ちていた。
「痛いか?」
 尋ねられて首をふるふる横に振る。正直に言うとありえない大きさの異物が体内で動くと多少痛みは感じたが、それを凌駕する快感で頭の中のほとんどが埋めつくされていた。
 ずっとこうしてもらいたいと思っていた。触れるだけじゃなく、中に入ってきてもらいたかった。大樹の硬いペニスが自分の内部を抉った瞬間、たまらない恍惚感に包まれた。
 腰を支えていた手が胸に乗せられる。乳首を捏ねられると、大樹の硬い指の腹についた砂粒がざらりと尖った先端を刺激した。
「ぁンっ、ふぁ……あ、あっ」
 体内に埋めこまれた楔は、一定のリズムを崩さず抜き差しを繰り返す。目をつむり、その確実にもたらされる快感を追っていると、さらに強い刺激を身体が求めだす。
「た、いき……、アッ、はぁ…………」
「なんだ」
「もっと!」
 ついさっき終わらなければいいと思ったばかりなのに、今はこの甘く緩やかな快楽からの解放を望んでいた。
「強く、して……っ、もうイキたい……!」
 真上にある大樹の顔に手を伸ばし、懇願する。震える下腹の奥に溜まった熱を、外に出したくてたまらない、と。
「あなたは、本当にかわいいな」
 耳元で囁かれた低く甘い声に身体が震える。はにかんだ大樹の顔がぐっと距離を詰めてきて、直後、噛みつくようなキスをされた。
「んふっ、ん、んー……ぁんっ」
 執拗に口内を舐めつくされたあと、ちゅっと音を立てて離れていった厚みのある唇を目で追っていると、突然、足首を肩に担がれ、腰から下が宙に浮いた。
「わっ……、な、に……、んぁあ!」
 腰をつかんだ大樹の指がくびれに食いこみ、反った自分のペニスの茂みの向こうに、二人のつながっている場所が見えた。
「や……っ、あ……んっ!」
 角度の変わった挿入でもたらされた快感は強烈なものだった。長く硬いペニスが内襞を捲り上げるようにずるずると這いでてゆくと、すぐさま最奥をめがけて突き刺さり、隙間もなくびっちりと埋められる。あまりの快感に我を忘れ、喉の奥から自分のものとは思えない甲高い声が次々と紡がれては、夕空へと吸いこまれていった。
「あ、あ、アンッ、た、いきっ、たいき」
「気持ちいいか?」
「うん……っ、はぁ……、ぁ、あー……」
 見下ろしてくる獰猛な瞳に誘われて、正史は両手を宙に浮かべ、亀のように首を伸ばして自らキスを求めた。
「んー……んっ、ふぅ……、んぅー……」
 硬い髪を引っぱり、後頭部を引きよせると、さしだした舌を思いきり吸われた。腰を打ちつける動きは強さを増し、いやらしくうねらせながら正史の感じる一点をついてくる。
「やっ、あぁ……、そこ、も、だめ、っ……あんっ、あ、あ」
 余裕をなくし、自分で求めたキスから顔を背けて逃れると、正史は自分ではしたなく腰を揺らしながらきれぎれに訴えた。
「あん、イク……ぁっ」
「正史」
 絶頂の手前、余裕なんてないのに、自分の名を呼び、見下ろしてくる苦しそうな笑顔が、たまらなくかっこいいとか思ってしまう。
「あ、ほんとに、いっちゃう……っ」
 力強い律動に揺らされながら、正史の体は緩やかに襲ってきた大きな波にさらわれた。

「しかしよくそんな勘違いしたな」
 頭上から勢いよくシャワーが注がれる。
 浜辺で果てたあと、正史は腰が立たず、大樹に負ぶわれて部屋に戻ってきた。今日は意識があったが、眠ってしまった前の二回もやはり大樹に負ぶわれて帰ってきたのだろう。立てない、と伝えたときの、大樹が正史をかつぐまでの動作は実にスムーズだった。
「千佳子の旦那さんが、打ち合わせにずっと来なかったから」
「ああ、多忙な人だから。それでもドレスの試着のときなどは来てたけどな。正史が見かけなかっただけだろう。もし俺が結婚するんなら、従業員内で噂ぐらいもちあがる」
 言われてみればそうだ。
「それに、結婚式の一週間くらい前から、きみは家に帰ってこなくなったから。千佳子と新居に住んでるのかと思った」
「素晴らしい想像力だな」
 楽しそうに笑う大樹の声が、バスルームに反響する。
「正史が俺と一緒にいたくないんじゃないかと、思ったんだよ。俺はあなたを見ると発情するし、あなたは喜んで俺の愛撫を受け入れてるようには見えなかったしな。以前の恋人にまだ気持ちが残ってるように見えたから、彼女の結婚式を前にひとりになって、整理したい考えもあるだろうと、正史に部屋を譲って、俺は仮眠室に泊まっていた」
「そう、だったんだ…………」
 自分の言葉足らずが招いた誤解が、二人のすれ違いに繋がってしまったのだ。正史は目の前の鏡に映った、泡で頭がモワモワになっている、眼鏡がないせいでぼんやりかすんで見える自分に向かって、ため息を吐いた。
「気を使わせて、ごめんなさい」
「済んだことだ、気にするな。いいから目つむれ」
 言われたとおり固く目をつむると、シャワーのぬるいお湯がドシャー、と頭上に落とされる。人と一緒に風呂に入るのは中学校の修学旅行以来だった。人に身体を洗われることは、たぶん幼稚園以来。帰るなり大樹に無理やり風呂場に押しこめられて、羞恥でどうにかなりそうだったが、足も腰もがくがくで抵抗する気は起きなかった。
「それに、俺はゲイだから結婚しないし」
「はあ……」
「従業員も俺がゲイだってみんな知ってる」
「はあ、あ?」
「ちなみに、俺が必死で正史を口説いてたこともみんな知ってる」
「はあああああ?」
 ついさっき反省していた気持ちはどこかに吹っ飛んでしまって、正史は素っ頓狂な声をあげて後ろを振り返った。なにがおかしい、と肩をすくめる大樹を目にして、たぶん、自分とは根本的な構造から違っている人間なんだろうと、改めて思った。
「そんな大事なことを、どうして黙ってたんだっ」
「言ったら怒っただろ?」
 言わなくても、十分怒ってる!
 どの従業員たちも自分たちを見たら、いいコンビだ、とかお似合いだ、とか言ってた理由が判明した。千佳子だけでなく、ホテル内の人間全員に二人の関係が知られていたのだ。
 知らなかったのは自分だけ。
「おい、どこに行く」
「風呂から出るんだ、さわらないで変態っ」
 怒ってさきに上がろうとしたら、背後の大樹に捕まった。明確な意思を持った手が怪しい場所ばかり触ってくるので、正史はかすれ声で叫んだ。変態、だなんて暴言を人に向かって吐くのを見たら、二か月前の自分は卒倒するかもしれない。だけどそうやって多少きついことを言ったって、受けとめて笑ってもらえる幸せがあることもそのときはまだ知らなかった。
「もう……!」
 振り返ってにらみつけても、目の前から見返してくるのは、どうやら余裕の表情のようだ。悔しいが、そんな顔も好きな自分に気づかされる。正史はさっと伸びあがって、微笑を浮かべる唇に自分からキスをかすめた。離れた瞬間、ぼんやりした視界に驚いた表情が映って、少しだけ溜飲が下がる。
「タオルは?」
 それでもまだ羞恥をともなった怒りは解消されておらず、ぶっきらぼうに尋ねてみると、大樹が棚から取りだしたフカフカのバスタオルを正史の体に巻きつけてくれた。
「歩けない」
 さらにわがままを重ねると、楽しそうに笑った大樹が正史の体を横抱きに持ちあげる。
「どこに連れてこうか」
「ベッドまで」
 まだ濡れた手で寝室のあるほうを指さした。
 高らかに笑う大樹の声を聞きながら、正史は広い胸に顔をうずめて、こっそり微笑んだ。





リゾート・ア・ゴーゴー その後SS

こんばんは~。

リゾート・ア・ゴーゴーのその後SSを書いてみました!
お時間あるかたなど、よろしければ読んでみてください。






 退屈だった。日々人より多く働いていたが、気力も体力もあり余っていた。家族や友人や仕事仲間はみな、俺のことを化物だと言った。
 ホテル経営は波に乗っていて、ここ数年はほとんど休みも取らず走り回っていたが、それでもまだ物足りない。時々存在した恋人たちは、俺の見た目や金が目当てだったりしたが、退屈しのぎになるならそれもかまわなかった。だが仕事も遊びも、どの要素も俺の本当の退屈を埋められなかった。楽しくないわけではない。ただ、俺にとって決定的ななにかが足りなかったのだ。
 そのことに正史に出会って気づいた。俺に欠けていたのは正史だった。出会った瞬間にわかった。野生の勘というやつかもしれない。プライベートビーチで正史を見つけたあのときから、俺は満たされ続けている。
 彼にはそのお返しとして、極上の愛を捧げる。俺にできることならなんでもする。そう思い、日々懸命に奉仕しているのだが、当の正史はいつもつれない。
「今日はもうそろそろ終わりにしたらどうだ」
 恍惚とした表情で客室のランプシェードの笠を濡れ布巾で拭いていた正史が、俺の存在に気づいて顔を上げる。ランプシェードを見つめていたとろんとした目は瞬間的にキッと吊り上がり、威嚇する猫の顔になっている。
「さきに帰っていてくれ」
 感情のない声で言って、険しい顔のままランプシェードに向き直った。その横顔が美しい。さらっとした感触の黒髪は、すぐ赤くなる白い肌に映え、淡い色の唇や小ぶりなツンととがった鼻の形も非常に綺麗だ。横顔も、正面から見る顔も、うしろ姿も、めがね越しの目も、裸眼も、どれをとっても完璧だった。
「待っている」
「迷惑だ。帰ってくれ」
「見ているだけだ。邪魔はしない」
「見られてるのが嫌なんだ」
「どうしてだ?」
 客室内に足を踏み入れ、一歩ずつ近づく。同じ迷惑なら、見ているだけでなく近づいて触れたい。
「きみに見られていると、緊張する」
 接近して、髪に触れようとしたところで、うつむいていた正史がその行為を阻止するように口をひらいた。ゆっくりと目線が合う。うるんだ上目遣いの赤くなった目元でにらみつけられると、心臓に衝撃が来る。正史といると何度もこの感覚が訪れる。俺の身体が経験したことのない、強烈な快感に支配される。
「どうして緊張するんだ」
 尋ねるとたっぷりにらみつけてきたあと、ため息を吐かれた。
「言わなくても、きみはわかってるだろう」
「聞かせてくれ」
 正史は基本的に嘘をつかない。捨てたノートと引き換えに自由を手に入れても、人の道に外れたことをしない。そんな生真面目なところも愛おしい。
「わかりきってることを聞いて楽しいのか」
「ああ、楽しい」
 正史の口から放たれるであろう愛の言葉は、何度聞いても素晴らしいに決まっている。
「じゃあ言う。…………」
 ひらき直って意気ごむが、正史は毎度ここでつまずく。口を開けたまましばらく固まっているあいだに、顔がどんどん赤らんでいく。正史は自身のこの愛らしい変化にはまだ気づいていない。
「きみのことが、好き、だからだ」
 ずれためがねを正して、幾度かのまばたきのあと、小さな口から震える声が愛しい言葉を呟く。
「俺もあなたを愛している」
 気持ちを返して口づけようとしたら、近寄せた頬を軽くはたかれた。俺の横をすり抜けて客室を出て行く正史を追う。
「どうしてそこで不機嫌になるんだ」
 せっかく人が愛の言葉を捧げたというのに。
「きみの愛してるは軽い」
「軽い?」
「ああ、僕の好きときみの愛してるでは、重さが違う」
「心外だ。俺の思いが偽物だと言うのか」
 廊下をずんずん歩いていた正史が、リネン室の扉の前で突然立ち止まる。
「きみはその言葉を伝えるとき、全然、緊張しない」
「それは真実を伝えるのに、緊張する理由がないからだ」
「僕は緊張する。きみは緊張しない。僕たちは違いすぎてる。こんなに相容れないのだから、この関係はこのさき長続きしない」
「おい……」
 リネン室の扉を開けて中に入るや、すぐさま閉めようとするのを力で阻止して、体を中にねじこませた。
 今日はいつもの不機嫌と種類が違う。ベッドの中で、嫌だとか、もう入れないでとか、動かさないでと、無理難題を突きつけてくるときとは、明らかに様子が違う。
「いったいどうしたんだ。なにか不安なことでもあるのか」
 シーツやタオルが大量に詰めこまれた小さな室内に、息が詰まりそうな沈黙が落ちる。重々しい空気に耐えながら、壁の一点を見つめているうしろ姿を見守っていると、微かな呼吸音とともに、小さな肩が上下に揺れた。
「だって」
「だって?」
「だってきみは、今まで付き合ってきた人とも、関係をすぐに終わらせてきたのだろう」
 正史が突然、勢いよく振り返ったため驚いてしまったが、言われた内容には素直にうなずいた。
「ああ、まあ確かにそうだが」
「な、なんでそんな、普通のことみたいに答えるんだっ」
「なにをそんなに怒るんだ。それより誰からその話を聞いた?」
「い、いろんな人だっ」
 いろんな人というのは、ホテルの従業員たちだろう。俺はゲイであることも恋人の存在も隠さないため、働く仲間たちはみな、その時々の俺の恋人の有無や付き合った期間をだいたい把握している。正史が仲間たちと打ち解けているのは嬉しいことではあるが、やはり俺自身のことは俺に直接聞いてほしい、という気持ちもある。それに正史は魅力的だから、あまりに交流が過ぎると従業員たちを虜にしてしまう危険もある。
 仲間とのいき過ぎた会話は避けてくれ、と言おうか言うまいか、嫉妬にまみれたくだらない煩悶の最中、指先をぎゅっと握られて、その自分の体温とはずいぶん違う冷たい感触に、思考の途中から現実に呼び戻された。
「僕とのことも、すぐに終わらせるつもりなのか」
 じっと見上げてくる目に、もう怒りの感情は含まれてない。代わりにそこには、不安の色が浮かんでいた。その瞳の奥にある正史の心に訴えかけるように、じっと見つめ返す。なにを不安に思うことなどあるのか。歴代の恋人たちと正史が、俺の中で同等の価値であるはずがないのに。
「終わらせるつもりなどない」
「でも」
「あなたこそ本当は、言われなくてもわかっているだろう」
 この俺が本気を出して求愛しているのだ。伝わらないわけがない。
「自分が俺に特別に思われている、ということを」
 ゆっくり言葉を紡ぐと、正史の目から不安の色が消え、嬉しそうな、だが同時に困惑しているような不思議な表情になる。俺は正史のこの複雑な顔が好きで、何度もこうやって困らせたくなる衝動に駆られる。過剰な愛情表現で、いつか正史をぐずぐずにして動けなくして、ずっと俺のそばに置いておきたい。
「このセリフも、軽いと思うか」
 尋ねると、ふい、と顔を背けて、眉を寄せる。
「セリフがクサい! 日常的でない!」
「でも真実だ」
「うるさいっ」
 耳を塞ごうとする手首を戒め、驚いて動けないでいる正史の耳朶に唇をつけ、囁く。
「言ってもわからないなら、身体に教えて差し上げようか」
「…………、もうっ」
 手首を掴んでいた手の力を抜くと、正史がその場に崩れ落ちる。
「怒ったのか」
 下から目元を赤らませてにらみつけてくる、その愛らしい顔に微笑みながら尋ねると、嫌いだ、と不穏なセリフを口にする。
「心にもないことを」
「ほ、本心だ」
 嘘をつきなれていない人間の嘘ほど、わかりやすいものはない。
「ならばやはり身体のほうにも聞いてみなければならないな。それに、嘘をつく悪い子には仕置きが必要だ。今夜は寝かせないから、覚悟しておけよ」
 とびきり甘い言葉で命令し、真っ赤な顔をうつむけた正史に手を差しだすと、消え入りそうな声で、立てない、と言う。
「きみがクサいセリフばかり吐くせいだ」
 可愛らしい言い訳を気分上々で聞き流して、その肉の薄い体を横抱きに持ち上げた。
「問題ない。ベッドまで運ぶのは慣れたものだ」
「もうやだ」
 そんなことを言いながら、首に手を巻きつかせてくる体がやけに熱い。肩先にある赤らんだ頬に口づけると、微笑む顔を隠す正史を確認して、今日は特別に甘い仕置きを施そうと決めた。





プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
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