つなげて、お守り(1)

『動くな』
 小学校から施設に帰ってきた、夕方。ごはんまでの自由時間。
 いつものように砂場でひとり遊んでいたら、うしろから知らないおじさんが声をかけてきた。
 おじさんの手には、包丁が握られていた。その冷たい刃が、ピタッて、ほっぺたにくっつく。
『かわいいね』
 はぁはぁした声が耳の近くで聞こえたすぐあと、のどの皮に包丁の先が押しつけられて、怖くて体がぴりぴりした。


 これは僕が小学四年生だったころの記憶。僕は0歳から十歳まで児童養護施設で育った。生まれたときから二十一歳の今まで、両親には会ったことがない。彼らが生きてるのか死んでるのかもわからない。そう、わからないから悲しくなかった。僕は物心ついたときからずっと施設にいて、ほかの世界を知らなかったから。施設には親族とのつらいお別れをしてやってくる子たちがたくさんいたけれど、僕はそんな悲しみに溢れた環境の中で、孤独を不幸だと感じることなく、ひとりのほほんと暮らしていた。

 包丁男による誘拐未遂事件は、そんな施設内で唯一のお気楽者だった僕が、それまで生きてきて初めて味わった恐怖だった。


 そのあと、どうやって施設の砂場から外へ逃げ出したのかはおぼえていない。ただひたすら走った。追いかけてくる包丁を持った男に怯えながら、走って走って、うしろも振り返らず、道路から砂浜へ、夕闇せまるうす暗い海岸を僕は汗まみれでめちゃくちゃに駆けた。
 そんなふうにして僕は包丁おじさんをまくことに成功したのだけど、恐怖から逃げることに夢中になり過ぎて、気づけば海の中にいた。海水をたくさん飲んで伸ばした足が地に着かなくなったころ、僕はやっとそのことに気づいた。

 必死のダッシュで疲れきっていた体は、ぷかぷかと少しずつ沖に流された。海岸が遠ざかる。生まれて初めて死を意識した。静かな波に押し流されて体が浮き上がる回数がだんだん減り、息が苦しくなっていく途中で僕は、刺殺されるのと溺死するの、どっちがいい死に方なのかな、って考えた。だってそのときの僕には、そんな死の瀬戸際になっても思い出したい大切な思い出がなかったし、このさき絶対に生きてやらなければならないこともなかったから。だから、まあいっか。もう死んじゃってもいいやって感じ。
 へとへとで頭がだんだん回らなくなってきたそんな時。僕の人生を変える運命の瞬間がやって来た。学生服の彼との出会い。海に沈みかけていた朦朧とした頭にぶつかってきた、小さな学生ボタン。
『そこでなにしてんだガキー!』

 波の音だけの静かな海岸に響いた怒声。かるーく死を思ってぼんやりしてた意識が一瞬で戻った。
 僕を助けに来た男はガリガリで、学生服を着ていて、なぜか激怒していた。アホ! ボケ! とほかにも思いつくままに暴言を吐き、自分の首に僕の腕を巻きつかせると、ひょろ長い全身を無我夢中で動かして、なりふり構わず岸まで僕を背負って泳いだ。
 不思議だった。自分でも半分捨ててもいいと思えるくらいの命だったのに、赤の他人がこんなに執着してくれていることが不思議で、なんだかくすぐったかった。

 太陽がすっかり落ちた砂浜で飲んだ海水を吐きだしていると、海から上がったあとも暴言を吐き続けていた男が急に黙ってトントン背中を叩いてくれた。全然優しい叩き方じゃないのに、むしろ怒ってるみたいな叩き方なのに、そこから安心がぽこぽこ生まれてくるような、力強くて温かい触れ方だった。
『死のうなんて、思うんじゃねぇ』
 今でもはっきり思い出せる、低くて張りのある気持ちのこもった声。
『死にたいくらいつらくても、それが世界のすべてじゃねぇんだ。このさき、おまえには必ず幸せが訪れるんだぜ。まだ知らないことを見もしないで、ほっといてもいつか死ねるってのに、わざわざ死ぬなんてめんどくさいこと考えんてんじゃねぇよ!』
 男の声は怒りに溢れて、力強く僕に突き刺さった。頭の上から降ってきた言葉を浴びると、心の芯がびりびりふるえた。

 こんなふうにまっすぐ大きな気持ちをぶつけられることは初めてだった。一緒に暮らしていた施設の子たちは大声で泣いたりすることもあったけど、それは僕に向けられた感情じゃなかったし、学校の先生も施設の先生も僕の不幸を知ってるからか、みんな優しくてけして怒らなかったから。そんなほのぼのとした世界の中で、喜怒哀楽を感じないまま生きてきた僕の心を、男の言葉はグサグサに突き刺した。
 別に死にたかったわけじゃないけど、とくに生きたかったわけでもなかった。溺れ疲れて、このまま死んでもいいやって思えるくらいの幼い人生観。
 僕が死んだら、僕を知る人たちは悲しくて泣いてくれる。だけどそれはきっとほかのみんなと同じ、平等に配られる愛。まだ小学生だったけど僕はそんなからくりには気づいていて、でもそのことに不満なんてなくて、ずっとそんな生ぬるい愛に溢れた場所で育ってきたから、それが当たり前だったから。

 だけど、男は見ず知らずの僕なんかのためにちゃんと本気で怒ってくれた。僕ひとり目がけて、突き刺さってくる感情。心臓を鷲掴みにされたような、生身の人間の気持ち。誰かと向き合う心地よさを、僕はこの日、暗い浜辺で大泣きしながら初めて知った。

『もう死なないって約束しろよ。そんで幸せになれ』
 別れ際、お守り、と言って男が手わたしてくれたのは、学生服の第二ボタン。僕を助けるために海に投げたぶんと、僕にくれたお守りのぶん。男の学生服からは二つぶんのボタンが消えた。


 そんな十年以上も前のことを思い出していたら、本番、の声がかかった。
 下町の古い家屋が並ぶ路地の一角。一見ただの民家にも見える小さな町工場の中を、テレビクルーのカメラが撮影している。レンズに映るのは、きめの細かい水浸しの砥石と鋭く尖った包丁。職人の手によって研がれている包丁は、もう間もなく完成しそうだ。
 シャ、シャ、と、刃先が砥石を滑る小気味いい音が空間に響きわたり、照明の当たった職人らしい無骨な手が器用に動く。すでに恐ろしいほど尖った包丁は、さらに切れ味鋭く磨き上げられていく。その様子を横目で見ながらシャツ越しに、首にかけたペンダントに触れる。その先で揺れる学生服のボタンの感触を震える指先で確かめて、僕は大きく息を吸いこんだ。


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つなげて、お守り(2)

 今日の町ロケの舞台は、刃物製作所。
 お昼の情報番組で週に一度放送される『松井式散歩』は、タレントの僕、松井志紀が毎週特定の町を散歩して隠れた名物や名所を独自の視点で紹介するロケスタイルのコーナーだ。
 細いわりに、おいしそうにたくさん食べることが好評のようで、番組ではほとんど毎週のように飲食店を訪れている。そんな僕にあるとき、視聴者から作るほうも体験してみてはどうかという意見が寄せられた。そしてそれが実現するのに、いったいどこでどうねじ曲がってこんなことになってしまったのか、作るほうとは言っても料理を作るのではなく、料理を作るための道具、包丁作りを体験する企画が出来上がってしまっていた。

「これで、完成」
 深町慎と名乗った、きりっと精悍な顔立ちをしたこの深町刃物製作所の五代目が、仕上がった包丁を僕の目の前にかざした。照明に反射した刃先がきらきら光ると、僕の背中の真ん中を一筋の冷や汗が流れる。
「このあとは柄付け専門の業者に託します。ここらの刃物は分業で製作してるんで、鍛冶屋が形にしてくれた鋼をうちが研いで、また別の場所で柄を付け、出来上がります。うちは研ぎ専門だから、できるのはここまで」
「す、すごいですね」
 鋭く尖った刃先を見つめていると形ばかりの言葉が口からすべり出てきた。口の中に溜まった唾を飲み下し、柄のない包丁を持つ仏頂面の男から、思わず一歩あとずさってしまう。五代目と僕を一緒に映していたカメラマンが、不自然にフレームアウトした僕を追ってレンズをこちらに向けた。

 いけない。今は仕事中なんだ。動揺している場合なんかじゃない。ずっと肌身離さず持っているお守り代わりの学生ボタンを、シャツ越しに再び握りしめる。
 大丈夫。できる。僕は十一歳からこの世界でやってきたんだ。この道十年の、プロのタレントの意地とプライドで恐怖を抑えこむ。

「ぼ、僕にも、包丁の研ぎ方を教えてもらえませんか?」 
 なんとか笑顔を作って段取りを取り戻し、台本通りの質問を投げる。五代目はそんな僕をしばし無言で見下ろしてから、片眉をぴくりと動かした。
「わかりました」
 承諾の言葉を口にするその表情は、一時間前に初対面の挨拶を交わしたときからまったく変化がない。五代目は出会った瞬間からずっと無表情なのだ。それはそれはもう、僕が彼に向けたなけなしの笑顔が、かわいそうになるくらいの無反応。

 歳は二十代後半くらいだろうか。長身で、背筋がまっすぐ伸びていて、全体にほどよく筋肉のついた理想的な体型。まさに職人といった感じの硬質な顔立ち。日頃よく接する、いわゆる業界人とはまるで雰囲気が違う。凛々しい眉の下にある切れ長の目にじっと見つめられると、童顔で貧弱体型の自分がいたたまれなくなってくる。血色のいい分厚い唇だけは一見、情に厚そうにも見えたけれど、カメラが回っていても回っていなくても一貫して変わらない無表情が、そんな僕のささやかな想像を粉砕した。

 目の前の男の全体像をこっそり眺めてから、ゆっくりと引きつった笑顔を引っこめる。そうして真顔になったら、五代目から柄のついた安全な包丁が手渡された。
「砥石は十分に水を含ませてから、滑らないよう、濡れ布巾の上に置いて固定すること。刃先と砥石の角度は十五度。右手でしっかり柄を握り、左手の指を刃の表面に添えて――」
 台本どおり、包丁の研ぎ方を隣で実演し始めた五代目の話が、耳の中を右から左へ素通りする。落としてはまずいと思うのに、包丁を握った手からはするする力が抜けていく。
 五代目に差しだされたまま受けとり、人生で初めて手に持った包丁は、僕の頭から急速に冷静さを奪った。ひとつも寒くなんてないのに、奥歯がカチカチと小刻みに噛み合う。ふと視線をずらすと、カメラの外で心配そうに見守るマネージャーと目が合った。大丈夫、と表情で伝えたくても、もう得意の笑顔も出てこない。

 一瞬でよみがえる小学生のころの記憶。目の前に突きつけられた尖った切っ先。頬に触れた冷たい刃の感触。忘れたくて仕方ないのにどうしても忘れられない、人生で初めて味わった恐怖体験。
 こんなことを思いだしている場合じゃない。今は仕事中なんだ。プロなら苦手なものを前にしてもやりきる義務がある。公私混同しちゃだめだ。
 そんなふうに心へ言い聞かせるけれど、柄に触れた手の先から全身へ、ものすごいスピードで侵食してゆく恐怖に理性は追いつかない。頭がずしんと重くなって首が垂れる。前にのめりそうになるのをなんとか足で踏んばったら、今度は空っぽの胃の中から、酸っぱいものがこみ上げてきた。
 これは、限界かも。そう思ったとき。

「手」
 包丁の柄を持つ右手首を、ぬくい手に力強く握りしめられた。
「震えてる。顔も青い」
 そう言った五代目が、僕の手から包丁をするりと抜き取った。包丁が体から離れると、肺の底から大きな息がもれた。直後、体に新鮮な空気が入ってくる。そこで自分が、包丁を手にしていたあいだ呼吸していなかったのだと、初めて気づいた。
 我に返り、目の表面にたまっていた涙を急いで拭って顔を上げると、五代目と目が合った。キリリと整った顔をした男に、冗談や愛想が通じそうにない真剣な眼差しで見つめられると、みぞおちの辺りがそわそわする。ドラマや映画では人とにらみ合うこともあるけれど、作りものじゃないまっすぐな視線を向けられることは僕の日常にはめったにないから異常なくらい緊張した。刃物が怖いというのももちろんあるけど、もしかしたら自分はこの人が苦手なのかもしれない。そう思ったとき。

「生半可な気持ちで来られても迷惑なだけだ」
 肩口をとん、と軽く押されてよろけた。転ぶかと思ったけど、僕はすぐ後ろに置かれていた木の椅子にうまいこと座りこんだ。顔を上げると、見下ろしてくるまっすぐな視線が再び突き刺さる。自分が持っていたぶんと僕から奪ったぶん、両手に一本ずつ包丁を持って突っ立つ男は映画の中の殺人鬼並に恐ろしい。見下ろされると背中が寒くなった。俳優の演技などでは作りだせないだろう本物の精悍な顔にはやはり、出会った瞬間から変わらない凄みのある無表情が浮かんでいた。

「今日の取材は、なかったことにしてくれ」
 そう言ってすぐ、五代目は僕の目の前からいなくなってしまった。その去っていくまっすぐ伸びた背中をぼんやり眺めて十秒ほど経ったあとに、やっと言われた言葉の意味を把握した。どうやら僕の不審な態度が彼の怒りを買ってしまったようだ。はじめからずっと怒ってるみたいな顔だったから、僕は五代目の心の変化にすぐには反応しきれなかった。

「す、すみません! ごめんなさい」
 立ち上がって頭を下げても遅かった。そこにはもうすでに五代目の姿はない。包丁を手にしたときとは種類の違う冷や汗が、背中の中央をたらりと落下する。
 失敗してしまった。僕は自分を過信していた。仕事だと割り切ったら苦手な包丁とも向き合えると思ったけど、その考えは甘すぎた。しばらく立ちつくしてハッと我に返る。
「申し訳ありませんでしたっ」
 今度は途方に暮れるテレビクルーたちに向かって、深く頭を下げた。


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つなげて、お守り(3)

 僕が芸能界に入ったきっかけは、幸せになれ、と言ってくれた命の恩人である学生服の男に、テレビ画面を通して幸せだよ、とアピールするためだった。

 包丁おじさんに誘拐されかけたあの日。海で溺れていたところを男に助けられたあと、僕は探しに来てくれた施設の先生に保護された。いったいなにが起こったのか、尋ねられるままに事情を説明しているわずかのあいだに、学生服の男は姿を消していた。
 後日、どうしてももう一度会ってお礼がしたくて、小学校の先生に学生ボタンに描かれた校章を見せたら、それは地域で有名な生徒数が三千人を超えるマンモス高校のものだと教えてくれた。膨大なその中からどうにか探そうにも、僕は学生服の男の顔を見ていない。海中では朦朧としていたし、砂浜に運ばれたころには陽がすっかり沈んでしまっていた。三千人超えの生徒の中から、張りのある声とガリガリの体型、という情報しかない男を探しだすのは不可能だった。

 せめて名前と住所を聞いておけば。何度もそう思ったけど、そうやって済んだことを悔やんでいても前に進まない。なんとかして彼に僕が幸せでいることだけでも伝えたい。そもそも学生服の彼のほうだって、海の中で僕の顔をはっきり見ていないかもしれない。テレビに映ったところで、僕だと気づかれないかもしれない。でも絶望していても始まらない。ひとつの望みに賭けようと思った。
 それで小学生の僕は、芸能界に入ることを決めた。学生服の彼が覚えてくれていると信じて、できるだけたくさんテレビや雑誌や映画に出演して、気づいてもらえるようアピールする。あなたのおかげで元気に生きてるって、今すごく幸せだって。

 当時、そんなふうにして幼稚で短絡な考えから始めた仕事だけど、僕は決してそのときの選択を後悔していない。
 施設の園長先生に紹介してもらった芸能事務所の社長が、栗色の髪と透き通るような白い肌が人目を引くだろうと言って、僕を採用してくれた。お世話になった施設を出て、小さな芸能事務所で親代わりのマネージャーに育ててもらいながら、この業界で十年間、無我夢中で仕事に励んできた。動機は不純かもしれないけど、仕事とはずっと真面目に向き合ってきた。
 だけど、先週のアレはダメだ。酷い。自分で自分が許せない。

 僕は溺れて死にそうな経験をしたけれど、そのあと海を一度も怖いと思ったことがない。夏になると友達と海水浴に出かけるし、スキューバダイビングに挑戦したこともある。

 だけど十一年が過ぎた今でも、包丁だけは怖くて触れることができない。調理実習で包丁を手にする同級生を見ただけで泡を吹いて倒れたこともある。今までに何度もその恐怖を克服しようとした。とりあえずは使えなくても手に入れようと買い物に出かけても、まず売り場に近づけない。視界に入るともうだめで、パッケージされている商品に触れることさえできない。
 僕は自分の意思でなく、あのとき施設に侵入してきた刃物おじさんのせいで一生包丁を使えないのだろうか。
 そう考えると悔しくてやりきれなくて、やっぱり克服したいって思ってまたふりだしに戻って挑戦して、そうやって何度も試みてきたけど、結果はいつも惨敗に終わっていた。

「だけど今日はそんなこと言っていられない」
 僕は『深町刃物製作所』と書かれた扉の前で決意の言葉を放った。

 ちょうど一週間前、僕のせいでお蔵入りとなってしまった包丁ロケが行われた現場に再びやって来た。今日はお蔵になった代わりの分を合わせた、二回分の松井式散歩の収録を終えたあと、マネージャーの運転する車でマンションに帰宅するや、すぐさま変装用のマスクと帽子をつけ、タクシーを呼んでひとりきりでこの場所にやって来た。時刻は午後六時前。もう今日の仕事は終わったのか、引き戸の中は薄暗い。
 先週のロケの翌日、深町刃物製作所の五代目のところに、マネージャーがプロデューサーと一緒に謝罪に行ってくれたらしい。二人には感謝してるけど、今回の件はそれだけじゃやっぱりだめだと思う。貴重な時間を割いてもらって仕事場にお邪魔したというのに、僕のとった行動はあまりに不誠実だった。人づての謝罪じゃなく、許してもらえるかわからないけど、ちゃんと目を見て自分の言葉で謝りたい。いくら無愛想でも一度は取材に応じてくれた五代目に、僕のせいでテレビを嫌いになってほしくないという思いもあった。

 五代目はおっかないけれど、そんなことにひるんではいられないのだ。マスクと帽子を外して鞄に押しこみ、徐々に速まる鼓動を抑えるため、首からぶら下がる学生ボタンをシャツ越しに力強く握りしめて、引き戸に手をかけた。


「すみませんでした」
 腰を九十度に折り曲げて、深く頭を下げる。
 今日の仕事はやはりすでに切り上げていたらしく、作業場には五代目がひとりだけで先週見かけたほかの従業員の姿はなかった。引き戸をひらいた瞬間、くわえタバコでひとり、仕上げの段階らしき尖った包丁を研いでいる五代目と正面から目が合ったときは思わず開けた戸を閉めかけたけど、なんとか踏んばって中に入り誠心誠意、頭を下げた。そのままの体勢で自分のスニーカーをじっと見つめていると、作業を中断したのか、ガタンと椅子から立ち上がる音がして、ゆったりとした足音が近づいてくる。
「マネージャーに言われて来たのか?」
 一週間ぶりに聞くよく通る低い声に、折り曲げたままの体がビクッと震える。
「違います。僕が来たくて来たんです。ひとりでタクシーで。マネージャーには内緒です」
 答えてそろりと顔を上げると、間近で目が合う。先週と同じ無表情が僕を見下ろしてる、のかと思いきや、五代目は目にきらりとした好奇心のようなものをにじませて、片眉を動かした。

「タクシーか。俺めったに乗らねぇんだけど。芸能人は電車に乗ったりしねぇの?」
「は、え?」
 無口で頑固な偏屈刃物職人、というイメージを勝手に抱いていた五代目からのフランクな問いかけに、一瞬頭の中が空白になる。
「あ、あの……、えっと、一度、駅で学校帰りの女子高生に囲まれてちょっとしたパニックになったことがあって、それ以来、ひとりの移動のときは事務所からタクシーを使うように、って言われてるんです」
「ふーん」
 ふーん?
 この人、ふーん、とか言う人だった?

 ぼんやり上の空でいると、五代目が突然、どきりとするような質問を投げかけてくる。
「でもおまえ、本当は二度とここに来たくなかったろ?」
 色あせた瓶ビールケースをひっくり返して、長い足で自分のもとに引き寄せ腰かけると、五代目は煙草に火を点け、煙を吐きだしながら僕を見上げて言った。なんだか言葉遣いも動作もずいぶん大ざっぱで、前回会ったときと印象が全然違う。
「そ、そんなことは……、あ、あー」
 もちろん来たくて来たわけじゃない。
 でもここはひとつ、そんなことない、と大人として社交辞令を言っておけばいいところなのだとわかってはいるのだけど、僕は芸能人としては致命的なほどに嘘をつくのが苦手なのだった。
「あるんだろ? だっておまえ今日も手、震えてっし」
 そう言うと咥えタバコで目を細め、下から僕を見つめながら、なんの前触れもなく手首をギュッと掴んできた。
「わっ」
 突然の接触にびっくりした拍子に、固く握りしめていた左手の拳がほどける。だらりと、力が入ってない状態になった指先は、五代目が指摘する通り、情けないほどぐらぐら揺れていた。

「おまえ、もしかして刃物が怖いんじゃねぇのか?」
 またまた図星を指され、額の表面にじんわりといやな汗が浮き出てくる。じっと見上げてくる瞳を見返す。表情は真剣だったけれど、それは先週みたいに硬い印象でなく、穏やかな空気を含んだ優しいまなざしだった。
「こ、こ……」
 怖いって答えてはいけない。苦手なものがあるというのは芸能人としての弱点だ。過去を詮索される可能性が出てくるし、ドラマや映画で使われづらくなってしまう。だからまだ一度しか会ったことのない、しかもその一度目に会ったときは決していい印象を持っていなかった相手に、事務所の人以外に打ち明けたことのない秘密を言ってしまってもいいわけがない。だけど。

「怖いんだろ?」
 不思議な懐かしさを感じさせるような、妙に耳に心地のいい声が、言ってしまえと追い打ちをかけてくる。だめだ。本当なら隠さなければいけないことは十分なくらいわかっていたけれど、僕は苦手だったはずの五代目になぜか、無性に真実を打ち明けてしまいたいと思い始めていた。


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つなげて、お守り(4)

「こ、こ、こ………」
 それでもまだ迷いがあって戸惑っていると。
「コケコッコー」
「……………………はい?」
「って、トリか、おまえは」
 今この人、コケコッコーって言わなかった? あの怖くて堅物だった五代目が、ノリツッコミをしなかった?
「…………あの、五代目?」
「あんだよ?」
 さっきから感じてた違和感をぶつけてみる。

「五代目って、双子ですか?」
 先週の五代目と今週の五代目が別人だと考えると、今日の彼の奇行?にも納得がいく。
「ああぁ? なんだよ双子って」
「だって、先週会ったときとはずいぶん印象が違うから。前はもっと硬派だったのに……」
「今だって硬派だろーがよ」
「微妙に口も悪くなってるし。先週はもっとこう、表情もキリッとしててかっこよかったというか。それに言葉も丁寧で、しっかりした大人の職人って感じがして。それから、こんなおちゃらけていなかったし」
 なんだか先週と違ってすごくしゃべりやすくて、ついつい遠慮のない本音が口から飛び出してくる。制御を忘れて調子に乗る僕に五代目は怒ることはせず、そのからくりをこそっと教えてくれた。

「緊張してたんだよ、先週は」
「へ?」
「テレビカメラが来るからよ。親父は取材とか苦手でほとんど俺が対応してんだけど、テレビは初めてでさぁ。前の晩は眠れねぇし、朝からずっと腹具合も悪ぃし」
「緊張、してたの……?」
 僕は先週の、終始厳しい表情を崩さない五代目を思いだした。
 その原因が緊張と、緊張からくる腹痛のせいだったなんて! そう考えると、そんなかわいらしい理由でいかつい表情をしていた五代目の前で緊張していた自分も間抜けだ。

「ぷ、はは、あはははっ」
「おい、笑うなコラ」
 そんなことを言われても、一度噴きだすと笑いが止まらない。涙が出るほど肩を震わせている僕を見て、五代目もふっと目元をゆるませて笑った。
「くそっ。おまえ、今日は俺にケンカ売りにきたのかよ」
 思わず漏れたって感じの、すごく自然な笑顔だった。年下だろう僕みたいなこわっぱ相手に子供のような切り返しをするくせに、切れ長の目尻にできる皺が妙に大人っぽくて胸の中がざわざわした。さっきは先週のほうがかっこよかったって言ってみたけど、言葉使いがちょっと荒っぽいのが男くさくて、端正な顔が感情のままに表情を変える今週のほうが、ずっと魅力的だと心の中でひそかに思った。

「そんで」
 と、呟いて煙草を灰皿でもみ消すと、五代目はよっこらしょ、とわざとふざけた声を出して立ち上がった。
「包丁、怖いのか?」
 包みこむような、優しくまっすぐな視線に見下ろされ、僕の顔に残っていた笑みは自然と引っこんでいった。都合のいい考え方かもしれないけど、もしかして五代目は僕の緊張を解くために、ピエロになっておどけてくれたんじゃないだろうか。
「怖い」
 つるっと本音が口からこぼれた。なぜだかどうしてもこの人に知ってほしいって思ってしまった。告白の勢いのまま、施設で育ったことと、小学校四年生のときに包丁おじさんに追いかけられたことも話すと、五代目は眉を寄せて険しい顔をした。彼のことを信用できる人だと確信したわけじゃなくて、信用したいって思ったから話した。
「それで無事だったから、おまえはここにいんだよな?」
「うん……」

 そのあと、あの人に助けられて。
 そう言いかけた口を閉じる。じっと五代目を見つめていると、あんだよ、と不機嫌な声を出して、また胸ポケットの中からしわくちゃの煙草を探りだす。前回会ったときはまったく感じなかったけど、丁寧な言葉遣いをやめてしまった五代目の、そのカラッとした低い声と口の悪さに妙に心地がいい懐かしさを感じる。
「そのおっさんのせいで、ずっと包丁にさわれないんだろ? おまえ」

 五代目が悔しくねぇか、とコンクリートの床に落ちた灰を靴底でにじりつつ問いかけてきた。顔を上げた五代目の真剣な目が僕を見る。今まで彼に対してふんわりと感じていた懐かしさが突如、強烈に胸を突き刺す。僕が包丁おじさんに追いかけられた話をすると、事務所の社長もマネージャーも、当時の施設の先生たちも子供たちもみな僕を憐れんだ。怖かったでしょう、小さいのにかわいそうに、でも無事でよかったね、って。それが普通の反応だと思うし、僕自身が誰かから同じ話を聞かされたとしても、きっとそんなふうに返すと思う。
 だけど、五代目は違った。
 僕と同じ目線で、見てる。

「悔しい、よ」
 ずっと悔しくて悔しくてたまらない。克服したいけどそのたびにだめで、絶望して、だけどまた挑戦して、失敗して。社長やマネージャーは無理はするなっていつも甘やかすけど、僕は何度立ち向かっても克服できない自分のふがいない精神に、たまらなく嫌気がさしてた。
「悔しいけど、すごく怖い。克服したいけれど、どうしても包丁を見ると体が言うことを聞いてくれない、から」
 言い終えると同時になんの前触れもなく、たらりと頬をぬくい水がすべり落ちていた。
「おい……」
 驚いた五代目の声を聞いたらさらに我慢ができなくなって、十年前のあの海のときみたいに、涙が次々溢れだしてくる。
「泣く、なよ」

 弱りきった声を出す五代目を前にして、我慢をやめてしまった僕はその場にうずくまって号泣した。普段、ひとりでいるときだってこんな大声で泣くことなんてないから、自分でもびっくりした。五代目を困らせるつもりなんてないのに、涙は止まらない。しばらくすると、僕の丸まった背中に大きな手が触れた。

 痛いって感じるちょっと手前。心臓に直に響く手のひらの感触。それは僕の心を気持ちよくする、少し乱暴で温かいリズム。涙をせき止めるようにまぶたを閉じると、あの日の波の音が聞こえてきそうだ。

 似てる。いや、たぶん、同じ。
 でもまさか、そんなわけない。そんな偶然あるはずない。
 あのときは暗くてはっきり顔を見たわけじゃないけれど、学生服の彼がこんなキリリとした男前であるはずがない。五代目は僕が十年間、温め続けた彼のイメージと違いすぎている。そもそも体型が全然違うのだ。学生服の彼は僕と同じ華奢な体つきだったし。こんな理想的な体型をした、女の人にいかにも好かれそうな、男臭いくせに茶目っ気のあるイイ男に、海で出会った記憶なんてない。

「泣き止んだか?」
 膝からそっと顔を上げると、五代目が僕の泣き濡れた目を覗きこんできた。間近で目が合って心臓が大きく跳ねた。やっぱり違うって思う。だって学生服の彼がこんなイケメンだったら困ってしまう。だから同一人物なわけがない。
 無理やり結論づけて、僕はびしょびしょの頬を手のひらで拭いながら、しゃがんだまま後ろに下がった。
「なんで逃げんだよ」
「なにもないです。もう平気、だから」
 ドキドキしてる胸を隠すように、僕はつまさきでくるりと回転して五代目に背を向けた。

 顔が近すぎ。それに、一週間前と性格にギャップがありすぎ。芸能界には男女ともにスキンシップ好きや距離感の近い人が多いのだけど、僕はどちらかというとそういうのが苦手で、触れられるとちょっと敬遠してしまうようなところがある。だけど五代目のこのフランクな態度に対してはそういった嫌悪の気持ちは湧かず、それとは別の、心をかき乱されるような怖ろしい感情に見舞われた。
 だめだ。頬が熱いし鼓動が激しすぎる。謝罪は済んだことだし、一刻も早く帰ろう。このままここにいると、包丁への恐怖心とは別のことで、くらくらして倒れてしまいそうだ。

「じゃあ帰ります。さようなら」
「おい待て、唐突だな。まだ話は終わってないだろう」
 五代目が素早く前に回りこんできて、出口を隠すように立ちふさがる。
「は、話ってなに?」
「おまえの包丁が怖い、って話」
 腕を組んで見下ろしてくる五代目を見上げる。そういえば泣いて取り乱してしまったけど、この人に過去の秘密を話してしまったのだったと思いだす。
「怖い、けど……」
「そんなら、克服しようぜ」
「え……?」
「おまえの包丁に対する恐怖心、俺がきれいに消してやるよ」
 五代目は厚みのある情の深そうな唇を横に引き伸ばして、自信ありげに笑って見せた。衝撃的なことを言われたのはわかったけれど、いまいちことを飲みこめず何度も瞬きを繰り返していると。

「俺がおまえを変えてやる。そのかわり、多少の荒療治は覚悟しろ」
 荒療治ってなんだろう。
 僕しか見てない光る目に捕らわれるとなにも言えなくなって、怖いはずなのにこっくりと頷いてしまった。だけどそんな恐怖心の裏側で、なぜか五代目と一緒だと思うと安心な気持ちになっている。
 変わりたい。
「変えて、ください?」
 なんて答えればいいのかわからず、ドキドキしながらもそんな了承の返事をすると、五代目は、ハハ、と乾いた笑い声をもらして目を細め、短くなった煙草を携帯灰皿に押しこんだ。
「あと、俺のことは慎って呼べ。おまえに五代目とか言われっと、萎える」
 最後に気まずそうにそんなことを告げると、五代目、いや慎さんは奥の事務所に引っこんでしまった。

 名前で呼ばれたいとか、なんか子供っぽい。
 取り残された僕はそんなことを考えながら、なぜかサルみたいに火照ってしまった顔を持て余して、しばらくその場から動けなかった。


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つなげて、お守り(5)

 慎さんによる、包丁恐怖症の荒療治の方法は、釣りだった。
 二人で釣りに行き、慎さんが釣りたての魚をさばいてくれる。パック詰めされて売られているものでなく、さっきまで生きていた魚が目の前で刺身に変わり、それを食べる。僕はその一連を体験する。

 やっぱり包丁は怖いけれど、すごいって感動もする。
 釣りあげたばかりの魚を包丁でさばく慎さんの手元は鮮やかで、僕はこみ上げる恐怖と対峙しながら涙目で見惚れた。刺身になったばかりの新鮮な魚は舌がとろけそうなほどおいしくて、僕もいつか必ず包丁を握れるように頑張ろうと、心に誓った。

 荒療治とは言ったけれど、慎さんはけして無理強いしなかった。だけどその広い背中がちゃんと見とけよ、って言ってるのはわかった。包丁がどんなに優れた道具か。僕の恐怖の記憶を正しく塗り替えようと親身になって尽くしてくれてるのが伝わってきた。そこまでしてくれるのはきっと、慎さんが本当に刃物を愛しているからだと思う。会うといつもおやじギャグや寒い冗談を言って僕を凍らせたけど、初めて会ったときの冷たいイメージからどんなにかけ離れていっても、慎さんの刃物を扱うときの真剣さにブレは生じない。きっと根が真面目で優しいから、包丁を怖がる人間に出会ってしまったが最後、もう放っておけなくなってしまったのだろう。

 そして慎さんと釣りに行くのは、今日で四回目。僕は今のところ、レギュラーの仕事だけでドラマや映画の撮影が入ってないため、マネージャーに友達と釣りに行くと報告をして、慎さんの仕事が休みの週末に合わせて、早朝から二人で出かけている。

 午前二時に目を覚まし、三時の約束に遅れないよう身支度を整える。だけど、このあと慎さんに会えるのが楽しみで気持ちが急いてしまい、大慌てで身支度したため、約束の三時より二十分も早くマンションの玄関先に下りてきてしまった。
 こんな時間に誰も見てないとは思うけど、念のため変装用のマスクと帽子を身につけ、慎さんが来るのをじっと待つ。今日も慎さんはライトバンに乗って、僕のマンションまで迎えに来てくれる予定だ。視線を一方通行の暗闇のさきに固定させる。ひと気のないしんと静まりかえった夜に、僕の心音はまだ現れない慎さんの姿を想像して高鳴りだす。

 一目惚れならぬ、二度目惚れ。取材で初めて会ったときの慎さんは(緊張と腹痛のせいで)おっかなくてそれはもう包丁並に怖かったけど、二度目に会って以降のフランクな素の慎さんに僕はどんどん惹かれていってる。

 芸能界に入るとプライベートまで他人に監視され恋することもままならないらしいけど、僕は今までそんな状況に不自由を感じることのないクリーンな私生活を送っていた。出会い過多の芸能界で珍種扱いされてるような恋とは無縁の僕には、慎さんに抱いてるこの想いが果たして恋愛感情なのか否か、まだはっきりわからない。けれどほかの友達に抱く感情とも、家族同然のマネージャーや身寄りのない僕を快く引き受けてくれた事務所の社長に抱く感情とも違う。ちょっとした接触に赤くなって、笑った顔にドキドキして、別れ際がやりきれなくて、会ってない時間もずっと頭の中は慎さんでいっぱいで。こういう感情が、恋以外のなにかに当てはまるのだろうか。

「あれ? 志紀?」
 悶々と考え事をしてる最中に声をかけられ、ハッと我に返る。
「なにしてんの? こんな時間に」
「あ、晴香」
 タクシーからマネージャーと一緒に降りてきた晴香が、無音の住宅街にピンヒールの高い音を響かせながら近づいてくる。
 人気急上昇中のアイドルユニットに所属している斉木晴香は、僕の部屋の二フロア上の住人だ。彼女は、子役時代に子供向け番組のレギュラー出演者として共演した仲間だった。

「今から釣りに行くんだ」
「釣りー!?」
 叫んだ晴香の口元を手で押さえる。
「声おっきい」
「ごめんごめん。ちょっと意外すぎて。志紀にそんなアウトドアな趣味があったなんて」
 深夜ラジオの生放送を終えて帰ってきたところだという晴香に、最近知り合った人に釣りを教えてもらってるのだと説明したら、意味深な笑みを浮かべてわき腹を肘でつついてくるので、わけもなく赤くなりながらそんなんじゃない、と弁解した。

「志紀にもついに春が来たかぁ」
「だから違うってば」
「相手、男? 女?」
「男の人」
「へぇー、そっち系か」

 そっちってどっち、と聞くまでもなく、晴香の言いたいことはわかってしまう。この業界には性差にこだわりのない恋愛をする人が多く存在することを、僕も知っているから。
「志紀ってけっこうモテるのに、かわいい女の子に言い寄られてもことごとくスルーしてたもんね。そっかそっか。そっちだったか」
「なに言ってんの。わけわかんない」
「まあまあ、照れなさんなって。私は全力で志紀の恋を応援しますから!」
 片手を上げて宣言する晴香の手を掴んで下ろさせると、今度は反対の手を上げる。しばらく二人でくだらないじゃれ合いをしていると、背後からクラクションが短く鳴った。
「来たんじゃない?」

 振り返ると、さっきタクシーが止まっていた場所にグレーのライトバンが見えた。
「ひとこと、ごあいさつしとこうか?」
「いい、いらないから。早く部屋帰って」
 両手を広げて背後の車を隠すように立ちふさがると、晴香はプッと噴きだした。
「志紀ちゃん、ひどーい」

 そしてわざとらしい甲高い声を上げたあと、がんばれー、と小声でエールを送ってマネージャーと並んでエントランスに入っていった。その華奢な後ろ姿を見送りながらほっと息をついた。晴香が僕の制止を無視して、慎さんにごあいさつに行かなかったことに安堵している。今をときめくかわいいアイドルと対面する慎さんを見るのが、いやだった。


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つなげて、お守り(6)

「仲、いいのか?」
 助手席に乗りこんで、お待たせしました、と声をかけると、おう、と返ってきてそれっきり、しばらく無言が続いていた。そしてこのひとこと。すごく間が空いていたから、尋ねられてる意味が一瞬わからなかったけど、晴香との仲を聞かれてるのだと思い至った。

「十年来の親友なんです。デビューしてすぐに、子供向け番組で共演して仲良くなって」
「へぇー」
 慎さんが気の抜けた返事をしたあと、また少しの間が空いた。
「で、付き合ってんのか? 斉木晴香と」
「へ? あ、付き合ってないです。親友だから」
 即答した。誤解されたくなかったから。
「そんならよかった」

 隣でふっと息を吐く音がした。車に乗りこんだときからかすかに張りつめていた空気がはじけて緩んだ瞬間。窓を開けた慎さんが煙草に火を点ける。涼しい風が車内を吹きぬけ、にがい匂いが鼻を掠めた。
「煙いか?」
 赤信号。僕の眉間を慎さんが見つめてる。たぶん、皺が寄ってるんだと思う。

「晴香が好きなの?」
 晴香は所属しているアイドルユニットの中でも一、二を争う人気者で、同年代だけでなく歳の離れた男性からも人気があった。
「おまえはアホなのか」
 皺の寄った眉間を指でつつかれ、鈍い、とため息をつかれる。
「俺が好きなのはおまえだろ?」
「ふぇ? ぼ、僕?」
 なにそれどういうこと? それになんで疑問形? どういう種類の好き? 聞きたいことは次々頭に浮かぶけど、ひとつも声にならない。

 衝撃のひとことに固まる僕を横目で見ながら、慎さんがちょっと悪い顔で笑う。冗談か本当かわからないそんな小事にすっかり動揺してしまった僕の、そのあとの釣りっぷりは笑ってしまうくらい散々だった。
 魚の食いがいい時間帯なのに一匹も釣れず。何度か針に食いついたものをことごとく逃がし、それどころか一度大物が引っかかった際に竿のほうに引っぱられ海にはまる、というコントのような失敗まで犯した。
 びしょ濡れのまま釣りを続行するわけにいかず、慎さんが用意していた着替えのTシャツと短パンを借りたけど、秋口の早朝に海辺でいるには肌寒すぎる格好だったため、まだいたい、という僕のお願いは聞き入れられず、慎さんの命令で早々に帰ることになってしまった。

「釣った魚、どうするの?」
 暖房の効いた帰りの車内で、濡れた頭にタオルで頬かむりし、尋ねた。僕の成績はボウズだったけど、慎さんは短時間にアジをいくつか釣り上げていたのだ。自分のせいで早々に帰る羽目になったというのに、僕は食への卑しさを捨てきれず、運転席の慎さんを未練がましく見つめた。
「おまえのそういう素直で図々しいところ、嫌いじゃねぇよ」
 笑いを含んだ声でそう言うと、僕のタオルでくるまれた頭を撫でる。
「食いてぇか?」
「食べたい、です」
「おう、じゃあ食わせてやるよ」
 正面を向いて笑ったまま、慎さんはアクセルを踏みこんだ。


 なめろうにフライにつみれ汁。汗のかいた瓶ビールと炊きたてごはん。シャワーを借りたあと、卓袱台いっぱいに並んだごちそうを平らげて、僕は大満足のため息を吐いた。
 慎さんは深町刃物製作所から徒歩十分の距離にあるアパートで独り暮らしをしていた。家業の繁盛により住宅部分に在庫の商品が雪崩れこんできて、慎さんの部屋だった場所が物置と化してしまったため、六年前に追いだされる形で引っ越したのだという。

 今までは、釣った魚を釣り場や船の上で慎さんがさばいてくれてその場で食べていたため、このアパートに招かれるのは今日が初めてだった。室内はほどよく散らかっていて、生活の痕跡がそこかしこに見られる。ロックバンドの最新アルバム、週刊の漫画雑誌、無造作に放られた寝間着。僕にとってのお宝がごろごろ転がっていた。

 食後、慎さんが包丁と冷蔵庫から冷えた梨を出してきて卓袱台の上でむき始めた。大きな骨張った手が器用に動いて、薄く細い皮が実から離れてスルスルと伸びていく。
「僕も、むいてみたいな」
 その見事な手さばきに恐怖がわずかに薄れ、ふと呟いていた。慎さんは僕の顔色を確かめるようにしばし眺めてから、梨と果物ナイフをこちらに寄こした。
 柄にそっと触れてみる。さっきまで慎さんが握っていたからほのかに温かい。持ち上げると背中がぞわっとして、見るのと触れるのとではこんなに恐怖の度合いが違うのだと思い知らされた。しばらく緊張したまま刃先を見つめたあと、梨に刃を当てることすらできず果物ナイフを卓袱台に戻す。たった一瞬のことだったのに全身からいやな汗が噴き出てきて、自分の精神の軟弱さに苛立ちと悲しさが募って唇を噛みしめた。隣で何事もなかったように梨むきを再開した慎さんが、気にするな、と言う。

「おまえに克服したい気持ちがあるかぎり俺は付き合うし、そうやって勇気をもって果敢にチャレンジできるんだから、時間がかかっても必ず使いこなせるようになる」
 自信に満ちた声で言いきると、僕の引きしめた唇にくし形に切った梨をぶつけてくる。あーん、とかふざけたことを言いながら。
 なんだ、そのかわいいの。こっちは自分のふがいなさに噛みしめた歯をほどくと泣きそうになってるというのに。なんとか涙をこらえて梨を口内に受け入れる。慎さんの指先の硬い皮膚がやわい唇に一瞬触れて、僕はみずみずしい梨の味がいまいちわからなかった。

「結局、使う人間次第なんだ。安全に料理を作れるように、繊細な細工が施せるようにって、切れ味鋭く、フォルムにこだわって作っても、それで人を脅すやつはいる。悲しいけどな」
 使い方を誤ってしまうと恐ろしい凶器になる。だけど正しい使い方をすればどんなに素晴らしい道具となるか。慎さんの作る料理を食べた僕はいやというほど理解していた。怖いけれど愛おしいと思う。職人が、慎さんが丹精こめて作った包丁。
「おまえは刃先を人に向けることなんてしない。だから安心して使えばいい。うまそうにもの食うおまえが、ふと思い立ったとき、小腹が減ったとき、躊躇せず包丁を使えるようになるのを見届けるまで、俺にできることはなんでもしてやる」
 シャリ、と音を立て、梨を歯にあて咀嚼する。その血色のいい分厚い唇の動く様を見つめていた。

 触れたい、と思う。唇だけじゃなくて、褐色の肌にも、形のいい耳にも、芯の硬そうな黒髪にも。
 じっと見つめ続けていると、体の中心で振動が起きる。その低く力強い心音が僕に気づかせる。この気持ちが恋なんだって。だってもうそれ以外考えられない。経験したことがなくてもわかる。これ以上強い感情は自分の中に存在しない。


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つなげて、お守り(7)R-18

「慎さんが僕のそばにいてくれるのは、僕が包丁が怖くなくなるまでですか?」
 僕が包丁を使うのを見届けるまで、と慎さんは言った。ならば恐怖を克服した瞬間、慎さんは僕から離れていってしまうのだろうか。ふとそんなことに思い至ってぞっとした。
 ずっと悔しくてやりきれなくて、包丁への恐怖心が消えたらどんなに幸せかと思い続けてきた。だけどそれと引き換えに慎さんとの関係が終わってしまうことのほうが、今はずっと怖い。

「そのさきもずっと、一緒にいてほしいです」
 切実な気持ちで懇願したら、なんだか愛の告白みたいになってしまって、一瞬冷えていた頬がぼっと燃えるように赤く染まるのが自分でわかった。梨をむき終えた慎さんが無言で卓袱台に包丁を置いた。その空いた手が顔に近づいてきて、驚く間もなく唇に触れる。果汁に濡れた硬い指先が下唇をなぞって、薄くひらいた口内へもぐりこんでくる。

「慎、さん……?」
 動揺して頼りない声を出してしまった。指をくわえたまま、じっとすがるように見つめると、熱い眼差しが返ってくる。僕の心の中の願望が外に漏れて、慎さんに伝わってしまったのかもしれない。触れたいと願ったから、こんなふうに叶えてくれたのだとしたら納得がいく。だけど、どうしてそこまでしてくれるんだろう。もし慎さんが、望む相手には誰にでもこんなふうに触れてしまうのだとしたら。そんなのはいやだ。僕だけにしてほしい。ほかの人には触れないでほしい。

 勝手な妄想から勝手な嫉妬をして、胸に怒りの火が灯る。口から離れていこうとする指先を思わず握りしめたら、慎さんの切れ長の目が一瞬、光ったように見えた。ぞく、と背中に恐怖にも似た寒気が走った、すぐあと、唇に唇が触れていた。
「ふ…………、ぅんっ」
 大きな口に下唇を挟まれ、早急に角度を変えながら食まれる。頭の後ろを手で引き寄せられると、自然と顎が上がって口がひらいた。
「ぁは……っ、ふゎ、はぁ……、んぅっ」
 柔らかい舌がわずかな隙間をくぐって口内に潜りこんでくると、歓迎するように反射的に自分の舌を突きだしてしまう。舌先同士がぶつかると、なめらかな感触なのにビリッと電気が走ったみたいにぞくぞくした。今度は怖くなって引っこめたら舌の裏側を執拗に舐められて、したったるい声がこぼれた。
「やぁ……、は、あ……んっ」

 熱が下半身に集まる。おへその下が重くなり、座ったままの腰が浮いて揺れる。初めて体感する快楽に怯える脳とは裏腹に、身体は勝手に次を期待してるみたい。深く合わさった唇の奥で舌に舌を絡まされ、溢れだした唾液が顎を滴った。時間をかけて存分に舐めつくされたあと、チュッと音を立てて唇が離れていく。しばらく放心していたら、唾液で濡れた顎を手のひらで拭われてハッと我に返った。果物ナイフを台所に仕舞いに立った慎さんの後ろ姿を眺め、頭を抱える。
 なになになになになに? 今いったいなにが起こったの?

「あ」
 そんな中、お風呂上がりに慎さんから借りたスウェットパンツの真ん中がかすかに盛り上がっていることに気づく。キスだけで性器が少し勃ち上がっていた。はしたない自分の下半身に治まれ~、と小さく声をかけてると、慎さんが腹を抱えて大笑いしながら戻ってきた。見られた。
「おまえ本っ当にかわいいな」
 かわいいとか。今までそんなことひとことも言わなかったのに。突然なに? 僕の前にしゃがみこんだ慎さんが、性器の先端を布越しに指先でつんつんつつくから、治まりかけていたのがまたピクリと反応してしまった。
「あん、だめ。帰るもうっ」
「半勃ちのまま?」
「うるさいっ」

 まださわろうとする慎さんを阻止するため腕を振り回しながら立ち上がり、乾燥機にかけておいた生乾きの衣服を取って素早く着替えた。玄関先で靴を履いて扉を開けようとしたら、タクシー呼んだからちょっと待て、と背後から声がかかった。勃起は治まったものの、心臓はまだおかしいくらい早鐘を打っている。振り返ったら慎さんと目が合うだろう。真っ赤な顔でどんな表情を作ればいいのかわからないから、不自然だけどじっと扉を見つめてタクシーの到着を待っていると、背後でカチッとライターで火を点ける音がした。

「おまえさ、覚えてねぇの?」
 煙草の匂いに混じって、さっきのふざけた態度からは想像できないやけに真剣な声が後ろから流れてくる。
「なにを」
「それとも忘れてるフリしてんのか?」
「だからなにを……」

 尋ねかけてハッとする。
 覚えてない、忘れてるフリをしてる。慎さんに感じた懐かしさ。声や話し方の類似。泣いた僕の背中を叩く、あのリズム。
 いろんな出来事が頭を駆けめぐっていったそのとき、来た、という声とともに慎さんが僕の背後から手を伸ばし扉を開けてくれた。音で気づいたのだろう。ひらいた扉のさき、アパートの前にちょうどタクシーが止まるのが見えた。
「気をつけて帰れよ」
「…………ごちそうさまでした」
 背中を押され、まだ混乱したまま前進した。タクシーの停まる道路の数歩前、勇気を出して振り返る。

「あの、もしかして……、十年前、海で僕を助けてくれた?」
 体型があのころとはすっかり違う。十年も経ったのだから変わっていてもおかしくはないが、頭にこびりついていたイメージが今の慎さんとつながらないため、どうしても信じられなかった。
「覚えてんのか」
「もちろん覚えてる! 忘れるわけないよ、あんな大切な思い出。だけど、ほ、ほんとに慎さんなの?」
「嘘ついてどうすんだよ、こんなこと」
「でも昔とぜんぜん違うから」
 無意識に視線が顔から下がっていたらしい。逞しくなった体躯を眺めているとゆるく頭をはたかれた。

「あれからきたえたんだよ。あんとき一気に身長が伸びて体重が追いついてこなくて、みっともない体格だって自覚してた時期だったんだ。小学生だったガリガリのおまえひとり海から引き上げるのに息切れしてる自分が情けなくてよ」
「情けなくなんかないよ。あのとき、慎さんは本当にかっこよかった。あの、今さらだけど、ありがとう」
 ドキドキしながら、ずっと言えなかったお礼の言葉を伝えると、どういたしまして、とぶっきらぼうに返される。
 どうしよう。本当に学生服の彼が慎さんなんだ。こんなことってあるのかな。ないよね。あったとしても、すごく確率が低い。そうだ、これはやっぱり、運命。

 たくさんたくさん聞きたいことも聞かなきゃいけないこともあったのに、僕は喉に膜が張ったみたいに声が出ず、待たせてるから行け、と促す慎さんに背中を押され、ぼんやりしているところをタクシーの後部座席に強引に積まれてしまった。僕の代わりに行き先を運転手に告げて、慎さんはまたな、と手を上げると外から扉を閉めた。

 発車するとみるみる小さくなっていく長身の立ち姿を、振り返ってじっと見つめる。ドキドキ速まる胸を手のひらで圧迫した。頭の中はまだ混乱していて気持ちが落ちつかないのに、ただ離れたくないと切実に思う。
 そういえば今日は次に会う約束をしなかった。慎さんは集中を邪魔されるのがいや、という理由で携帯電話を持っていないため、次に会う約束はいつも帰り際に決めていた。さっきまたな、って言ったから、次もあるよね。

 会えたらまた勇気を出して聞いてみよう。
 いつからテレビに映る僕のことを知ってたの? さっきのキスにはどんな意味があったの? もしかして、慎さんも僕を好きなの?
 離れたら少し冷静になって、聞きたかったことが溢れだしてくる。今すぐにでも引き返して問いつめたくなったけど、いくらなんでもそれは間が抜けてると思ったから、興奮で高ぶる気持ちを抑えて帰宅した。また日を改めて、仕事がオフの日にでもこっそり慎さん家を尋ねてみよう。

 ドキドキする近い未来を想像しながらそんなふうに考えたことを、翌日には後悔した。


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つなげて、お守り(8)

「非常にマズいことになってる」
 控え室に入って来るなり頭を抱えたマネージャーを見て、僕は共演者に差し入れでいただいた甘栗をむく手を止めた。
「どうしたの」
 見上げる僕を見もせず、彼は急いで帰り支度を始めながら口をひらいた。
「斉木晴香とのスクープ写真が、金曜の週刊誌に掲載される。事前の吊り広告等があさってには出るから、世間に知れるのは間もなくだ」
「…………え?」
「そして呼び出し食らったから、すぐ出向くよ」

 早口で告げられた内容を理解する間も与えられず、荷物とともに車に乗せられ、マネージャーの運転で晴香の所属事務所へ向かった。ロビーで待ちかまえていた女性に案内されるまま会議室に通される。つい二時間ほど前に急遽決まったという会合の待ち合わせ時刻ちょうど。すでに僕たち以外の出席者はそろっていた。
 広々とした部屋の中央に配置された楕円形のテーブルの周りには、業界人なら誰でも知ってる、この大手芸能事務所の敏腕有名社長と、彼の女性秘書、そして晴香と僕と、僕たち二人のマネージャーの計六人が収まった。

「まずこの写真をご覧ください」
 秘書によってテーブルに並べられた三枚の写真。

 一枚目は晴香が僕たちの住む自宅マンションから出てくる写真。二枚目は僕が同じマンションに入っていく写真。それは僕たちにとっては外出・帰宅という当たり前の日常が写されたものだった。
 そして三枚目。それはこの前、慎さんと四回目の釣りに行く日の早朝、偶然、晴香とマンションの玄関先で会ったときのものだ。晴香とマスクと帽子で変装した僕が、手を触れ合わせてふざけ合っている写真だが、暗くて表情は見えず、親密な関係に見えなくもない。もちろん、その場に僕たちと一緒にいた晴香のマネージャーは、写真には写っていない。
 秘書に手渡された金曜発売の記事には『一年も続いた! 人気者同士の秘密の同棲生活』という見出しがデカデカと載っていた。

「同棲じゃないです! 同じマンションの上下の階に住んでるだけで……」
「もちろん存じ上げていますよ。このときは晴香のマネージャーも一緒だと聞いています」
 焦って言い訳みたいな釈明をする僕を手で制した社長が、細い目を線のようにさらに細くしてゆっくりと言葉を継いだ。
「しかし、あなたたち二人が同じマンションに住んでることを知っている人間はごくわずかです。今回はこのような証拠写真を用意されてしまったため、この記事を見る人間の大半が噂を信じることになるでしょう。火消しには時間が必要です。そこでまず、私たち当事者サイドがこのことを大仰にしないこと、余裕を持って、且つ出版社にもファンにも誠実に対応すること。我々は誰も、悪いことなどしていないのですからね?」
「はい」
 晴香と二人そろって返事をすると、社長はよろしい、とここに来て初めて小さく微笑んだ。暗に本当に付き合ってないだろうね? と聞かれていたのかもしれない。

 その後、多忙なのだろう、社長は退席し、それと入れ替わりに数名のスタッフが会議室内に入ってきた。こういったスキャンダルには慣れているのかもしれない。大手芸能事務所のスタッフたちはテキパキとこれからすべきことをマネージャーと僕に説明し、あらかじめ用意されていたと思われる束の誓約書にサインを書かせると、僕の身の安全のためという名目で、しばらくホテル暮らしをしてもらうという旨を述べた。
 びっくりするくらい無駄のない会合だった。一時間後には僕とマネージャーは狐につままれたような気分で地下駐車場から夕暮れに染まる地上へと出てきた。

「なんか、慣れてたね。怒られるかと思ったけど」
「うん、僕も」
 僕たちの芸能事務所はよくいえばアットホーム、悪く言えば弱小なので、今回のことに関して発言権は用意されていないらしい。うちの社長のほうには、会合前に晴香のとこの敏腕社長から連絡が入っていたらしく、『抵抗せずあちらの言いなりになりなさい』と無理やりよくいえば消極的で、悪く言えば情けない指令が社長から下りていたのだ、とマネージャーが説明してくれた。

 晴香と僕のどちら側にも過失があった。付き合っている事実はなく、お互いがクリーンで対等な関係だけど、無理を強いるお詫び、という理由で、僕がしばらく滞在するホテルの宿泊料金は晴香の事務所が払ってくれるらしい。晴香が事務所にとってどれほど貴重な存在であるかあらためて知った上で、夜中だからと油断して、軽率な行動を取ってしまったことを反省した。

「それにしても、晴香の事務所はお金持ちだなぁ」
 二十二階の角部屋のスイートルームから夕闇に点在する街の明かりを見下ろし、ほ、とため息を吐いた。
 ホテルまで送り届けてくれたマネージャーが事務所に戻ったあと、さっきサインした誓約書の内容にもう一度目を通す。許可が出るまでほかの誰かが一緒でも晴香とは会わないこと(仕事は除く)、プライベートの単独行動は避けること、仕事の行き帰りなどマネージャーがいないときのひとりでの移動は用意された指定のタクシーを使うこと、ほか細かいこと諸々。わかりやすい言葉に砕きながら音読していると眠くなってきて、皺のないベッドにそろりと横たわったら、携帯から晴香が所属するアイドルグループの曲が流れ出した。晴香からの着信音だ。

『えらいことになったねー』
 出るとあっけらかんとした声が聞こえてきて少しほっとする。
「なんかすごいホテルのすごい部屋を用意してもらっちゃって、僕今すごいそわそわしてるんだけど」
 いいのかな。分不相応を訴えてみたら電話の向こうで晴香が大笑いしている。
『わかる。スイートでしょ? 無駄に広いのに持て余して、使わないベッドとか部屋とかあってさ、もったいないよね』
 話を聞くと、晴香も別のホテルのスイートルームにいるらしい。孤独だけど同じ境遇にいる安心感に包まれて、うんうん頷いていると、そうだ、と指を鳴らす音がした。
『ねえ。せっかくだからさ、部屋に彼氏呼んだら?』
「へ?」
『ほら、あの写真のときのさ、一緒に釣りに行った人』
「だからあの人はそんなんじゃないって」
『じゃあ、どんな人なの?』
「どんなって。恋人じゃないけど……、僕が一方的に好きなだけ」
 自覚したての気持ちを正直に伝えると、わお、と興奮した晴香の声がして、なぜか顔が真っ赤になってしまった。

『じゃあいいじゃん。呼んじゃえ呼んじゃえ』
「呼ばないよ! 呼んでどうするの」
『そんないい部屋ですることっちゃあ、ひとつしかないでしょうよ』
 エロおやじみたいなアイドルの発言に、僕の顔の赤みはさらに増してゆく。それは晴香の、部屋ですること、という言葉から慎さんとのキスを思い出したからで。
「バカ! 呼ばないし、なにもしないよ」
 叫んで枕に突っ伏すと、耳に当てたままの受話器からふーん、と意味深な声が返ってくるから、これ以上の会話はもう無理。強引に話を丸めて、たぶんにやついてる晴香との通話を切った。


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つなげて、お守り(9)R-18

 胸に軽く手を当てると、ドクドク激しい振動が伝わってくる。ちょっときわどい話になっただけで、下半身に血が集まってしまうぐずぐずの身体を持て余して、パリッと糊のきいたシーツに包まりながらじたばた暴れた。
 話題になっただけなのにこんなに取り乱してる。実際に会ったら昨日みたいにもっと間抜けな自分を晒すんだろうな。

 そうわかってるのにとてつもなく会いたい、声を聞きたい、姿を見たい、肌に触れたい。昨日のキスに特別な意味があったのか。自分ひとりで考えても答えの出ない問いを何度も頭の中で繰り返す。もしふざけただけだったら、もし誰にでもしていたら、もし好きって言って振られたら、ってマイナスの想像ばかりして不安になってるくせに、内から湧きだす強烈な欲望を止める方法が見つからない。

 自分が怖くなる。恋愛なんてしたことないから、この状態がどれくらいおかしいのかもわからない。心がごっそり慎さんに持っていかれて、危険な思考と不安の間を絶え間なく行き来する。こんなに思い悩んでもきっと誰にも同情されない理由は下半身。慎さんに触れたいと思うと性器に血が集まって、やもりみたいに這いつくばって純白のシーツに硬くなった欲望をなすりつけてるさまは間抜けすぎるよ。

「あ……、あー……」
 こんな格好、慎さんに見せられないとか思いながら、頭の片隅では見られたい、見てほしいって思ってる変態っぽい自分もいる。
 微々たる快感にもどかしくなって前をくつろげると、ジーパンと下着を一気に引き下ろす。右手でじかに触れるともうすでに先端からとろみのある液体が溢れてきていた。小ぶりな性器全体にまぶすようになめらかにしごく。そういえば布越しにだけど、ちょっとだけさわられたんだよね、とか考えたりして。慎さんの声や顔を思いだすと、快感がみるみる膨らんでいくのがちょっと怖い。

「あ、……っ、きも、ちいい……」
 誰かを想ってこんなことをするのは初めてで、とまどいつつも右手の動きは速まってゆく。頭までシーツをかぶって、こもる自分の喘ぎ声を聞きながら無我夢中で腰を揺らした。
「あんっ、ぁ……、ふ……、っぅ」
 性器に触れてから射精するまで、一分ももたなかったかもしれない。あっという間にはじけた精液に濡れた手をしばらく呆然と眺める。

 晴香に呼ばないしなにもしないとか言ったその直後に、自分の頭の中で繰り広げられた想像の低俗さにうなだれる。急いでシャワーを浴びて身体を清めると、なにも考えない努力をしながら眠りについた。


 なにも考えないでいられ続けたらどんなに楽だろうと思う。目覚めて頭がすっきりしたら、大変な問題に気がついた。

 誓約書の内容の一部。プライベートの単独行動は避ける。これってしばらくは慎さんに会えないってことなんじゃないか。連絡先を知らないから、週刊誌の内容を事前に否定することもできない。そもそも慎さんと僕は恋人同士でもなんでもないのだから弁明なんて必要ないのだけど、それでも真実を知っておいてほしいって思う。
 それに早く好きって言いたい。というか言わなきゃ。自由に会うことができなくなった途端、自分の気持ちをはっきり伝えたい衝動に駆られていた。

 仕事帰り、晴香の事務所が手配してくれた専属タクシーの運転手に、ホテルに戻る前に深町刃物製作所に寄ってほしいと頼んでみるも許可は下りなかった。雇い主に忠実な有能すぎる運転手を恨むわけにもいかず、部屋に着くなりインターネットで深町刃物製作所を検索してみる。だけどホームページはなく、住所は商工会のページなどに掲載されていたが電話番号はどこにも見つけられなかった。
「ど、どうしよう」
 この便利な世の中でこんな不自由を強いられることがあるのか。パソコン画面を見ながら愕然とした。


 ホテルでの生活は、今日で二週間になる。晴香と僕のスキャンダルが載った雑誌が発売されて十日が過ぎた。
 所属事務所が危惧したとおり、晴香と僕の住むマンションの周りにリポーターが群がっている様子がテレビのワイドショーで流されているのを何度か見た。マネージャーは近隣住民や仕事関係者への謝罪や挨拶回りに飛び回り、事務所も通常業務に鳴り止まない電話への対応が上乗せされて多忙らしい。少人数体制の会社ゆえ、当事者に構っている時間も人員も不足しているようで、皮肉なことに僕の周りだけは驚くほど安全で静かだった。みんなに迷惑をかけて申し訳ないと思うけれど、ここで僕が動くとことは余計ややこしくなってしまうらしいので誓約書どおり大人しくしているのだけど。

 慎さんともう半月も会っていない。それまでだってそんな頻繁に会ってたわけじゃないけれど、次の約束が無いことと不自由な今の状況が不安と焦りを膨らませる。

 慎さんは週刊誌の熱愛記事を読んだだろうか。もし読んだのなら、どんなふうに思っただろう。
 怒ってる? 笑ってる? 悲しんでる? 呆れてる? そもそもなんとも思ってなかったりして。

 いろんな可能性を想像して一喜一憂するのも束の間、結局どんなに考えても慎さんに会えないかぎり、知りたい答えは出てこないのだという点に着地して終わり。胃のあたりがきゅうっと締めつけられて、痛みを紛らすためソファーの上で膝を抱えて丸くなった。
 ここ三日ほど食事がうまくのどを通らない。風邪で喉が痛いときも骨折して高熱が出たときも食欲だけは落ちなかったのに、今は大好きな食べ物を見ても自然な笑顔が出てこなくなっていた。
 でもちょうど明日から来年公開予定の映画の撮影が始まるのだ。長患いの病人役だから、体重が落ちて頬がすり減った今の見た目はちょうどいいのかもしれないとか、そんなことを思わないと悲しくてやってられない。

「会いたい会いたい会いたいよー」
 座り心地の良いソファーの上で暴れていると、首に小さな痛みと違和感を感じた。冷たいものがするりと胸からお腹のほうへ流れて、シャツの裾から光るなにかが落ちた。
「あ」

 落下したのはペンダントだった。細い鎖から外れた学生ボタンが、テーブルの脚にぶつかって弾かれカーペットに沈む。
 そういえば今日仕事の合間に手に取った週刊誌に、晴香と僕がお揃いのペンダントをつけている、というねつ造記事が載っていた。晴香はおしゃれで服装に合わせていつもアクセサリーを変えている。たまたま似たようなものをつけていたときの写真を持ってきて、二人が付き合っているかのように演出していた。

 違うのに。間違ってるのに。自分の気持ちとは正反対の方向に暴走してゆくゴシップに焦りと怖さを感じるけれど、今はそれどころじゃない。離ればなれになったペンダントとボタンを急いで拾って確認する。ボタンがぶら下がっている、トップのシルバーチェーンが切れていた。
 慎さんと僕を繋ぐ鎖が、切れた。

「不吉な……」
 思わず呟いてからハッとする。言葉にしてしまったことをすぐに後悔した。
 言霊が動きだす前に。
 咄嗟に時計を見る。午後九時。明日は映画の撮影初日。朝五時起き。慎さんはまだ眠ってないはず。ここから慎さんのワンルームマンションまでの道のりは。
 頭が一瞬で切り替わった感覚があった。スキャンダルも誓約書もワイドショーのリポーターも敏腕有名社長の顔も、いっさいが脳内からはじき出されてなにも考えられなくなった。

 ゆっくり立ち上がると、変装用のマスクと帽子を身につけ、壊れたチェーンと学生ボタンを羽織ったダッフルコートのポケットに押しこんで、気づいたら部屋を飛び出していた。

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つなげて、お守り(10)

 地下鉄三駅分の距離を無我夢中で走った。体力と栄養の不足で何度もつまずき、着くころにはへとへとになっていたけれど、慎さんのマンションの部屋に明りが点いてるのを見つけたら、疲れや不安がぜんぶ吹き飛んだ。
 会えるんだ。三週間ぶりに顔が見れる。走ったあとの速い心拍に、別のドキドキが加わる。会ったらまずなんて言おう。どこから順番に話せばいいんだろう。考えはひとつもまとまらないまま気持ちだけが急いて、汗ばんで震える指でチャイムを押した。ドキドキしながら待っていると、勢いよく扉がひらいた。

 うわぁ、慎さんだ。
 しかも半裸。お風呂上がりらしく髪が濡れている。ただでさえ速すぎる心音がさらに高鳴って、口をひらいたまま動けずにいると。
「なにやってんだ、おまえ」
 いつもより低い声がした。慎さんの眉間に皺がよる。
「なにって……、会いに、来ました」
 約束もなしに突然来たのがまずかったみたい。不機嫌丸出しの慎さんの表情を確認して、すーっと顔から血の気が引いていく。

「誰?」
 慎さんがなにか言いかけたとき、奥から女の人の声がした。直後、慎さんと僕のあいだで扉がパタンと閉じられた。
「え」
 目の前のクリーム色の扉を見つめたまま、しばらくのあいだ、動けなかった。

 なに? いったい今、なにが起きた?
 何度か瞬きを繰り返す。無の状態から抜け出すと、脳内には混乱が舞いこんでくる。
 久々に会うのに僕の顔を見た慎さんは全然嬉しそうじゃなくて、そしたらすぐあとに部屋の中から女の人の声がして、扉が閉められて。慎さんは半裸で、女の人の声は若々しく澄んでいて、僕は今たったひとり、扉の外にいて。

「あ、恋人だ」
 彼女が家に遊びに来てるんだ。だから追いだされたんだ。そっかそっか。それなら納得がいく。というかそれ以外考えられない。
 彼女がいたんだ。それなら言ってくれればよかったのに。じゃあ、あのときどうして僕にキスなんかしたんだろう。そういえば、おいしいごはんに夢中でよく見てなかったけど、グラス一杯しかビールを飲まなかった僕よりずっとたくさん、慎さんは飲んでいた気がする。

 酔っぱらってたのかもしれない。
 それで、キス。冗談の、ノリの、酔いが冷めたら忘れてしまうような、慎さんにとってはそんな程度の軽いキス。
 でも僕にとってそれは初めての、大切な、一生忘れられない重いキスだった。
 あんなふうに慎さんが上手に、気持ちいいキスをするから期待してしまったんだ。もしかしたら、僕を好きなのかもしれないって。ずっと覚えていてくれたから、大切に思われてるのかもしれないって。慎さんが優しいから、勘違いしてしまった。

 全部、慎さんが悪いんだ。僕は悪くない。
「うん」
 自分の勘違いの責任を慎さんに転嫁して頷くと、回れ右をして元来た道を引き返した。

 思考をやめた。無心でもくもく歩く。考えない考えない。ただ懸命に手を振って足を前に出す。そのことだけに意識を集中させた。なのに涙がこぼれる。ダッフルコートに、地面に、風に飛ばされ空中に。
 冷たい涙はマスクの隙間を流れて頬を濡らし続ける。歩き疲れて切れた息は嗚咽に変わっていた。目の前が水中みたいにぐにゃりと揺れてにじむ。視界不良で歩くこともいやになって、立ち止まるとその場にうずくまった。
「ふ……、うぅ」
 どんなに抑えようとしても、しゃっくりみたいに勝手に途切れた声が漏れだしてくる。無人の小道の端に小さくうずくまり、民家のブロック塀におでこをなすりつけてしくしく泣き続けていると、背後から突然二の腕を掴まれた。

「ふゎっ」
「こら、立て」
 もう一方の腕もとられて後ろに引っぱられる。無理やり立たされてバランスを崩しかけたけど、背後からちゃんと支えてくれたから転ばずに済んだ。
 背中に感じる広くて硬い胸の筋肉。さっきは半裸だったけど、今は服を着てるみたいだ。彼女はどうしたのかな。部屋でひとり、慎さんの帰りを待ってるのかな。
「放してください」
「やだね」
「ふざけないでっ……!」
 叫んだら口を手でふさがれる。
「んふぅ……っ、んーんーんーっ!」
 それにも抵抗して腕を振り回して暴れ出すと、後ろからきつく抱きしめるように身体を拘束された。

「おまえ、飯食ってんのかよ」
「んー、んーふぁーっ!」
 うるさい、って言ったつもりだけど、たぶん伝わってない。
「ちゃんと食え。それと一回しか言わねーから、泣き止んでちゃんと聞け」
 耳に唇が付きそう距離で囁かれるとゾクゾクした。腰に巻きつく腕や、唇をふさぐ手のひらの感触を急に意識してしまって顔に血が集まってくる。
「んー、っ無理。やだぁ……!」
 両手を使って口をふさぐ慎さんの手をなんとか外す。今さっきまで失恋に打ちひしがれて泣いてたくせに、触れられただけで欲情してる自分が情けなくなる。慎さんには彼女がいるのに。追いかけてきてくれたことに、たいした意味なんてないのに。

「よく聞け」
「いらないっ」
 鼓膜に響く声にまた体を震わせ、咄嗟に耳をふさごうとした手をとられた。
「今から大通りに出て、ガソリンスタンドの前に止まってるタクシーでまっすぐホテルに戻れ。そんでしばらくは仕事以外で外出するな。しっかり部屋の鍵かけて、おかしなやつが来たらすぐにマネージャーに連絡しろ」
 慎さんは来たばかりの僕に帰れと言う。やっぱり迷惑なんだ。

 誓約書の内容とそっくりのことを言って僕を追い返そうとする。クールでビジネスライクなその対応が僕に確信させる。慎さんは僕をなんとも思ってないんだって。三週間会えなくて寂しい思いをしてたのは僕のほうだけで、慎さんはむしろ距離を置かれたことにホッとしていたのかもしれない。酔った勢いでしたキスに意味なんて求められたら困るから。だから次の約束を、しなかったんだ。
「ほら、行けよ」
 体を解放され、背中をとん、と押される。力強くて優しいその手の感触は、僕ひとりに与えられた特別なものなんかじゃなかった。のろのろと歩きだしてふと、思いだした。
 そうだ。この三週間ずっと、言いたくて言いたくて仕方なかったんだ。
 振り返って慎さんを見つめる。さっきと違ってシャツとジャケットを羽織ってる。だけど髪はまだ濡れていた。

「好きです。僕はあなたのことが」
 冷たくされても、僕のことをなんとも思ってなくても、彼女がいても。
 涙は止まっていたけれど鼻が詰まっていて、変な声になった。驚いた顔をした慎さんをその場に残し、僕は言いつけを守って大通りに出ると、止まってるタクシーに乗りこんだ。


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Author:りんこそ
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