白に混じる幸福(1)


 四月の空気が苦手だ。
 職場に新人が入ることで、ゆるみかけていた一年がリセットされ、新鮮な空気が漂う。希望に満ちた真新しいものを見ると、まぶしくて目を背けたくなる。それはきっと自分が汚れているからだと、静は思う。
 ただでさえ病院の中は白が多くてまぶしい。
 院内にいると白色のものがしょっちゅう目に入ってくる。壁、天井、医者の白衣に、自分たち看護師が着用している制服も白一色だ。ここでは血や嘔吐物、排泄物で汚れたものはすぐさま廃棄、洗浄され、快適で清潔な白だけがいつも人の目につくようになっている。
「静くん、さっきはありがと。十号室のバイタルチェック行ってくれて」
「先輩、忙しそうだったので」
「ほんっと助かる。あー静くんのおかげで今日も主任に怒られなくて済むー。あの鬼主任、十秒の遅刻で十分のお説教垂れるんだもん」
 一年先輩の女性看護師は腕時計を確認すると、いつもサンキュ、と静の二の腕を叩いて速足でナースステーションへと向かった。静も、自分の腕時計に目を落とす。陽に当たる機会の少ない自身の腕の生白さにすら目がチカチカする、夜勤明け間近の八時四十分。朝のミーティングのちょうど五分前。
 総合病院の病棟看護師の仕事はハードだ。日勤と夜勤があるため生活のリズムは狂うし、患者の急変やわがままで簡単に残業とストレスは増えていく。男の静でも体力的にきつい時がある。女性なら、なおさらだろうと思う。

「ミーティングは以上です」
 朝のミーティング終了後に申送りノートを日勤の担当者に手渡す。夜勤の仕事はこれで終わり。そのままナースステーションを出ようとしたところで主任に呼び止められた。
「静くん、紹介するわ。彼、昨日から病棟のリハビリに来てくれてる須田和真くん」
 そういえば昨日出勤前の夕方に、新しいリハの人間がひとりこのフロアに来ていると誰かから聞いた気がする。
 小さくて丸っこい主任の隣に立つとスラリとした長身が際立つその男は、深く素早く頭を下げてから頑丈そうな白い歯を見せて、理学療法士の須田です、と名乗った。学生時代、絶対モテたであろう体育会系のさわやか青年という感じ。初々しさとこなれた感じが混じった印象で、とにかくただきらきらとまぶしい。夜勤明けのにごった目に一秒だって映していたくない、四月の空気をまとった男だ。
「静です」
 小さく告げ、こちらもそっと頭を下げると。
「名前、なんすね」
 言われた意味がよくわからず、聞き返す代わりに軽く目を合わせたら、須田は好奇心に満ちた目を静の名札に向けた。
「静朋史。変わった苗字ですよね。男の名前で静ってあまりいないし、苗字とは思いもしなかったからあだ名かと思いました。なんかおとなしい、静かな人っぽいから。あ、ほら、みなさんミーティングの時にあなたのこと静くんって呼んでたので、勘違いしたんです」
 人がおとなしいかおとなしくないか、会って間もないのになんでわかるんだ、とは思わなかった。すぐに露呈してしまう。静は自分が放つ暗い雰囲気を自覚していた。
 だけど初対面の人間に、そんなにこやかになれなれしく話しかけられてもなにを返せばいいかわからない。黙っていると主任が見かねたのだろう、苦笑いでフォローしてくれた。
「静くんはたしかにおとなしいけど、仕事はできるからね。あなたも女性看護師より男性のほうがいろいろ話しやすいでしょ? 患者や病棟のことでわからないことがあったら彼に相談して。静くんもわかることは須田くんに教えてあげてね。受けもつ仕事は違うけど、チーム医療でお互い協力していきましょう」
 二人の手首をつかんだ主任に導かれ、須田の手と手が触れる。陽に焼けた須田の手は、見た目の印象どおり触れると体温が高く、静の青白く冷たい手とは対照的だった。まるで自分が死んでるみたい。静は生きている人間の生々しさに触れた気がして身震いした。
「お世話になります」
 笑顔で告げられ、まぶしさから思わず目をそらす。小声でよろしく、とだけ返した。力強く握ってくる接触から逃げるように手を引き、静はふたたび須田と目を合わすことはせず、その場をあとにした。


 白が多い院内のまぶしさは苦手だが、静は看護師の仕事が好きだった。体力的にも精神的にもきついぶん、やりがいがある。だけど誇りは持っていない。自分のすることで人の命は救えないから。医者がいて初めて、患者は救われる。
 看護師は立派じゃない。男で看護師なんてやってるのは底辺の人間だ。自分が誰かを助けられるなんて思い上がるな。勘違いするな。
 今から四年前。約一年間にわたって何度も繰り返し吹きこまれた言葉はその後もずっと静の心に植わっていて、もう今じゃ自分の考えみたいにそこに存在している。
「痛っ、てー!」
 比較的近くから聞こえてきたその叫び声に、思考が途切れ、静の眉間に微かな皺がよる。声の主はこの四人部屋の病室内にいるのか、もしくはすぐ外の廊下か。
「誰の声だ?」
「……さあ、誰でしょう」
 術後のガーゼを交換していた患者からの問いに首を傾げつつも、静はその声が誰のものだかはっきりとわかっていた。
 声質が独特だからだ。音だけで判断すると低い部類に入る。だけど話し声に弾んだような抑揚があるせいで、声全体が明るい雰囲気をまとっていた。まあ、明るく感じるのは彼がよく笑うせいもあるかもしれない。
「なにかあったら呼んでください」
 ガーゼ交換を終えた患者に告げ、仕切りカーテンを開ける。と、病室の入口にうずくまっているさきほどの叫び声の主である長身の男を見つけて、静はひとつため息を落とし、そっと近づいた。
「どうかした?」
 かがんで声をかけると、のそっと、彼らしくない緩慢な動作で顔を上げ、涙目で静を見上げてくる。どのパーツも自分の1・5倍くらいありそうな、男らしく派手な顔立ちが今ちょっと間抜けに見えるのは、鼻からぽたぽたと血が垂れているせいだ。
「静さーん」
 母親に助けを求める幼子のような情けない声を出して、須田が今に至る経緯を話しだす。病室の、開けると自動で閉まる自閉式の引き戸を外から開けて、中に入ろうとしたら廊下から患者に声をかけられ、ひと言ふた言交わしたのち、開けたつもりでいた病室に入ろうとしたところ、自動で閉まっていた扉に顔面をぶつけたということだった。
「立ち上がろうとしたら頭くらーっとして。あぶねーって思ってしゃがんでじっとしてたら、今度は鼻血がぼたぼた出てきて、全然血が止まんなくて」
 立ちくらみがして鼻血が出るほどだ、どれだけ派手にぶつけたのか。
 医療用カートからティッシュを取りだし須田の鼻に軽く詰め、ガーゼを濡らして鼻の付け根を冷やす。静は須田の説明を聞きながらも着々と処置を施し、血液で濡れた須田の手と床をアルコールを含ませたナプキンで拭って、立ち上がった。
「二、三十分経っても血が止まらなかったら、先生に診てもらって」
「白衣の天使」
「は?」
「って感じ。静さん」
 しゃがんだまま見上げてくる須田からすーっと目をそらす。須田が突然恥ずかしげもなくおかしなことを言いだすせいで、頬のあたりが熱を持った。
「意味がわからない」
 そのままカートを押して病室を出たら、須田があとからついてくる。
「しばらく安静に」
「もう大丈夫っす」
「おまえ、八号室に用があったんじゃ……」
 どうしてついてくるんだ。扉に顔面をぶつけたことで、本来の用事を忘れてしまったのではないかと危惧したら。
「静さんが八号室に入ってくの見かけたから、追っかけたらこんなことに」
 振り返ると、ティッシュを詰めた自分の鼻を指さし笑う。通りすがりの女性医師が須田の顔を見てちょっかいをかけて去っていった。
 こういう男がモテるのかもしれないと、静はふと思う。完璧な容姿で完璧を求めないところとか、どこかちょっと抜けていて憎めないところとか。いつ会っても陰りが見えない太陽みたいに明るい男。自分とは違う世界の住人。まぶしくて苦手だ。
「僕になにか用?」
 追いかけてきたというのだから、質問でもあったのだろう。主任にチーム医療で協力してわかることには答えてあげて、と言われていたことを思い出す。
「お昼一緒にどうかなって思って」
 一瞬、自覚できるくらいに静の鼻の付け根に皺が寄った。
「もう食べたから」
「マジ? いつの間に」
 ふたたびカートを押して歩きだす。須田はまだついてくる。
「じゃあ明日は? 今日のお礼にごちそうさせてください」
 憂鬱。絶対嫌だ。ご飯くらいひとりで食べたい。そう思いながら曖昧に頷いた。付き合いの悪い人と思われることすら面倒だった。
 なつかれたくないけれど、悪目立ちもしたくない。ただそれだけの理由で、静は須田からの誘いを断らなかった。


「え、静さんそんなに食うんですか?」
 メインの親子丼と冷やし中華のほかに小鉢を三つ、隙間なく詰まった静のランチトレイの中身を見て須田は驚愕している。
「食べないと午後がもたないから」
 財布にきびしいと文句を垂れるくせに、静が自分で支払うと申し出れば、これはお礼で約束だから、と須田は頑として譲らなかった。
 昨日、鼻血の処置のお礼にごちそうさせてください、と言われ頷いたけど、その約束を静はできれば現実にしたくなかった。だけど早めの昼休憩のためにこっそりナースステーションを抜けだしたところで、須田に捕まってしまった。
 午前十一時の院内食堂は、まだお昼のピークを迎える前で人が少ない。窓際の二人掛けのテーブルに、須田と向かい合わせで座る。
「意外すね。食細そうに見えるのに」
 食べるぞ、と気合を入れて腕まくりしたところで須田がぼそっと言った。目線の先はシャツをまくった静の、ところどころ青紫の静脈が浮き出た細い腕。
「悪かったね、貧弱で」
 胃下垂なのか、静は昔からどんなに食べても太れない体質だった。それに看護師は肉体労働だが、これも体質で毎日労働しても筋肉はほとんどつかない。正直目の前の男がうらやましいと思う。同じ職場で働き始めて一週間が経つが、須田は細めなのに全身にしなやかな筋肉がついているようで、日常の動きを見ていても無駄がなく、体幹のバランスがいいのがわかった。
 そんな理想体型に貧弱な体を見られ続けるのが居たたまれなくて、静は一刻も早く食べ終えてこの場を離れようと、手を合わせて食事を始めた。
「いや、そうじゃなくて。いいなって思って、ギャップが」
「ギャップ? なんだそれ」
 まだ全体を混ぜきっていない状態の冷やし中華を端からずるずる吸いこみながら、静は首を傾げた。
「そう。ギャップ萌えってあるでしょ。それです。デートに誘った女の子がちょっとだけ食べて『もうおなかいっぱい』とか言うの、オレあんま好きじゃないんすよ。細くっても気持ちよく食べる人って、見てるこっちも気持ちよくなっちゃうっていうか。だからいいっすよ。静さんみたいにおとなしくて繊細そうな人が健啖家なのって」
 静の麺をすする手が一瞬止まって、すぐ再開する。なんと答えればいいかわからなかったし、須田がなにを考えてそんなことを告げてくるのかもわからなかった。デートに誘うような女の子と自分を比較されても困る。
 でもその後の会話で、須田がなにも考えてないことはわかった。黙々と食べ続ける静の前で、須田は脈絡もないことをしゃべり続けていたから。その内容の九割が須田自身のことで、残り一割が静への問いかけ。
「静さん、部活なにしてました?」
「帰宅部。須田くんは」
「中高とサッカー部でした」
「それっぽい」
 いつも陽に当たってる、青春の主役のイメージ。そう伝えると須田ははにかんで笑った。
 六年間サッカーに打ちこんだことと、怪我による離脱。その時のリハビリ経験があったから、理学療法士を目ざした過去。学生時代の友達とのくだらないエピソードから、人生を決めた重大な出来事まで、冷やし中華と親子丼と三つの小鉢を平らげる間に、須田のさまざまな情報が静の頭に記憶された。
「本当に全部食べちゃったんすね……」
 須田の独り言を聞き流して、空になった自分のランチトレイを手に席を立つ。しゃべり過ぎてまだ完食していない須田を置いて売店に向かい、アイスコーヒーと売店名物のあん入り蒸しパンを二つずつ購入して席に戻った。
「ごちそうさま。これ、よかったらどうぞ」
 須田の前にコーヒーと蒸しパンを置いて自分は先にその食後のデザートを食べ始めていると、あんぐり口をひらいた須田と目が合う。
「なに」
「あれだけ食べたのにまだ食うの」
「悪い?」
「悪くないすけど、静さんの食欲すげー!」
 すげーすげー、と連呼するのを無視。というか、もう今まで交わした須田との会話の中で何度も、答えられないことに対してスルーを決めこんでいるのだけど、須田はそんな静の非情な行為をまったく意に介していないように見える。
 暗かったり口数が少なかったりするから、静の周りに人は集まらない。看護師仲間の女性たちは業務上では話しかけてくれたり頼ってくれたりするが、何度か誘ってくれた飲み会や食事会などで静がほとんどしゃべらないため、いつからか彼女たちとのプライベートでの交流はなくなっていった。
 須田もきっとそうなる。静の無口で反応が薄いことにつまらなさを感じて、時間の経過とともに自分から離れていく。
 早くそうなるといい、となぜか今までより強く思った。汚れた自分を知られる前に、須田が自分に対する興味を失うことを静は強く望んだ。





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白に混じる幸福(2)


 白色の壁に、ところどころ薄い葡萄色の染みが飛び散っている。それはもうすっかり乾いていて、血の匂いはしない。匂いがしないとは言っても、本当にそれが血のあとだという証拠はない。
 ただの噂だ。この仮眠室で昔、看護師が手首を切って自殺をしたという噂話。
 五年前、静がこの病院で働き始めた頃に先輩の看護師からその噂話を聞いた。その先輩も先輩から聞いたわけで、いったいどれくらい前に起きた出来事なのかもわからないようなあやふやな話なのだが、噂が流れてからずいぶん経つであろう今でも不吉だ、怖い、と言って、この仮眠室に近づく者はいない。たったひとり、静をのぞいて。
 長い夜勤の休憩時間、静はいつもこの誰も使わない、曰く付きの仮眠室を利用していた。
 ひっそりとした小さな部屋のパイプベッドに横たわる。ちょうど寝転がった頭の位置の隣、白に混じる点在した汚れをぼんやり見ているとほっとする。
 真っ白じゃない、今日もちゃんと汚れてる。葡萄色の染みを指先でなぞっていると、自分の中の汚れた部分と壁の染みが重なり合うような錯覚に陥り、だんだん眠気が襲ってくる。
 心地いい、夢かうつつかそのはざまで、扉を叩く音がする。セットした目覚まし時計じゃない音に起こされている、とはっきり気づいたのはノックが始まってからどれくらい経っていただろう。今までこの部屋に来訪者など一度もなかったから、その音が現実のものだと気づいた時には静はあまりに驚いて飛び起きていた。
「はい」
 返事をすると、ゆっくり扉がひらく。意外過ぎる人物が開いた扉から顔をのぞかせたため、静の上半身を支えるベッドについた左腕が、がくっと折れた。
「静さん、なんでこんな部屋使ってるんすか」
 首をすくめておずおずと室内に入ってくる須田に、静は寝起きの不機嫌を隠さず目をこすってうなだれた。
「なにしてるの、おまえ」
「なにって、近くで友達と飲んでて、まっすぐ帰ろうとしたんすけど、そういえば静さんと最近会ってないなぁってぼんやり考えて、もしかして今あの人、夜勤で病院にいるんじゃね? って思って勢いで会いに来ました」
 どうやら須田は酔っているらしい。それはわかった。しかし言ってる意味がわからない。
「勤務時間外にこんなとこ来てなにしてるんだよ、今すぐ帰れ」
 リハビリの仕事は日勤だけで、夜勤はない。
「嫌です。だって静さん夜勤が続くとなかなか会えないんだもん。あ、こっそり遊びに来たことはみんなに内緒すよ」
 須田がすごく真面目な顔つきで、唇の前に人差し指を立てている。
 シー、じゃないよ。この男はなにを考えてるんだ。
 鼻血のお礼の食事以降も、何度か昼を一緒に食べた。静は相変わらずしゃべらず、須田は相変わらず静の食事量に驚いていた。無口なつまらない自分をさらし続ければ須田は徐々に離れていくと考えていたが、まだその気配はなかった。だけど今日、須田のとったこの突飛な行動のおかげで、彼が自分への興味をまったく失っていないことに気づいて静は驚愕し、怖れた。
「それよりなんかこの部屋、寒くないすか?」
「寒いよ、霊がいるから」
 真顔で即答すると須田はヒッ、と情けない声を出して雷を恐れる子供のようにその場にうずくまった。室内に入ってきた時の様子から、須田も例の噂を誰かから聞いて知っていたのだろうとわかっていた。だから脅すことでここから出ていかそうとしたのに、うずくまったままなにやら鞄の中を漁っている。
「なにしてるんだ」
「んー……、この部屋怖いから、これ貼りましょう」
「なにそれ」
「さっきガチャガチャでとったんすよ」
 球状のカプセルをかぱっと二つに割って、須田はその中から取りだしたクマのキャラクターシールを白壁に貼りつけた。
「そ、そんな勝手なことしたらだめだろ」
「だいじょぶですって。この部屋どうせ静さんしか使わないんだからバレないバレない」
「はあ? そんな問題じゃないだろ」
 どうやら噂話とセットで、この部屋を使用しているのは静だけ、という情報も須田はすでに耳に入れているようだった。
 呆気にとられる静の隣で、酔っ払いは鞄から次々とカプセルを取りだし、壁にシールをペタペタと貼っていった。いったい何回ガチャガチャを回したんだ。葡萄色の染みの真上にさまざまなポージングを決めたクマが横一列に並べられ、殺風景な部屋の一部分が須田のせいで一気にファンシーな様相に変わってしまった。
「あ、いい感じ。これで怖くなくなりました。よかったぁ、一安心。また遊びに来ますね」
「は?」
 やりきった表情を見せて、須田は唐突に仮眠室を出ていった。酒が入った須田の拍車がかかった遠慮のなさに、静はしばらく閉じた扉を見つめて呆気にとられていた。

 須田は翌日も、静の夜勤の休憩中に仮眠室にやって来た。今日の須田の昨日と違った点は、シラフだということ。
「前にも一度言いましたけど、白衣の天使だと思ったんすよね」
 だけど須田はシラフでもやっぱりちょっとおかしいと、静は思う。
「初日の朝のミーティングの時、たくさん看護師さんたちがいる中で、唯一の男性である静さんがいちばん繊細そうでおとなしそうで綺麗で、あ、白衣の天使ってこんな感じかぁ、って思ったんです」
 ベッドに腰かける静の隣で、須田が延々静の第一印象について話している。自分のことを言われているのに相づちのひとつも打たず、静は夜食の弁当を食べたあとだというのに、須田が差し入れてくれたハンバーガーの三つ目に手を伸ばした。
「それがこれだもんなぁ」
 それがこれ。ため息まじりに須田が呟く。
 以前は見た目と健啖ぶりのギャップがいいと褒めてくれたが、やはり度が過ぎていると思い直し、須田は自分に落胆しているのかもしれない。そんなことを考えると、なぜか急に胸の辺りが苦しくなった。解いたばかりの三つ目の包み紙を元に戻して袋にしまう。
「あれ、もう食べないんすか?」
 つかえる胸をとんとん叩いて、静はペットボトルの水を飲んだ。
「甘いもののほうがよかった?」
 優しい声音で尋ねられ、静は隣を見た。須田は声と同じくらい、柔らかい表情をしていた。どうやら須田は食べすぎる自分にがっかりしているわけではなかったようだ。胸の中のつかえがすっと消えた。
「あ、ケチャップついてる。かわいい」
 静の頬に一瞬触れたぬくい指が離れていく。須田はそのケチャップのついた赤い親指を躊躇なく舐めた。
「だめ、だ」
「なにが?」
 顔が異常に熱い。
 須田がわけのわからない行動をとるから困る。須田が自分から離れていく気配を見せないから困る。
 だけどそんな須田の言動よりも、須田に冷たくされたと勘違いして傷ついたり、優しくされてほっとしたり、かわいいと言われてドキドキしている自分こそがだめだと思った。
 いったいなにを考えてるんだ。いつから須田にこんなふしだらな感情を抱いていたのか。
 静は自分の急速な心の変化に怯えて、頭を抱えた。
 男を見ると欲情する。きみは男だったら誰でもいいんだな。
 あの人に言われた言葉が頭をよぎって、静は青ざめた。
 こんな汚れた自分を誰より須田に知られたくないのに。白衣の天使なんかじゃなかった、と落胆されるのが怖い。一刻も早く須田に飽きられて距離を置かなきゃいけない。
 意図的に須田を自分から遠ざける。静はパニックになりながら唐突に決意した。
「須田くん」
「あ、呼び捨てでいいすよ。和真で」
「…………須田」
 一瞬、迷ってから呼び捨てると。
「あ、そっちね」
 ふっと吐きだした息に苦笑が混じっていて、あまり見ない大人っぽい感じの須田に新鮮さと魅力を感じている自分を意識してしまい、静の焦りがさらに大きくなる。
「もうここに来ないでほしい、迷惑だから。あと、昼食もひとりで食べたい」
 焦り過ぎていて須田への気づかいを忘れた。自分の希望だけを早口でオブラートに包まず伝えたら、須田の動きが一瞬止まった。傷つけた、と思う静自身がなぜか傷ついていたけれど、すぐさま須田は腰かけていたベッドに仰向けに転がって笑い出したので、静はもうなにがなんだかわからなくなった。
「な、なんだよ……」
「すごい、静さん、ド直球!」
 ゲラゲラ笑い転げている須田を上から眺めながら、静は呆然としていた。ひどいことを言ったのに、どうして須田はこんなふうに笑ってくれるのだろう。
「なんで迷惑なんすか?」
 尋ねられてハッとする。さっきまで大笑いしていた須田が、笑いは引っこめたものの、好奇心に満ちた目でこちらを見上げていた。
 なんで迷惑かって。それは距離が近くなると、自分の汚れた本性を須田に知られてしまうからだ。白衣の天使なんて言葉とは程遠い自分。今でも元に戻れるのなら、なにも知らなかった純粋で真っ白なあの頃に戻りたい。
「まあいいや」
 なんと答えていいかわからず固まっていると、須田が勢いをつけて上半身を起こした。
「オレはね、迷惑とか、平然とありのままに伝えてしまう静さんのことを、今すごく気に入ってるんです。だから迷惑だなぁって思いながらでもいいから、オレのこと近くにおいてくださいよ」
 笑いをふくんだ楽しそうな声で須田は言った。こんな陰気で取り柄のない男を気に入ってるとか、意味がわからない。困る。距離を離さなきゃいけないのに。そんなぐるぐる回る思考の裏で、心音が速まっていく。
 しばらく沈黙が続いた気まずい雰囲気の中、どこからか静の声が聞こえてくる。
「朝だ、朝だ、朝だ、朝だ――」
 同じ言葉が同じ調子で同じ音程で、延々と繰り返される。それを止めるまで。
 静が今、発声したわけではない。それは休憩時間終了の十分前にタイマーでセットしておいた目覚まし時計から流れてくる音だった。
「な、なになになに?」
 驚く須田の背後に手を伸ばして、目覚ましを止める。
「なんすか、今の『あさだあさだ』って」
「目覚まし時計」
「自分で吹きこんだの?」
「そう」
 もらいもののアニメキャラクターの目覚まし時計は、デフォルトで入っていたキャラクターの声があまりに高かったため、内蔵されていた録音機能を使って自分で声を吹きこんだ。『朝だ』のひとことだけを入れたため、自分の暗い声でそれが何度も繰り返されると滅入ってくるが、キャラクターの声の時みたいに音が大きすぎてびっくりしないことと、陰気な声を聞いていたくなくて早く止めることができる、という利点がある。
 貸して、と言われたので手渡すと、須田がせっかく止めた目覚ましをまた鳴らしている。じっとうつむいて聞いているのかと始めは思ったが、肩を震わせて笑っているのだと途中で気づいた。
「返せ」
「アハハハハ、『朝だ』がゲシュタルト崩壊しそう」
「おまえのせいで眠れなかったんだから」
 思わず恨み言が口をつく。人に対して激しい気持ちをぶつけることなどめったになかったため、静はそんな自分の暴走にまた驚いた。
「ごめんね」
 甘い声で謝罪されて、心臓がキュッと縮んだような錯覚を起こす。
 だめだ、と制止する思考と焦りは、須田に引っ張られていく気持ちに追いつけない。
「今度からはさっと来てさっと帰ります」
「もう来るなよ」
 無駄だと思いつつも伝えたら、須田は楽しそうに笑っていた。





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白に混じる幸福(3)

 術後の経過が順調で、傷口をふさぐガーゼが日に日に小さくなっていく。体を切った直後は痛みと熱で食事も睡眠もままならなかったのが、今ではぐっすり眠ったあとの朝食の薄味に文句も言えるくらい元気になった。そんな患者の快復していく変化を見るのが、看護師という仕事をしている上でいちばん幸せだと静は思う。
「おしまいです」
 ガーゼ交換のあと、全身の清拭をして新しい寝衣に着替えさせた老年の患者が、嬉しそうに静を見た。
「やっぱり静ちゃんがいちばんだぁな。丁寧だし、気ぃつかってくれるし、優しいしさ」
「なんですかそれ」
「女はだめよ。顔はニコニコしよっても、腹でなに考えてるかわからんから」
 処置を終えてベッドの仕切りカーテンをひらくと、四人部屋のほかの患者たちも聞き耳を立てていたのか、話に入ってくる。
「そうそう。俺ぁこの前、新人の女の看護婦さんに体拭いてもらったんだけど、着替える時に腕引っぱられてちぎれそうになったんで」
「痛いって言っても、ごめんなさぁい、我慢してくださいねぇ、とかぬかしやがる。女は誠意が足りんのよ」
「新人は新人でも、あの男はよくやってくれてるぞ。ほら、この前ここの戸で顔ぶつけて鼻血出しよった」
「須田、ですか」
 静が名前を出すと、須田のリハビリを受けていない患者までもがそうだそうだ、あいつはいい男だ、と同意しだす。
「まだ新人だけど勉強熱心でな。あいつは闇雲に明るいだけじゃないよ。思うとおりに体を動かせんワシの気持ちを理解しようとしてくれてる。そういうのが伝わってくるから、こっちもリハビリ頑張ろうって思えるのよ」
 思わぬところから須田の評価を耳にして、静はなぜか胸がじいんとなった。患者との接し方にも人間が出る。リハビリの仕事は看護師以上に患者と深く関わっていく。人が好きでないとできない仕事だ。理学療法士は、裏表のない須田に向いているのだろう。
「なに静くん、ニヤニヤしてめずらしい」
 ナースステーションに戻ると、先輩看護師に指摘されて静はゆるんでいた表情を引き締めた。自分でもなにがそんなに嬉しいのかと思う。自分とは関係のない須田が褒められただけだというのに。
「ちょっといい加減にして、あなた」
 突然、怒りをまとった主任の声が響き、ステーション内の空気が一瞬でピリッと固まる。
「できない、じゃないの。やってちょうだい」
 嗚咽を隠しきれないくらい泣きじゃくっている女性の新人看護師に、主任は慈悲もなくそう言い残してステーションを出ていった。主任の姿が見えなくなると十秒ほどざわざわとした空気が流れたが、その後はみな自分の業務に戻っていく。今日は月曜で朝から新たな入院患者が入ったり、ベッド移動があったり、検査が多かったりで、誰もが人を手助けするような余裕がなかった。
 いつもは助けてくれる先輩たちが目も合わせてくれないのを見ると、新人看護師はさらに目に涙を溜めた。静も自分の仕事があったが、そんな状態の彼女を放っておくわけにはいかない。
「どうしたの」
 通路の邪魔になっている彼女を移動させ、尋ねると、すこしホッとした様子で事情を説明してくれた。数日前に一度失敗した同じ患者の、点滴のルート確保が怖くてできない、という話だった。
「今日は僕がやるから、隣で見てて」
 彼女と一緒に準備をして病室へ移動する。その男性患者はまだ四十代と若く、血管も太く柔らかそうで、静脈を見つけだすルート確保が難しくはなさそうだったのだけど。
「絶対失敗するなよ」
 彼はきっと一度目の時も同じことを言ったのだろう。針を見た直後に発せられた患者のひとことで、彼女がプレッシャーによって恐怖を感じているのだとわかった。
 一発で針を刺して点滴を通し、病室を出る。ナースステーションに戻る途中、うしろを歩く新人看護師にそっと声をかけた。
「ああいうこと言う人たまにいるけど、気にしなくていいから」
「はい……。静さんくらいになると、もうどんな状況でも失敗しなくなるんですか?」
 自分くらい、と言われるほどに経験を積んでいるわけではなかったが、その点は指摘せず、あるよ、と答えた。
「たまに外す」
「ほ、ほんとですか。そういう時、どうするんですか?」
「謝る」
「それだけ、ですか?」
「うん」
 難しく考えすぎている彼女に、静は自分の失敗談を聞かせた。
「新人の時、強面の患者さんに三回刺して失敗して、殴られたこともある」
「な、殴られちゃったんですかっ」
「うん、女の子は殴られないから羨ましい」
 男は相手が同性だと容赦しないのだと教えると、彼女はふふ、と後ろで小さな笑いをこぼした。
「どんな立派な看護師も失敗した経験があって今があるんだと思う。辛いことも多いけど、やりがいもあるから。困った時は声かけて。出来る限りのことはしたいと思ってるから」
「……はいっ」
 芯のある返事を聞いて、振り返り、彼女の顔を確認する。涙のあとのきらきらした目で見つめてくる新人看護師とその場で別れ、静は自分の仕事に戻った。


「静さんって誰にでも優しいんですね」
 午後三時。食堂ですっかり遅くなった昼食をとっていると、休憩でコーヒーを飲みに来た須田がテーブルの向かいに座った。
「なんだそれ」
「内田さんから話聞いたんすよ。静さん、さっきフォローしてあげたでしょ。彼女と廊下でばったり会って、泣き腫らした目でニコニコ笑って歩いてるから何事かと声かけたら、仕事で困って泣いてる時に静さんに助けてもらっちゃったって、自慢されました」
 それを自慢と受けとる須田はどうかしてる。静は黙々とざるそばをつゆにつけてすすりながら、須田は女性看護師の新人とちょっとしたことで声をかけ合うくらいに親しいんだな、とか考えている自分もどうかしてると思う。
「僕は優しくない」
 そばを平らげたあとは、チキン南蛮定食、小鉢のとろろ納豆と白和えとほうれん草まで、テーブルに並べたすべてを食べきってから静は訂正した。あまりに間が空いていたため須田は一瞬ほうけたような顔をしたが、静の言ってる意味に気づくとなぜ、と反論してきた。
「静さんは優しいですよ。いろんな人から話聞くもん。仕事ができる、気を使える、優しい人って、誰からの評判もいいですよ」
 裏でなにをこそこそ聞きまわってるんだ、と頭の片隅で非難しつつ、まっすぐ見つめてくる目から目をそらして、静も反論した。
「それは僕が、いい人の振りをしてるから」
「振り?」
「僕はいい人じゃないから、いい人の振りをしてる。優しくないから、優しく見えるように努力してる。悪人が善人ぶってるだけだ」
 いつも気をつけている。できるだけ自分の汚れが露呈しないように、目立たないように、誰の目からも変態であることを隠すように。人と接する時はそのことだけを考えている。
「みんなそうだよ」
 ひどくそっけなく告げられた須田の言葉に、静はうつむいていた顔を上げた。
「根が優しい人なんて、ごく一部なんじゃないすか? みんないい人に見られたいとか、人に好かれたいとか、いろんな理由で人に優しくしてるんじゃないかな。少なくともオレはあなたを見ていて優しいと感じるし、静さんの周りの人たちもみんな静さんをいい人だと認識してます。人の目にそう映れば、もうそれが真実なんすよ。だから優しいんだよ、あなたは」
 言いきる須田にまた反論しようとしたら、手のひらを顔の前にかざされて止められる。
「あ、この考えは絶対譲りませんからオレ」
 目を細め、凄んだ表情で須田がにらみつけてくるので、気が抜けた。ふっと息を吐くと柔らかい気持ちがむくむくとこみあげてきて、こらえる余裕もないまま静はなんだか笑ってしまった。
「めったに笑わないけどさ、笑うとかわいいすよね、静さんって」
 目は細めたまま、表情をゆるめた須田がそんなことを言うので、漏れ出てくる笑いを引っこめたら。
「そうやって気持ち隠すの、やめたほうがいいよ」
 ありがた迷惑な忠告に、眉間に皺が寄る。
「あ、今、うるさい須田黙れ、って思ったっしょ」
 須田の言ったことが心の声とほとんどぴったり合ってたので、もう我慢できず噴きだしてしまった。笑顔を見られないようにランチトレイを須田のほうに押しやって突っ伏して笑った。
「あーなんかたまらん。静さんが感情豊かにしてるの嬉しいし可愛いしたまんないす」
「本当にちょっと黙って」
「やっぱりさっきも心の中で思ってたでしょ。オレの言ったこと当たってたでしょ」
「うるさい須田黙れ」
 声をあげて笑う須田につられて、静もテーブルに向かってクスクス笑い続けた。

「残業おつかれっす」
 業務が長引いて遅くなったその日の帰り、職員通用口を出た静を須田が出迎えた。無言で隣を通過すると、あーあ、鉄仮面に戻ってる、とぼそっと呟くので、静は昼休憩の時の名残でまたこっそり笑ってしまった。
「そういえば、患者さんがおまえのこと褒めてたよ」
 隣に並んだ須田のことは見ないで伝えると、え、と一音なのに喜んでいるのがまるわかりな反応が来た。
 昼間の患者たちとの会話を思い出して須田の評判を本人に教えると、素直に嬉しい、と言った。
「裏表がないのに評判がいい須田こそ、本物の優しい人なんじゃない」
 本音ではあったが、これを言うことで須田は調子に乗るんじゃないかと思ったら、意外にも否定の言葉が返ってくる。
「いや、オレこそ真の偽善者ですから。人は好きだし、本気で仕事に取り組んでるけど、いざ仕事を離れたところで患者さんたちに優しくするかって言われたらしないもん。仕事だから真剣に向き合ってるけど、プライベートではオレけっこう人に冷たいんすよ」
「嘘だ、優しいじゃないおまえ」
 須田は遠慮がないが、その大胆不敵な言動の裏には優しさが透けて見えたりするので訂正したら、だからさ、と甘い声が耳に吹きこまれる。
「それは静さんが相手だからでしょ」
「なにそれ」
「静さんは、オレがプライベートでも優しいと思ってもらいたい人ってことです」
「意味がわからない」
「あ、そのさ、意味がわからないっていうの、静さんの口癖ですよね。本当はわからないんじゃなくて、わかりたくないんすよね。そのことについて深く考えたくないんでしょ」
「おまえ本当うるさい」
「あー、静さんが無視しないで感情をぶつけてくれるようになったことが幸福」
 指で数えられるほどしか星の見えない夜の空を見上げて立ち止まる須田を置いてくと、怒った? と嬉しそうに尋ねながらすぐに追いついてくる。
「ちなみに昼間オレが食堂で、静さんに優しいって言ったの、あれ内田さんに対する嫉妬から出てきた発言ですから」
 嫉妬。
 須田は、静さんは誰にでも優しいんですね、と言った。それが嫉妬だというのか。
「なんで男が男に嫉妬するんだよ」
 静は自分で言って可笑しくなった。まさに自分自身が男に嫉妬する人種であるというのに、非難めいた声を須田にぶつけているのが滑稽だった。
「静さんってさ、男はだめ?」
「なに言ってるんだ」
 うしろを歩いていた須田が隣にやって来て、真剣な声音でそんなことを言いだすから、心音がますます速まっていく。
 男がだめなんじゃない、男しかだめな自分。
 だけどそんなことを唐突に直球で尋ねられても、静のほうは正直に答えられない。
「男相手とか、気持ち悪いって思っちゃいます?」
「そう思うのは、須田のほうだろ」
 以前、デートに誘った女の子が少食だと嫌だ、と話していた。須田はそうやって今までに何度も女の子をデートに誘ってきたということだ。ああ嫌だ。こんなずいぶん前の須田との会話の中の、些末な一部分を覚えている自分の気持ち悪さに鳥肌が立ってきた。
「オレのほうは平気っていうか、むしろ積極的に静さんと交わりたいっていうか」
 右手が、右側を歩く須田の左手とぶつかった。偶然触れただけだと思ったそのすぐあと、指先をまとめてぎゅっと握られて、ただでさえ速すぎた心臓が爆発しそうになり、静はその場に立ち止まった。
「オレは今までは女性としか付き合ってこなかったけど、静さんだったら、というかもうそんな問題じゃないや。たぶんすでに落ちてるんだと思う」
 独り言のような伝える気のなさそうな須田の声が、うつむいたつむじの辺りに重くかぶさってくる。暗い夜道との境が曖昧な自分の真っ黒なスニーカーをじっと見つめていると、繋がれた手とは反対の須田の手が、うつむいた頬に触れた。こんなに激しくドキドキしている裏側で、須田の体温の高さに居心地のよさを感じている自分がゆるせなくなって、その怒りを須田にぶつけようとしてキッとにらめつけるように顔を上げたところで、キスされた。唇に。
 その唇もやっぱり温い、と感じたのは一瞬。
「…………っ、ぅ」
 驚いて口を開けそうになって留まる。抵抗もできないまま、だけど、気持ちいい、と意識しそうになる程度には長いくちづけだった。
「やらけー」
 キスの直後に感想とか言うやつはバカだ。とか心の中だけでも悪態を吐いていないと、顔がどんどん赤くなっていってしまう。今が夜でよかったと思う。
「ねえ、だめ?」
 甘い声で須田が尋ねてくる。男相手はやっぱりだめか、と問うてくる。
 正直に答える必要なんてなかった、と数分後には後悔していた。だけどこの時は突然のキスの興奮で体が火照っていて、内側からなにかを発散しないと沸点を超えて脳みそが爆発しそうだったから、静は濡れた唇を手の甲で拭って、須田をにらみつけながら告白してしまった。
「僕はゲイだから」
 ほとんどやけくそだった。
「ずっと男が好きだから。男相手に気持ち悪いって思わない」
 早口の声が上ずる。おまえみたいに女と付き合ったことのある人間とは違う。本物の男好きを見て幻滅するならしろ、とどこか傷つきながら思ってたら。
「マジで? ラッキー」
 軽くてのどかな声がして、指先を握る手にきゅっと力がこめられた。
 この男がどこまで本気なのかわからない。
 触れられた手を振りはらう。とにかく怖かった。
「でもだめ」
「だめって、オレがだめってこと?」
「そうだ」
「じゃあさ、静さんはどういう男の人がタイプなんすか?」
 タイプなんてない。自分はただ男が好きなだけ。男だったら誰だっていい。そう、淫乱で変態なんだから。
 あの人に言われた。何度も何度も。おかしな行為の最中に植えつけられた言葉が頭の中をぐるぐる回る。
「カッコいい人? 優しい人? 面白い人?」
 誰だっていい。
「須田以外」
「はい?」
「須田以外の人がタイプ」
 とにかくおまえはだめだと伝えたかった。この言葉で須田を傷つけることは確実だったけど、手段を選ぶ余裕が静にはなかった。
 そしてこの発言で、須田を傷つけると同時に嫌われることになる。最悪の方法だけど、彼を遠ざけることができるんだからこれでよかったんだと自分に言い聞かす。嫌われることに怯え、傷つけることに傷つき、ほかに幾らでも人との距離を取る方法なんてあるはずなのにそれを思いつけない自分の対人スキルの低さに嫌気が差す。
 よく知りもしないくせに、白衣の天使だとか過大評価をして距離を詰めてくる須田が憎い。だけどそんな須田に惹かれ始めている自分の心が、いちばん憎い。
「どういうことすか、それ」
「言葉、どおりの意味だ」
 なにも持たない手が震えだす。さっきまで須田に握られていた手を、今はひとりきりでぎゅっと握りしめていたら。
「だとしたら、ひでー」
 須田は夜空に向かって言葉を放つと、腹を抱えて笑い出した。なんでひどいと言っておきながら、そんなに笑えるのか。本気で意味がわからない。
「でもそれって、すっごい意識されてる気がしますね」
 確かに。当たってる。須田のことをすごく意識してる。
 須田を意識し始めたのは、いったいいつからだろう。ふとそんなことを考えて時間を巻き戻し始めると、『名前、なんですね』と言った須田との最初の会話がぽん、と頭に浮かんで、まさかそんな出会いの頃から意識していたわけないだろ、とドキドキしながら静は自分の思いつきを否定した。
「おまえは僕を買いかぶってる。僕は須田が思ってるような人間じゃないから」
「オレが静さんのことをどんな人間だと思ってるか、わかってるみたいな言い方しますね」
「白衣の天使だろ」
「アハハ、やっぱ静さんおもしれーな」
 自分で言ってて恥ずかしかったが、そもそもそれは須田が言いだしたことだ。なにも間違ってないのにバカにされて言い返そうとしたが、今はそんな小競り合いをしてる場合じゃないと思い返す。
「とにかく、須田はだめ」
「はいはい」
 適当にあしらわれたことは納得いかなかったが、そもそも須田はそこまで本気でアプローチしているわけではないのかもしれないと思い直す。須田はきっと、いや絶対モテる。軽い気持ちで、その場のノリで口説いて口づけてみただけ、ということもありうる。
 自分だってまだ須田がどんな男かよく知らない。静はそう気づいたのと同時に、もっと知りたいと思っている自分を戒めた。




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白に混じる幸福(4)

 久保田先生が帰ってくる、という噂が数日前から院内で流れていた。
 心臓外科医である久保田千尋は、プライベートの時間も『先生』と呼ばれることを望む人だった。
 だから静は久保田と付き合っていた一年間、一度も彼を名前で呼んだことはなかった。それは、セックスの最中でも、だ。
 今から五年前、静は看護大学を卒業し、この総合病院で勤務することになった。二十二歳だった。久保田はその頃まだ三十代後半だったが、心臓手術に不可欠な手技の速さと確かさを持っており、院内では若くして名医と呼ばれていた。
『君って、ゲイでしょ。見ているとわかるよ』
 まだ仕事に就いて間もない頃、ほとんど接点のなかった久保田にそんなふうに声をかけられ、静はすごく驚いた。違います、と答えようとしたのだが、声は出なかった。
 その頃の静は、自分がゲイだという自覚がまだなかった。二十二年間の人生で誰かと付き合ったことはなかったが、このさきいつか女性と結婚するのだろうと漠然と思っていた。
 だけど久保田にゲイだと指摘され、ハッとした。今まではっきり意識していなかった感覚が急に研ぎ澄まされ、過去にぼんやり感じていた男性に対する欲求が一気に強烈なものとして脳内に降りてきた。
『わたしもゲイだから気づいたんだ』
 久保田は言った。お仲間だな、と。
 それで静は、久保田と付き合うことになった。その流れは不自然でなく、むしろスムーズでなんの躊躇もなく、その会話を交わした夜には身体の関係になっていた。
 その時の自分の気持ちを静はよく覚えていない。どうして恋愛経験ゼロの自分が、よく知りもしない久保田を受け入れようと思ったのか。魔が差した、というには、一年の交際期間は長すぎる。だけど久保田のどこを好きだったかと聞かれると、今でもやっぱり静は答えられない。
『きみは男なら誰でもよかったんだ』
 久保田は事あるごとに言った。でもそれはたぶん、事実だ。
『淫乱で、変態だからな』
 いつも病院の中では穏やかで優しい久保田先生が、静と二人きりの時は冷酷で非情だった。付き合い始めのころはその落差を恐ろしいと感じたが、月日が経つのと性行為が過激化していくのにともなって、恐怖心のほうは徐々に麻痺していった。
 初めは目隠し程度だったのが、鞭やロウソクを使われるようになり、縛られ、吊るされ、痛いことはだいたい経験した。道具と性器を二本同時に挿入されることもしょっちゅうで、痛みしか感じない中、まだ足りないのかと嘲笑われた。
『気持ちいいんだろ、きみはこうしないとイケないんだからな』
 付き合いの最後のほうの行為では、久保田はそんなことを言って両手で首を絞めてきた。この場面で久保田の発言通りイケないと彼を不機嫌にさせ、さらに過激なことをされることはそれまでの経験でわかっていたので、静は目をつむったまぶたの奥で快楽とはなにか、必死で考えながら腰を振っていた。
 普通じゃなかった。異常な関係性だった。静はそのことに、別れたあとで気づいた。
 付き合い始めてちょうど一年後の春に、久保田の渡米が決まった。ニューヨークにある大学病院で最新医療を学びつつ、さらに手技の精度を上げるための転職だったらしい。
 久保田からの相談なんてものはいっさいなかった。前日に報告だけされ、ほとんど捨てられた形での別離だった。その頃の静は身体も心もぼろぼろだったため、久保田から解放されたことに内心ほっとしていた。
 交際していた一年間、いつも言われてきた。自分は価値がない人間なのだと。医師である久保田とは雲泥の違いがあると。淫乱で変態の薄汚れた身体を抱いてやってるんだからありがたく思え、と。

 今でもその時の感覚が染み付いている。久保田に与えられたほとんど快楽といえない苦痛の数々、何度も繰り返された罵詈の一言一句が、ひとつも消えることなく静の内部に潜んでいる。
 だけどそれはすべて、静が自分で選んだことだった。誰かに命令されて久保田と付き合ったわけじゃない。今でも時々考える。どうして捨てられるまで久保田を受け入れ続けたのか、自分から彼を突き放さなかったのか。未だに答えは出ていない。確実にわかることは、静自身が選択したということだけ。こんなに汚れてしまったのは、誰のせいでもない。
 異常な状態のさなかにいる時は不思議なもので、それが正常のような気がしていた。ゲイを自覚した直後、相手が男であるというだけで受け入れ、苦痛の中にある微かな快楽を与えられ続けた日々。
 病院の白を、夜勤明けの朝の光を、四月の真新しい空気を、まぶしいと感じ目を背けるようになった時、静は自分が汚れてしまったのだと知ることができた。
 そんなふうに自分が汚れていても、人に不愉快な思いさえさせなければそれでいいと思っていた。今まで通り仕事に打ちこみ、人との交流をできるだけ避ける。変態だと知られて誰かを気持ち悪くさせないように、目立たないように、静かに生きていく。それで問題がなかった。
 あいつに、須田に、出会うまでは。


 六月に入ると新人看護師たちもだいぶ仕事を覚えて動けるようになり、病棟内はすこし落ちついてきていた。
「日が長くなったよね」
 とりとめのない会話をしながら、日勤の帰る時間が一緒になった先輩看護師と職員通用口から外に出ようとした時だった。
「あ、待ち伏せされてるよ」
 静のシャツの裾を掴んだ先輩が後ろから、笑いを含んだ声で耳打ちしてくる。扉のすぐ外に、長身の長い影が伸びていた。
「しかし静くんに懐いたよねぇ、須田くん」
 しみじみとそんなことを言う先輩看護師を振り返り、静は否定した。
「懐いてませんから」
「そう思ってるの、静くんだけだよ」
 くすくす笑いながら先輩は、でもちょっとうらやましいな、と口をとがらせる。
「やっぱ男の子同士だからかなぁ。たった二か月足らずでこんなに仲良くなれちゃうのって。私たちも静くんと仲良くなりたかったけど、全然心ひらいてくれなかったもんねー。みんな仲良さそうな二人見て、羨ましがってるんだよ」
 恨みがましい目つきでにらまれて、静は、え、と素っ頓狂な声をあげた。
 看護師仲間たちは暗く無口な自分に嫌気が差して離れていったと思っていたが、実際はそんな静の想像とはすこし違っていた。
「でもまあ、職場内に仲間がいることはいいことだからね。男の子同士で話しやすいだろうし、いろいろ相談できるし、困った時は助け合えるし」
「そんな関係じゃないですから」
「はいはい」
 適当にあしらわれるとそれ以上否定することもできなくなって、そのままおつかれさま、と挨拶を交わして先輩とは別れた。外に出ると夕日を浴びてやわらかな色に染まった須田が、静を見つけて声をかけてくる。
「静さん、おつかれ。一緒に帰りましょう」
 その声が聞こえたのか、バス停に向かっていた先輩が振り返って笑った。やっぱ懐いてるじゃん、と言いたげなその目線から気まずげに目を逸らし、静はひとり歩きだす。
「静さん、おなか空いてません?」
「空いてない」
「うそだー。今日昼早かったじゃん。絶対ペコペコでしょ。今から飲みに行きましょうよ」
 一緒に帰ることをまだ了承していないのに追いかけてくる須田と、腹が空いてる空いてないで言い合いを続けているうちに、空腹感はどんどん膨らんでいく。
「静さんってお酒は飲みます?」
「腹が膨れない程度には飲むこともある」
「ああ、食事がメインなんだね。静さんらしいすね」
 静さんらしいとか、なにもわかってないくせにわかってるような言い方をするな。悪態を心の中だけにおさめたのは、もうしゃべるだけでもカロリーを消費してさらに腹が減りそうだったからだ。
「近くにすごく安くて料理のうまい居酒屋さんがあるんだけど」
「行かない」
「そこの手羽先の甘辛揚げがうまいんすよ。ビールにも合うし、たれの味で飯もいけるし。あと、〆に卵かけご飯も出してくれるの。新鮮な卵に甘めのしょう油かけて食うんすけど、それがまた絶品なんすよね~」
 よだれが垂れかけてハッとしたところで、うしろを歩いていた須田が静の一歩前に出てきて行く手を阻む。
「静さんって鶏とか卵とか好きでしょ。病院の食堂でよく食べてますもんね」
 よくわかってるじゃないか。
「行きませんか?」
「…………行く」
 食欲に負けた静が渋々応えると、須田は嬉しそうに笑った。

 須田がグラスに注いでくれたビールを半分だけ飲んだあと、静はひたすら食べ続けた。
 居酒屋は病院から歩いて十分ほどの場所にあった。細い路地を入った奥まった位置にあるため静は今までその存在を知らなかったが、狭い店内は平日なのに満席で賑わっている。
「本当においしいな」
「静さん、さっきからそれしか言ってない」
 ビールから焼酎に変えた須田が、ロックグラスを傾けて大人の顔で笑う。
 最近はめっきりすくなくはなったが、仕事帰りに同僚と飲んで帰ることもある。久保田と付き合っていた頃は、バーなどに立ち寄ることもあった。そんな時、腹が減っていても静は相手に合わせて酒を飲む。もちろんつまみにも箸は伸ばすが、今みたいに相手のペースを無視してご飯の盛られた茶碗を片手に本気で食べることなどしたことがない。静は人前なのにこんなリラックスして、相手に気を使わず、自分のやりたいように振る舞っていることが不思議だった。須田には知られたくないことがいっぱいあって、誰よりも遠ざけたい相手であるにもかかわらず、なぜか遠慮を忘れて気を抜いてしまう。
 おかわりしたご飯に生卵を落としてもらって、二杯目は卵かけご飯にした。もう何度目かわからない、本当においしい、を須田に伝えたあと、静はグラスに残っていたビールを飲み干して焼酎を注文した。
「自由だなぁ」
 そんな感想を漏らして、須田が愛おしげに見つめてくる。正面からの視線を受け止めきれず、静は運ばれてきたばかりの大きな氷が浮かぶグラスをくっと傾けた。
「仕事、慣れたか」
「慣れたり、慣れてなかったりっすかね」
「なんだそれは」
「慣れた部分もあるけど、やっぱ難しいっすよ。人間相手だし」
 須田の口から弱気な発言が飛び出して、静は驚いた。それが顔に出ていたのか、オレにも悩みくらいありますよ、と苦笑される。
「患者と深く関わるぶん、こっちの気持ちの浮き沈みが伝わっちゃうというか。今日ちょっと機嫌悪いね、なんて言われてドキッとしたりして」
「須田に機嫌の悪い日なんてあるのか」
「静さん、オレのことどんな人間だと思ってます?」
 まじまじと見つめると、不貞腐れたような顔をした須田におでこを指で弾かれた。
「そりゃあプライベートでいろいろあった日には、ちょっとへこんだりしますよ」
「いろいろって」
「たとえば、好きな相手にわかってもらえなかったりとか、邪険に扱われたりとか、避けられたりとか、キスしたのにオレ以外がタイプとか言われてそのあと放置されたりとか?」
 自分に当てはまる具体的な例を挙げられて、静は須田から目をそらした。
「あ、困ってる」
 笑いの混じった声に、須田はやっぱりどこまで本気なのかわからないと思う。こんなことでドキドキしてるのは自分だけな気がする。
「とか言って。でもこっちの不機嫌なんて比じゃないくらい、患者はしんどい思いしてるでしょ? そんなこと覚られてる場合じゃないなって思います。オレもリハビリの経験はあるけど小さな怪我だったし、今健康なオレが今リハビリの必要な人の気持ちを百パーセント理解することって無理だけどさ。本人にしかわからないつらさがあると思うから。でもその気持ちに近づきたいってやっぱ思います。時々想像するんです。身に染みついてた機能が突然失われて、まっさらな状態になるってどんな気持ちなんだろうなって」
 ほとんど独り言のように呟いて、須田はひらいていた手のひらをゆっくり握りしめた。指を動かすことなんて意識しなくてもできる。でもそれがある日できなくなったら。
 怖い、と思う裏側で、静はどこかうらやましい、と思ってもいた。まっさらに、なにもなかった状態にリセットできたら、どんなに幸せだろうと。
「…………いいな」
「いい?」
 ぼそっと呟いた言葉を拾われて、心臓がどくんと跳ねた。
 患者の気持ちに寄り添いたいと考えている須田の前で、自分はなにも考えず、ひどく不謹慎な感想を漏らしてしまったことで嫌な汗が噴きだしてくる。
「僕には、忘れたいことがあって……。それで、身に染みついたものをまっさらにできるってうらやましいなって、思ったんだけど」
 言い訳みたいに説明を始めてはみたけど。
「ごめん。そんな話じゃないよな。病気や怪我で苦しんでる人をうらやましいとか、不謹慎なこと言った」
 医療従事者として、ひどい失言だ。突っ伏すように頭を下げると、いいじゃん、と軽い調子で須田がテーブルを指先でとんとん叩く。
「別に公の場で発表してるわけじゃないんだし、オレしか聞いてないんすよ?」
「でも」
「好きなこと話そうよ。オレは静さんに話を聞いてもらいたいし、それで静さんがオレの話の中のなにかに引っかかって、思ったままを口に出してくれるのは純粋に嬉しいです。思いついても言わないでおこう、って考えるよりさきにしゃべっちゃったってことでしょ? 酒が入ってるせいかもだけど、オレに気を許してくれてる感じがして嬉しい」
 おずおずと顔を上げると、目の前の須田は本当に嬉しそうな顔をしていた。一気に気が抜けて、詰めていた息が漏れる。自分は須田に気を許しているのだろうか。きっとそうなんだと思う。
「静さんの忘れたいことって、なんすか?」
 なんでもないことのように、須田が尋ねてくる。今までずっと、過去の失敗や汚点をすべてなかったことにできたらどれだけ幸せだろう、と考えていた。自分の汚れを自覚するたび、汚れる前の白い状態に憧れを抱いていたけれど、今すこしだけ、須田に自分の過去を打ち明けたいと静は思い始めていた。
 純粋だった頃の自分でなく、今の汚れた状態の自分を知ってほしい。その上でいつか須田に認められたいだなんて、都合がよすぎるだろうか。こんな願望を人に抱くのは、初めてのことで戸惑ってしまう。
「いつか、話してね」
 まっすぐ見つめてくる須田を見つめ返す。自分の過去を須田と共有したい、とはっきり思ってしまった。
「あ、そうだ、忘れてました。オレ静さんにひとつ、罪を告白しなきゃならないんだった」
「罪?」
「実はオレ、盗みを働いてしまったんすよ」
「は? なに言ってるんだ」
 唐突に須田が笑顔で可笑しなことを言いだすので、静はなんのことかわからず首をかしげた。
「あ、でも盗んだものの代替品はちゃんと用意しましたから」
「なんのことだよ」
「いつかわかると思います」
 そう言ってくつくつ笑いながら、須田はグラスを空にした。

 その後、二人で焼酎をもう一杯ずつ飲んでから居酒屋を出た。
 外は小雨がぱらついていた。雨の中行こうとする須田を引き止め、鞄にいつも入れている折り畳み傘を手渡す。
「静さんも一緒に入って」
 腕を引かれ、須田の隣に並んだ。ひとりでも窮屈な傘に、二人で無理やり入って駅までの道を急ぐ。ほとんど差していないのと変わらないような濡れ方をしたけれど、二人とも傘を言い訳に密着したまま離れなかった。
「和真?」
 どこかから女性の声がした。暗い路地の前方からカツカツとヒールの音が近づいてくる。
「え、あ、安奈さん?」
「やっぱり和真だ」
 須田に安奈さんと呼ばれた女性は、姿がわかるくらい近づくと小柄で化粧気がない人だった。だけど目鼻立ちがはっきり整っていて、はつらつとした華やかな印象がある。彼女は静に向けて小さく会釈をしてから、須田の二の腕に触れた。
「ここでなにしてるの? もしかしてあの店行った帰り?」
「あ、バレました?」
「やっぱりね。この路地、店から駅までの近道だもんね。って実はあたしも今からひとりで行こうとしてたとこなんだ」
 笑いあう、気安そうな二人から静はすこし離れた。須田と入っていた傘から外に出てみると、雨はすでに止んでいた。二人の話を聞いていると、あの居酒屋は元々安奈の行きつけだったことが知れた。彼女はどうやら同じ病院に勤める理学療法士で、須田の先輩のようだった。
「彼女、森橋安奈さんです。オレ今仕事二年目なんすけど、新人だった去年一年間、安奈さんにずっとついて教えてもらってたんです。本当にいろいろ勉強させてもらって」
「そうだったんだ」
 須田に紹介された安奈は、ヘヘッと照れ笑いした。
「まぁ和真は一年目から優秀だったから、ほとんどあたしが教えることなんてなかったけどね」
「またまたぁ」
 褒め合ったり、担当していた患者のその後を報告し合ったりして、二人はしばらく共通の話題で盛り上がっていた。
「じゃあね」
「おつかれっす」
 別れる直前、今度は一緒に飲みに行こうね、と安奈が言って二人は約束を交わしていた。須田に行きましょう、と促され、頷きつつも静はそっと振り返った。数歩先で立ち止まっていた安奈と目が合う。彼女はさっきまで須田と笑い合っていた女性とは別人のような、感情の見えない真っすぐな目で静を見ていた。




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白に混じる幸福(5)


 須田は静のことを静さんと苗字で呼ぶ。朋史さんとは呼ばない。
 前に呼び捨てにしていいと言われた時、静は須田と呼んだ。あの時和真と呼んでいたら、須田は今自分のことを朋史さんと呼んでくれていただろうか。
 夜勤の休憩時間。すこしだけでも寝ようと横になって、壁の葡萄色の染みを見つめながらそんなことを考えていたら眠れなくなった。
 昨日、居酒屋で須田と話したことを思い出そうとしても、頭に浮かんでくるのはその帰り道、仲良さげに話す須田と安奈の映像だった。須田が彼女を安奈さんと呼ぶ、その言い慣れた感じのする彼の声を思い浮かべるだけで、頭が沸騰しそうだった。
 嫉妬だ。ここまで激しく、誰かに対して妬ましく思うことは初めてだった。
 以前に須田も、嫉妬していると静に言った。静さんは誰にでも優しいんですね、と。
 だけど須田の嫉妬と自分の嫉妬では、きっと質が違うと静は思う。自分の今抱いてる感情は、あんなふうに相手にあっさりと打ち明けられるようなものじゃない。濁ったギトギトの油が心の柔らかい部分にまで染みこんでしまったような、誰かに知られると軽蔑されるような感情。
 そもそも嫉妬なんてしてる場合じゃなかった。須田のことを遠ざけようとしていたのに。だけどそんなことを思いながら、静はこの醜い感情を須田にぶつけたい衝動にも駆られていた。
「おかしい」
 寝転がったまま頭を抱える。
 須田にだけは知られたくないのに、須田にだけはわかってほしい。相反する感情のあいだを行ったり来たり。こんな状態をこのさきも続けたらおかしくなりそうだ。
 一睡もできないまま、静はパイプベッドの上で上半身を起こした。休憩時間はいらぬことを考えてしまってだめだ。仕事中は忙しさに追われてそれどころじゃなくなるから、かえってよかった。
 早めに休憩を切り上げて仕事に戻ろうと、目覚まし時計に手を伸ばしてなにか違和感を覚えた。なんだろう、と首を傾げた直後、秒針が天辺を指してセットしておいたアラームが鳴りだす。その音はいつもどおりの陰気な、自分の声じゃなかった。
『おはよ。静さん起きて、あいしてるよー』
 キャラクターがしゃべったのは、甘くて明るい、囁くような須田の声。
 あまりに驚いて、静は目覚まし時計を放り投げそうになった。止めないかぎり何度も繰り返される。あわててキャラクターの頭の出っ張りを押して音を止めた。
「な、なんだこれ」
 確かに自分の目覚ましだ。今までと同じ、もらいもののキャラクターの目覚まし時計。だけどよくよく見てみると、これは新品だった。さっきの違和感はそれだ。品物は同じでも、これは使い古した自分のものとは別物だった。アラームをセットする時はまったく気づかなかった。
 そういえば。
 昨日の夜の、居酒屋での須田との会話を思い出す。
『実はオレ、盗みを働いてしまったんすよ』
『あ、でも盗んだものの代替品はちゃんと用意しましたから』
 これのことか。ニコニコと微笑みかけてくるキャラクターを呆然と見つめながら、静は甘いため息を吐いた。
 須田の犯した罪。盗まれたのは自分の声が吹きこまれた目覚まし時計だった。
 暗い自分の声がたったひとことしかしゃべらない、価値のない目覚まし時計を、須田はなんのために盗んだ?
 甘い想像が脳内にじんわり浸透していく。
「バカ……」
 なんでこんなに、愛おしくさせるんだよ。
 なんで離れていってくれないんだよ。
 そんなふうに須田を責めながら、静の嫉妬で渦巻いていた心の中はすこしだけ満たされていた。

 勤務中は忙しくて、須田のことを考えずに済んだ。でも夜勤を終え更衣室で着替えていると、また頭の中は須田でいっぱいになる。
 安奈と仲のいい憎たらしい須田、目覚まし時計におかしな言葉を吹きこむ愛おしい須田。いつからこんなに彼のことばかり考えてしまうようになったのだろう。過去を振り返っても、その感情の境界線は見えない。始めは疎ましかったはずだ。だけどそうやって遠ざけようと躍起になっていたことすら、須田を意識していたゆえの行動だった気がする。
 須田がここまで自分にかまわなければ、彼を意識しなかっただろうか。低いけど弾んだような抑揚ある明るい声、よく笑う表情豊かな顔、体幹のしっかりしたバランスのいい身体。須田は自分が持っていないものばかり持っていた。そして気づいたら目で追っていた。
 男なら誰でもいい変態だと久保田に言われ、極端に男性を避けていた自分がどうしても惹きつけられた。須田は静にとって初めから、特別な男だった。
 今日は朝のミーティングで見かけなかったから、須田は休みなのかもしれない。そんなことを考えながら更衣室を出てエレベーターに向かう途中で、背後から声をかけられた。
「静さん、すこしだけ時間いいですか?」
 振り返るとそこには安奈がいた。おとといの夜に見た時と同じ薄化粧で、今は就業前なのだろう、制服を着ていた。
「話があるので。すぐに済みます」
 驚いて返事もできないでいる静を追い越し、安奈は廊下を歩きだした。

「あたし、和真のことが好きなんです」
 食堂の座席につくや、安奈は唐突に言った。
 外はどしゃぶりの雨で朝の時間帯の食堂にはほとんど人けがなく、窓際のいちばん端の席に座れば、雨が建物を叩きつける音にかき消されて会話は誰にも聞かれない。だから心配ないとわかっていたが、安奈があまりに堂々と告白するので静は思わず周りを見まわしてしまった。
「あの、話ってその……」
「このことじゃないです。今のはただあたしが、言いたかっただけ」
 買ったばかりのアイスティーを飲み干してしまった安奈に、まだ口をつけていないアイスコーヒーを勧めたが、遠慮されてしまった。雨でじめじめしているのとはまた別の、異様な空気感が二人のあいだにあった。静も喉が渇いていたが、カップを口に運ぶ余裕もないほど緊張していた。
「あたし、ずいぶん前から静さんのことを知ってるんです」
 空の紙コップの中をのぞきこみながら安奈が言った。静にとって安奈はおととい初めて会った相手だったので、その発言には驚いた。だけど同じ病院内で働いているわけだから、見かけたことくらいはあったかもしれない。
「話は、したことないですよね」
「ええ、あたしが一方的に見かけただけです。中央区にあるホテルで」
 中央区にあるホテル。その言葉を耳にして、静の心臓がドクンと大きく波打つ。
「五年ほど前のことです。静さんは久保田先生と二人でいました。あたしは兄の結婚式で、家族と一緒にそのホテルにいたんです。あそこって病院からはけっこう離れてますよね。だからあんな職場から遠い場所で知ってる人たちを見かけるとは思いませんでした」
 嫌な汗がじわっと全身から出てきて、背中と乾いたシャツをくっつける。触れてもいない紙コップの中のコーヒーが微かに振動しているのを静はじっと見ていた。
「静さんのことはその時まだ知らなかったんですが、次の日病院で見かけて昨日の人だとすぐに気づきました。ルームキーをフロントで受け取った久保田先生と静さんは、寄り添って一緒にエレベーターに乗ってどこかへ向かいました。あたしが見たのはそこまでです」
 安奈はどこかへ、と言ったが、どこへ向かったのかはわかっている。そんな口調だった。
 久保田とは病院からできるだけ離れた遠方のホテルで密会していた。室内で待ち合わせることがほとんどだったが、たまにタイミングが合って一緒に部屋へ向かうこともあった。その滅多にないうちの一回を、偶然そこに居合わせた安奈に見られてしまっていたようだ。
「今までこのことは、誰にも話してません」
 そうだろうとすぐにわかった。当時もし安奈が誰かに話していたら、噂はまたたく間に病院中に広まっていたはずだから。同じ職場内で働いていたというだけで面識のなかった安奈が、面白半分で誰かにこのことを話さないでいてくれたことが本当にありがたかった。
「今後も誰にも話さない、つもりです」
 話していないと、さっきはきっぱり言いきった安奈の口調が、今度は歯切れが悪かった。話さないつもりという言い方は、なにかのきっかけで考えが変わる可能性を示唆しているようにも感じられた。
「お願いします」
 しぼりだした声がかすれていた。そのみっともなさをごまかすために、静は氷が解けて表面に透明の層ができたアイスコーヒーをひと口飲んだ。
 もし過去の久保田との関係が世間にばれてしまっても自分はいい。底辺の人間だ。二人がホテルで密会していたなんて噂が流れても、汚れた自分の一部が露呈されるだけの話で済む。もちろん須田に過去を知られることを想像したら怖い。だけどそんなことは久保田に汚点を残すことに比べれば取るに足りない。
 久保田はもうすぐこの病院に戻ってくる。数週間前まではただの噂だったのが、つい先日、正式に戻ってくる日が発表された。もう間もない。
 久保田の手で救われる命がたくさんある。院内で名医と呼ばれていた彼は四年の海外修行を経て、さらに手技に磨きをかけていることだろう。自分とのおかしな噂ひとつでそんな彼の名誉に傷がつくのは、許されない。
「もちろん誰にも言うつもりはありません」
 静が相当思い煩っているように見えたのだろう。安奈はいたわるように言ったすこしあと、ただ、とトーンを落とした。
「静さんにひとつ、聞きたいことが」
「…………なんでしょうか」
 緊張で飲みこんだ唾液は、アイスコーヒーの後味で苦かった。
「和真って、ゲイじゃないですよね」
 うつむいてテーブルを見ていた安奈が、顔を起こしてチラッと静と目を合わせた。一秒にも満たなかったと思う。だけどその一瞬の視線の交差で、静はわかってしまった。
 安奈が静を呼びだした理由。今までずっと自分の内だけに仕舞っておいたことを静に打ち明けた理由。座席についてすぐ須田を好きだと告白した理由。
 彼女は先手を打ったのだ。静の須田への想いに気づいて。その想いがはぜる前に。
 おとといの夜、須田といる静を見て女の勘でなにかを察知したのかもしれない。静の須田に対する秘めた感情が、態度に表情に視線に、隠しきれず漏れ出ていたのかもしれない。
 安奈はきっとこんな行動に出たくなかったのだろう。今まで緊張しすぎて観察する余裕がなかったが、よくよく見てみると、テーブルの空のカップをのぞきこむようにうつむいた彼女の前髪はかすかに震えていた。
「須田は、ストレートです」
 きっぱりと言い切ると、安奈が顔を上げた。でも目は合わない。
「そうですか。よかった、安心しました」
 静の背後を見ながら、安奈は言葉とは裏腹に不安そうな顔で笑った。では、と頭を下げて、唐突に去っていく後ろ姿を静はぼんやり見送った。きっとこの場から一刻も早く立ち去りたかったのだろう。
 ひとりになると忘れていた雨の音が耳に戻ってきた。緊張から解放されても、静の体には鉛を落とされたような重だるさが残った。


 院内がまるで四月のような、新鮮な空気で満ちている。
 久保田の挨拶が済むと、大きな拍手が送られた。月曜の朝のミーティングなんていつもは、殺気立っているか夜勤明けでぐったりしているかなのに、今日はみんなきらきらした目をして久保田の帰還を心から歓迎していた。ほかのフロアにも続いて挨拶に向かうのだろう、久保田はミーティング後に声をかけてきたひとりひとりに丁寧な対応をしたあと、一礼してナースステーションを出ていった。
「久保田先生、相変わらず素敵ね」
「未婚だなんて信じられない」
「理想が高いのかなぁ」
 誰かが口々に言って、全員が甘いため息を吐く。久保田が素敵と言われる所以は、自分の能力を驕らない低姿勢と人当たりの柔らかさだと、昔先輩看護師から教えられた。
「ほら仕事仕事」
 忙しい月曜なのにもかかわらず、主任が声をかけるまで看護師たちはみな、ぼんやり久保田の去ったあとを見つめていた。

 院内に久保田がいると考えるだけで、毎日が憂鬱だった。まだ彼が戻ってきてからは直接話をしていない。いつ話しかけられるか、と意識過剰に怯えながら仕事をこなす日々。
 昼食の時間に食堂のメニューや並べられた小鉢を見ても、食べたいものが見つからない。でも食べないと午後がもたないことはわかっているから無理やり詰めこんでいたら、このあいだついに吐いてしまった。体が受けつけてくれない。でもなにか食べなきゃ。
 何日か試行錯誤をしつつ体の様子を見て、売店のあん入り蒸しパンなら食べやすく腹もちがいいことがわかった。量を詰めこむとまた吐いてしまうので、ここ数日の昼は野菜ジュース一本とあん入り蒸しパンひとつで済ませている。
「静さん、最近なにかありました? なんかみるからにおかしいんですけど」
 須田がやって来て目の前の席に座った。うつむいたまま須田の顔も確認せず、なにもない、とひとことだけ告げて蒸しパンの続きを頬張った。
 久保田が戻ってきてからは、彼に遭遇しないよう祈りながら毎日を過ごしていたが、同時に須田のことも避けていた。昼休憩もできるだけ彼がリハビリに入ったタイミングで取るようにしていたのだけど、今日はすこしずれてしまった。
 数日前の安奈との会話を思い出す。彼女は須田を好きなのだ。そして、静の弱みを握っている。怯えながら静を脅してきた安奈の気持ちは、静にもすこしわかった。自分も女性だったら、彼女と同じ行動に出たかもしれないと思う。
 安奈の気持ちになって自分を客観的に見てみると、非常に気味が悪い。明るい人気者の須田にすこし気に入られたからって、舞い上がってその気になっているゲイの男。
 このままではだめなんだ。ストレートの須田をこちらの世界に引きこんではいけない。須田と出会う前の自分を取り戻さないと。
 須田に傾きかけていた気持ちは、心の奥底に沈めてある箱の中に封印する。過去の汚点がいっぱい詰まった中に、この気持ちも一緒くたにして押しこめる。二度と開けてはならない。二度と人前で露呈してはならない。
「痩せました、よね」
 うつむいていて須田の手が伸びてきたのに気付かなかった。手のひらが突然頬に触れて、思わず顔を上げる。
「その蒸しパン、食後のデザートじゃなくてそれしか食べてないんじゃないすか」
 本当に心配してくれているのが、須田の表情から触れられた温もりからわかってしまう。わかりたくなんてないのに。
「放せ」
 頬に触れたぬくい手を派手に振り払った。目の前の須田が驚いた顔をしている。須田といるとどうしても感情が激しくなってしまう。いつもは抑えこんで我慢できることが須田相手だとうまくできない。
「かまうな。放っておいて」
 きちんと冷静に伝えたつもりなのに、声が震えて媚びてるみたいに響いた。
「なんで?」
「なんでもだ」
「なんなの? なにかあったんならちゃんと説明してよ。最近、妙にオレのこと避けてるみたいだし。唐突にそういうことされると、すごいへこむんですけど」
「説明はしない。とにかく二度と、僕に近づかないで」
 頭を垂れ、心を平らにして、精一杯冷静な声を出した。言ったあとは、須田の表情を怖くて確認できない。
「なにそれ……、意味がわかんないんすけど」
 呆然とした様子で呟いた須田をその場に残し、静は食堂をあとにした。早足で廊下を進む。できるだけ遠くへ。
 きっと須田は怒ってる。理由も聞かされないまま一方的に近づくなと言われれば、誰だって不愉快だ。これで完全に嫌われたに違いない。だけどいいんだ。これですべてがうまくいくんだから。心にそう言い聞かせていないと涙がこぼれそうだった。
 昼間は人通りのすくない仮眠室のあるフロアに向かう。そのいちばん奥、いつもの曰く付きの部屋に入る。須田が張ったクマのシールが視界に入らないよう、壁に背を向けパイプベッドに腰かけた。
「これでいい。さっきの行動で合ってる」
 ひとりになって、心の中の呟きを言葉にした。自分の発した声を耳で聞いて自分を納得させる。だって須田を避けてる理由なんて教えられないから。安奈が須田を好きなことも、自分の汚れた過去も、今現在の自分の須田への想いも。伝えたいことはひとつとして須田に伝えることができない。
 これでいいんだ。
 うつむき頭を抱え、ぶつぶつと呪文のように呟き続けていた時、ノックもなしに扉がひらいた。須田がやって来たのだ、と思った。きっと怒って自分を問いつめるために追いかけてきてくれたんだって。
 ハッとして顔を上げると、そこには久保田が立っていた。
「あ、先生……」
「きみがここに入っていくのを見て追いかけてきたんだ。久しぶりだな、朋史」
 自分に向けられた柔和な笑顔も穏やかな話し方も、四年前と変わっていなかった。
「元気だったかい」
「はい、お久しぶりです」
 立ち上がって頭を下げる。急に寒気を感じて、震えだした唇を歯で噛みしめた。差しさわりのない近況報告などをし合ってしばらくすると、久保田が腕時計に目を落とした。
「そろそろ行かないと。みんなに怒られそうだ」
 ふふ、と細い目を糸みたいにして笑う久保田に合わせて静も笑おうとしたが、うまく笑顔が作れなかった。
「今度の水曜、きみ休みだよな? 夜、空いてるだろ」
「夜、ですか」
 帰ってくれると思ったタイミングで唐突に尋ねられ、心臓がどくんと跳ねる。
「ああ、ホテルを取ってあるんだ」
 まるで四年前の最後の日が今日と隣り合わせであるかのように、久保田は自然な口ぶりで誘ってきた。当然、静の答えがイエスであることを疑っていないのだろう。
「ひさびさだからな。初回だけは丁寧にほぐしてやるよ」
 初回だけ。
 柔らかい声音に不似合いな物騒な発言に、思い出だった過去がリアルに目の前に迫ってきているのを静は感じた。
「先生、僕は四年前に先生とはお別れしたつもりです。だからもう、こういうことは……」
 勇気を振りしぼって震える声で伝えると、久保田はさほど驚いた様子は見せず、へえ、と首を傾げた。
「やり直すつもりもないってことか」
「…………はい」
 目をそらさずに答えると、納得してくれたのか、久保田はすこし笑って扉へ向かった。ノブにかけた手が、回転せずに止まっている。
「まさか、恋人ができたのか」
 背中を向けたままの久保田が、今日いちばん優しい声で尋ねてきた。
「ち、違います」
「なら、好きな人ができたか?」
 二番目の質問には答えられず、固まってしまう。否定しないでいることは肯定したのと同じになってしまうと、焦って声を出そうとしても喉がひらかない。
「まあいいよ。きみの恋愛事情に興味はない」
 振り返ってそれだけ告げると、久保田は握っていたドアノブを回して部屋を出ていった。



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白に混じる幸福(6)


 ここ数日、夜勤の休憩時間に眠らないようにしている。その理由のひとつは、中途半端に眠ってしまうと帰ってからのひとりの時間に眠れなくなって考え事をしてしまうから。
 そしてもうひとつの理由は、眠ると目覚まし時計に起こされてしまうからだ。
 すり替えられた新品のキャラクター時計は、須田の声で初めて再生されたあの日以来一度もセットしていない。だって須田の声を聞きたくないから。理由はそれだけだ。そう何度も繰り返し心に言い聞かせ、脳にいらぬことを考える隙を与えない。
 ただ眠らないとなると、食事もほとんど喉を通らなくなってしまった今、二時間もある長い仮眠時間にやることがない。じっと座っているとまた考え事をしてしまうので、静は家からいらない端切れを幾枚か持参して曰く付きの部屋の拭き掃除をすることにした。
 室内に物はパイプベッドとライティングデスクと椅子しかない。固く絞った布で高いところから低いところまで丁寧に拭いていく。椅子の裏や机の引き出しの中などが案外汚れていて、濡らした布が黒くなると静はやりがいを感じて嬉しくなった。
 やることがあるってすばらしい。考えなくて済む。次は壁と床を拭こう。汚れた布を洗うため洗面所へ向かう途中、廊下で視線を感じた。ふとそちらに目を向けると、須田が廊下の真ん中で突っ立っている。
「なにしてんすか、静さん」
「…………なにって、掃除」
 そっちこそなにしてるんだ。
「今休憩じゃないの?」
 休憩だけど。
 近づいてくる須田を、呆然と見つめる。
 須田はもうここには来ないと思っていた。というか食堂での一件で嫌われてしまって、今後は院内ですれ違うことがあっても声をかけられることはないのだと思っていた。
「あ、」
 近づいてきた須田に丁寧に洗った布を奪われてしまった。
「夜食、食べました?」
「食べ、た」
「嘘つくな」
 手洗ってきて、と須田に命令され、素直に従う。彼がなんだか怒ってるように見えたから抵抗できなかった。まだ嫌われてはいないのだろうか。そして須田はいったいなにに怒っているのだろうか。
 混乱した頭を落ち着かせるため、石けんで丁寧に肘まで洗って仮眠室に戻ると、机の上に食事が用意されていた。
「おかえり。静さんのために作ってきたから。これ全部食って」
 アルミ箔の使い捨て容器に入った焼き色の強い玉子焼きと、ラップで包んだ俵型のおにぎりが二つ。ずっと食欲がわかなくてどのメニューを見ても心が動かなかったのに、今目の前に並んでいるものを食べたいと思ってしまった。須田が作った、というだけの理由で。それが悔しくて。
「もうかまうなって言っただろ」
 苛立ちに任せ勢いこんで発声したつもりが空腹のため力が入らず、かすれた声は口先からへなへなと真下に落下した。
「そんな元気ない状態で、よくかまうなとか言えますね」
 須田が怒りながらも料理を用意したりしてかまってくれるのは、自分が痩せて元気のない状態を須田の目の前にさらしているからなのかもしれない。かまうなと口では言っておきながら日に日に不健康になっていくさまを見せられては、人の良い須田は放っておけないのだろう。そんなふうに考えると、須田が怒ってるのにかまってくる理由が説明できる。
「元気ないからかまってくれるんだ」
 空腹がいき過ぎて頭が回らず、思ったままを口に出してしまう。
「静さんが! 元気ないからかまうんすよ」
 意味がわからないと思ったが、もう声にする元気もない。さきほど夢中で掃除に励んでいた時の体力はどこにいったんだ。
 食って、と目の前にプラスチックのフォークに刺さった玉子焼きを差しだされる。甘い玉子の匂いの誘惑に勝てず、目を固くつむって口をひらいた。口内に入ってきた玉子焼きを咀嚼するあいだも目を開けない。
「味が薄い」
 いつか患者が言ってたのと同じ感想だと気づいた。あの患者もきっと、久々に食べたまともな食事がおいしかったのだろう。
「やっぱり? 塩が足りなかったなって出来上がって味見した時に気づいたんすよ。だからおにぎりのほうは味濃いめにしました。塩鮭と明太子入り。一緒に食べて」
 目をひらくと、須田は笑顔になっていた。須田の怒りは自分が食事をとらないことが原因だったのか。
「おまえは、僕が元気になったらかまわなくなるのか」
「静さんは元気な時もオレにかまってほしいの?」
「かまってほしくない」
 距離を置きたい、とはっきり伝えると須田はまた笑った。ひでー、と楽しそうに言いながら。
「なんで? なんでそんな笑ってられるんだ。すごくひどいこと言ったのに、須田は傷つかないでいられるんだ」
「それは、静さんが本気でそう思ってないことがわかるからでしょ」
 顔にまだ笑顔は残したまま、須田は真摯にそう言った。
「須田は僕のなにをわかってるんだ」
 どうしていつもそんなに優しくする? 包みこむように見る?
 こんな陰気で無口で人付き合いの悪い男に、誰が見ても魅力的な須田がそこまで執着する意味がわからない。白衣の天使に見えたからか。鼻血の処置をしたからか。もしあの時、別の看護師が通りかかって須田の面倒を見てやっていたら、そっちを好きになったのか。
 自分の妄想が乱暴すぎることはわかっていた。だけど真意がわからないのだから暴走もする。
「わかってることも、わかったつもりでいることも、わからないこともあると思います。ただ、オレは静さんのことをもっとわかりたいって思ってる」
「なんで、」
「好きだからっしょ」
「あっさり言わないで」
「こってり言うのも難しいんすけど」
「…………なんで好き」
 恥ずかしいけど、いちばん知りたいことを聞いたら。
「きっかけはたぶん、静さんが静かだったから、かな?」
「はっ?」
 なんだそれ。
「人のこと気になるきっかけなんて、そんなもんすよ」
「きっかけはわかった。でもなんで僕から離れていかないんだ」
「なんで離れなきゃいけないんすか」
「暗いから」
「そんだけの理由で?」
「無口だし、陰気だし」
「静さん自分のことそんなふうに思ってるんすね」
「無口で陰気じゃなきゃ自分じゃない」
 反論するとまた笑われた。笑われたことに苛立った。
「それに変態だし、男好きだし、淫乱だし、汚れてるし、価値のない人間だし」
 苛立ちに任せて本当の自分を曝け出すと、須田は笑いを引っこめて首を傾げた。
「なにそれ」
 須田の態度が急変したことに怯えながら、でもさらに口が滑る。
「医者じゃなくて看護師だから、僕には価値がない」
「なんで看護師は価値がないんすか」
「人の命を救えないから」
 今まで久保田に言われ続けてきた言葉を自分の口から発したら、涙が出そうになった。
「静さんはいっつもそんなこと考えながら患者と向き合ってんすか」
 須田の鋭い言葉が冷えた心に刺さる。
 静が同僚たちとプライベートで仲良くできない理由はもうひとつあった。久保田に看護師は価値がないと言われ、それを受け止めることで周りの仲間たちも道連れにする。みんなにも価値がないのか。周囲を見回しても、一生懸命働く看護師たちに無価値な人間などいなかった。静は孤立した。孤立することで久保田の言葉を一身に背負うことにした。
「人の命を直接救える人だけが価値ある人間なんすか。違うでしょ。弱ってる時に優しい言葉をかけたり、つらい体をさすってあげたり、看護師がいることで助かってる人間がどれだけいると思ってんだよ」
 憤る須田の健全さに、今までの過去が全部洗い流されそうで静は怖くなった。
「医者がいるから看護師が働けてる。逆もまたしかりでしょ。お互いの仕事を尊重し合えないやつこそ無価値なんじゃないの」
「やめて」
「誰に言われたんすか」
 気づいてる。須田は静が自分の意思でなく、人から言われた言葉で自分を卑下していることに。
「誰が言ったんすか。静さんのこと、価値のない人間だって」
「言えない」
 言えるわけない。
「静さんにとってその人が、オレより大事な人だから?」
 須田より大事な人なんているわけない。
 だけど言えない。言ったら久保田の名誉に傷がつく。それはあってはならない。
「オレってもしかして今まで独り相撲してました?」
 めずらしく須田の弱った声がして、静はハッと垂れていた顔を上げた。憂い顔の須田がこっちを見ない。静から見つめて視線が合わないことが今までになかったのだと、気づいた。これまで須田がどんなに自分を見ていてくれたか。目が合わなくなって初めて知った。
「あの、須田は悪くない」
 なにか言わなきゃと思っても、適当な言葉が見つからない。須田にそんな悲しい顔をしてほしくない。いつも幸せで明るくいてほしい。そのために自分ができることはなにか。彼が元気を取り戻すためにできること。
 ここでなぜか頭に安奈の顔が浮かんだ。
「須田は、女性と付き合ったほうがいいと思う。おまえは、あの……、僕と違って、女性も好きになれるし、だから……」
 途中から間違ったことを言ってしまったのだと須田の表情を見てわかった。
「ほかの女と付き合えって?」
 目をすがめて見下ろしてくる。そんな凄んだ表情の中にも須田らしい温かさがすこし残っていて、比較するのは失礼だけど久保田と違うと思った。冷酷になりきれない須田が好きだ。そしていつもと雰囲気の違う凄んだ表情も、好きだ。
「ふざけんなよ、オレはあなたを好きなんだよ。好きになっちゃったんだよ。ほかの誰かのことなんて今考えられっか!」
 バカ、と暴言を吐いて、玉子焼きをひとつ指で摘んで食べる。怒ってるくせにやっぱ味が薄いとか自分の作ったものに文句をつけながら、須田は仮眠室を出ていった。その扉を見つめていると、すぐにまたひらく。
「それ、残りは全部食べてください」
「うん」
 返事をするとまたすぐ扉は閉まった。
「全部食べる」
 アルミ箔をむいておにぎりをひとつかじる。明太子のほうだった。米の塩味がすこし強めで、薄味の玉子焼きと一緒に食べるとちょうどいい加減だった。


 最近、須田に避けられている。あの日からだ。夜勤の休憩中、掃除をしてるところでやって来た須田にお弁当を渡された日。告白をされた日。
 いつもは探さなくても視界に入ってきた須田が、今は探してもなかなか見当たらない。お昼も誘いに来ない。もちろんナースステーションや廊下などで見かけることはあるが、向こうは今までみたいに手を振って近寄ってきたり声をかけてきたりしない。どころか目も合わない。
 ラクだ、と静は思っていた。須田が追いかけてこないのはラクでいい。
 ここ最近の須田との交流は頭の中だけ。あの時の須田の憂い顔を思いだす。こっちを見ない須田。静は脳内で弱った須田の髪を撫で、うつむいた目元に唇を落とす。触れるとまつ毛が震えるだろうかと想像する。
 須田がかまってこなくなったぶんを、脳内で補完する。足りないぶんは幾らでも補えばいい。どんどん人と話す機会が減って、口数が少なくなる。前の自分に逆戻りだ。久保田がいなくなって汚れを自覚しつつも穏やかに暮らしていた頃の自分。幸せでも不幸でもなかった時。凪いでいた時間。須田と出会う前。
 このままずっとこんな日が続くんだろう。でもふと思った。ずっとっていつまでだろう。
「静さん」
 夜勤前の夕方。機能訓練室の前で安奈と鉢合わせした。ちょうどリハビリを終えたところらしい。患者を見送った彼女の全開の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
「すこしだけ、時間ありますか?」
 笑顔で尋ねてくる安奈の言葉には、以前のような含みはなかった。

「あたしなにしてんだろうって、あとになって思ったんです。卑怯すぎますよね。静さんのこと脅迫して、和真から手を引かなきゃあのことばらすって言ってるようなもんですよあれじゃ」
「いや、その」
 バカみたい、と過去の自分を責め続ける安奈の話を静はどこで止めようかとうかがっていたが途切れない。前に話した時と同じ、食堂の窓際の席で向かい合う。暮れかかる夕日の光がまぶしい。外の景色が違うだけで今日はまるで別の場所にいるみたいだった。
「だから気にしないでくださいね。前の話。これからも絶対誰にも言いませんし、それにきっと終わったことなんでしょう? 久保田先生とは」
 うなずくと、本当にごめんなさい、と安奈は改めて頭を下げた。
「あーもうどう考えたって最低だ。過去のことで脅すとか、マジで卑怯。あたしクズだわ」
「もう、あの頭上げてください。あなたがこのことを今までずっと誰にも言わないでいてくれたことに、僕はすごく感謝してるんです」
 安奈の誠実さはもう充分すぎるくらい伝わっている。前回呼びだされた時の彼女はあきらかに様子がおかしかった。さっき見かけた、リハビリ患者の彼女を信頼した目つきを思いおこせば、本当の安奈の姿が浮かび上がってくる気がした。
「実はあたし、和真にはとっくに振られてるんです」
「え」
「去年の秋に告白して、だめで。でもそのあとも和真ずっと態度変えないでくれて、そんな優しいやつだからいつまで経っても忘れられなくて」
 アイスティーを飲み干したカップを覗きこむ安奈の瞳は、今日はどこか清々しく見えた。
「でももう、忘れなきゃ」
 微笑む安奈に静は首を横に振って抵抗した。
「だめです。忘れたら」
「どうして」
「前にお伝えしたとおり、須田はストレートで、女性を好きだから。あいつは絶対女性と付き合ったほうが幸せになれるんです。あなたは須田とお似合いだから……」
「お似合いだから?」
「そ……そうしたほうが、須田のためにも、あなたのためにも、いい気がして……」
 本心と裏腹のことを言葉に変換する唇が、なんだか自分と別の生き物みたいだと思った。前に同じことを須田に告げて怒られたばかりだったが、安奈にも同じように軽蔑される気がした。こうやって大切な人を遠ざけていくのかもしれない。今までみたいに、本当の自分を隠し続けてまた孤立する未来を想像したら急に怖くなった。
 自分を避けている須田が、この先もずっと話しかけてこなかったら――
「僕も、実は須田のことが好きなんです」
 懺悔する罪人のような悲惨な声が、静の喉から搾りだされた。
 伝える相手も違っているし、そもそも誰にも伝えるべきことではないはずなのに、ここ数日の内なる不安と恐怖が、安奈の優しさに導かれるように発露されてしまった。
「そうですか」
 安奈は驚かなかった。すでにわかっていたことだったのだろう。
「静さんは和真のことが好きなのに、どうして身を引くんですか? 和真やあたしのため? おかしいって。そんなの偽善だよ」
 偽善。その通りだと思った。
 須田や安奈の幸せを心から願ったわけじゃない。汚れを知られる恐怖と本心から逃げて、善いことをしたつもりになって、自分を納得させたかっただけだ。
「静さんに質問です」
 突然、安奈が耳の横に片手を上げた。何事かとうつむけていた顔を上げる。
「静さんには大好きな人がいます。好きで好きでどうしようもなくて、毎日会いたい、一緒にいたい、そんな人がいる状態で、他者がおすすめしてくれる静さんにとって条件のいい誰かと、付き合いたいと思いますか?」
「思い、ません」
「ですよね」
 即答すると、安奈は笑顔になった。
「簡単なことですよ」
 簡単なこと。思考をシンプルに、自分の気持ちとまっすぐ向き合う。
 久保田に一年かけて植えつけられた呪いの言葉の数々は、人と交わらない四年の月日の中で自分の考えと混ざり合い、心根に巣くっていた。
 一生、逃れられないと思っていたのに。心に風が吹く。
 須田の力強い言葉。ふっ切れた安奈の本心。自分が信じたい言葉はどこにある?
 考えるまでもなかった。心を覆っていた堅い壁にひと筋の罅が刻まれると、懐かしいやわらかな感情がふたたび芽を吹きだす。
「だけどあっさり告白しましたね、静さん。もしあたしが悪人で、前みたいに和真をあきらめなきゃ全部ばらしてやるって言ったら、静さんはどうするつもりだったんですか」
 尋ねられ、首を傾げる。そんなことはまったく考えていなかった。というか。
「森橋さんは悪人でない気がします」
「どうして」
「どうしてだろう。須田があなたを信頼してるからそう思うのかもしれない」
 もちろん、彼女自身の優しさや仕事への向き合い方を目の当たりにしたことも大きい。
「なにそれ、のろけですか」
「ち、違います」
必死で否定する姿が可笑しかったのか、安奈は静の焦りぶりを見て笑った。
「でもちょっとわかります。あたしも結局は静さんが和真の好きになった人だから、あきらめてもいいかなって思ってるんだもん」
 あたしたち似てますね、と言って安奈はまた笑った。須田が、彼女を好きにならなかったことが不思議なくらい、魅力的な女性だと静は改めて思った。



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白に混じる幸福(7)R-18


 安奈と別れ、夜勤の業務をこなす。彼女と和解できたことで、心はすこしだけ凪いでいた。休憩のため曰く付きの仮眠室に入ると安心したからか、久々に眠気が襲ってきてパイプベッドに横になった。壁の葡萄色の染みの上、クマのシールをぼんやり見上げたら、須田が作ってくれた玉子焼きとおにぎりのことを思い出した。
「おいしかったな」
 声に出すと、須田に会いたい気持ちが膨らんだ。でも須田はやって来ない。今彼は、静を避けているから。まだお弁当のお礼も言えていないことを思い出す。
 だけど今度須田に会ったら、味の感想よりさきに自分は彼に好きだと伝えるのかもしれない。そんなことを考えながら、薄いタオルケットに体を巻きつけて静はひとり赤くなった。今は避けられているから、今度会うとしたら自分から呼びだすことになるのだろうか。というか、避けられてる理由はなんだろう。好きだと言ってくれはしたが、やはりいつまでも陰気な自分に嫌気が差してしまったとか。
 高潮した気持ちがゆるゆるしぼんでいく。眠ることも忘れて須田のことで一喜一憂していると、突然、どん、という音とともに扉が乱暴に外からひらかれた。びっくりして飛び起きる。
「朋史」
 静の名前を呼ぶ久保田は走ってきたのか、こめかみから一筋の汗が流れていた。後ろ手に扉を閉めて、ゆっくり近づいてくる。
「先生、どうされたんですか」
 パイプベッドから下りようとしたら、そばまで来た久保田に肩を上から押され、静はおとなしく座り直した。
「患者が死んだ」
 久保田のそのひと言で、静は悟った。
「わたしが手術した三日後だ、合併症で」
「そう、ですか」
 答えながら、冷や汗が背中を伝う。
「手術は成功した。八十過ぎた高齢の患者だったが、オフポンプで心臓動かしたまま二時間強で終わらせた。なんの問題もなかった」
 久保田の声が徐々に大きくなる。四年前と同じことが目の前で起こっている。そして久保田がこのあとどうなるか、静は知っている。
「手際の悪りぃクソみたいな助手ばっかつけやがって、わたしじゃなかったらあの手術も成功してないよ、ほかの奴がやったらその場で殺していたさ」
 口調が粗くなって、顔がゆがむ。いつもの穏やかで優しい久保田はもういない。
「せっかくわたしが生かしてやった命を三日後に殺すとは、ここの連中は相変わらず役立たずばっかだな。こっちがどんだけ神経すり減らしてメス握ってんのか、わかってんのかてめぇら」
 静のシャツの首元を掴んで揺らしてくる。術後合併症は注意していてもどうしても起こってしまう場合がある。久保田だってそんなことはもちろんわかっている。わかっていても彼はその憤りをどうしても抑えられない。久保田は静と付き合っていた時、それをすべて恋人である静にぶつけていた。
「しゃぶってくれよ、朋史。な? 今日だけだから頼むよ」
 急に猫なで声を出したかと思うと、静がすぐ行動に移さないのを見て頬を張る。
「なにぼーっとしてんだてめぇ。さっさとしろクズ」
 自分でスラックスの前をひらいて、昂っているペニスを静の口の前に差しだしてくる。それでも口を頑なに閉じたままでいると、今度は首を両手で絞められた。
「ぅ……っ」
「朋史はこうされるの好きだったな。付き合ってた最後のほうは、ケツに突っこまれながらこうやって首絞めてやらないとイカなくなっちまったもんな」
 違う。こんなの好きじゃなかった。久保田が望むから受け入れていただけで、ここでイケないともっと恐ろしいことをされるから必死だっただけだ。
 そんな反論はもちろんできない。興奮しているのか、久保田の手の力がどんどん強まってくる。昔のセックスの最中のお遊びとは手加減が明らかに違っていた。喉が圧迫されて、口が勝手にひらいていく。息ができない。口角からよだれが垂れ、苦しくて視界がどんどん狭まっていく。これは本当に危ないかもしれない、と頭の片隅で考えた直後だった。
『おはよ。静さん起きて、あいしてるよー』
 この状況にもっともそぐわない、能天気な殺し文句が聞こえた。それは何度も何度も繰り返される。止めるか時刻が過ぎるまで。
「なん、だ?」
 久保田の手がゆるんだ。その一瞬のすきに、静は渾身の力で久保田に頭突きをかました。
「な、にしやがる……っ」
 罵倒する声は途中で力なく消えた。時間差で痛みが襲ってきたのだろう。ベッドを降り、うずくまる久保田をまたいで目覚まし時計を手に取ると、静はほかになにも持たず仮眠室を飛びだした。

 仮眠室を抜け出してから足元がスリッパだと気づいた。でももう引き返せない。病院の外に出て、パタパタと音を立てながら暗闇を走る。梅雨明けはもうすこしさきのようだけど、空には雲がなく星が幾つか出ていた。
 徐々に速度を落とし立ち止まる。辺りを見回しても、真夜中だから路地に人通りはない。
 午前一時五分。アナログのキャラクター時計を今の時刻に合わせる。カチ、と音がして、須田の声が流れ出す。おはよ。静さん起きて、あいしてるよー。おはよ。静さん起きて、あいしてるよー。おはよ。
「起きてるよ。僕だって、あいしてるよ」
 時計を止めて返事をする。くだらないと思いながらそんな自分の言葉に笑ってしまった。
「戻らなきゃ」
 夜勤はひとりでも欠けると仕事が回らない。回れ右をする。久保田はもちろん追ってきてなどいない。でも一旦仮眠室には戻らないといけない。靴や名札が置きっぱなしだしエアコンや電気も点けっぱなしだ。久保田がいなくなっていることを祈りつつ歩きだすと、うしろから名前を呼ばれた。
「静さん」
 さっき聞いた目覚ましの声。低いけど明るい抑揚のある大好きな声。
 振り返るとすこし遠くに須田が立っていた。
「なにしてんすか」
 近づいてくるその表情が、どんどん曇っていく。
「どうしたのその顔」
 久保田に張られた頬がさっきからすこし熱い。もしかしたら腫れているのかもしれない。なにか冷たいもの、と言いながら自分のポケットを探って役に立ちそうなものがないとわかると、須田はちょっと悲しそうな顔をした。
 昨日まで避けていたくせに、あっさり声をかけてきた。こんな夜中になにしてるのだろう、と一瞬思ったが呼気からアルコールの匂いがしたから飲んでいたのだろうとわかった。
「誰と飲んでたの」
「安奈さん」
 やっぱり。なんとなくそんな気がした。
 歩きだすと須田はついてくる。
「それよりその顔!」
「うん」
「うんじゃなくて……」
 静は考え事をすると速足になる。須田がさらになにか言ってるが、その声はもう耳に入ってこない。ラッキーだと思った。今しかない。避けられているから呼びださなきゃ言えないと思ってたから、こんなふうに遭遇できた今は絶好のチャンスだ。だから、言おう。
「須田」
「なんすか? っていうかオレの話聞いてました?」
「聞いてない」
「おい」
「僕、須田のこと好きなんだ」
「え」
 振り返って伝えると、須田は一瞬驚いた顔をした。それからへぇ、って顔に変わった。たぶん、須田は静の気持ちになどとうに気づいていたのだろう。今の顔は言う気になったんだへぇ、って感じの顔だ。
 そのあとは一気に須田の顔が雪崩れていく。
「ちょっと待ってください、いきなりすぎて感情が顔に出ちゃう」
「嬉しいのか?」
「そりゃ嬉しいでしょ。好きな人に好きって言われて嬉しくないやつなんていない」
「最近僕のこと避けてたくせに」
「あれは作戦す。距離を置いてみたら追いかけてきてくれるかなって思って。まあ来てくれなかったすけど」
「くだらない」
 あーだめだ、と叫びながら須田が顔を両手で隠す。指のあいだから見える頬が赤い。
「須田でも照れることあるんだ」
 まじまじと隠された顔を見ていると、突然手を取られた。
「とりあえず病院に行きましょう。手当が先です」
 片手だけで顔を隠して、須田は静を引っぱって歩きだした。

 簡単な手当てをしてもらったあと、須田を仮眠室に残して静は夜勤の勤務に戻った。朝のミーティングに参加するまで、久保田には会わなかった。業務を終えて仮眠室を覗くと、須田はすでに起きていた。
「話を聞きましょうか」
 今日は休みだからじっくり話してもらう、と須田は言うが、そんなにしゃべることはない。


 過去のことを一から十まで、須田にすべて打ち明けてしまうと、気持ちは一気に軽くなった。言ってしまったあとは、なにをあんなに怯えていたのだろうと思う。
「話してくれて、ありがとう」
 そんなふうに言って須田は受け入れてくれた。汚れた部分も、つらかった過去も、自分を卑下する静も丸ごと包みこんでくれる。でも静は付き合っていた相手の名前だけはどんなに尋ねられても頑なに答えなかった。
「なんでそこだけは譲らないんすか? オレも知ってる人だから? 誰にも言ったりしませんよ」
 別に須田を信用していないわけじゃない。
「知ってどうするの」
「さあ、一発ぐらい殴るんじゃないすか? 静さんの首絞めて、大事な顔にひどいことするやつなんだから」
 須田には腫れた顔を見られてしまったため言い逃れすることはできず、昨夜の仮眠室で起きたことも、相手が誰かということは伏せて報告した。ひでーやつ、と須田は淡々と言った。静はそのひとことで簡単に救われた。
 病院の近くのファミリーレストランは、昼を回って人が増え始めていた。朝食時から入り浸っていた須田と静も、ひと通りの話を終えて注文したランチを食べ始めた。須田はハンバーグ。静はミックスフライ。
「人を殴る須田は見たくない」
 伝えると、須田はちょっとだけ困った顔をしていた。海老フライをひとつ須田の鉄板に乗せると、ハンバーグの欠片を返してくれた。
「あ、来た」
 ほのぼのしたやりとりに頬がゆるんでいた時、須田が立ち上がり静の背後に向けて片手を上げた。誰が来たのだろう。というか誰かと待ち合わせていたのか。振り返って確認すると、こちらに向かって歩いてくるのは久保田だった。
「な、なんで、久保田先生が……」
「呼んだから」
 だから、なんで。
「こんにちは、須田くんでしたっけ」
「久保田先生ですよね、こんにちは」
 和やかに挨拶をする、その顔は二人とも笑っていない。朋史詰めて、と言われ、慌てて硬いソファーの奥まで横移動する。静の隣に久保田が座った。
「呼びだしたのはなんの用かな。わたしは午後からも手術で忙しいんだが」
 病院内では誰にでも穏やかな久保田が、須田に対しては物言いがとげとげしかった。
「オレたち付き合うことになったんで、久保田先生にはその報告をと思って」
「…………へえ、そう」
 須田の報告に興味がなさそうな相づちを打って、久保田は静を見ておめでとう、と無感動な声で言った。
「だからもう静さんに近づかないでください。あと殴ったり首絞めたり、チンコ出して舐めろって強要したりしないでください」
 須田は静が頑なに口を割らなかったその相手を知っていたのだ。隣の顔がまたゆっくり振り返ってくるのを、静は横目ですら怖くて確認できず、うつむいて固く目をつむった。
「きみは男が相手なら、見境もなくなんでもペラペラしゃべるんだな」
「そうやってあなたは過去に静さんを追いつめていったんですね」
「こいつがそうされるのが好きなドMの変態だからな。きみはまだ知らないかもしれないが、夜になると本性を発揮するよ」
 ゆっくりと目をひらく。おそるおそる隣を見ると、久保田の蔑んだ視線とかち合う。不敵に笑って煙草に火を点けた久保田は、禁煙ですと伝えに来た店員にすぐ出るからと返し、渡された水の入ったグラスに灰を落とした。
「須田くんは理学療法士だったね。はは、お似合いだよきみたち。まあ療法士と看護師で無価値な者同士、末永く幸せになってくれよ」
 久保田は医師である自分以外の価値を認めない。須田に対してもそういう態度をとった。席を立とうとした久保田のジャケットの裾を、静は咄嗟に掴んだ。
「なんだ、朋史」
 久保田が振り返る。見下ろしてくる冷酷な視線に、いつもなら怯えてなにも言えなくなっていただろうけど、今は言葉がすんなり出てくる。
「訂正してください。須田は、無価値な人間じゃないので」
 目をまっすぐ見つめて伝えると、久保田は口の端をひくつかせてアホらしい、と言った。
「勝手にしろ、付き合ってられん」
 じゅ、と音がして煙草が水のグラスに浮いた。静の手を払い、久保田は席を離れていく。
「待って!」
 立ち上がり、追いかけて訂正させようとしたら須田に止められてしまった。
「気にしませんから。静さんがオレを価値のある人間だと思ってくれてるだけでいい」
 清々しい顔をした須田が自信に満ちた声でそんなふうに言ってくれたから、静の興奮はすっと冷めていった。
「知って、たんだな」
 厨房に煙草入りのグラスを持って謝りに行っていた須田が帰ってきたので聞いたら、知ってました、と答えた。
「安奈さんに聞いたから。あ、彼女もちろんオレ以外には誰にもこのこと言ってませんよ。静さんの秘密を知ってるとか言って自慢してくるので、オレが無理やり聞きだしたんです」
 また自慢とか言ってる。安奈がそうやって須田をあおったのはきっと、始めから彼には静のことを話そうと決めていたからかもしれない。怒ってます、と聞かれ、怒ってない、と答える。
「でも、須田けっこうしつこく相手が誰だったかって聞いてきたから、知ってたのになんで、とは思った」
「だって静さんの口から聞きたいじゃん」
「僕の口からは言えなかった」
「わかってましたけど! あなたそういうとこ義理堅そうだし。だけど嫉妬しちゃうじゃん。あんなダメなやつなのに静さん、最後まで守り抜くんだなーとか考えてしまったらさ」
 嫉妬? そうか須田は久保田に嫉妬してたのか。嫉妬と言えば。
「おまえだって」
「なに?」
「森橋さんと二人で飲みに行ってたんだろ」
「あ、嫉妬しました?」
「した」
「おー、マジすか」
「須田のほうが誰にでも優しいじゃない」
 静にしてはめずらしく言葉がポンポン出てくる。安奈が、須田に振られたあとも彼の態度が変わらず優しいから忘れられなかったと言っていたのを思いだす。静も須田に負けず劣らず、嫉妬が根深い。
 いやいや静さんのほうでしょ、須田だよ、と誰にでも優しいほうの押し付け合いをしながら食事を終えて、長居したファミリーレストランを出る。信号待ちをしながら、なんでだろうと改めて思った。
「なんで僕なんだ」
 須田は明るくて社交的で惹かれるに値する人間だけど、自分にその要素はひとつもない。
「白衣の天使だから? 鼻血拭いたから?」
「ああ、その話」
 大人っぽい顔で笑う隣を見上げてから、青になったので歩きだす。
「それもありますよもちろん」
「白衣? 鼻血? どっち?」
「両方両方。まあ些細なことから、心に繋がりそうななにかまで、まだ曖昧で掴みきれてないけどオレは静さんに確かに引っかかるところがあったんすよ。きっかけはなんにせよ、これから一緒の時間をたくさん過ごして、曖昧な部分を埋めて、お互いをわかっていくんじゃないすか?」
 これから須田と一緒に過ごすたくさんの時間を想像して、静はすこし速足になる。
「え、どこ行くの静さん、映画館こっちすよ」
 うしろから手を引かれ、立ち止まった。そうだった。お昼を食べたら映画を観にいくという話をしていたのだった。
 静の手を握ったまま歩きだそうとした須田がつんのめる。
「ちょ、ちょっと、静さん?」
「映画、家で観ない? DVD借りて」
 提案すると、やばくないすか、と問われる。
「なにが」
「なんかいろいろ、オレの気持ちとか、オレの下半身とか」
「いいからこっち」
 恥ずかしいことを言いだす須田に赤い顔を見られないよう、握られた手を引っぱって静は映画館とは反対の方向に歩きだした。




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白に混じる幸福(8)R-18【終】


 部屋に入るなり須田は、静さんっぽい部屋だと言った。借りたDVDはまだ鞄の中。たぶん観ないと思う。店で選ぶ時から二人とも上の空で、最終的によくわからないものを借りてしまったから。
「お茶でいい?」
「おかまいなく」
 ソファーに座る須田の前に麦茶と氷の入ったグラスを置く。
「ちょっとちょっと、なんで床に座るんすか」
 こっち、と呼ばれ、二人掛けソファーの須田の隣に緊張しながら腰を落とす。
「映画、観たいのなかったすか?」
 映画館をキャンセルした理由を問われる。
「あったけど、二人になりたかったから」
 正直に答えると須田がガクッと項垂れた。
「ヤバいですって。本気で。この距離でそういう発言はやめましょう。いろいろ我慢できなくなっちゃうんで勘弁してください」
「我慢しなくていい。僕は、須田としたい」
 これから一緒の時間をたくさん過ごす、と須田は言ってくれた。夢みたいな話だ。でももし途中で嫌われてしまったら。元々ゲイではない須田に、やっぱり無理だったと放り出される近い未来を想像すると怖くなった。
 だからできるだけ早いうちに、須田には全部を知ってもらいたい。久保田との過去をすべてさらけ出しても須田は引かずに受け入れてくれたが、聞くのと実際に自分が経験するのとではいろいろ違ってくることも多いはずだから。幻滅されるなら早いうちに。傷は浅いうちに。
「なに考えてます?」
 皺の寄った眉間を指でさすられて、ハッとする。目の前の須田の優しい顔から目をそらし、準備してくる、と静は立ち上がった。

 自分のあとに須田がシャワーを使っている。急いで寝室のカーテンを閉め、室温を調節し、ベッドの皺を伸ばす。部屋を薄暗くして、ベッドサイドテーブルにコンドームと拡張用の器具とローションの代わりになるハンドクリームをひと通り並べてみた。
「静さん?」
 シャワーを終えた須田がリビングから呼んでいる。扉を開け、準備を整えた寝室に招き入れると、須田はギャハハと笑った。
「なにこの怪しいSMみたいな雰囲気」
「あ」
 電気を点けて部屋を明るくした須田が、ベッド脇の拡張用器具のアダルトグッズを手に取った。
「こういうの、使うんすか」
「四年前に使ったきり、だけど」
「へえ、そう」
 須田は不機嫌を隠そうともせず、今度はコンドームを手に取った。それも四年前、久保田とのセックスで使ったものの残りだ。使用期限を確かめてまだ使えるので引きだしの奥から出してみたが、考えてみると須田に対して非常に失礼なことをしているのかもしれないと思い直す。
「あの、うちにはこれしかなくて」
 情けない声で言い訳をすると、不機嫌そうな顔をしていた須田の表情がふっとゆるんだ。
「オレ静さん相手だとだいぶ嫉妬深くなるな。これ使いますよ。コンドーム大事だもん。でもこっち! こっちはいらない」
 拡張用器具を指さす須田に、静はそれがないと入らないと説明した。
「オレが指とか舌でほぐすもん」
「指とか、し……! バカなに言って」
「だめ?」
「絶対だめ」
 拒否しつつも、自分の中に須田の指や舌が入るところを想像して赤面する。
 久保田とのセックスは全部自分で準備した。久保田のものが入る状態になるまで口で大きくしながら後ろは自分で拡張した。久保田としか経験がない静にとって、セックスにおいてはそれが当たり前のことだったから、須田の発言には驚きすぎて心臓がドキドキした。
「おいで」
 須田に腕を握られ、ベッドに座らされる。
「待って、まだ準備が」
「準備はもうおしまいです」
 ベッドサイドに伸ばしかけた手を取られ、そのままベッドに転がされる。抗議しようとしたら唇をふさがれた。二回目のキスは、一回目を思い出させるような触れるだけの優しいキスだった。こんな簡単に気持ちよくなってしまっていいのだろうか。須田にのしかかられたこの状態のまま、ふかふかのベッドの底まで沈んでしまいそう。
「準備……」
 くちびるが一瞬離れた隙に、まだあきらめきれず呟くと気持ちいいの? と尋ねられる。
「あのオモチャ」
「気持ちよく、はないけど」
「じゃあいりません。静さんが気持ちよくならなきゃ意味ないよ」
「っ……ぅ、ぁふ」
 また反論しようとひらいた唇をふさがれる。今度は須田の舌が口内に入ってきて、静の舌に重なった。意志を持って動く舌が、縮こまる静の舌の真ん中の窪みを器用に突く。溜まった唾液をかきだすようにちろちろ舐められると、恥ずかしくて顔に血が昇ってくる。
「ちょっと、あんまり照れないでくださいよ」
 静の顔が赤いことに気づいた須田が、わざわざキスを中断して話しかけてくるのでにらみつけた。
「無理」
「静さん、自分のこと変態で淫乱とか言ってましたけど、オレの変態っぷりに比べたらまだまだひよっこですよ」
 上唇を須田の唇で挟まれ、びよんと引っ張られたあとちゅ、ちゅと鳥のようについばんでくる。まだしゃべれる状態だったからやだ、と言ったら、オレもやだ、と返ってくる。
「だめだっ」
「だめ?」
 ちゅー、と今度は下唇を吸われた。
「ら、め」
 恥ずかしすぎる。自分のペースに持っていけない不安からパニックになって須田の胸を拳でどんどん叩くと、そのまま体をぎゅっと抱きしめられた。
「須田、放して」
 気持ちよすぎるキスから解放され、涙声で訴えた。もっと冷静に、主導権を握って事を進めたい。ただでさえ幻滅される可能性が高い状態で、キスだけでこんなとろとろにされてしまっていてはこの先が思いやられる。まず部屋をふたたび薄暗くして、須田のを口で大きくして、自分のを拡張する。混乱する頭でこのさきの手順を確認していると、須田が耳元でなに考えてるの、と問うてくる。
「須田に、嫌われたくないから」
「うん」
「だからこのさきは、僕にさせてくれ」
「どうやってするんすか?」
 聞かれて簡単に手順を説明すると、須田は静の頭の横に手をついて顔を起こした。
「それって、あの人としてたのと同じ方法?」
 眉間に皺を寄せた須田の表情を見て、また失敗したことに静はやっと気づいた。久保田のことを想像させる行為は須田を不愉快にしてしまう。だけど静は久保田との経験しかないため、それ以外のやり方を知らない。
「あー違う違う、怒ってませんから!」
 泣きそうな顔でもしていたのか、須田は慌てた様子でまたギュッと抱きしめてきた。
「こういうことってたぶん、やり方とかないと思います。オレも経験豊富じゃないから絶対とは言えないけど」
「嘘」
「嘘ってなんすか」
「経験豊富のこと」
 静の首元に顔を埋めた須田がクスクス笑うのでくすぐったい。
「今までのことは忘れましょう。そんで、静さんとオレが気持ちいいようにしようよ」
「でも、そんなふうにしたら、須田は僕に幻滅するかも」
「幻滅はしないってば」
 幻滅の響きが可笑しかったようで、須田はまた笑った。だからそれ首くすぐったいって。
「しよ?」
 耳に吹きこまれた言葉に、静はしぶしぶ頷いた。うまくできなくても幻滅はしないと言ってくれたから、すこしだけ安心した。

 ハンドクリームをまぶした須田の指が、部屋の明かりに照らされてヌラヌラてかっている。信じられないことに性器をさんざん舐め尽くされたあと、穴も舐めるというのを拒否したらこの展開になった。
「や……、っ」
「痛いすか?」
「痛くはない、けど怖い。自分でしたい」
 正直に言ったら、させてよ、と返されて、入り口をくすぐっていた指が中にぐいっと入りこんできた。
「だいじょぶだから、力抜いて」
「ふ、うぅ……、ぅ」
「静さんのこと好きになってすぐ、こういうやり方ネットで調べまくってたオレって相当変態でしょ」
 実践はまだだけど情報は頭に詰まってる、と自慢してくる須田の手つきにはたしかに迷いがない。
 過去に自分で器具を使ってほぐした時の感覚と、須田に触れられる感覚は、時のへだたりを差し引いてもまったくの別物だった。クリームをたっぷり塗りこまれた内側の粘膜が、ぬちゃぬちゃと音を立てる。どこをどのようにされてそんな音が出ているのかわからないが、ただただ気持ちいい。
「はぁ、っ……」
「脚、自分で持っててください」
 仰向けのまま、立てた両膝の裏に自分の両腕をかまされる。そうすると腰が浮いて、尻が丸見えになってしまう。
「やだっ」
「だいじょぶだいじょぶ」
 さっきから何度もそう言ってくるけど、一度も全然だいじょぶじゃない。
「う、ぁっ」
 体勢が変わったことで、指の挿入角度も微妙にずれていたらしい。さっきとは違う場所に、須田の硬い指先がぐっと当たった。
「ここっぽい、かな?」
「そこ、あ、あぁ、ぁっ……、んぅ」
 出た指が挿ってくるたびに、須田は確実にそこに当ててくる。もうすでに勃っていた静の性器の先端から、ぷくっと透明の液体があふれ出てきた。おいしそう、と聞こえた気がした直後、静の張りつめた性器が須田の口に含まれる。
「や、待て、ぁ待って待ってだめ、ぇっ……、ひ、ぃぁ、んっ」
 じゅる、と先を吸われながら、内部を指の腹で抉られた瞬間、静は顎を仰け反らせて昇りつめていた。
「あ、んっ」
 だめって言ったのに。バカ。
 心の中の言葉は声にならず。内腿が勝手に震えて、しばらくすると脱力した。でもそこで余韻に浸ってるひまはない。上半身を起こした静は、自分の性器から口を離した須田がニッと笑うのを見て青ざめた。
「おま……、僕が、だ、出したのは……」
 どこ、と尋ねると。
「飲んじゃった。あ、嫌だった?」
「ばかッ! 嫌なのはおまえのほうだろっ」
「嫌なら飲まないですって」
 なんて順応性の高さだ。驚きが引いていくと、青かった顔が恥ずかしさでどんどん赤く染まっていく。
「さて、」
 楽しそうに首を傾げる須田が、まだ下着を脱いでいないことに静は今さら気づいた。自分だけ裸でこんなに気持ちよくしてもらって申し訳ない気持ちになってくる。三角テントを張った下着にそっと触れると、あんっ、と須田がふざけた声を出す。
「おまえは口と手、どっちがいい?」
 男に咥えられることに抵抗があるかと思って遠慮がちに尋ねたら。
「静さんの中がいいな。って今のこのやりとりなんか、お風呂とご飯どっちにする? オマエにするー、ってのに似てません?」
「似てるけどどうでもいい」
 勃起させながらくだらないことを言う須田の下着に手をかけると、マジで、と切羽詰まった声で須田が静の耳元で囁く。
「余裕ないんで、今すぐ静さんに挿れたいす。……だめ?」
 肩にしなだれかかってきて額をくっつけ、ぐりぐりこすりつけてくる。今すごく年下の須田の年上を相手にした、セックスのこなれた部分が見えた気がして、静はイラッとしながらも心臓をどきどきさせていた。
「いいけど、何人目」
 こんな常套手段にまんまと引っかかっている自分にも苛立ち、静はわざととげとげしい声を出して須田に詰め寄った。
「なにがすか?」
「セックスの相手、僕で何人目」
「突然どうしたんすか」
「言わないのか」
「いやぁ、聞いても楽しくないでしょ」
 聞かなくても楽しくない。プリプリしながらも下着を脱いだ須田を仰向けに押し倒し、挿入の準備をしようとして須田の視線に気づきハッとする。
「静さんこそ、迷いなくその体位選んでる理由ってなんすか」
 しまった。久保田との行為ではほとんどがこの騎乗位で、挿入と言われた瞬間これ以外思いつかず、ついうっかり須田に乗っかってしまった。
「う、あの……、ごめん」
 素直に謝ると、須田が笑う。
「こっちもなんかごめんなさい。まああれだ、過去のことが気にならなくなるくらい、これからいっぱい二人でしましょう、ね?」
「うん」
 そんなふうに言ってもらえて、さっきまでイライラしていたくせに今度は嬉しくて涙が出そうになった。感情の起伏が激しすぎて自分でも笑えてくる。
「今日はとりあえず、騎乗位以外でお願いします」
「あー、……うん」
 なにがいいと聞かれたが、わからないのでおまかせしたら、正常位ということになった。
「静さんの感じてる顔が見たいから」
 いらぬことを報告してから、須田は仰向けになった静の窄まりに熱の先端を添え当てた。直後、ぐっと押しこまれて息が止まる。
「静さん、力抜ける?」
「ふ、ぅ……、っ」
 頭の膨らんだ部分が入口を広げ、奥へと進む。圧迫感がものすごくて、とにかく力を抜くことだけに集中した。須田は時間をかけてくれた。苦しい場所が通りすぎた頃、頬に冷たい感触が落ちてきて、静はつむっていた目を開けた。自分を見下ろす須田と目が合う。黒髪の短い毛のさきに引っかかっていた汗が、また自分の頬にぽとりと落ちた。
「いちばん、奥まで、来ちゃいました」
 ちょっと苦しげな顔ではにかんで笑う須田が愛しくて、静は手を伸ばしてキスを要求した。近づいてきた顔を引き寄せ口づける。舌を差しだし須田の口内でれろれろと絡ませた。
「んんぅ、ふ……、うごい、て」
 口づけながら伝えると、須田の性器がゆっくり中から出ていく。お互いの唇をベタベタにしながら、ゆっくりゆっくり挿入を繰り返しているうちに、静の腰も須田に合わせてゆらゆら揺れ動き始める。
「これ、すっごく気持ち、いいんすけど」
「う、んっ、いい……っ、ぼく、も」
 間近で見つめ合いながら、時々キスを交わし、動きはみるみる激しくなっていく。ピストンの幅が徐々に狭まっていき、須田の性器の先端が静のいちばん奥を執拗にノックする。
「あ、んっー……! だ、めっ……、もう、いきそう……ぁっ!」
「いって見せて?」
 上半身を起こした須田がそんなことを言ってちょっと悪い顔で笑った。今さらだけど、好きな顔なのだと思う。だって今の表情とか、かっこよすぎて寝転んでるのにクラクラする。
「これ、いいとこに当たってます?」
 須田が静の脚を腕で抱え、角度を変えてさらに奥を突く。
「あ、あっぁあっ!」
 キスができないくらい離れたぶん、須田の動きがよく見える。嫌らしい腰使いや、下唇を噛んだ余裕のないセクシーな表情を見ていると、もうたまらなくて静はベッドに両手を突っ張って腰を浮かせた。
「静さん、エロすぎそれ、やばいって」
「だって、もう……、ふ、わ、ぁ……っ!」
 須田と目が合った瞬間、快楽が脳の奥ではじけた。
「んぁ!」
 直後、射精の余韻で揺れる静の腰の中で、ぬくい液体がばらまかれる。
「く……、っ」
 苦しそうな表情で片目をつむった須田が、快楽をやり過ごしたあとどさりと顔の横に倒れこんできた。二人して荒い息を整えながら重なっていたら、しばらくして須田がもぞもぞ動きだす。ベッドに手をついて顔を上げた須田が、オレがあなたに幻滅なんてするわけないでしょ、とちょっと怒った顔で言って唇を重ねてきた。


 白いレースのカーテンから、朝の日の光が漏れている。手を伸ばしてそっとカーテンを引くと、隣で眠る須田の裸の背面にやわらかな陽射しが当たる。触れてみるとすでにぬくかった。須田の体温と、太陽のぬくもり。
「ん?」
 目を覚ました須田が、静に触れられていることに気づいて笑う。たぶん、抱きしめようとしたのだと思われたのだろう。そのまま須田のほうから引き寄せてくれた。
「おはよーございまあー……す」
「おはよ」
 耳に吹きこまれるまた眠ってしまいそうな気だるげな挨拶に、静も笑った。
 密着した須田の肩越しに窓の外をのぞき見る。梅雨明けの太陽のまぶしさを静は久々に心地よく感じた。




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Author:りんこそ
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