ひねくれ美人の愛をほどけ(1)

 客の男がサーモンピンクのヘルメットを買って店を出た。シールド部分がUVカット仕様になってるそれは、彼女への誕生日プレゼントだと言う。海岸沿いの国道を、バイクにまたがって走り去っていく幸せそうな後ろ姿を見届けて、勇士は店の前で大きく伸びをした。暮れかけの陽射しに目を細め、緑の深みが増した春の山道に思いを馳せる。
「俺も美人とタンデムしたいぜ」
 むなしい独り言が赤い空に吸いこまれてゆく。ちょうどそのとき、いましがた客が去っていったほうでなにかがきらりと光った。
 光に反応して勇士が目を向けた先、真っ青な原付スクーターを手押しで引きずってだるそうに歩く、やけに派手な男がいる。豹柄のパーカーにライムグリーンのスニーカー、手にはオレンジのヘルメット。うつむいた頭が、光り輝く満月みたいな、金髪のマッシュルームカット。
 鮮やかな色彩が目に飛びこんできた瞬間、勇士の頭の中に十年前の記憶が一気によみがえった。
「七!」
 勇士は思わず叫んだ。咄嗟に顔を上げた男が、眠そうな目を一瞬見開いてから、げ、と言う。実際に声は聞こえてこなかったが、薄い唇の形と表情からそう推測された。
「七かおまえ、七重じゃないか」
 偶然で久々の再開。ずっと捜していた七重が突然目の前に現れた。勇士はテンションがふり切れそうになるのを必死でこらえた。喜びに打ち震え、両手を広げて近づいていくと、七重はスクーターごと一歩後退した。
「ずっとどこにいたんだよ、死ぬほど会いたかったぜ。おまえ相変わらず、髪傷んでてもおかまいなしに色抜いてるんだな」
 勇士がパサパサの小さな頭に手を伸ばすと、直前でひょい、とかわされる。
「そのバイク、どうしたんだ?」
「あー、走ってる途中でパンクした」
 髪型も派手なファッションも、ぶっきらぼうな話し方も昔のまま。変わったのは、ぎすぎすに痩せた身体と、さわろうとした手を拒んだよそよそしい反応だけだ。ここまで痩せてしまったのはいただけないが、よそよそしいのはなんせ十年ぶりの再会なんだから仕方ないのかもしれない。これからまた頻繁に会うことになれば、徐々に昔のように戻っていくに違いない。
 勇士はしゃがんで、パンクしたというタイヤを覗きこんだ。表面の溝が摩耗して消え、ひびが入ったフロントタイヤを目にして七重からスクーターを奪う。
「こんなので走ってたのか、命知らずなやつめ。タイヤ交換してやるよ」
「は? なに言ってんの?」
「俺、いまバイク屋やってるんだ」
 十メートル先、知り合いから引き継いで勇士がオーナーを務めることになった、小さなバイクパーツショップを指さす。
 カー用品を扱う量販店を退職して、地元の大都市を離れたのが半月前。引っ越してきたこののどかな街は、海風の匂いが漂う住み心地のいい場所だった。十年間、人であふれる街中をどんなに探しても見つからなかった七重が、地元を離れた途端、半月足らずで向こうから姿を現すとはなんという幸運だろうか。
「七はこの街に住んでるのか?」
 尋ねてしばらく待ってみたが返事はない。仕方ないので奪ったスクーターを押して店に向かっていると、七重がシャツの裾を力強くつかんだ。頑丈な勇士の身体が軽く後ろに傾ぐくらいの、咄嗟に出るその癖が懐かしい。
「バイク返せ」
「近くにほかのバイク屋ないぞ。家どこか知らないが、押して帰るのか?」
 尋ねると、アーモンドみたいなくっきり大きな一重まぶたの幅を狭めて、薄い下唇を噛む。こけた頬が痛々しいが、七重はそんじょそこらにいない印象的な美人だ。痩せてしまっても美しさは昔とまったく変わっていない。
「じゃあ、パンクだけ直してくれ」
「なに言ってるんだ。こんなツルツルタイヤで走ったら事故るぞ。友達価格でタイヤ交換してやるから、遠慮なんかするな」
 口を開いてなにか言いかけた七重の肩をたたいて、勇士はスクーターを押しながら上機嫌で店に戻った。

「なにか病気か?」
「は?」
 用意したパイプ椅子には座らず、腕を組んで不機嫌そうに勇士の作業を見下ろしていた七重に尋ねる。
「七、痩せたからさ」
「筋肉落ちただけだろ」
「でも骨と皮だけ、って感じだぜ?」
 筋肉が落ちたにしても、脂肪はどこについているのか。
 マフラーを取り外したあと、スクーター本体からリアタイヤを外して空気を抜く。工具入れからホイールを外すためのタイヤレバーを取るついでに、七重の細くて硬い足首をジーンズ越しにつかんだ。
「ほら、なんか骨をじかにさわってるような感じだ―、痛たたた」
 七重は足を揺らしてつかまれた手をふり落とすと、靴を履いてることなんてかまわず勇士の背中を踏んだ。こういう情け容赦ないところは、昔と全然変わってない。
「そこのメガネレンチ取って」
 声をかけると、七重はしばらく工具入れを見つめたあと、ラチェットレンチを手にした。
「いやいや、冗談はいいから」
 ハハハ、と乾いた笑いをもらすと、今度はスパナを掲げてみせる。
「おもしろくないんだが」
「わかんねーんだよ、どれがなにか」
「習っただろう?」
「忘れた」
 そう言い放つと工具入れごとこっちに寄こしてくる。工業高校で三年間一緒に学んだことを、七重のほうはすっかり忘れてしまったらしい。あんなに濃く楽しい時間を共に過ごしただけに、十年ぶりとはいえ、七重との記憶に差があることがなんだか寂しく感じた。
「十年も見てねーし触れてねーんだから、物の名前と形が繋がらねーのは当然だろ」
 七重がうつむき加減に言った。勇士が落ちこんでるように見えたのかもしれない。言葉はえらそうなのに口調が妙に優しい。
「いま、なにしてるんだ?」
 十年も工具に触れてないと言った。工業高校を卒業してから七重とは連絡が途絶えてしまったため、その後、彼がなにをしていたのかまったく知らない。
「もの、書く仕事」
「もの……、小説とか、詩とか?」
「そんな感じ」
「本当か!」
 意外な事実に驚いて、咄嗟に背後の七重をふり返る。すごいじゃないか、とほめても返事はない。目が合ったのは一瞬で、視線はすぐさま勇士を避けるように斜め下に落とされた。なにか反応があるかとしばらく見つめていても、七重は目をそらしたままでものも言わない。
 なんなのだろうか、この感じ。
 勇士の記憶の中の七重は、クールで物怖じしない性格をしていた。高校生当時の二人の会話はいつもテンポよく弾み、ケンカもしょっちゅうだったが、その最中ですら勇士は楽しくて仕方なかった。周囲には二人がそろうと騒がしいとよく言われた。仲良くしててもケンカしてても、いつもうるさいからどうにかしろと。
 だからいま目の前にいる、自分と視線を交わそうとしない物静かな七重は、記憶の中にはいない。なのに勇士はなぜか、この二人の間のぎこちない空気感に覚えがあった。
「できたか?」
 妙な既視感にとらわれながらも着々と作業を進めていたため、前後のタイヤ交換を手組みで五十分ほどで済ませた。
「ああ、終わった」
「いくらだ?」
 ジーンズの尻ポケットから財布を取りだした七重の目の前に手をかざす。
「お代はいらないから、今度メシ付き合え」
「は? やだ。金払う」
「久々に会ったんだから、酒でも飲もうぜ」
「…………おれ酒飲まねーから」
 吐き捨てるように言ってうつむく。どうやら七重は酒が苦手らしい。
「そうだグラタン! グラタン食いに行こう」
「グラタン?」
「おまえ好きじゃないか。ファミレス行ったら二回に一回は頼んでただろう。俺うまい店知ってるんだぜ」
 自慢げに言ってみせると、七重はちょっと困ったような顔をした。さっきまでは断固として誘いを断る意志が見えていたが、グラタンにつられてほだされたようだ。
「ろくなもの、食ってないんだろう」
 肉の削げた頬に触れると、七重の肩が震えた。揺れる視線の先は足下で、その見覚えなんてないはずのうつむく困り顔の七重に、勇士はまた既視感をおぼえた。
「俺は、なにか大事なことを忘れてる」
 七重に伝えるつもりはなく、ただ独り言が口をついて出ただけだった。
「大事な、こと?」
「ああ、なんだろう。七、わかるか?」
 七重は不良ばかりの工業高校の中で群を抜いて成績が良かった。そんなかしこい七重なら知ってるかもしれないと思って尋ねたら、頬に触れた手を払われた。
「おれが知るかよ、アホか!」
 こっちが本来の、勇士の記憶の中の七重だった。本当は優しいくせに、気が短いためすぐ手が出る、暴言を吐く。
 新しいタイヤを装備したスクーターを押して店を出た七重に、半ば無理やり食事の約束をとりつけた。声をかけてもふり返りもしない派手な後ろ姿を、勇士は視界から消えるまでずっと眺めていた。



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ひねくれ美人の愛をほどけ(2)

 結城勇士と苗村七重の出会いは、高校一年の春だった。
 なめられてはいけないと、髪をオールバックにして工業高校の入学式に向かった勇士は、そこで光る七重を見つけた。きのこ型にカットした髪を金色に染めていた七重は、派手な連中の中でも独特のオーラと美貌で目立っていた。宝石みたいにきらきら輝く七重に、勇士は真っ先に話しかけた。自分が見つけた宝物を他の誰かに取られたくない衝動に駆られていた。
 同じ機械科で、三年間同じクラス。勇士と七重は、入学から卒業までのほとんど毎日を一緒に過ごした。
 授業中爆睡しているクラスメイトの髪をバリカンで剃ったり、自転車の二人乗りで干からびた川を横断したり、校長室に一泊してみたり。思いつく限りのくだらないことを二人でやり尽くした。毎年五月に仲間内で開かれる同窓会のたびに、当時のくだらない思い出話に花が咲くが、七重は卒業してから一度もこの集まりに顔を見せていない。
 卒業したら、学校がないから約束しないと会えなくなるが、また頻繁に連絡を取りあって遊ぶものなのだと思っていた。七重以外の友人とはそうなった。高校を離れても、暇ができれば連絡して会った。
 しかし、七重の携帯だけは卒業した途端、繋がらなくなった。電波が届かないとか言ってたのは最初の一週間ほどで、そのあとは現在使われてない番号に変わった。家族ならなにか知ってるだろうと家に電話をかけてみたが、母親は口止めでもされているのか、何度かけても、七重は家を出たが至って健康だ、とだけしか答えてくれなかった。仲間内にも、七重の消息を知る者はひとりもいなかった。
 勇士は狐につままれたような気分になった。まさか昨日まで親友だった男が、なんの予兆もなく突然姿を消すだなんて思ってもみなかったのだ。
 いまでもなにが原因でそうなったのか、さっぱりわからない。あんなに楽しい時間を過ごしたのに、七重はいったいなにが不満だったのか。

「なんで俺たちの前から消えたんだ?」
 単刀直入に尋ねた勇士を見て、七重は唇の左端を上げて鼻で笑った。物知りな七重が無知な勇士を小バカにするときの反応だ。これは昔と変わっていない。
「さあ、なんでだろうな」
 一口大のグラタンが乗ったスプーンを手に持ったまま、七重は言った。間抜けなことに、七重はグラタンが好きなくせに猫舌なのだ。器からスプーンにすくって、もう一分ほどそうしている。
 ランチのピークが過ぎた午後一時過ぎ、勇士は自分の店を一旦閉め、駅の裏側にある洋食屋に向かった。無理やり取りつけた約束の時刻に七重は店の前に現れた。人の願いを無下にできない、七重はそういうやつだっだ。
 テーブルについて二十分。あつあつのハンバーグを絶え間なく口に運ぶ勇士の目の前で、七重はずっとスプーンを手に持ったまま固まっていた。
「宮田とかみんなも、ずっと心配してたんだぜ?」
「そう」
 一口目のグラタンをやっと口に入れて、なんの感情も含まない声で七重は言った。
「おまえ、そんな冷たいやつだったか」
「そう、あんたが知らなかっただけ」
 言い終わるとすぐ返事が来る。その反応の速さやぶっきらぼうな話し方は昔と変わらないが、会話を断ち切ってしまいたがってるような冷たい態度は七重らしくない。
「七、本当に変わってしまったのか?」
「は? だからおれは昔からこうだっての」
「違う、俺の七はもっと優しかっただろう!」
 ハンバーグにフォークを突き刺し、勢いこんでそう伝えると、グラスの水を飲んでいた七重が、んっ、とつっかえる。苦しそうに飲み下した直後、派手に咳きこんで丸いスプーンの頭を勇士の鼻先に突きつけた。
「あんたはぜんっぜん、変わってねーな」
「そうなのか? いい意味で、だよな?」
 涙目で訴えてくる七重に問い返すと、ふん、と鼻で笑われる。
「そういう無駄に前向きなとこ、まあ悪くないんじゃねーの? 知らねーけど」
「なんなんだ、そのつれない態度は。昔みたいにまた仲良くしようぜ」
「絶対やだ」
 こいつ本当に七重か?
 勇士は目をすがめて正面の男を凝視した。
 七重に双子の兄弟はいたか? いやいない。他人のそら似か? にしては声も顔のパーツも骨格も七重すぎる。
 高校生当時の七重は、勇士を甘やかしていた。ほかの友人たちには結構きついことを言ったり酷いことをしたりしていたが、勇士に対してだけはとことん甘い。二人の間でケンカはしょっちゅうだったけれど、その原因はいつも勇士のほうにあった。わがままや無茶を言うと、ある程度までは許されるが、度が過ぎると七重はキレる。
 怒ったときの七重は、いつもの倍の速さで倍の量しゃべった。普段クールにしてるやつが、胸ぐらをつかんでペラペラ説教を垂れるのは見ていて爽快だった。勇士より少しだけ身長の低い七重が、至近距離の上目づかいで睨みつけてくる。その顔がすごくきれいでまた見たくて、わざと怒らせていた記憶がある。
 二人の関係においてわがままを言っていいのは勇士のほうだった。質問しても答えをくれなかったり、頼んでも聞きいれてもらえなかったりしたことなど、昔は一度もなかった。
 カチッ、という音がして顔を上げる。七重がタバコに火を点けたところだった。器を見ると、まだグラタンが半分以上残っている。昔は全部平らげてからしかタバコに火を点けなかったのに、そんなところまで変わってしまったというのか。
「物書く仕事って、どんなの書いてるんだ?」
 本当は、俺の知ってる七重を返せ、と言ってやりたかったが、あまりに大人げないし、いくらバカな勇士でもそれを言ったらまた鼻で笑われることはわかったので、話題を変えて冷静を装うことにした。
「官能小説」
「か…………、え?」
 くわえタバコで迷彩柄のリュックを探り、七重は一冊の本を取りだしてテーブルの上に置いた。
「半熟美少女のメス豚飼育……」
 思わずタイトルを読みあげてしまいハッとして顔を上げると、隣で食後の紅茶を飲んでいたおばさんが勇士を思いきり睨んでいた。
「な、なんだこれは」
「おれが書いたんだよ」
 恐る恐る手に取って中を見てみると、たまたま開いたページに肉だの穴だの欲棒だのなすびだの、とんでもない単語が並んでいて、勇士はすぐさまパタンと本を閉じた。
 本当に七重は変わってしまったようだ。昔は清純派だったのに。
「おまえ、なんでこんなもの書いてるんだ?」
「こんなもの?」
 過去の幻想を塗りつぶされた怒りを七重にぶつけると、反射したみたいに鋭い視線が投げ返される。
「おれは誇りを持ってこの仕事をしてる。誰かにとやかく言われる筋合いはない」
 勇士を見る揺れない黒目に、七重の高いプライドが映しだされていた。
「決められたジャンルの中でどれだけ自由に表現できるか、毎日葛藤しながら作品を作ってる。ただエロいだけのやつだっておれをバカにするのはかまわねーけど、ジャンル自体を卑下することは、官能小説に関わってる人たちに対する侮辱だと受けとるから」
 勇士の手から本を奪って、七重はたて続けに二本目のタバコに火を点けた。
 自分の中の七重像に執着して、本物の七重を傷つけてしまったようだ。申し訳ないと思うと同時に、勇士は七重の言葉に感動してもいた。離れていた十年の間に、七重が選んで積み上げてきたもの。別々の道を歩み、違う職に就いても、お互い高い意識で仕事に向き合えていることを知れて嬉しかった。
「悪かった」
 空になった皿を端によけ、テーブルに手をついて深く頭を下げる。ゆっくり顔を上げると、七重が口を半開きにしてパチパチと瞬きしていた。このかわいい顔は昔と変わらない、驚いたときのリアクションだ。
「七重を傷つけたことを謝る。俺はなにもわかっていなかった。許してくれるか?」
 七重の左手を持った本ごと両手で包みこむ。返事がないのでぎゅっと力をこめると、七重のぽかんと開いた口がイー、と横に伸びた。
「わかった。許す、許すから離せ」
「ちゃんと読んで、今度会うとき感想文を書いてくるから、許せよ」
「そこまで望んでねーから。とにかく手離せ」
「感想文、読んでくれないのか?」
「おれの本読んで感想書くのはいい。ただそれをおれに見せるな。そんで、手を離せ、つってんの!」
 七重があんまり大きな声を出すから、勇士は手を離してやって静かに、と口の前に人差し指を立てた。頬を引きつらせて舌打ちをしたあとすぐ、伝票を持って立ち上がろうとするので咄嗟に阻止する。
「グラタンは?」
「腹いっぱいなんだよ。食えねーから残す」
「ああ?」
 七重の腕を引いてもう一度座らすと、勇士は懇々と説教した。
「もう食えないって、半分も残してるだろう。タバコばかり吸って、まともに食事ができていないじゃないか」
 それに、勇士は自分で注文しておいてものを残す人間が嫌いだった。大人なのだから、食べられないならあらかじめ少なめに注文することをすべきだと思っている。
「残したら作った人に悪いだろうが。そもそも誇りを持って仕事をしてると言っておきながら、なんだその身体は、不健康に痩せ細って。どんな仕事だって、身体が資本だろう?」
 勇士の言葉を黙って聞いていた七重が、沈黙が落ちて数秒後にふっと息を吐いた。そしてビクッと肩を震わすと、はじけるように笑いだす。
「な、なんなんだ」
「あんたって、ほんっと変わってねー!」
 久々に見る笑顔の破壊力に圧倒される。七重は笑うと冷たい印象を受ける真顔から一転、眉が下がって両頬にえくぼが刻まれ、なんとも愛らしい顔に変化するのだ。
 しばらく笑い止まない可愛らしい七重をじっと見つめていたら、真っ白な骨張った指が前から伸びてきて、勇士の肩先をちょんちょん、と触った。
「いい意味で、変わってねーよ」
「俺は、ほめられてるのか?」
「ああ。あんたの素直に謝れるところと、健全でまっとうな正義の持ち方が―」
 笑いすぎて目尻からこぼれた涙を指の背に落としてふり払い、笑顔のままで七重は、好きだ、と言った。




ひねくれ美人の愛をほどけ(3)

「勇士」
 のれんをくぐって数歩歩いたところで、一番奥の座席から宮田が声をかけてきた。
 一年ぶりの同窓会にはすでにいつものメンバーが集まっていた。高校時代もっとも親しかった七重以外の八人。みんな昔に比べると落ち着いた見た目をしているが、ピアス穴だらけのでこぼこの耳だったり、眉毛が細かったり薄かったり、剃りこみ跡の残るM字型のおでこだったり、どこかしら名残はある。
 スーツに黒髪の、一番さわやかに見える営業マンの宮田は、昔は赤髪のモヒカンだった。宮田がモヒカンにしたのには理由があって、勇士と七重が授業中にバリカンで頭髪を剃っていたことに、爆睡していて途中まで気づかなかったからだ。
 グラスを合わせ、簡単な近況報告が済んだあとは、見た目は変わってもくだらないことが大好きな仲間たちと、くだらない思い出話に花を咲かせる。酒が進むとくだらなさに拍車がかかり、場はおおいに盛りあがっていた。
「言い忘れてたが、最近いいことがあった」
 忘れてたわけじゃなかった。みんなを驚かそうと思って、盛りあがりが最高潮になるまでこの話題をとっておいたのだ。
「なんだ? また彼女できたのか。男前は忙しいな。次はどんな女に言い寄られてんだよ」
「どうせまた今回も、もって三か月だ。そんでまた勇士がふられんだ。二十八にもなって、こいつまだまともな恋愛ができねぇんだぜ」
 勇士に言い寄ってくる女性はみな、最後は彼のもとを去っていく。それは付き合ってから半年後だったり一週間後だったりさまざまだが、初めて交際したときからずっと、告白されたから付き合ったのにふられる、という形だけは変わらない。勇士は、自分がたまたまそういった自己主張の強い女性に好かれる運命なのだろう、と考えていた。
 みんなの好奇心に満ちた視線を受けとめつつ、勇士はもったいぶって首を横にふった。
「七重に会ったぜ、この前」
 歓声が上がるかと待っていたが、誰も声を出さない。それどころか、みんな勇士に視線を向けたままの姿勢で固まっている。
「驚かないのか? 七重に会ったんだぞ?」
「ど、どこで」
「海岸通りにある、俺の店の近くで偶然。バイク屋のオーナーになるって話しただろう?」
 出会ったときの経緯を説明してもみんなの反応は薄い。やっと見つかっただの、俺たちにも会わせろだのと盛りあがるものだと思っていたが、場は奇妙なことに白けてしまった。
「本当に、覚えてないんだな」
 ぼそっと呟いた宮田に目をやると、あきれた顔をして勇士を見ていた。宮田以外の友人たちはみんな気まずそうに目をそらしている。
 勇士はこの、仲間たちに囲まれた居心地悪い空気にも覚えがあった。七重と再会したときに感じた、あの既視感と重なる。
「卒業式が終わったあと、このメンバーと七重とで初めて酒を飲んだろ?」
「ああ、そんなこともあったか」
 薄ぼんやりとした記憶が、頭をよぎる。
「そのとき、酔っぱらったお前が、七重にしたこと」
 覚えてねぇか?
 さっきまでの盛りあがりが嘘みたいなシンと静まった座敷内で、耳に届く宮田の低い声が勇士の脳の深部に沈んでいく。

 卒業式が終わると、みんなでひとり暮らしの宮田のアパートに集まった。祝いだからと、コンビニで買ってきた酒を昼間から飲んだ。三月半ばのよく晴れた日だった。明るい陽射しが射しこむ和室で飲みなれない酒に酔い、みんないつも以上にテンションが高かった。
「お前もだけど、七重もそうとう酔ってた」
 隣から聞こえる宮田の言葉に、はて、そのとき七重はどうしていたかと思い出そうとしたとき、ズキンとこめかみのあたりに痛みが走った。
「天気はよかったけど、暖房もきいてねぇまだ薄寒い部屋ん中で、お前突然、上半身裸になっただろ。そんでベッドに転がってた七重に覆いかぶさって、自分で脱いだくせに俺を温めろ、ってアホなこと言い出して」
 低い声で事実が語られていくにつれて、勇士の頭痛はひどくなっていった。脳の奥深くに封印していた記憶が、与えられた情報とつながっていく。
 目をそらす七重の困り顔、宮田の冷たい視線、周囲の気まずい空気。
 みりみりと頭蓋骨を揺らしていた鈍い痛みがスッと消えた直後、クリアになった頭の中に、抜け落ちていた記憶が戻ってきた。

 普段は青白い七重の頬が、酒を飲んだせいで外に咲く梅みたいに赤く染まっていた。勇士はそれを見ながら味なんてわからない焼酎を飲んでいて、そうしたらなんだかいろいろ我慢できなくなって学ランとシャツを脱いだ。
 ベッドで横たわる七重をまたいで膝立ちになり、顔の両脇に手をつく。普段の七重なら覆いかぶさる勇士に金蹴りでもかましてきそうなものだったが、その日はなんの反応もなかった。栗色の濡れた大きな目玉が、ぼんやりと見上げてくる。勇士はここまで警戒心のない七重の顔を見たことがなかった。
『なに?』
 問う薄い唇からのぞく赤い舌先を見ると、ゾクリと背中が震えた。
『俺を温めろ』
 自分でもわかるくらいアホなことを言ってる勇士に、脱いだ服を着ろとつっこむ友人はいなかった。そのとき勇士には周りを見る余裕はなかったが、しんと静まり返った部屋で、その場にいた全員が二人に注目していた。
『どうやって、温める?』
 首をかしげて、子供みたいに舌ったらずな声で七重が尋ねる。
 半裸でいるには、三月半ばの室内の温度は低かったが、それが原因ではない悪寒が勇士を包んでいた。心臓は異常なくらい高鳴り、真下にいる七重に触れると壊してしまう、そんな確かな予感がした。
『勇士』
 七重が名前を呼ぶ。その衝撃に勇士は震えた。普段、七重は勇士をあんた、と呼ぶ。名前で呼ばれた記憶なんて出会ったころから一度もない。その七重が、勇士と言った。
 本能的な恐怖が勇士を襲う。いつも隣にいた金髪色白の七重が、ピンク色に染まって下から見上げてくる。その初めて見る色つきの七重の妖艶さに、頭がくらくらしてぶっ倒れてしまいそうだった。
『あんたに惚れてるおれに、どうやって温めろって言うんだ?』
 そう言って、七重は笑おうとした。でもうまく笑えなかったのか、疲れたようにふ、と小さな息を吐きだすと、眉を下げた困り顔で勇士からゆっくりと目をそらした。
 ベッドに突っ張っていた体重を支える両腕がもう限界だった。酒のせいか、おかしな展開のせいか、肘がガクガク震えた。
 目の前の見たことない弱々しい七重を、抱きしめたい衝動にかられた。だが、自分の内からあふれでそうな得体のしれない情動をもて余して、勇士は七重にそれをぶつけることなく、ベッドを抜けだしトイレにかけこんだ。
 飲みなれない酒を飲みすぎていたのだろう。酒も食べたものも全部吐いた。すっきりして部屋に戻ると、ベッドの上にはさっきまでいた七重の姿はなかった。部屋には冷たい視線を送ってくる宮田と、勇士と目を合わせようとしない友人たちがいるだけだった。

 まさにいま、当時を思わせる光景が目の前に広がっている。
「さんざん吐き倒したあと、お前はなにかを吹っ切るようにまた酒飲んで、ぶっ倒れて、次の日目覚めたときには、都合の悪いことだけきれいさっぱり忘れちまった、つうわけよ」
 自分と七重の間には、なにも無かった。それまでとなんら変わらない、固く結ばれた友情以外に、なにも。混乱した単純な脳みそは、ややこしいことを切り離してそう結論づけてしまった。勇士は、半裸で七重を押し倒してからトイレで吐くまでの記憶を、十年間もすっ飛ばして過ごしていたのだ。
 勇士がトイレにこもってる間に、七重はベッドから降りてみんなに頭を下げ、見苦しいものを見せて悪かった、と告げてその場を去ったらしい。酔っぱらった勇士に押し倒されたことによって、酔っぱらった七重が隠していた気持ちを吐露してしまった。これが、七重との連絡が途絶えた原因なのだろうか。
 そんなことより。
「七重は俺に惚れていたのか!」
「うっせーよっ」
 思わず叫んでしまって宮田に叱られる。だが勇士には宮田の声など聞こえていなかった。
 七重が自分に惚れていた。どうしてこんな大切なことを忘れていたのか。あの美人で気が強くて優しい七重。ベッドに転がって自分を見上げてくる赤く火照った顔を思いだして、勇士は生唾を飲みこんだ。優越感と高揚感で、また叫びそうになるのをなんとか堪える。
 この前、洋食屋で七重が言った好きだという言葉は、十年前と変わらず自分に惚れてるということを意味してるのだろうか。好きなのだったら連絡を寄こせばいいものを。勇士には、十年にもわたって頑なに自分を避け続けた、七重の複雑な心境が理解できなかった。
 七重の告白を思いだしてひとり浮かれている勇士に、宮田から悲しい知らせが届く。
「テンション上がってるとこ言いにくいんだけどよ。実は俺ら、ずっと七重と連絡取ってたから」
「は?」
 突然告げられたことの意味がわからず固まっている勇士に、宮田は淡々と、自分たちは十年間、ずっとメールや電話で七重とやりとりしていたと告白した。しかも―。
「俺らと連絡取ってることも、お前が記憶なくしてることも、七重が勇士には絶対言うな、っつうから、黙ってたんよ」
 追い打ちをかけて信じられない話を聞かされ、勇士のテンションは急降下した。七重に避けられていたのは自分だけだった。しかも十年にもわたって、七重の口止めで仲間たちにそのことを秘密にされていたという事実を前に、怒りと寂しさと悔しさで頭に血が上る。
「七はなぜ、俺には連絡を寄こさなかったんだ!」
「気まずいからに決まってんだろ! てめぇが原因作っといて、なに言ってんだアホ」
「…………七の携帯番号教えろ」
「は?」
 静かに告げると、周りは皆、あっけにとられたような顔をした。勇士は再会してから七重本人に番号を聞いたが、教えてもらえなかったのだ。
「十年間も七と連絡取っていること黙っていやがって。俺だけ仲間はずれにするなんて、おまえら全員、卑怯だ」
 十年分の七重の不足を取り返さなければいけない。ここにいる誰よりも、七重のことを知っていたい。嫉妬にかられた勇士に、宮田は半笑いの引きつった顔を向けた。
「お前って、救いようのない―」
 アホだな。
 みんなの声がハモった。




ひねくれ美人の愛をほどけ(4)

 米、肉、にんじん、玉ねぎ、にんにく、カレールー。買ってきた食材を使った形跡のない台所に並べる。調理器具もないという七重のために、ホームセンターで包丁とまな板と寸胴鍋も買ってきた。
「そんなでかい鍋で、何人前作る気だよ」
 ソファーに座って勇士が書いた官能小説の感想文を読んでる七重が、鍋を指さしてあきれた顔をした。
 店が定休日の日曜の昼下がり、事前に連絡すると絶対来るなと言われたが無視して、勇士は七重のマンションに押しかけた。
 同窓会の日、宮田から七重の携帯番号を聞きだしたあと、家に着いてさっそく電話をかけた。それより早く宮田から連絡が入っていたようで、勇士が記憶を取り戻したことも、ひとり仲間外れにされて憤慨していることもすべて聞いていたのだろう、七重は不機嫌丸出しで電話に出た。受話器ごしに連絡を寄こさなかった理由を尋ねてみても、七重はため息を吐くだけで答えをくれなかった。
 そんなふうに過去を振り返っていても十年のブランクは埋まらない。とにかく会う回数を増やして昔のようにうち解けるのが先だと、勇士は持ち前のプラス思考で頭を切りかえた。しかし住所を教えろ、と言っても頑なに拒否するので、今度偶然見かけることがあったら家まで後をつけてやるとストーカーまがいに脅したら、七重は渋々口を割った。七重のマンションは勇士の店から一キロと離れていなかった。いずればれるのも面倒だと判断して、教えてくれたのかもしれない。
 ざっくり切った野菜と肉を炒めてると、背後に気配がしてふり返った。素足の七重が背伸びをして、勇士の肩ごしに寸胴の中を覗いている。まだ起きて間もないようで、髪には寝癖がついていた。
「腹減ったのか?」
 尋ねると目を細めて睨んでくるから、おやつに買っておいたプロセスチーズをためしにやってみると、またソファーに帰っていった。
 突然姿を消したり、食べ物を与えると寄りつかなくなったり、七重は実家で飼ってる猫によく似ている。ソファーに転がって包装をむいたチーズをかじる横顔をじっと見つめる。七重が視線に気づいてるのか気づいてないのか、勇士にはそんなことすらわからない。
 それは昔からだった。
 高校生のころの七重は勇士に甘く、隣にいるといつも居心地がよかった。優しい七重をたまに怒らせてみたりもしたが、些細なケンカも含めて二人の関係はいつも良好だった。
 七重は勇士の扱いかたをよくわかっていた。アホで単純でわかりやすい、と周りによく言われるが、それでも七重のほうがほかの人間よりいっそう勇士をわかっていた。七重にはすべて見透かされてる、そう思うときが勇士には何度もあった。でもそれは決して不快でなく、勇士は七重に知っていてもらえることで安心感を抱いていた。
 だが、勇士のほうは七重のことをうまく把握できずにいた。もちろん言ってることはわかるし、七重が楽しいのか楽しくないのか、それくらいはわかる。だがアホだからか繊細さに欠けるからか、勇士には七重の細部にいたるまでを理解できなかった。具体的にどこを、と言われると答えられないが、確実に見えていない部分があることだけはわかる。
 七重は勇士を内包している。包みこんでる側の七重からは勇士のすべてを理解できても、自分の外側にある七重の全貌を、勇士は見渡しきれていない。それは時々ふと思うことで、そしてそのことに気づいたときは、いつも寂しい気持ちになった。
 実家の猫は、自分と違う動物だから意思疎通できなくても納得できる。だが七重は同じ人間で、共通の言葉を持っているのに、気持ちが通じ合えない瞬間がもどかしかった。
 だから勇士は、七重になんでも聞いてしまう。そうすることでしか二人の隙間を埋められないからだ。
「七が酒を飲まないのは、卒業式のあとの、あの出来事が原因か?」
 家から持ってきた飲み残しの赤ワインを寸胴に注ぎつつ、勇士はストレートに尋ねた。再会したときに飲みに行こうと誘ったら、飲まないからと断られたことを思いだしていた。
「ああ、そうだよ。あの日以来一滴も飲んでねーの。もうあんなヘマしたくねーから」
 七重の言うヘマとはきっと、酔っぱらって勇士に惚れてると告白してしまったことだろう。酒のせいで言うつもりなんてなかったことを言ってしまって、七重は後悔しているのかもしれない。
「七は正直なところが、かっこいいぜ」
「は? なに突然」
 酒を飲まない理由を、その原因を作った本人を前にしてはっきり言ってしまう。自分しか知らないことなんだから、嘘の理由なんていくらでもでっち上げられるのに、七重はごまかすことをしない人間だった。
 沸騰した鍋の灰汁を取ってふたを閉める。火を弱め、台所を離れた勇士は、ソファーの前に立って七重を見下ろした。
「なんだよ」
 間近で見ると、頬がほんのり赤くなった。それは十年前の卒業式の日、ベッドで見下ろした七重の酔っぱらった顔色によく似ていた。
「付き合うか? 俺と」
 記憶から消してしまった七重の告白を、無駄にしたくなかった。七重は自分でヘマだと言ったが、酔っぱらっていたにしてもその気持ちが本物だったのなら、ちゃんと応えてやりたい。自分で忘れておいてばかげているが、いまからでも思いをきちんと受けとりたいと思った。
 勇士を見上げて沈黙していた七重が、うつむいてふ、と鼻で笑った。
「あんたやっぱ、おもしれーな」
 告白の言葉がおかしかったのか、それとも慣れない告白に顔がゆがんででもいたのか。七重がおもしろいと言った理由が勇士にはわからなかった。だから尋ねる。
「なにが、おもしろいんだ?」
「あんたはさ、この十年をどうやって過ごした?」
 ソファーから突然立ちあがった七重に驚いて、勇士は一歩後ずさった。
「言い寄ってくる女とそれなりに楽しくお付き合いしつつ、バイクに情熱を注いで生きてきたんだろう」
 胸の前で腕を組んだ七重が、小首をかしげてそう言い当てる。宮田たちから話を聞いてるのかもしれない。勇士は確かにそうやってこの十年を過ごしてきた。
「十年間も、会ってないあんたの影に支配されて、気持ちを揺さぶられ続けてるおれの心の内が、そんなあんたにわかるか?」
 七重は微笑んでいた。だが、その顔はひとつも楽しそうじゃなかった。
「だったら会いにくればよかったじゃないか。俺を仲間外れにしてたのは、七のほうだろ?」
 宮田たちとはずっと連絡を取り続けていたのだ。いくらでも勇士の居場所はわかるはずだ。影に支配されるくらいなら、実物に会えばいい。
「会ってなんかいいことあるのか?」
「だから、俺が付き合おうと言ってる」
 自分と付き合うことが、七重にとってのいいことだと勇士は疑わなかった。なぜなら七重はいまも昔も、変わらず自分のことが好きなはずだからだ。自信を持って告げると、七重の肩ががくんと落ちる。脱力したあとすぐ、目の前から勇士の鼻先を指さす。
「あんたはな、まごうことなき生粋のどストレートだ。くだらねーこと言ってねーで目覚ませ。バイクで峠に繰りだして、美人のライダーの姉ちゃんに逆ナンでもされてこい」
 わけがわからなかった。自分に惚れてるのに、なぜほかの女性のもとへ行けと言うのか。
「七重は、俺でないとダメなんだろう?」
 たったいま、気持ちを揺さぶられ続けてると言ったばかりだ。
「あんたはどうにもならねーことばっか、よくわかってんじゃねーか」
 ぐるんと首を一周させて、七重は勇士のシャツの首根っこをつかんだ。
「ああ、そうだよ。好きでたまんねーよ、昔もいまも!」
 上目使いで睨みつけながらそう言ってすぐ、七重は勇士を突き飛ばしてソファーにドサッと腰を落とした。ふんぞり返って足を組み、同情なんかくそくらえだとかなんとかブツブツ言っている。
 勇士にとって、こんな怒りながら愛の告白をされたのは初めてのことだった。その相手が七重で、その怒った顔が相変わらず美しくて、勇士は気分が良かった。こっそりにやけていると、七重がうつむき加減に口を開く。
「あんたにおれの気持ちをわかってくれとは言わねーから。一刻も早く目ぇ覚まして、良い女と結婚でもしろよ」
 七重の言ってることはやはりわからない。好きでたまらないと言うくせに、どうして付き合おうという告白を受けいれないのか。
 だが、勇士はその疑問を再び投げかけることをしなかった。なぜなら、七重の愛の言葉に心が満たされていたからだ。
 はっきりと七重の口が、好きだと言った。昔もいまも、好きでたまらないと。
 他の仲間たちに向けるものとは違う、特別な感情を七重は自分に抱いている。そう確信が持てた瞬間、勇士は胸がいっぱいになって、他のことなんてどうでもよくなっていた。
 ソファーに沈みこんでなぜかぐったりしている七重のために、勇士は台所に戻って鍋にルーを投入した。とろみがつくまで煮こんだあと、炊き上がったごはんにカレーをかけて、七重のもとに運ぶ。
「さあ食べろ。そして太れ」
 皿とスプーンを手渡すと、七重はひとくち食べてすぐそれをローテーブルの上に置いた。
「うまくないか?」
 尋ねると首を緩く横にふる。うつむいた顔を覗きこもうとした瞬間、金髪の隙間からジャージの太ももに、水が一滴落ちた。
「どうしたんだ?」
 声をかけても返事がない。心配で肩に手を置いて揺らしたが、それもすぐに払われた。しばらく黙っていた七重が、手のひらで頬を拭って顔を上げる。真っ白な顔の目だけが赤く充血していた。さっき落ちた水は、涙だったのかもしれない。
「なにが悲しいんだ?」
 伸ばした勇士の手が髪に触れると、七重は頭を振って抵抗した。
「やっぱり、あんたなんか嫌いだ」
 カレー皿を再び手に取り、七重は中身を一気に口のなかに滑りこませた。勇士は、さっきの好きを打ち消すように告げられた嫌いという言葉と、落ちた涙に衝撃を受けて、七重がろくに噛まずにカレーを流しこむ姿をただ見ていることしかできなかった。







ひねくれ美人の愛をほどけ(5)

 晴れた日曜の午後、山肌の緑が濃いワインディングロードを、勇士はひとり愛車のバイクで走っていた。昨日の夜、電話で七重をタンデムツーリングに誘ったのだが、明日は用事があると断られたのだ。
 ブラインドコーナーにさしかかる前に緩やかに速度を落とす。カーブに入ると車体をバンクさせながら、一定の速度で曲がりきる。すれ違ったアメリカンバイクが片手を上げたのに挨拶を返して、勇士は緑に囲まれた峠の頂上を目指した。
 仲間と走るマスツーリングも楽しいが、のんびりひとりで走るのも嫌いじゃない。だが、今日は絶好のツーリング日和でお気にいりの曲がりくねった山岳道路を走っているというのに、いつものようには楽しめなかった。慣れてるはずのソロツーリングなのに、やけに背中が寂しく感じる。
 七重が後ろに乗っていたら。あいつはいまごろどうしてるのか。
 家を出てからずっとそんなことばかり考えながら走っていたため、美しい景色は目に映ってもひとつも心に残らなかった。
 勇士は七重を持て余していた。
 一週間前の日曜のことを思いだす。ぼんやりしていたかと思ったら怒りながら愛の言葉を吐き、突然涙を流して、やっぱり嫌いだと訂正したあと、カレーを一気食い。それからは、いくら涙の理由を聞いても答えず、勇士は無表情でテレビの画面を見る七重の横顔をずっと見ていた。いま思い起こしても、あの日のことはなんだったのだろうと思う。七重の複雑さに頭が追いつかない。
 勇士が態度の冷たい七重に、おまえは変わってしまったと非難したとき、自分は昔からこういう人間なのだと七重は言った。もしそれが真実なのだとしたら、十年前の高校生のころは七重が勇士に全部合わせてくれていたということになる。そう考えると情けなくなった。相性がいいと思っていたのは自分だけで、七重はずっと無理をしていたというのか。
 昔のように仲良くしようと言うと、七重は拒む。かといって付き合うか、と新たな関係を提案してみたら、それも嫌だという。まさにお手上げ状態だ。
 十年間も思い続けていたという七重が、再会した自分の前で幸せそうに見えなかった。感情を爆発させるのは、泣いたり怒ったりで、心底楽しそうな七重をまだ見ていない、そのことがつらかった。
 どうしたら七重を理解できるのだろう。アホな自分に苛立つ。七重がしてくれたようにあいつを包みこんで、理解してやって、安心させてやりたい。そう気持ちが勇むのに、勇士にはその方法がまったくわからない。
 峠を下る途中、休憩に立ち寄った駐車場の展望台から、夕焼けに縁どられた山を見た。七重にこの絶景を見せたいと思った。だが勇士には、自分の隣で同じ景色を見つめて、喜ぶ七重の顔がうまく想像できなかった。

 出発が遅かったせいで、町に戻ってくるのもずいぶん遅くなった。夕飯を外で済まそうと、半日座りっぱなしだったため行きつけの立ち食いそば屋に向かう。店の一歩手前の信号で赤に変わり、空腹のせいと、絶景を見れたわりにいまいち楽しめなかったツーリングの苛立ちに、思わず舌打ちしたときだった。
 目の前の横断歩道を、年の離れた二人の男が談笑しながら横切っていく。その姿をフルフェイスのヘルメット越しに右から左へ目で追った。派手好きな男にはめずらしいダークスーツに、金髪が不自然に浮いていた。
「七」
 横切っていく後ろ姿に声をかけても、ヘルメットの中で音がこもって届かなかった。
 隣を歩く男の手が七重の肩に触れる。何気ない仕草だった。目を合わせて同じタイミングで噴きだす。横断歩道を渡った二人は、勇士が目指す先とは反対のほうへ歩いていった。
 ゆっくりバイクを発進させる。目的地の立ち食いそば屋には寄らず、勇士はミラーに映る二人の後ろ姿が見えなくなるまで直進した。

 七重の隣を歩いていた男に見覚えがあった。でもいったいどこで見たのか思いだせない。年は四十半ばくらいだろうか。冴えない銀縁のメガネをかけた優しい目をした男。
 五階建てマンションの三階、角部屋の扉にもたれて座りこみ、勇士はあの男をどこで見たのか悶々と考えていた。
「なにしてんだ? あんた」
 声に反応して顔を上げる。七重が驚いた顔で勇士を見下ろしていた。
「七を待ってた」
 答えて立ち上がると、七重は何度か瞬きを繰り返してからうつむいた。
「今日は用事があるって言っただろ。いつから待ってたんだよいったい」
「一時間くらい前から」
 鍵を開けて部屋に入る七重のあとを追う。
「これ、ツーリングのみやげ」
 今日渡す予定ではなかったが、七重のために買った温泉まんじゅうをテーブルに乗せた。
「今度は一緒に行こうぜ」
 ふり返ってまんじゅうを見つめている七重に声をかけたのに、返事もうなずきもしない。
「さっき一緒にいた人って、誰だ?」
 いまと違って、楽しそうに話しながら一緒に笑っていた。男の隣にいたときの、心をあずけてるような無邪気な七重の笑顔を思いだして、心臓が絞られてるみたいに痛んだ。
 七重はまんじゅうから勇士に視線を移すと、なんの感情もこもらない声で言った。
「いま、付き合ってる人」
 付き合ってる。しばらくそのわかりきっている言葉の意味を考えた。付き合うって、交際するという意味だよな。
 付き合う。
 このキーワードが勇士の記憶の一点とつながった。
「そうだ! あの人、小説家だ」
 確か仲谷周吾という名前の、若い女性に人気の恋愛小説家だ。以前付き合ってた女性が大ファンで、本を何冊か渡されたことがある。勇士はその中身を読みもしないで、女性の気持ちがわかる男というのはどんな顔をしてるのかという好奇心で、名前と見開きの顔写真だけ確認したことを思いだした。
「あんた、本なんて読むのか?」
 七重が目を開ききって、パチパチ瞬きしながら尋ねてくる。失礼なことを言われてる気がしたが小説なんて読まないから、勇士は素直に首を横にふった。
「前の彼女があの人のファンで、本は読んだことないんだが、顔は知ってる」
 内容を知らないのに顔だけ知ってるなんて、自分で答えながらアホっぽいな、と思った。鼻で笑われるかと思ったが、七重は眉間にしわを寄せて勇士から目をそらした。
「あっそう」
 怒りの含んだ声でそう言うとソファーに腰を下ろして組んだ足先を扉に向け、帰れば? とうながしてくる。突然、機嫌が悪くなった理由もわからないが、勇士にはそれよりももっと意味のわからないことがあった。
「なんであの人と付き合うんだ? おまえは俺のことが好きなのに」
 どうして自分の告白を受け入れないで、ほかの人と付き合うのか。その理由が知りたい。
 純粋な気持ちで尋ねると、七重の口がゆっくりと開く。なにか言おうとしたのかもしれないが、結局その口からはなんの言葉も発されず、大きなため息が吐きだされた。七重の身体から力が抜けて、やわらかいソファーと一体化する。その脱力した身体からは、怒りのオーラはすっかり消えていた。
「あきれる」
「なににだ?」
「あんたに」
「なんでだ?」
 七重は独り言を言うだけで勇士の質問には答えない。
「さっきのは、デートか?」
 今度は面倒そうにうなずく。小説家の男とはあんなに楽しそうに話してたくせに、いまは返事のひとつもまともにしない。
 さみしくて悔しくて、七重の中の自分の価値がこれ以上下がることがつらくて、だがどうしていいのか見当もつかない。勇士は七重の気がひきたくて過激な質問を投げた。
「あの人と、セックスするのか?」
 答えを求めたわけじゃない。ただ七重がこっちを見てくれるだけでよかった。
 勇士の望みは叶った。七重は目をすがめてソファーの前に立つ勇士を睨みつけながら見上げてきた。七重がそうやって、ずっと自分のことだけを見てればいいと思った。
「俺としろよ」
 七重の目をまっすぐ見つめた。切実な願いだった。あの男と別れてほしい。自分が七重のいちばんでありたい。
 嫉妬に狂った勇士の愛の言葉は、七重の怒りを買った。
 勢いよく立ち上がって勇士のシャツの首根っこをつかんでひねり上げ、後ろの壁に押しつける。そのまま肘で肩を壁に固定し、顎を上げて勇士を見下ろそうとする。昔の七重だ。
「あんたの気まぐれの好奇心を満たすために、おれは存在してるんじゃねーんだよ!」
 早口の少し上ずった声で七重がまくしたてた。至近距離でじっと睨みつけてくる七重に見とれて、勇士はなにを言われたのかいまいち理解できなかった。にごりのない青白い白目に、水を含んだ透明の膜ができている。怒っているときの七重は、本当にきれいだ。
「仲谷先生はあんたと違って、おれの気持ちを理解してくれてる」
 理解。その言葉で現実に戻され、胸がぐっとつっかえる。勇士が目指す場所に、あの恋愛小説家はいる。
「俺だっておまえを理解したい。だが、どうすればいいのかわからない」
「うるせー!」
 正直に告白すると、突然七重のビンタが飛んできた。
「痛って」
 頬を張られて、目の前の美人が男だったと再認識する。音は鈍いが衝撃がはんぱない。勇士は思わずその場にうずくまった。
 ただ素直な気持ちを伝えただけだというのに、理不尽すぎやしないか。これは逆ギレというやつではなかろうか。じんじん痛む頬を押さえて勇士が不満げな顔を上げると、興奮して肩で息をしながら、七重がポロッと言葉をこぼした。
「十年も、忘れてたくせに」





ひねくれ美人の愛をほどけ(6)

 約束の時刻から十分が過ぎたころ、宮田がのれんをくぐってきた。
「わりぃ、遅れた」
 片手を上げて、勇士の肩を叩く。
「また連絡とれねぇ、ってか?」
 ちょうどひと月前、ツーリング帰りに七重の部屋を訪問した日以来、また連絡が途絶えていた。電話は着信拒否、部屋を訪ねても出てこない。そもそも中にいるかどうかもわからない。休みの日曜は朝から晩まで部屋の前でねばってみたが、勇士の行動を把握してるのか、七重は決して姿を見せなかった。
 この徹底的なやり口が、会えなかった十年間と重なる。七重はこの先、自分を避けるために引っ越しでもしかねない。また顔も見られなくなる恐怖に怯えて、勇士は七重が行動に移す前に宮田を居酒屋に呼びだし、自分たちのことを洗いざらい相談することにした。
「七重に恋人か……」
 大将が目の前で開栓してくれたよく冷えた瓶ビールの口から、霧のような水蒸気がゆらゆらと立ちのぼる。グラスに注いだビールで乾杯し、焼き鳥を頬張った。活気に満ちた店内は炭火の煙に包まれ、酔いが回って喧騒が心地よく感じ始めたころ、宮田が口を開いた。
「七重は怯えてるんだろ」
 焼酎に浮かぶ四角い氷を見つめて、勇士は眉を寄せた。
 七重が怯えてる?
 怯えてるのは七重と連絡が取れなくなる自分だけではないのか。
「お前はストレートだ。女とセックスするし、街でかわいい子がいたらふり返る。高校んとき、みんなと一緒に胸や尻や騒いでる健全なお前を間近で見ていた七重が、告白した直後に嘔吐されてどんな気持ちになるよ?」
 デリカシーが欠如してると言われ、勇士はししゃもの頭をがぶりと噛んで、複雑な七重の気持ちを想像した。
「そんなお前に『俺とセックスしろよ』っつわれても、気まぐれの好奇心だって思うだろ普通。七重はお前の、無意識に女を求める本能の部分に怯えて、お前を受け入れねぇんじゃねぇのか?」
 女を求める、生殖本能か。
 そういえばこの前七重が機嫌を損ねたとき、勇士は付き合っていた女性の話をしていた。前の彼女が小説家のファンだったと告げたら、七重は途端に不機嫌になったのだ。
 そうか、あれは女性への嫉妬だったのか。七重はこの十年の間に幾度となく、宮田たちから勇士の恋人の話を聞いたはずだ。そのたびに顔も知らない女性に嫉妬をしたのだろうか。七重は自分が男であるというだけで、勇士に拒絶されると思いこんでいるのかもしれない。そう思いこませたのはほかでもない、告白された直後に嘔吐した勇士自身だ。
 以前七重に言われたが、勇士は言い寄ってくる女性とそれなりに楽しく付き合ってきた。来るもの拒まず、去る者追わずのライトな関係。そもそもそれは恋愛感情だったのか。昔から勇士の無意識の中には、そんな曖昧な生殖本能とは別の怪物みたいな感情があった。
 愛おしくて、いつも隣にいたのに手に入らない美しい男。酒を飲んで突発的に押し倒したが、見上げてくる無垢な瞳に怖気づいた。勇士は七重に告白されたことが気持ち悪かったんじゃない。制御できない感情と、興奮しすぎた身体のバランスが崩れて吐き気をもよおしたのだと、いまならわかる。
 正気に戻るのが怖かった。記憶を消してしまわないといけないと、本能的に感じた。七重に向かう大きすぎる自分の感情を、自分でコントロールする術を持っていなかった。
 恋愛感情を知らない高校生の勇士は七重を壊してしまうのを恐れ、怪物のように膨れあがった自分の気持ちを封印しようとして、結局七重を傷つけてしまった。
 大好きだった。昔から、いまもこの先もずっと好きだ。美しくて、気位が高くて、優しい、特別な存在。
 七重を好き。その感情は出会いの瞬間から勇士の心に備わっていた。当たり前すぎて見えていなかった自分の気持ちをはっきり認識した途端、いてもたってもいられなくなった。
「七に会いたい」
 宣言すると、宮田が冷静に返してくる。
「会ってどうすんだ? 猪突猛進もほどほどにしろよ。七重の恋人はどうすんだ。お前だけの問題じゃねぇんだから、ちゃんと七重の気持ちも考えて―」
 勇士は宮田が言い終わる前に、小皿の底に紙幣を噛ませ、立ち上がった。
「七はどこにいる」
 見下ろすと赤い顔を背けて、知らねぇ、としらばっくれるので、勇士は宮田が手に持つ焼酎グラスの中に揚げたてのタコの天ぷらを落として、ひとり店を出た。


 役立たずの宮田と別れて、勇士はまっすぐ七重のマンションに向かった。ここ一か月、日曜の朝から晩まで扉の前で張るというストーカー行為を続けたが、七重は結局一度も姿を見せなかった。それは七重が、夜型人間だからなのかもしれない。
 現在の時刻は土曜の夜十時十分。これから日をまたいで明日の朝までここにいてやる。勇士は扉に背をあずけて座りこんだ。梅雨が明けたというのに、空気がじめっと重い。コンビニで買ったバイク雑誌に目を通しても、内容はひとつも頭に入ってこなかった。
 十年も忘れてたくせに、と七重は言った。
 この十年間、告白された記憶は飛ばしていたが、勇士は七重のことを忘れていたわけではない。
 七重と連絡が取れなくなった始めのころ、盛大なドッキリだなと感心した。だがそれは、いつか種の明かされる遊びなんかではなかった。七重は自分の前から姿を消したのだ。その事実を認めるのがつらくて勇士は自分をだまし続けたが、それも一年が限界だった。
 それからの勇士は金髪の丸い頭に異常に反応するようになった。繁華街で似た髪型を見つけると、人をかきわけて確認しにいった。間違えて店頭のマネキンに話しかけたこともある。自分は着ない派手な服を見つけては、七重に似合うか想像した。洋食屋に入ったら好きなハンバーグよりグラタンを頼んで、七重と会ったときのためにうまい店を探した。
 七重は十年間も勇士の影に気持ちを揺さぶられ続けたと言っていたが、勇士だっておかしいくらい七重に心をとらわれ続けていた。
 いつも心の中に空洞があった。七重がいなくなってできた、空っぽの空間。寂しさを紛らわそうと、言い寄ってくる女性を片っ端から受け入れたが空洞は埋まらない。ぽっかり空いた勇士の心の穴に必要なのは、七重という形のピースだった。
 付き合った女性がいつも自分から去っていく理由がわかった気がした。ずっと七重に思いを馳せる上の空の男と、誰が一緒にいてくれるだろう。七重を好きだと認識して初めて、付き合った女性たちの気持ちを理解できた。自分に好意を寄せてくれた彼女たちを、勇士は不誠実に傷つけていたことにすら、いままでは気づいていなかった。
 勇士の恋愛は、記憶をなくしたあの出来事をきっかけにして固まっていた。十年前、七重を壊してしまいそうな自分が怖くて、求めてくる愛しい人から目をそらしたことがすべての元凶だった。初恋を封印してしまった勇士は恋愛がなんたるかを知らぬまま、情けないことに二十八まで生きてきたのだ。
 反省し、大切なものと向き合ってこれからは誠実に生きようと心に誓っていると、扉の中から微かな物音がした。
「七?」
 立ち上がって扉を叩く。呼び鈴も三度鳴らしたが返事はなかった。だが、分厚い扉をへだてたすぐ近くに七重がいるような気がした。
「七、顔を見せてくれよ」
 静まり返った深夜のマンションの廊下で、願いをこめて呟いた。しばらく耳をすませて待ってみても、遠くから聞こえる救急車のサイレン以外に、なんの物音もしなかった。





ひねくれ美人の愛をほどけ(7)

 結局そのあと、勇士は扉に背をあずけて眠ってしまった。目覚めて腕時計に目をやると昼前だった。明け方からの記憶がないから、ずいぶん長いこと扉の前で寝こけていたことになる。立ち上がって大きく伸びをし、もう一度呼び鈴を鳴らしてみたが、やっぱり返事はなかった。
 真上から射す太陽の光が、起き抜けの身体には少々きびしい。七重に会えない疲れと空腹のため足取りも重い。家に帰る前にとりあえず空腹だけでも満たそうと、国道沿いのファミリーレストランに立ち寄ることにした。
 日曜のちょうど昼時で、入口付近のスペースは空席待ちの家族連れであふれていた。あきらめてコンビニで弁当でも買って帰ろうと店を出ようとしたら、手動の扉が勝手にすー、と外側に開いた。
「こら、ひとみ!」
 驚いて固まっていると、外から男の声が聞こえた。その直後、扉の影から五歳くらいの小さな女の子がひょいと顔を覗かせる。身長が足りないため、扉の上半分のガラス窓に姿が映らなかったのだ。
「すみません、邪魔だったでしょう」
 女の子の手をとって、男が申し訳なさそうに勇士に頭を下げる。銀縁メガネの奥の優しそうな目が、やわらかく微笑んでいた。
「あ。あの、あなたは……」
 思わず声をかけてしまったものの、次が続かず黙っていると、向こうから話題をふってくれる。
「もしかして、わたしのファンの方ですか」
「そんなわけないでしょう?」
 男の言葉に、後ろからゆったりした女性の声で突っこみが入った。
「こんな若くてかっこいい男性が、あなたの本なんて読むわけないじゃない、ねえ?」
 花柄のワンピースがよく似合う小柄の女性が、小首をかしげて尋ねてくる。その質問に思わずうなずいてしまったあと、勇士は自分の失態に気づいた。
「いえ、ではなくて、前に付き合ってた女性があなたのファンで。あ、これから読みます」
 嘘はつけず正直に話すと、目の前の男女が目を合わせてプッと噴きだした。二人が笑ってるのを見て、女の子も一緒になって笑いだす。笑顔の三人を前にして勇士は身動きが取れず、ただ固まっていた。
 どういうことなんだ、これは。
 三人に共通するやわらかな空気。楽しそうに笑い続ける女の子が、二人の子供だということは一目瞭然だった。
「結婚、されてるんですか」
「ええ」
 小説の読者ですらないただの通りすがりの勇士に、仲谷は丁寧に家族を紹介した。娘の髪に優しく触れ、見上げてきた目と目を合わせて微笑み合う。そんな父娘を見守る母親の顔も、幸せに満ちている。一点の曇りもない。まさに理想の家族像が目の前にあった。仲谷が七重の恋人である、という情報さえなければ、そこになんの疑問も持たなかっただろう。
「幸せですか?」
 これが虚構だとは思えなかった。だが、どうしても尋ねずにはいられなかった。突然のおかしな質問に仲谷は一瞬驚いた表情をしてから、勇士の目をまっすぐ見て答えた。
「ええ、とても幸せです」
 仲谷の言葉を、娘が真似してオウムのように繰り返す。無邪気な声で何度も耳に入ってくるその言葉が、勇士の胸を突き刺した。
「どうして……」
 尋ねようとした言葉を喉に引っこめる。幸せな家族の前で聞けるわけがなかった。ならばどうして七重と付き合ってるのかなんて。
 目から涙がこぼれ落ちたが、それを拭う気もおきなかった。突然泣きだした勇士を見ておろおろする人の良い夫婦に頭を下げ、その場を立ち去ろうとしたとき、やけに明るい赤が目に飛びこんできた。
「あれ? 苗村くんじゃあないですか」
 朱色のつなぎを着た全身真っ赤な七重が目の前にいる。いつどこからやってきたのか。
「おれの知り合いなんです。連れて帰ります」
 家族に一礼すると、七重は勇士の手を引っ張って歩きだす。なにが起こってるのかわからず、勇士は手を引かれるままに七重のあとをついていった。

 さっきまでは何度呼び鈴を鳴らしても返事がもらえなかった部屋の中に、勇士は招かれた。七重は勇士をソファーに座らせ、冷たい缶コーヒーまで与えてくれる。至れり尽くせりだ。
「なんで不倫なんてするんだ」
 壁にもたれてうつむく七重に直球を投げてみたが、肩を揺らしただけで答えは返ってこなかった。
 勇士にはあの幸せな家族を壊すような真似はできない。絶対納得いかないし、不倫をしている七重のことを許せそうにない。だが、七重がなんの考えもなしにそんなことをするとも思えない。なにか理由があるはずだ。憎しみの感情すら生まれそうなこの状況でも、勇士は七重をわかりたいと思っていた。
 ずっとうつむいていた七重がゆっくりと顔を上げた。困った表情で下唇を噛み、勇士を見てまた目をそらす。
「おれが不倫なんか、すると思うか?」
「…………あぁあ?」
 声が小さすぎたのもあるが、あまりに衝撃的なことを言うものだから、勇士は耳の遠いじいさんみたいな反応を返していた。
 不倫なんかすると思うか、だと?
「思わない。俺の知ってる七は、そんなやつじゃない。だがおまえが言ったんだろう? あの人と付き合ってるって」
「あれは、嘘だ」
「はぁあー?」
 今度はターザンのような叫び声をあげてしまい、それに驚いた七重は壁伝いに勇士から一歩遠のいた。その逃げるようなしぐさを見て、勇士は立ち上がり七重との距離を一気に詰めた。うつむいて耳のあたりをふさいでいるその両手首をつかむ。
「もう一回、言ってみろ」
「おれは、不倫なんてしてねーの」
「付き合ってる、っていうのは」
「嘘だ」
「…………嘘つきは、泥棒の始まりって言葉を知らないのか」
「知ってるそんなの。おれはあんたより頭いいんだ」
 こっちは見ないくせに、生意気な口を聞いてくれる。怒りにまかせてつかんだ手首に力を加えると、七重が眉間にしわを寄せて顔を上げた。
「なんでそんな嘘をついた?」
 冗談やたわいない小さな嘘なら笑い話になる。だが、家庭のある人と付き合ってるだなんて嘘は、誰も楽しめない上、不謹慎だ。
 しばらく無言でいた七重がゆっくりと口を開く。
「仲谷さんとはもう八年の付き合いで、ジャンルが違うのに、昔から俺の小説をバカにせずに批評してくれていて、家族ぐるみの付き合いをさせてもらってる」
「だったら、なぜ」
 家族ぐるみということは、奥さんや娘とも仲良くしてるということだろう。だとしたら余計にそんな嘘はついてはいけない。
「仲谷先生に、ずっと片思いの相談をしてた。どうしても忘れられない人がいるって。それでそいつと再会したって話をしたら、先生がこのチャンスを逃すなってはりきっちゃって」
「へ?」
「奥さんもノリノリで、単純な男には焼きもち焼かすのがいちばんだって。男と付き合ってるって言ったら、あんたが嫉妬するはずだって、教えてくれた」
 口が開いたままの間抜けな顔を七重にさらして、勇士はしばらく固まっていた。まさかあの人の良い夫婦がグルだったなんて。しかもどうやら七重に頼まれて渋々というわけでなく、夫婦が率先してこの計画を提案したようだ。
「そう、だったのか」
 嫉妬に狂ってセックスの強要までしかけた勇士は、二人の策にまんまとはまってしまったということになる。七重のついた嘘は嫉妬させるためだけのかわいいものだったと知って、勇士の心は晴れた。と同時に、新たな疑問が浮かび上がってくる。
 だったら七重はどうして、勇士との付き合いを拒んだのだろうか。勇士に良い女と結婚しろと促しておきながら、嘘までついて焼きもちを焼かせ、まんまと嫉妬に狂った勇士にキレて、着信拒否をする。複雑すぎて意味がわからない。
「俺たち付き合おうぜ」
 とにもかくにも、二度目の告白は必ず受け入れられるはずだった。嫉妬までさせて気持ちを量りたい相手からの、再度の交際依頼を受け入れない理由が見当たらない。
 肯定の返事を聞けると思っていた勇士の真横をすっとすり抜けて、七重はソファーに座りこんだ。額を手で押さえているため、表情がよく見えない。
「あんた、おれの正直なところがかっこいいって、前に言ってくれたよな」
「ああ、言った」
 確か、酒を飲まない理由を聞いたときだ。酒の勢いで勇士に惚れてると告げたことを、七重は後悔していると正直に話していた。
「だったら、恋人がいるなんて嘘ついた、おれのことは、嫌いか?」
 いつもクールで落ち着き払っている七重の声が震えている。また泣いているのかもしれないと、一歩足を踏みだしかけたら、気配を感じたのか手で制止された。
「嫌いなわけ、ないだろう」
 答えると、七重が深いため息を吐く。
「もういい」
 帰れ、と七重が玄関を指さす。答えた内容のいったいなにが気に入らなかったのか、勇士にはまったくわからなかった。
「なにがもういいんだ。ちゃんと話してくれないとわからないだろう」
「おれがなんでもかんでも話して、なんかいいことあんのか?」
「悪いようにはしない」
 勇士がきっぱり言い切ると、七重は顔を上げて泣きそうに口を歪めたあと、激しく首を横にふった。
「くだらねーんだ、言いたくない」
 ソファーに一歩近づくと、来るなとまた制止されたが、無視して隣に座った。隅っこで足を折りたたんで小さくなってる七重の肩に触れると、腕をふり回してひどく抵抗する。
「離せよっ」
「いいからなんでも言え。全部受けとめてやるから」
「安請け合いだって、絶対後悔する!」
 いったいなんなんだ。いつも毅然と振る舞っている七重が、なんだかぐだぐだになっている。触れると体温の高い、全身真っ赤な七重を前にして、勇士は話し合うべきだと主張している立場だというのに、変に興奮しだした自分の身体を持て余していた。
「いいから言え、と言ってるだろ」
 そんなかわいい姿を見せられたらいろいろまずいんだ。十年前の出来事といまが重なる。
 そうだ、あのときも七重は無防備で、勇士がどんな気持ちで七重を見下ろしてるかなんて気づきもしてなかったのだ。
 理性と闘いながら七重の温い左手をとると、触れられた怒りで七重が顔を上げた。睨みつけてくるふちの赤い目はうるうると艶めいて、ただでさえ色っぽい表情に輪をかけていた。
「だって、あんたはおれが告白したのに吐いて忘れて、探したっつーわりに十年も見つけらんねーし、そのくせ女と楽しそうに付き合いまくってるし!」
 なんの情報も与えず姿を暗ましておいて、見つけられないと非難されるのは理不尽な気がしたが、勇士は七重の剣幕に押されてなにも言い返すことができなかった。落ち着こうとしたのか、ふー、と息を吐いた七重が、今度は右手の指を折ってなにかを数え始める。
「あんたはおれと離れてる十年の間に八人の女と付き合った。一番短いので一週間、長いので十か月、付き合ってはねーけど、誘われて一夜を共にした女が二人。合計十人」
 七重が突然なにかをふり切ったように淡々と語った。その内容は勇士の女性遍歴。情報元は宮田ほか、七人の悪友共。
「いや違う。そんなことはどうでもいい」
 首を横に振って爪を噛む。いつだって誰より冷静だった七重が、取り乱している。落ち着こうとしての振る舞いなのだろうが、爪を噛む行為自体がもう普段の七重じゃない。
「あんたがおれを大切だって、ちゃんと思ってくれてることはさっきわかったから、過去のことはもう忘れる」
 自分で納得するように七重が何度も頷く。十年間溜めこんだストレスが爆発してしまったようだが、七重はそんなことが言いたかったんじゃないようだ。
「なら、七はいったいなにが不満なんだ?」
 勇士の告白を、頑なに受け入れようとしない理由。勇士の過去の女性遍歴は、七重の中で踏ん切りをつけようとしている。勇士が大切に思ってることもわかっていると言う。なんの問題もないはずだ。
「証拠がない」
「証拠?」
 突然出てきた不思議な単語に、勇士は聞き違いかと耳を疑った。
「あんたがおれだけを、特別だって思ってる証拠がない」
「特別……」
 そんなことを言われても、その特別な気持ちをどうやって提示すればいいんだ。
「俺を信じられないか?」
「信じられる」
「だったら―」
 問題がないと言いかけた勇士の口の前に手をかざして、七重は言葉を遮った。じっと見つめていると、酒も飲んでないのに七重の顔がみるみる赤らんでいく。一度口を開けた七重は言葉を発さずその状態でしばらく黙っていたが、息を大きく吸ったあと、扇情的な顔で勇士を睨みつけてやけくそ気味に言った。
「おれを好きって言ったら、信じられる」
 二人の間に、一瞬の沈黙が落ちる。
「は…………?」
 たった一文字で沈黙を破った勇士の反応を見て、七重が突然暴れだす。握られた手を外そうと必死で腕をふり回しながら、もういい忘れろとか、くだらないとか、引っ越すとかさんざんわめき散らした挙句―。
「だって、おれが好きって言っても、あんたはおれを好きって言わねーじゃん!」
 ふにゃふにゃした真っ赤な七重が、泣きそうな顔で叫んだ。その取り乱した感情的な告白を耳にして、心臓がバカみたいに加速する。勇士は暴走しそうになる欲望を必死で抑えこもうと、大きく息を吸って目をつむった。
 そうか。さっき嘘をついた自分のことを嫌いかと尋ねてきたのは、勇士に好きだと答えてほしかったからだろう。以前、女と結婚しろと言ったときも七重は、勇士からの否定の言葉を期待していたのだ。そうやって七重が幾度も仕かけたアプローチを、鈍感な勇士はことごとくスルーしてきたのだ。
 付き合おう、と言って二人の関係を変えようとしたが、勇士は肝心なことを伝えていなかった。好き、と一言告げていれば、七重はもっと早く勇士を受け入れたのかもしれない。
 目を開くと赤い顔をした七重と目が合った。勇士の身体が瞬時に固まる。『好き』というたった二文字。なんとか言ってしまおうと口を開いて初めて気づく。自分の思いを伝えることが、とても難しく、勇気がいるということに。十年前も、出会ってからも、七重がどんな思いをして気持ちを伝えてくれたのか、自分が言う立場になって、痛いほどわかってしまった。
「七のことが、好きだ」
 緊張しながら、特別な思いを言葉にのせると―。
「そんな言わされたみたいの、いらねー」
 こいつは…………。
 勇士の決死の覚悟など知らず、赤い頬をさらして口をとがらせ、七重が可愛げのないことを言う。
 付き合った女たちには好きだと言ったのか、いま言った好きもまた忘れるんだろう。うつむいて七重がブツブツと不満を並べる。
 さっき過去のことはもういいと言ったばかりなのに、すぐさま掘り起こしてくる。頭で納得していても気持ちがついてこないのかもしれない。十年溜めこんだ鬱憤は、そう簡単には晴れないのだろう。
 初めて知る七重の嫉妬深さに驚きつつも、勇士はその言葉を静かに受け止めていた。宮田が言っていた。七重は勇士の無意識に女を求める本能に怯えている。
 十年前の出来事が七重の心に深い傷となって根付いている。惚れてると伝えた直後に嘔吐されたら、その告白が気持ち悪くて吐いたと思うのは当然だ。
 勇士は自分が七重を傷つけたまま、その原因を忘れて十年ものうのうと過ごしていたことを猛烈に反省した。そのことを悔やんでももう遅い。だが、大切な人を傷つけ続けた過去を、未来で消化することができるかもしれない。その幸福に気づいて勇士は身震いした。
 高校の三年間、大きな愛で包みこんでくれた七重に、会えない間もずっと好きでいてくれた七重に、これから先は自分のほうが幸せを与え続けてやりたい。
「七」
「なんだよ、もういいから帰れ」
 七重はさっき暴走して本音をぶちまけたことを、また後悔しているようだった。立てた膝に埋めた顔を両手ではさんでこっちを向かせると、親指に噛みつかれる。
「俺を見ろよ」
「見てるだろ、手ぇ離せ」
 パシ、と乾いた音が鳴る。七重の手に手を払われたのだが、疲れているのだろう、力がこもっていない。
 勇士がやってきて部屋の前で居座り続けた昨日の夜中からいままで、七重は眠っていないのかもしれない。勇士が扉にもたれて爆睡しているあいだも七重はずっと起きていた。そんな気がする。
 くまができた赤い顔でじっとこっちを睨みつけてくる七重の頬に、もう一度手で触れる。今度は触れた勇士の手をちらっと見ただけで、抵抗することはしなかった。
「これから一生かけて、証明してやる」
「なにをだよ」
「おまえを好きだって、俺の気持ちは単なる好奇心じゃないってことを、さ」
 真摯な気持ちをこめて伝えると、七重のうるんだ目がゆっくり見開く。
 十年前の酔っぱらった虚ろな目をした七重とは違う。ちゃんと意識のある眼球に自分の強欲な目が映っていた。どれだけ強く七重を欲しているか、どれだけ本気で口説いているか。伝わっている、そう思った。





ひねくれ美人の愛をほどけ(8)R-18【終】

「一生とか、無謀すぎ……」
 茶化そうとしたのかもしれないが、七重の声は震えてかすれていた。
「この先、俺の言ったことが本当かどうか、おまえの目で確かめればいい」
 十年前の自分の気持ちにすら気づいてなかった高校生のころとは違う。七重のいまも未来も丸ごとひっくるめて愛する覚悟がある。
 七重が下唇をかみしめて固く目をつむる。その苦しそうな顔をまっすぐ見つめていると、ふっと表情が緩んだ。直後、腕を広げて飛びついてくる。首を絞めつける腕が背後で交差し、その本気の力に痛いと訴えると、腕を解いて七重は勇士の胸に顔をうずめ、ごめんと呟いた。
「なにが、ごめんだ?」
「さっきファミレスで、あんたと仲谷親子が偶然出会ったのをのぞき見してた」
 七重は、自分の部屋から帰る勇士のあとをつけていたと言う。
「なんでつけてきたんだ?」
「顔が見たかったから」
 だったら呼び鈴鳴らしたときに出ればいいじゃないか。
 七重という生き物は、本当に不思議だ。
 胸に頬ずりしながらひねくれたかわいいことを言う七重の指が、勇士の太ももの上でキーボードをはじくみたいにトントン跳ねる。七重にこんな甘えるような触れ方をされるのは初めてで、勇士は緊張と嬉しさで舞い上がりそうな心をなんとか抑えた。
「正義感の強いあんたが、おれが不倫してるなんて知ったら、悲しい思いをすることは目に見えてた。それでも、確かめたかったんだ」
 七重はいけないことだとわかっていながら、隠れて勇士の反応を窺っていた。
 どれだけ自分を大事に思ってるか、悲しんでくれるか、ちゃんと叱ってくれるか。高校生のころみたいに優しいやつじゃなくても、どんなにひどいやつでも、勇士は切り捨てないでいてくれるか。
「泣くあんたを見たのは、初めてだ」
 七重の薄い手が勇士の頬をさらっとなでる。
「嘘ついたり、ためすようなことしたりして、悲しませて悪かった」
 静かに言ったあと、七重はなにかを思いだしたように、口を丸く開けて勇士を見た。
「あと、告白したのにゲロ吐かれたからってムカついて、十年間も拗ねてほったらかして、ごめんな」
「お……、おう」
 この十年、七重は拗ねていたらしい。この男を本気で怒らせると恐ろしいことになると、勇士は肝に銘じた。
「俺が七を好きだと、伝わったか?」
大事に思っていること。変わらないところも、変わったところも、新たに知った一面も、全部含めて愛していること。
 コク、とうなずく七重を確認して、勇士は光を反射した金色の頭に手を乗せた。
「わかってくれてありがとう。それと十年間、つらい思いをさせて悪かった。だからもう、俺の前からいなくならないでくれよ」
 ふっと笑ったあと、うるんだ黒目がもの言いたげに見つめてくる。その色の含んだ目をじっと見つめ返していると、七重がソファーの背に手をついて膝立ちになり、顔を寄せてきた。
 触れる直前、唇に熱い息がかかる。
「ふ、ぁ…………っ」
 くっついて離れて、またくっつく。漏れる吐息も気にせず、七重は不器用に唇をおしつけてくる。その薄い唇を、唇で挟んで引っぱった。何度も何度もそうやって食んでいると、自分から仕かけてきたくせに逃げようとするから、勇士は小さな後頭部を片手で強引に引きよせた。
「んぅ、ん……っ」
 七重の苦しそうな息づかいに、脳が異常に興奮する。顔の角度を変えて舌を挿し入れると、手で胸を押し返してくる。いま唇を離して嫌だと言われても、勇士には止める自信がなかった。もっと深く七重を拘束しないと、また逃げられてしまう。
 空いた片手で七重の腰を抱き、膝に乗せる。歯の並びを確かめるように舌先を這わせてから、舌に舌を絡ませ、勇士は官能に酔いしれた。好きな人とのキスがこんなに気持ちのいいものだなんて知らなかった。口内の奥まで侵しても足りない。もっと深く長く、七重の全部をむさぼりたい。
 腿にまたがる七重の腰がびくびく揺れる。ゆっくり唇を離すと、間近で七重のうるんだ目と目が合う。
「気持ちいいか? 七」
「いいけど、展開早すぎ」
 濡れた唇を手の甲で拭うので、勇士はまたキスで赤い唇を濡らした。目を見開いたりぎゅっと閉じたり、唇が触れると身体がガチガチに硬くなったり。
「もしかして、こういうこと初めてか?」
 反応の初々しさに、勇士は浮かんだ疑問をそのまま口に出した。それとも会ってない十年の間に、誰かほかの人と付き合ったりしたのだろうか。自分の過去を棚に上げて想像上で嫉妬してると、七重が勇士をキッと睨んだ。
「十年も俺の告白忘れて記憶飛ばしてたあんたに、処女性を求めて嫉妬する権利なんてねーよ」
 棚から落ちてきた過去が、ドスンと頭上にのしかかる。やはり十年にも及ぶ勇士の不実の数々は、七重の中で消化しきれていないらしい。正論に返す言葉が見当たらず黙っていると、七重が勇士の手首をギュッと握る。
「でも…………、優しくしろ」
「おう」
 真っ赤な顔で睨みつけてくる七重にしばらく見とれていると、なぜか舌打ちされる。
「初めてで、悪いかよ!」
「初めてなのか!」
「察しろよ!」
 悪いわけがない。むしろ嬉しくて舞い上がりそうだというのに、七重はなにを怒っているのだろう。
 不機嫌な七重の唇に再び唇を合わせながら、つなぎのボタンをひとつずつ外す。袖口から腕を抜いて、日に焼けてないひんやりした手首をつかみ、肘から二の腕の裏にキスの跡を残していく。
「ひっ、わぁ」
 鎖骨に歯を立てた直後、七重に髪を引っ張られる。
「痛いか?」
「痛く、ねーけど。食われるのかと思った」
 本当に驚いてるので、勇士は思わず笑ってしまった。だが、自分の髪をつかんだままの七重の手首が震えているのを感じとって、それが冗談で言ったのではないと悟った。
 自由奔放な勇士から、七重はなにをされるかわからず怯えているのかもしれない。まして経験もないとなると、パニックに陥ってもおかしくない。
 それでも震えながら受け入れようとしてくれてる七重に、優しくしてやりたいと思った。この先訪れる痛さを想像して横たわる七重に、気持ちよさだけを与えてやりたいと思った。

 口の中で張りつめた性器をゆっくり上下にしごく。舌の表面で裏筋をなぞると、汗の塩に混じって独特の味がした。
「もう、やめっ……あ、あ、やあ、めっ」
 疲れてきたのかもしれない。七重が頭をはたいてくるが全然力がこもっていない。寝室に移動し、フェラチオを始めたときはいっそ縛ってしまおうかと考えたほど暴れていたが、三十分も時間が経つと上半身を起こすことすらできなくなっている。性行為は体力の無いやつが不利だ。
 ガチガチだった身体は弛緩し、疲れが増してくるにつれて快楽に従順になっていく。広げた後穴に指を挿し小刻みに揺り動かすと、七重の腰が不規則に跳ねる。性器の先端を口に含み、二本の指をゆっくり大きく回転させながら、内壁を伝って届く限界まで挿しこむ。
「あっ、んぁ……、もう、いれろよ」
 天井の遠くのほうを見ながら、七重が朦朧と呟く。その真っ白な身体のところどころに赤い斑点がついている。内腿から徐々に上へ、自分がつけた所有印をまた唇で辿って、勇士は最後にいちばん赤い七重の唇にキスをした。
「痛かったら、ちゃんと言え」
 ぼんやりしてる七重の頬を両手で挟むと、目を合わせてうなずく。細い腿を左右に割り、勇士は自分の性器を慎重に挿しこんだ。
 締めつけられる快感をやり過ごし、中程まで入ったところで七重のこめかみの汗に気づき、指でなぞる。これは冷や汗だろうか。つむった目から真下に伸びる睫毛が、風もないのにずっと震えて揺れている。
「痛いか? 七」
 汗で湿った金色の前髪を後ろに梳いてやる。ゆっくり目を開けた七重が、手の甲で勇士の頬に触れる。
「今日はずっと気持ちよくしてくれたから、あとは、あんたの好きなようにしろ」
「七……」
 理性を崩壊する一言を、首を横に振ることで追い払った。初めての七重に苦痛の記憶を残すわけにはいかない。ギュッと目を閉じる勇士の頬を、七重はペチペチ叩いた。
「いいから動け。おれが我慢できねーんだよ」
 七重の男らしい言葉に心打たれていると、さっさと出し入れしろ、とさらに色気なく催促される。
「本当につらかったら、必ず言え」
「うん」
 はやく、と伸びてきた左手に、勇士は自分の右手を絡ませた。傷がつかないようゆっくりと、性器を奥まで侵入させる。苦しそうな声を上げた七重にキスをして、また時間をかけて先端が引っかかるくらいまで抜く。何度か慎重に同じ動きを繰り返すと、七重の腰がもどかしそうに揺れ始めた。
 つないだ手の指先を見ながら下唇を噛む姿を見て、勇士は空いてる手で七重の唇を撫でた。くすぐったそうにしてほどけた唇の隙間に、人差し指を挿しこむ。
「んぅ、ふ……んっ」
 指を性器に見たて、腰の動きに合わせて出し入れする。鼻にかかる甘い息を吐き、柔い唇を尖らせて指に吸いついてくる表情が、勇士の情欲を煽ってゆく。
「んなぁ、もっと……激しく、しろっ」
 七重が顔を背けて指を吐きだす。目元を赤らめて睨みつけながら、手加減するなと挑発してくる。七重は勇士のたがの外し方を知っているようだった。
「んっ……、もっとおれを、求めろよっ」
 尻を浮かせて白い腹をさらすくせに、顔は真っ赤に染まっていた。
「おまえは……。泣いたって知らないからな」
 七重の思惑通り、勇士は崩壊寸前だった理性をつないだ手とともに放した。腰の下に枕を挿しこみ、足首を持ち上げて自分の両肩に乗せる。
「ふ、あ……」
 細い腿を腕に抱えて最奥まで一気に挿れた。ぎっちり詰まった状態で目をつむる。痺れるような寒気が背筋を這いあがってくのをやり過ごして、再び目を開き、七重を見下ろす。
「勇士?」
 眩しそうに見上げてくる七重が、名前を呼ぶ。勇士はその愛しい唇にキスをしてから、再び腰を動かし始めた。
「あ……、んっ、んぁ……、はぁ」
 指では届かなかった奥を、一定のリズムで突き続ける。かすれた七重の色っぽい声と、腰を打つ湿った皮膚がぶつかる生々しい音が、静かな部屋に響き渡る。
「だめ、もう。イキてー……」
 消え入るような声でそう言って、七重は自分の性器を隠すように手で覆った。恥ずかしそうに目を背け、自分でゆっくりとしごき始める。勇士はその手に手を重ね、一緒になってこすってやった。
「やぁ、んっ、だ、め、だって、あ、あ……、ムリっ!」
「俺も。イキ、そうだ」
「ンっ……、ほ、ほんと?」
 正直に伝えると、七重が下唇を噛んで見上げてくる。目元の赤らんだすがるような表情に、勇士の腰の奥がずしんと重くなる。
「七重がかわいすぎて、俺もムリだ」
「へ? ひ、ぃ……、やぁ、あっ、あんっ」
 吸いつくように絞めつけてくる七重の中を、強く穿つ。身体を折り曲げて濡れた唇にキスをしながら、細い腰が跳ねる一点をしつこく突いたら、七重の腿が痙攣する。絡め合っていた舌が勇士のそれから逃げるように、ぎゅっと奥に引っ込んだ。
「んっ、ふ……」
 唾を飲みこんだ七重の喉がごくりと動く。真っ白な腹に飛び散った液体を見て、異常に興奮した。搾りとるように収縮する内部から性器を抜きだし、勇士は七重が放った精液の上に自分のものを吐きだした。


 疲れがたまっていたのか、七重は恍惚とした表情から目を閉じ、そのまま眠ってしまった。あんな過激な官能小説を書いているのに、本物の七重は清純で、やはり美しかった。
 快楽に流されながら恥ずかしがる姿を思いだして頬が緩む。その身体を拭って布団をかぶせ、七重が目覚めたときになにか食わせようと勇士は台所に向かった。清涼飲料水と調味料しかない冷蔵庫を開けてため息をつく。
「あいつはなにを食って生きてるんだ」
 冷凍室ものぞいてみると、そこには勇士が作ったカレーが鍋のまま、でんと鎮座していた。米を洗って炊飯器に準備し、寝室に戻る。
 七重は起きてベッドの上に座り、ぼんやり窓の外を見ていた。隣に腰かけ、寝起きの指通り悪い金髪をなでると、そっと体を揺らし、抵抗することなく目をつむる。
「そうとう傷んでるぞ、七の髪」
「もう黒に戻す」
 そんなにあっさり?
 それとも十年間ずっと金髪でいたわけではなく、ときどきそうやって髪色を変えていたのか。勇士は金髪以外の七重を見たことがないため、七重が簡単に黒髪にすると言うので驚いてしまった。
「あんたに見つけられたから、もうこの髪でいる必要ない」
「へ? それって…………」
 もしかして、見つけてもらうために金髪で居続けたのか。
 目をつむったままの七重をじっと見つめていると、なにもしゃべってないのに、うるさい、と手のひらで近づけた顔を押しやられた。
「腹減った」
 唐突に七重が言う。同時に七重の腹の虫が、キュー、と空腹をうったえて鳴いた。
「飯にしよう。すぐにご飯が炊ける」
 立ち上がろうとすると、七重がシャツの裾をグン、と引っ張る。そのあまりに強い力に、勇士の身体はベッドの上にあおむけに転がった。天井が見えたのも一瞬、七重の顔がアップになって、唇がふさがれる。衝撃で固まっていると、唇を離した七重が照れくさそうにふっと笑ったあと、身軽に勇士の身体をまたいでベッドを降りていった。
「あんたが作ったカレー、大量に残ってんだよ、あれ食って帰れ」
 憎まれ口を叩いて部屋を出ていく。その後ろ姿の首元が赤いのを見つけて、勇士はひとりベッドの上で笑った。





プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
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