夏待ち恋花火(1)

 オレは、五年前から夏が嫌いだ。それより前は、夏も秋も冬も春も嫌いだった。
 それは、あいつがとなりにいたから。

 オレが中学三年生だった五年前の夏。当時高校二年生だった幼なじみの東島志信が、親の仕事の都合でこの田舎町から東京に引っ越していった。
 東島家が旅立つ日の早朝、父さんと二歳上の昭兄に見送りを強いられて、オレは半分引きずられながら最寄りの駅に向かった。
『夏生、俺がいなくなっても浮気すんなよ』
 別れ際、志信がオレに向かって言った寒い冗談にみんなは笑ったけど、言われた本人は、胸の奥からこみあげてくるわけのわからない感情のせいで吐きそうだった。目の表面にたまった水が、小さな衝撃でこぼれそうになるのをこらえるのに必死で、ローカル線の二両編成の箱の中に両親とおさまる志信を、オレはただじっと見ていることしかできなかった。
 ゆっくりと動きだした列車が、徐々にスピードを上げて遠ざかり、やがて見えなくなった。空っぽのホームに立ちつくす父さんと昭兄を残して、オレはひとり、全力疾走で無人の家に帰った。つっかけたサンダルを玄関に脱ぎ捨て自分の部屋に入ると、ベッドに突っ伏して号泣した。これは嬉し涙に違いない。そう思おうとした。これからさき、志信と顔を合わさなくてすむことの喜び。志信の前に出ると、オレの心臓は意識から離れて勝手に暴れまくる。冷静さを失って、まともなことはひとつも言えない、自分が自分じゃなくなってしまう恐怖と対面する。
 そんな制御不能からの解放だった。志信がこの町にもういないと思ったら胸を引きちぎられるような痛みを感じたが、そんなのはきっと日が過ぎれば消えてゆく。志信が旅立ったその日、オレはそう信じて嬉し涙でしっけた枕に顔をうずめ、夜遅くまで泣き続けた。
 志信がいなくなったあとは、抜け殻のような日々を過ごした。なにをしていても物足りなくて、志信を思いだすと胸の中が焼け焦げた。自分の半分以上がすっぽり抜け落ちてしまったような欠落感に苛まれながらも、唯一救いだったのは、そんな情けない自分を志信に知られないことだった。赤くなったり、ドキドキしたり、うまく話せなかったり。これからさきはずっと志信がいないから、おかしな姿を彼の前でさらさないで済む。無性に寂しくなると、こんな幸せなことはないんだと、何度も自分に言い聞かせた。
 志信がいない暗黒の幸福の中、オレの心音はいままでにないおだやかな一定速度で刻まれ、しばらくは平穏な日々を過ごした。
 東島家が引っ越したちょうど一年後。高校の夏休みを利用して志信はこの田舎町へ戻ってきた。
『夏のあいだヒマだから、上村煙火に弟子入りさせてよ』
 大学受験をひかえていたのに、よっぽど合格の自信があるのか、志信は来て早々そんなことを言ってのけた。志信を信頼し、実の息子同等にかわいがっていた父さんは、その言葉にあっさり承諾の返事をした。
 父さんが経営する上村煙火は、おもに打ち上げ花火の製造・販売を行っている。作られた花火玉は、製造工場を持たない全国の企画・打ち上げ専門の業者に販売する。だが夏になると、上村煙火にも近隣地区から打ち上げの依頼が舞いこんでくる。七月半ばから九月の始めにかけての週末だけ、上村煙火は、近くのお祭りに華をそえる、小規模な打ち上げ業務も受けつけていた。人手が必要な夏に、昨年まで手伝ってくれていた強力な助っ人が帰還してきたことを、父さんだけでなく従業員のみんなが喜んで歓迎した。
『おまえは嬉しくないのかよ』
 横から頬をつねられて仏頂面で振り向いたオレの顔に、志信は左右差のない完璧な顔をわざとゆがめて近づけてきた。元来が根暗で無口なオレは、志信を前にするといつにも増して、不器用でぶっきらぼうな物言いをする。
『べつに、ふつう』
 そんな突っ張った態度をとりながらも、目が合った瞬間、心臓のほうは命を吹きかえしたように大きく跳ねていた。オレは頬をつねる志信の手を大仰な仕草で振り払い、うつむいて固く目をつむった。
『なんだよ久々に会ったのに、かわいくねーの』
 一年ぶりの予期せぬ再開に、オレの頭と心はパニックを起こしていた。
 毎日毎日必死で忘れようとした志信の面影は、たった一秒目が合っただけで、日照りの土が雨を吸収するみたいにみるみるよみがえってしまった。切れ長の目の中のブラウンの瞳、笑うと横に長く伸びる薄くつややかな唇、あごから耳の下までのシャープな美しいライン。部品の配置に大成功した王子様チックな顔が、つむった目の裏にくっきり浮かび上がる。必死で志信の忘却に費やしたオレの一年は、無駄に終わった。
 志信は高校三年の夏休みを、上村煙火の手伝いをしながら引っ越したあともそのまま残されていた東島家の旧家で過ごし、東京に帰っていった。オレは高校に入って初めての夏、常にジェットコースターに乗せられてるようなドキドキを体験し、志信が帰ったあとの秋、冬、春を嘘みたいにおだやかに過ごした。
 ドキドキの夏と、死んでるみたいに静かな秋と冬と春。そのサイクルは、志信が引っ越して五年経ったいまも同じく続く。
 今年もセミの羽化が始まる七月の半ばに、前触れもなくふらりとまた、あいつがこの田舎町に帰ってくる。


 七月真ん中の、週末。浴衣を着た宵待ちの子供たちが、道端にたむろする夕刻。
「なっちゃん、花火何時に上がるの」
 見上げてくる男の子のキラキラした目と目が合うと、自然と笑みがこぼれる。
「八時ごろかな」
 水の入ったゴム風船の割れた音に悲鳴と笑い声が起きる。集団から離れ、道端でひとり泣いている小さな女の子が母親とはぐれてしまったと言うから、オレは彼女の手を引いて、町内の夏祭りがひらかれる広場をめざした。
 いつもは無人のだだっ広いだけの場所に、紅白の提灯が飾られ、町民のボランティアによる屋台が設けられている。女の子が唐突に手を放して駆けだして行ったさき、感動の再会を果たしている母子を見届けてから、オレは自治会の仮設テント内にいる父さんに近づき、背後から肩を叩いた。
「用意したよ」
 振り返った父さんが頷く。広場から百五十メートルほど離れた場所に、上村煙火の従業員と協力し、打ち上げ花火の準備を整えた。落ち葉やゴミを拾って周辺の土に水を撒き、軽トラックで運んだ打ち上げ筒に花火玉を仕込む。電気コードを繋げ、配線がうまくいってるか通電テストを済ませたあと、上げる直前まで花火玉が湿気らないよう、筒の口にシートをかぶせてきた。あとは打ち上げ時刻を待って最終点検をおこない、遠隔操作でスイッチを入れれば、花火が上がる。
 オレは志信がいなくなって(あいつが帰ってくる夏以外)抜け殻のようになりながらも、工業高校に進学し、必要な資格を集めつつ、卒業後も着々と父の跡を継ぐための道を歩んでいた。長男である二つ上の昭兄はこの田舎町が誇る秀才で、地元民たちの期待の目もあって、花火職人になるという選択肢も与えられないまま、東京の国立大学の法学部に進学した。昭兄が家を出た二年前からは、いまも東京在住の志信と二人そろって、夏休みの一か月、ここへ帰ってくるようになった。
「来てるぞ」
 父さんの指さすさきに人だかりができている。オレは速まりだした心臓のあたりを手のひらでおさえて、ばれないようこっそりと、ひとかたまりのおばちゃんの群れに近づいた。
「スチュワーデスさんと、付き合ってるの?」
「看護婦って言ってたんは、違うの?」
「それより、花屋の娘とはどうなったんよ、志信ちゃん」
 田舎暮らしでゴシップに飢えてる主婦たちが、芸能リポーターさながらの遠慮のなさでまくしたてる。輪の中央にいる志信はそんな押しの強さをはねのけるように、体をくの字に折って噴きだした。
「どれもこれも、根も葉もなさすぎ! どっからそんな情報流れてくるんだよ」
 一年かけてかき集めた情報が真実でないと告げられてしまったため、納得できないおばちゃんたちはなおも志信につっかかる。美容師にOLに教師と、つぎつぎ出てくる女の職業にイライラをつのらせていると、ふいにひとりのおばちゃんがこっちを振り返った。
「あら、なっちゃん」
 張りのある声につられて、ほかのおばちゃんたちも振り向く。
「今日の花火、楽しみにしてるからね」
 口々に期待の言葉をかけられたが、突き刺さる一対の視線のおかげで、おばちゃんたちの言葉はほとんど聞きとれなかった。
「夏生のウワサは、ないの?」
 視線の主が近づいてきて、オレの耳を引っつかむ。
「なっちゃんは仕事一筋だからねぇ」
「可愛い顔してるのに、彼女のひとりもいないなんてもったいないわぁ」
 浮いた話がなければないで、それもおばちゃんたちの話の種になってしまう。
「ふーん、じゃあまだ童貞?」
 つかんだ耳に唇をよせて、志信はオレにしか聞こえない声で呟いた。
「うるさい」
 耳をつかむ手を払って立ち去ろうとすると、今度はうしろからシャツの首根っこを引っぱられる。
「ちょっと付き合え」
 志信は片眉だけをさっと上下に動かし、唇を引き伸ばして優雅に笑って見せた。見た目はこんなに王子様チックなのに、性格のほうは唯我独尊の俺様なのだ。
「忙しい」
「綿菓子買ってやるからさ」
 子供あつかいにむかついて首を横に振ると、りんご飴もつける、と見当違いなことを言う。
「久しぶりの再会なんだから、二人で遊んでおいで」
 おばちゃんのひとりが、のん気にそんな提案をした。
「そうそう。志信ちゃん、今日のお昼に着いたところなのに、テントの設営から屋台の準備まで全部手伝ってくれたんよ」
 久々に見るまぶしい法被姿の志信がウインクなんてするから、オレの心臓は一年ぶりの大仕事だとばかりにせっせと早鐘を打ち始める。
「おじさん、夏生と二人で抜けていい?」
 志信がテントのほうに向かって声をかけた。勝手に決めるなと思ったけど、ドキドキが激しすぎて咄嗟に声が出ない。前方でなにが嬉しいのか、満面の笑みで頭上に丸を作っている父さんと目が合った。

「また髪に綿つけてんぞ」
 前を歩いていた志信が突然、振り返って言った。顔より大きな綿菓子を食べるのが、オレは昔から下手だった。近づいてきた志信はオレの頭を両手でがしっとつかんで髪についた綿菓子を唇で舐めとると、何事もなかったようにまたさきを歩きだした。そして驚きで固まってしまっているオレを無視して、前方で文句を垂れる。
「うえー、甘すぎ。相変わらずよく食えるな、こんな砂糖のかたまり」
 そっちこそ、相変わらず人の髪についた食べ物をよく食べられるな、と思いつつ、神社の鳥居をくぐった志信のあとを無言で追う。
 志信はいつも、なんの躊躇もなく触れてくる。肩を組んだり耳や頬を引っぱったり、ひどいときは腰に腕を回して持ちあげたり。それはずっと昔からのことで、子供のころはそんなふうにじゃれ合っていても変じゃないのかもしれないけれど、いまのオレはもう十九歳で、世間で大人って認められるまで一年足らずの社会人だ。子供じゃない二人がこんなことをするのは、やっぱりちょっとおかしい。
 志信は一年のうちの会っていない十一か月のあいだ、オレの時間が止まっていて、成長してないと思ってるのだろう。だからたぶん、志信の中のオレはまだ十五歳くらい。大好きな綿菓子やりんご飴を与えればホイホイついてくると思われてる。触れられるたびにオレがどんな気持ちでいるのかも、甘いものにつられたからついてきたんじゃないことも、この男は知らない。
「昭兄は、いつごろ来るの?」
 本殿前の階段に腰かけた志信に尋ねる。何日か前に昭兄から、今年の帰省は盆の母さんの墓参りに間に合わないかもしれない、と書かれたメールが届いていた。
「さあ」
「ひとりで、東京で、なにしてるの?」
「知らね」
「連絡とってないの? 毎年一緒に帰ってきてたのに」
 昭兄と志信は同級生という以外共通点がないのに、昔からずっと仲が良かった。優しくてのんびりしている昭兄はめったに怒らず、眠っているとき以外はほとんど笑顔の人だ。そんな聖人君子のような昭兄が、なぜか悪魔の志信といつもセットで行動していた。長身でかっこいい二人は人目を惹き、周りからは王子様と仏様、というふざけた名前で呼ばれていた。
「俺にはおかえり、のひとこともないわけ?」
 会って早々、昭兄のことばかり口にするオレに、志信がこれ見よがしにため息をつく。
 オレは志信を前にすると、思ってることをうまく伝えられない。そんなつもりはないのに、口をひらけばいつもかわいくないことばかり言ってしまう。おかえりって、本当は顔を見た瞬間からいつ言おうかとずっと考えていて、でもいまじゃないんじゃないかとか、もう遅いんじゃないかとかぐるぐるしてたら、完全にタイミングを逃してしまっていた。
 手持ちぶさたで、食べ終えた綿菓子の割り箸を手の中でもてあそんでいたら、突然立ち上がった志信が目の前にやってくるので、驚いて箸を落としてしまった。見下ろしてくる強いまなざしに引き寄せられそうになって、そろそろと怯えながらうつむく。
「そんなに昭彦が好き?」
 指先であごをすくわれて、うつむいたばかりの赤い顔がむりやり上向かされた。
「しのよりは、好き」
 本当は昭兄と志信のどっちかが上とかじゃなくて、好きの種類が違うのだけど。
 触れられて緊張してるのを知られるのがいやで、言葉だけでも強気に発したかったが、成長期の声変わりに失敗していたオレの喉からは、高音と低音が入り混じった不安定な声しか出てこない。
「かっわいくねえー」
 力んで言わなくてもわかってる。どうせオレはかわいくなんかない。志信がいつも言うように、声も変だし、おでこも丸いし、目玉も黒すぎるし、耳も小さすぎる。CAとか看護師とか花屋の娘なんかに比べたら、蟻ほどのかわいさも持ち合わせていない。
 あごを支える志信の手を払いのけてうつむき、落とした甘い割り箸によじのぼる蟻をにらみつけながら、心の中で悪態をついていたとき―。
 どん、と地を轟かす破裂音が鳴って、二人同時に顔を上げた。光の尾を引いてしゅるしゅる昇ってく花火玉が天高くで炸裂し、真っ暗な夜空に大輪の菊を咲かせた。離れた広場のほうから、祭り囃子に混じった歓声と拍手がかすかに聞こえてくる。火薬が爆発した独特の煙の匂いが、時間差で嗅覚を刺激した。
「きれいだな」
 夜空に上がる花火に夢中の横顔を、そっとのぞき見る。今年もまた、この季節がやってきたのだ。
「おかえり。それと、綿菓子、ありがと、う」
 夜空に散る花をじっとにらみつけて、オレはなんとか伝えたかったことを言葉に乗せた。
 素直じゃないオレは、みんなが簡単に言えることも勇気をださないと口にできない。そんなオレの不器用な言葉を聞いて、横の志信が優しく微笑む気配がした。
「ただいま」
 志信がとなりにいる。ただそれだけで胸が締めつけられ、意味もなく泣きたくなる。
 オレは今年もやっぱり、夏が嫌いだ。








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夏待ち恋花火(2)

「かわいい、この足につけてるブレスレット」
「ほんとだぁ。足首細いから超似合う」
 肉を焼く炭火の煙から離れた風上に、若い女の子の人だかりができている。
「アンクレットってゆうんだよ」
 その輪の中心にいる小西理香が、左足の膝を曲げてみんなが見えやすいように足首を後ろに持ちあげた。
「この白いの真珠?」
「残念ながら本物じゃないけど。イミテーションの安物なの」
「これってもしかして……、志信くんからのプレゼント?」
 きゃー、とわく女の子たちに、理香は笑顔を隠すように目の前で手を振った。
「ちがうちがう、自分で買ったの。あたし、アクセサリーショップで働いてるから。社割がきくんだ」
「でも、付き合ってはいるんでしょ?」
「そんなんじゃないよ」
 照れたように笑って否定する理香を囲む女の子たちが、また大きな歓声を上げた。
 日曜の夕刻、志信の歓迎会をかねてひらかれた町民たちによるバーベキュー大会に、飛び入り参加者が現れた。太陽がかげり始めた川辺で炭をおこしていると、志信が理香を連れてやってきた。
 今朝、東京から到着したばかりという彼女は、志信に紹介されて地元民たちとフランクに挨拶を交わし、『休暇をとってきたのでしばらくお世話になります』と言った。衣服に使われている布が極端に少なく、蚊が喜んで寄ってきそうな格好をしていた。
「部屋が空いてるから、しばらくうちで面倒みるわ」
 志信がそんなわけのわからないことを言ったので、大スクープの到来とばかりに、田舎のリポーターたちは志信と理香のとり囲み取材を始めた。志信のほうは、カレー作りというべつの仕事が待っているおばちゃんリポーターたちに解放されたが、理香はまだ楽しそうに田舎の若者との交流をはかっている。
 そんな中、オレはひとり黙々と肉を焼きまくって、空いた皿に配りまくっていた。網に肉を乗せてはひっくり返し、皿に移動させ、空いたスペースでまた肉を焼くという単調な作業の繰り返し。しかし、とうとうタレにつけこまれた大量の生肉も底をつく。仕事を失った途端、考えてしまうことはひとつしかないから、それを避けるため、オレは軍手とトングをとなりの酔っぱらったおっちゃんに手渡して、川上に向かって歩きだした。
「なっちゃん、どこいくの?」
「冷やしてるすいか、とってくる」
 返事をすると、尋ねたおばちゃんが、働き者だねぇ、と感心した。

 大きな岩と縄で繋がれた桶が、川にぷかぷか浮いている。桶の中には、上流の水で冷やされた小玉スイカが三つ。岩を縛る縄を解いていると、背後から声をかけられた。
「ねえ、ちょっとー」
 ヒールの高いミュールで、でこぼこの岩場を登ってくる理香を見つけて背筋が凍る。
「ちょ、なにして。危ないから―」
「平気。むかしは木登り得意だったんだから」
 来ないで、と言おうとしたら、理香が腰に手を当ててオレの言葉をさえぎった。しぶしぶ下って手を差しだすと、驚いた顔をした理香が手を伸ばしてきた。
 川から桶を引き上げていると、岩に腰かけてしばらくだまっていた理香が口をひらく。
「あたしのこと、覚えてる?」
 振り返るとこっちをじっと見つめる目と目が合った。ショートカットがよく似合うたまご型の輪郭にくりっとした大きな目、細く長い脚が小学生のころと変わっていない。
 忘れるわけがなかった。
 オレが小学校に入学したばかりのころ、三年一組の昭兄と志信のクラスに、東京からの転校生がやってきた。垢抜けた美人で明るい性格の彼女は、またたく間に田舎の小学校内のアイドルとなった。
 彼女には、昭兄と志信との三角関係のウワサがいつもつきまとっていた。アイドルゆえに休み時間や放課後になると、他クラスの校内パパラッチにこっそり後をつけられ、昭兄と神社の裏でリコーダーの練習をしていたとか、休んだ日のノートを志信に貸してもらっていたとか、彼女に関するウワサは、どんな些細なことでも全校生徒の耳に行き届くようになっていた。
 昭兄と志信のどちらを選ぶのか。みんなが知りたがったその結末は誰にも知らされないまま、彼女は一年後、また東京の学校に転校していった。アイドルが去ったあと、校内の盛り上がりは一気に沈静化し、一カ月も経つと誰も彼女のウワサ話をしなくなった。
 みんなが忘れてしまってもオレだけはずっと覚えていた。いやでも耳に入ってくる、あの忌々しいウワサの数々を忘れるわけがない。
「覚えてます」
「ふーん。夏生くんってさ、まだお兄ちゃん命なんでしょ? 志信がいつも言ってる」
「いつも……」
 いつも言ってるってことは、いまでも志信と頻繁に連絡を取り合ってるってことだ。理香の転校の際に、二人は連絡先を交換し合っていたのだろう。志信が東京に越してからは距離が一気に縮まり、さらに関係が深まったのかもしれない。
 当時は見られなかった三角関係の結末。理香は昭兄でなく志信を選んだ。CAや看護師や花屋の娘と付き合ってるというのは、志信の言うとおり根も葉もないウワサで、本当の恋人は小西理香というアクセサリーショップの店員。だっていくら部屋が空いてるからって、ひとつ屋根の下に恋人でもない若い男女が二人、一カ月も一緒に生活するなんてありえない。住むには不便だけど休暇を楽しむにはちょうどいい片田舎の別荘に、志信は恋人を招待して愉快な一か月を過ごそうという魂胆なのだ。
「夏生くんって、本物のブラコンなの?」
 ひとり勝手に妄想を膨らませてムカムカをためこんでるときに、理香が薄い眉をひそめて軽蔑の目を向けてくる。
「なんですか、それ」
「だってさ、十九にもなってお兄ちゃんが大好きって、なんかやばくない? 変だよ、絶対おかしいって。ほかに恋人とか作って気を紛らわしなよ。いいかげんお兄ちゃん離れしたほうがいいよ」
 いったい志信は理香に、オレのことをどんなふうに伝えているのか。昭彦の弟は、兄偏愛症の異常性癖者とでも言ってるとしか思えない。心の中のムカムカがさらに増してゆく。
 来るはずだった優しい昭兄の代わりにやってきたのは、二度と会いたくなかった都会美人。オレは彼女からのありがた迷惑な忠告を、きっぱりとはねのけた。
「やばくてもべつにいいです。ほっといてください」
 これ以上会話を続けても、ムカムカがつのるだけでいいことなんてない。そう判断してオレが桶を持ちあげようとしたら、理香がその中のスイカをサッとひとつ取った。なにをするのかと思っていると、ラグビーボール型のスイカを川に向かってぽーんと放り投げる。
「わあっ!」
 岩の表面にぶつかったスイカは割れることなく水流に乗って、どんぶらこ、と下流へ流れていった。
「なにしてるんですか!」
「ふん。あたし、昔から夏生くんのこと嫌いだったのよね」
 どうやら自分と同じく理香のほうもオレのことをよく思っていなかったらしい。突飛な行動と突然の告白にあ然としていると、下からおーい、というのん気な声が聞こえてきた。
「いまスイカ流れてったけど、なにあれ」
 こっちに向かってくる志信を見つけると、理香はすぐさま駆け寄っていった。
「夏生くんが川に落としちゃったんだよ」
 とんでもない嘘を平然とつく理香に、オレは驚きの表情を歪めて下唇を噛んだ。
「そうなのか?」
 告げ口なんてプライドが許さないから、オレは近づいてきた志信にみにくく歪んだ顔を見られないよう、うつむいた。いつになく優しい感触のする手のひらが、髪に触れた。直後、オレはその手を思いきり振り払った。
「夏生!」
 にらみつけてくる理香の横を素通りすると、背後の二人を振り返らず、オレはスイカの桶を抱えてその場を立ち去った。

 その後、理香はことあるごとに仕事の邪魔をしてくるようになった。
 いつも志信のとなりをキープしている彼女は、手伝いもしないのに週末の打ち上げの現場についてきては、無知であることをいいことに無邪気に危険を冒そうとする。打ち上げ筒の中をのぞきこんでみたり、花火を上げる遠隔操作のスイッチをさわってみたり。ただでさえ忙しい現場で、ちょこまか動く理香の監視も同時に行うと、疲労が倍増する。そして疲れきって注意をうながすと『夏生くんって小姑みたい』なんて言われる。同じように志信に注意されたときは、すんなり受け入れるくせに。オレのこめかみの血管はもう少しの衝撃でぶち切れそうだったけれど、女の子相手に強く出ることもできない。
 もって行き場のないストレスが、たまりにたまっていた。志信がオレに話しかけるたびについてくるオマケの存在に、ムカムカは解消されることなく、日々つのっていった。





夏待ち恋花火(3)

 自宅の縁側に寝そべって棒アイスを食べてると、玄関のほうからオレの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。棒の頭が見えてきても『当』の字が出てこないことにがっかりしていると、志信が勝手に庭を伝って縁側にやってきた。
「いるなら返事しろよ」
 やっぱりハズレだ。のっぺらぼうのアイスの棒を和室内のくずいれに投げ入れる。
「朝からアイスかよ。おまえ飯食ってんのか? なんか痩せたんじゃねーの?」
 真上から見下ろしてくる心配そうな志信の顔をひとにらみして、勢いよく起き上がる。
 オレが痩せたのは、確実に誰かさんが連れてきた仕事の邪魔ばかりする女の子のおかげだ。彼女と対面してると、心労がたまって食欲は落ちるいっぽう。ものを噛む気力すら減少しているいま、とけて消化されるアイスクリームはありがたいカロリー供給源なのだ。放っておいてほしい。
 用意しておいたリュックを背負って歩きだすと、うしろから志信がついてくる。
「いい天気だなー」
 背後からののんきな声に空を見上げてみる。のっぺりした青空を背景に、柔らかそうな雲が形を変えながらゆっくり風に運ばれていた。
「なんかしゃべれよ」
 竹藪に足を踏みいれると、背の高い竹の群集に太陽の光が遮断され、ひんやりと涼しく感じる。
「昭兄って、いつこっち来るの?」
 振り返らないまま尋ねると、背後で志信がふっと笑う気配がした。
「出た、夏生の兄ちゃん病」
 しゃべれと言われたからしゃべったら、病気とか言われる。
 夏休みに入ってからも昭兄とはときどきメールでやりとりしていたが、まだ忙しいらしく、いつごろこっちに来れるかわからないという。志信なら最新の情報を知っているかと思ってなんとなく聞いただけなのに、人を病気あつかいして。そして家に帰ったらまた理香に報告するのだろう? あいつの兄ちゃん病は悪化するいっぽうだ、って。
「なんで機嫌悪いんだよ。生理?」
 男に生理が来るのか。足を止めると、志信がさらに腹立たしい言葉を継ぐ。
「夏生って、昭彦以外のことで俺に聞きたいことってないわけ?」
 オレたち、そんなに昭兄の話ばっかしてましたっけ?
 ああでも志信と対面すると緊張してうまく振る舞えないオレは、心のどこかで優しい昭兄を頼っていたのかもしれない。多少自覚はあったけど、会えばいっつも不機嫌で口ひらけば昭兄ばっかで、もしそれが不満だったんなら申し訳ない。そりゃ病気って言われても仕方ない。そうだ、志信はいつも正しい。わかってる、悪いのは男の志信に恋愛感情なんかもってるオレのほうなんだってことくらい。
「お、っと」
 さっと振り返ると、志信は驚いて一歩後ずさった。志信に聞きたいことは山ほどある。ただそれを聞いたところで志信を困らせるだけだから、言わなかっただけ。
 でもそこまで言うなら、聞いてやる。
「あの人って、いつ帰るの?」
 オレの心の中のどす黒い感情を受けとめて、さんざん困り果てればいい。
「理香のこと?」
 志信の口からその名前を聞くだけでもう、胸がはり裂けそうになってるオレの気持ちなんて知りもしないくせに。
「さあ、まだいるんじゃねーの?」
 なにそのあやふやなの。
「なんで連れて来たの?」
 苛立ちを力にして強気で言葉を放ってみたけど、出てきた声は情けないほど震えていた。
 女の子の理香に強く言えないからって、オレは志信にやつあたりしていた。いけないことだと自覚していながらも、たまったストレスを解消できない苛立ちは、無意識のうちに志信に向いてしまった。嫉妬にまみれたオレの本音を聞いて、きっと志信は悲しい思いをする。連れてきた恋人が幼なじみに歓迎されていないと知って、このあとの休暇を心から楽しめないかもしれない。
 うつむけた顔を上げられないでじっと地面の土を見ていると、志信があっけらかんとおかしなことを言う。
「夏生が俺に焼きもちやくかと思って」
「は?」
 咄嗟に顔を上げる。
「なにそれ」
「だからー、俺と理香が仲良くしてると、夏生が嫉妬するかなって思って連れてきた。もしかして夏生の機嫌が悪かったのってさ、理香にやいてたからじゃねーの?」
 図星だろ、と言って頬をつねってくる。
「ち、ちがうよ! それに、しのはあの人と付き合ってるんでしょ!」
「は? またおまえ、町民のウワサ鵜呑みにしてんのか。この田舎者めが」
 自分だって元田舎者のくせに、と言おうとしたが、頬を両側から引っぱるから声をだせない。
「いやー、嫉妬されると気分いいね。目論見がうまくいって、すがすがしいわ」
 よく伸びる頬が餅みたいで、真っ赤に染まって熱くなってるからこれぞ焼き餅、と最高にくだらないことを言いながら、志信はやっとオレの顔から手を離した。赤いのは志信がつねったからだ、と言いかけたが、きっと触れられてない首まで真っ赤に染まってるだろうから、オレは言い返そうとひらいた口を静かに閉じた。
「俺は夏生以外に興味ねーし」
 真摯な声にハッとして顔を上げると、まっすぐ見つめてくる志信と目が合った。周りは竹に囲まれて光が入らないのに、ブラウンの瞳はオレの体を射るように鋭く光っていた。
「なに言ってる、の」
「照れんなよ」
 ふいに手をとられた驚きで、オレの体は硬直した。温かい手の中に、緊張で冷たくなったオレの薄い手が包まれてる。志信はしばらく戸惑うオレを見つめていたが、やがてつかんだ手を引っぱって歩きだした。
 志信が理香を連れてきた理由をごまかしたことくらいわかってる。オレに焼きもちをやかせるためだなんて言ってたが、そんなのは嘘だ。嫉妬させるためだけに理香を利用する。志信がそんな、人を道具みたいに扱う人間じゃないことを、オレがいちばんよく知ってる。
 じゃあ真相はいったいなんなのか。二人が付き合ってるというのは本当に単なるウワサか。志信が理香を連れてきた本当の理由はなにか。そもそもここへは理香が来たいと言ったのか、それとも志信がおいでと言ったのか。
 オレはそんな頭に浮かんだ疑問を、ひとつも口にだすことができなかった。
 見つめられて赤くなって、手を握られて緊張して、おまえ以外興味がないなんて嘘を隠すためのおべっかでとろけてしまう。どんなに突っ張った態度をとってみせても、志信の言動で簡単にほだされてなにも言えなくなる。
 恋するオレは、志信という神の前にひれふす弱者だ。神の目論見どおり指一本でコントロールされて、志信が隠す秘密を聞きだせなくなってしまうのだから、自分でもちょろいなって思う。

 志信に手を引かれたまま着いたさきは、母さんの墓だ。
 盆の母さんの墓参りは毎年、昭兄と志信とオレの三人で来ていた。父さんは誰かと一緒にここに来るのが照れくさいらしく(?)、いつもひとりでこっそりお参りをしているから、今年も不参加。
 母さんはオレが小学五年生のときに、病気で亡くなった。幼なじみの志信も、母さんお手製のお菓子を食べによくうちに来ていて親交が深かったから、突然の病に倒れたときは、オレたち兄弟と同じくらい悲しんでいた。
 掃除をして花を飾り、線香に火を点ける。墓の前で静かにお祈りをしたオレのあとで、志信が手を合わせて毎年恒例の言葉を呟く。
「おばちゃん、夏生を産んでくれてありがとう」
 昨年まではここで昭兄から『僕の名前も入れてくれよ』ってつっこみが入った。母さんの前で親友同士の仲睦まじい姿を見せるためのやりとりが、つっこみ不在の今年は完成しない。昭兄がいないだけで志信の声が真剣みを帯びて耳に届いた。なにを言えばいいのかわからず、自分の速くなる心音から気をそらすために、蝉の鳴く音に意識を集中していた。
「夏生はおばさんに、なんて話しかけたんだ?」
 母さんには毎年、心の中だけでこっそり志信への思いを告白しているのだが、もちろん本人にそんなことは言えない。
「昭兄が早く帰ってきますように」
「ひでー。なんそれ。しかも願い事って、七夕と勘違いしてね?」
 確かに。咄嗟に思いついたことを言ってみたが、母さんは流れ星じゃない。志信が噴きだすのにつられて、自分で言ったことなのに思わず笑ってしまった。
「お、やっと笑った。機嫌治ったか?」
「べつに、楽しければふつうに笑うし」
 いつも言ったあとに思う。なんでこんな言い方しかできないんだろう、って。
「いままでそんなにつまんなかったのかよ」
 もともと無表情なほうだが、ここ最近は多忙な仕事と理香との対決(?)のせいで、心から楽しめる出来事がなかったかもしれない。
 じっと顔をしかめていると、志信が突然オレの目の前で、ぱん、と手を叩いた。
「そんならこれから、楽しいことしようぜ」





夏待ち恋花火(4)

 駅前に新しくできたラーメン屋で腹ごしらえをしたあと、川でザリガニをキャッチアンドリリースした。
「おねえさーん、冷やしぜんざい、ふたつー」
「はいよー」
 昔からよく通っている甘味処のおばちゃんは、おねえさんと呼ぶと白玉を二つ多くサービスしてくれる。
「痩せすぎ。太れ」
 そう言うと、志信はおまけの二つ分の白玉を、オレの器に移した。
「あ、りが、とう」
「いーえ」
 オレは志信にもらったのをほかと隔離して大事にとっておいて、いちばん最後に食べた。
 陽が傾いてきたころ、卓球場で本気の卓球勝負をして、引き分けに終わると二人で納得して家路についた。
「寄っていく?」
 玄関の前で、ドキドキしながら志信を振り返る。昨年までは昭兄がいたから、こんなふうに一緒に遊ぶのも家に呼ぶのも全部二人に任せていて、オレは後ろをついていくだけだったから、ここまで緊張しなかった。
 伏し目がちに答えを待ってると、志信がオレの額を指ではじく。
「もちろん。当たり前だろ」
 志信の遠慮のなさにちょっと笑って、居間に通す。近所のおじさんちに将棋をさしに行くという父さんに墓参りの報告をすると、嬉しそうに笑って家を出ていった。
「はい、ビール」
「それ父ちゃんのじゃねーの?」
「しのが飲んだって言ったら、喜ぶよ」
 プシュッとプルトップを開けて手渡す。
「じゃあ、いただきまーす」
「どうぞ」
 ビールをあおった志信の喉仏のダイナミックな動きに、しばし見とれてハッと我に返る。座布団を用意し、テレビの電源を入れてリモコンを志信に渡すと、急いで台所に向かった。
 近所からお裾分けしてもらった枝豆を茹でてざるに上げ、もろきゅうと、作り置きしておいたなすの煮浸しと一緒に卓袱台に運んだ。
 テレビの音に混じって、開け放った障子の向こうからカナカナとひぐらしの鳴く声が聞こえる。野球のナイター中継を見ながら、二人で黙々と豆と箸を口に運んでいたら、皿はあっという間に空っぽになった。食べるものがなくなると間がもたなくなって、オレはさやだらけになったざると皿を持って、ふたたび台所に向かった。
「なんかほかに食べる?」
「もう腹いっぱい」
「ビールは? 冷酒もあるよ」
「いいよ、そんなにおもてなししてくれなくても」
 冷蔵庫に手をかけて振り返ると、志信が笑った。オレがちょこまかと忙しなく動きすぎるから、リラックスできないのかもしれない。でも志信に居心地よくいてもらうために、なにをすればいいのかわからないのだ。ヘの字口でじっと見つめていると、志信が居間から手招きしてくる。
「なに?」
「おいで」
 呼ぶだけでなんの用か言わないから、志信に近づく。
「なんなの?」
「ひざまくら」
「は?」
「して」
「…………なに考えてるの」
「いいだろ。一年に一回しか会えないんだから、それくらいしてくれても」
「はあ…………。はあ?」
「はあじゃねーよ。いいよ、って言え」
「酔ってるの?」
 顔色も変わらないし目もしっかりしてるからそんなふうには見えないが、言動がおかしいから志信はたぶん酔っぱらってる。
「してくんねーと、帰んねーから俺」
 ほらやっぱり、こんなにおかしい。
 空っぽになったアルミ缶を手でへこませて、志信は畳に寝ころがった。
 自分には母性なんて備わっていないのに、甘える志信がかわいいとか思ってしまう。器用で、世渡り上手で、俺様で、王子様の志信。町を離れてもウワサ話が絶えないのは、それだけ注目を浴びてるあかし。傍若無人なのは見せかけで、実はいつも人を気づかってる。本当はすごく優しいからみんなに好かれるんだって、オレはちゃんと気づいてる。
 誰もが惹かれる王子様が、オレの家の畳に転がってる。口をとがらせてこっちを見上げながら立ってるオレの手をぐいぐい引っぱる。
「しろよほらー」
 普段とのギャップに、オレはもうメロメロだった。手を引かれてひざまずき、そのまま正座したオレの太ももを枕にして志信がキャッキャ言って寝そべる。酒のせいで体温の高い頭の重みを足に感じて、胸がきゅうっと締めつけられた。
「夏生の無口は父ちゃん似で、世話焼きなのは母ちゃんに似たのかもな」
 太ももに響く柔らかい声に、背中が震える。家についてからの、無言でちょろちょろ動き回るオレの行動を見て、志信はそんな感想を述べた。父さんと昭兄に家事をさせると、鍋を真っ黒に焦がしたり風呂をあふれさせたまま出かけたりするため、母さんが死んでからは、家のことは全部自分が受けもっていた。もともとそういうことが嫌いじゃなかったため、世話焼きは体質なのかもしれない。無口なのは声がコンプレックスなのもあると思う。
「俺、夏生のそういうとこ好き」
 さらっと言ってのけて、志信はゴロリと寝返りを打った。真上を向いた顔を直視できず、志信の目を片手で覆う。
「ちょ、見えねーんだけど」
 オレの手を外させようとした志信を制止する。
「しゃべんないで、動かないで!」
 これ以上、二人だけの空間でこんなふうに密着していたら、簡単に気持ちがばれてしまいそうだった。画面の中のホームランを打って悠々と走っている男をにらみつけながら、太ももに乗ってるのは志信の頭じゃない、ただの置物だと自分に言い聞かせることで、オレはなんとか冷静を装おうとした。
「なんでしゃべったらダメなんだよ」
 目が隠れている志信の口が楽しそうに横に伸びる。
「なんでも」
 置物なんだからしゃべるな。
「なあ、夏生、結婚しよっか」
 だから、しゃべるなと―
「は、ああぁー?」
 男同士で結婚はできない。と真面目に考えてる場合じゃなくて、これは志信の冗談だ。ボケているのだから、つっこまないと。頭ではそうわかっていても、このひざまくらという密着した状況下での突然の奇想天外すぎる冗談に、オレは口をパクパクさせるだけで声を発することができなかった。
 とにかく、ひざまくらのほうを、もうおしまいにしなくちゃダメだ。
 酔って言動がおかしくなっている志信の頭を、オレはあわてて太ももから退かそうとした。手で押してみても、志信は力を入れているのか、それとも本当に置物になってしまったのか、重くて動いてくれない。
「毎日夏生が料理するうしろ姿見ながらビール飲んで、そのあと、ひざまくらしてもらう」
「オレ、もうしないからっ」
「そんでうっかり寝ちゃってさ。あなた、お布団で寝なきゃダメだよ、って言って起こされんの」
「オレ、そんなこと言わないよ!」
 ピクリともしない頭を必死で持ちあげようとしていると、その手をとられ、頭のほうが意思を持ってごそっと動いた。
「じゃあ夏生は、なんて言って俺を起こす?」
 見上げてきた目と目が合う。なんでこんなふざけた話を、そんな真剣な顔してするんだろう。まっすぐ見上げる視線に突き刺されると、オレの心臓はちょっと危ないくらいに暴走しだす。
「しの、実は、すごい酔ってるでしょ」
 志信ってこんなに酒に弱かったっけ。まだ未成年のオレは一緒に飲む機会がないから知らなかったけど、きっと志信は酔うとわけのわからないことばかりしゃべる人種なんだ。見つめられ続けることにたえられなくなってさっと志信から視線を背けると、心臓が内側から突き破ってきそうな胸を手で押さえた。
「酔ってるよ。でなきゃ言えねーよ、こんなこと」
 むにゃむにゃと、またわけのわからないことを言ってしばらくすると、志信は寝息を立てはじめた。真下にある意識を手放した顔に、そっと手で触れる。オレがもし女の子で、本当に志信と結婚することができたら、毎日この寝顔を独占できるのに。
 けして叶わない夢を想像しながら、オレは志信を起こしてしまわないよう、こっそりと耳元で囁く。
「布団で寝なきゃ、ダメだよ」
 返事をしない志信の頭を、今度こそ太ももから降ろして座布団を枕にすると、オレは丸まった体にそっとタオルケットをかぶせて大きく息を吐いた。





夏待ち恋花火(5)R-18

 この山と川しかない田舎町では、ウワサ話は娯楽のひとつとして成立している。みんな寄るとさわるといったいどこから仕入れたのか、あやふやなことを息もつかずにペラペラしゃべる。町のウワサは話半分、いや、話五分の一くらいで聞いててちょうどいい。
「なっちゃん」
 火薬庫から段ボール箱に入った火薬を工室に運ぶ途中で、休憩中のパートのおばちゃんに呼びかけられた。オレは箱を工室内に収めてから、五、六人が集まる木陰のベンチに向かった。
「どうしたの?」
「聞いた? あの理香って子」
 どうやらまた理香の話題らしい。
 彼女が志信に続いてこの地へやってきてから、約半月が過ぎた。理香は一度、花火製造場の敷地内で、絶対禁止とされている煙草に火を点けようとしたことがある。それをたまたま窓を全開にして作業していた工室内のおばちゃんたちが見ていたらしく、その日以来、理香は悪い意味で注目される対象となった。
 田舎にそぐわない派手な服装や、田舎にはない香水の甘い匂い、自由奔放な理香の行動は風紀委員と化したおばちゃんたちの目に余った。理香はいまでは秩序を乱すよそ者として、悪評の集中砲火を浴びている。
「あの子ね、ここに来る前、東京で子供おろしてきたらしいよ」
 日に日にエスカレートしていく根拠のないウワサを聞いて、さすがに口をださずにはいられなくなった。
「やめなよそんな話。誰が言ってるの」
「みーんな言ってるよ」
 やめさせようとしたら、おばちゃんたちは結託してさらに話を膨らませようとする。
「二十一でしょ? まだ若いから、子供産んで遊べなくなるのがいやだったんだろうねぇ」
「まあ東京じゃ当たり前のことなんだよ」
 若さと都会へのひがみが、こうしてウワサに尾ひれをつけてゆく。ウワサ話が出来上がっていく過程を目の当たりにして、オレはそんな場合じゃないのに、そのあまりのデタラメっぷりにすっかり感心してしまっていた。
「その相手がねぇ、志信ちゃんだってウワサがあるのよ」
「しの…………?」
「そう。なっちゃん、志信ちゃんからなにか聞いてない?」
 みんながいっせいにこっちを振り返る。首を横に振ると、新情報を期待したおばちゃんたちの顔が落胆でくもる。
「志信ちゃんに限ってねぇ」
「女の子に子供おろさせるようなことしないと思うけど」
「でもまだ学生だから」
 色んな意見が飛び交う中、オレは挨拶もそこそこにふらつきながらその場をあとにした。
 志信と理香が、子供を作った?
 いま話を聞いていて、ウワサ話というのがおばちゃんたちの手によって作りだされた、どれだけ信憑性のないものかわかったはずだった。それなのに志信の名前が出てきただけで、オレは理性を失ってバカみたいに動揺してしまう。
 この話もきっと五分の四のほうに入ってる、根も葉もないウワサのひとつにすぎない。頭でそう考えて聞いた話を意識から遠ざけようとしても、心に刺さった小さな棘は、簡単には抜け落ちなかった。


 多忙な父さんの代理で、オレは隣町の公民館にやって来た。そこでは地元の青年団主催で三日後に開催される、夏祭りの最終打ち合わせが行われていた。祭りの最後に上がる、五十発の花火。毎年夏に上村煙火が引き受ける、いちばん大きな打ち上げ業務だ。当日のプログラムとタイムスケジュールを確認し、見物客に危険がおよばないよう決められた、打ち上げ場所からの保安距離を考慮した立ち入り禁止区域を再度みんなに説明した。士気が高まる青年団のメンバーと挨拶を交わして別れ、残暑のきびしい真昼の陽射しを浴びながらゆらゆらと自転車をこいで来た道を戻る。
 朝、家を出るときはまだ涼しかったのだ。打ち合わせ時刻までに余裕があるからと、家から五キロほど離れた公民館まで車を使わず、なんとなく自転車で来てしまったことをすごく後悔した。日なたを避けて、なるだけ日陰があるほうへふらふら引き寄せられるように進んでいたら、普段あまり通らない小さな寺がいくつか立ち並ぶ裏道に出てきた。
 神聖で静謐な空気があたりを包みこむ。寺の周辺は、なぜか大通りより涼しく感じられた。人通りのない木陰を進んでいると、ちらりとわき見した寺の中に見知った影が見えた気がして、オレはふいにブレーキを握った。通りすぎた道を自転車にまたがったままバックして、寺の門から中をのぞきこむ。
 寺の住職と若い男女が立ってなにか話している。距離があるため話す内容はここまで聞こえてこない。オレはそっと自転車から降りて、三人にバレないよう門の影に隠れた。寺の奥へと入ってゆく三人を、距離を保ちながら追いかける。理香は住職の話を聞いてるあいだも移動するあいだも、ずっと志信の腕にしがみついていた。
「なにして、るんだろ……?」
 なんだかいやな予感がする。そろそろと慎重に歩を進め、本殿のわきで足を止めた三人の様子を、石碑のかげに隠れてうかがった。
 志信の腕を解放した理香の手に、住職から細長い木片が渡される。それはよく墓の後ろに立ててある卒塔婆だった。理香は赤い前かけをしたお地蔵さんのわきに卒塔婆を立てかけ、志信と二人、静かに手を合わせた。オレは踏んだ砂利が音を立てないよう、またゆっくりと後退して本殿の裏側に回りこむと、二人が寺を出るまでその場にしゃがみこんで息をひそめていた。無人になったのを確認して、お地蔵さんに近づく。真横にかかげられている薄汚れた赤いのぼりを広げてみると、そこには白い字で『水子地蔵尊』と書かれていた。
 水子―。
 その文字が目に飛びこんできた瞬間、昨日のおばちゃんたちの会話がぱっと脳裏によみがえった。
 あの理香って子。東京で子供をおろしてきたらしいよ。みーんな言ってるよ。その相手がねぇ、志信ちゃんだって。
 ウワサなんてのは五分の四は嘘っぱちだ。そんなことはこの田舎町に住んでる誰もが知ってる。でも悲しいけど、五つにひとつは本当が混じってる。
 もし、昨日のおばちゃんたちの話が根も葉もないウワサなんだとしたら、どうして志信と理香は水子地蔵にお参りする? 立てかけた卒塔婆の意味は? 生まれてこなかった子供の供養じゃないとしたら、いったいなに?
 オレは喉を大きくひらいて深呼吸した。うまく落ちつけないから何度も震える息を吸っては吐きだす。そうしているうちにしだいに呼吸は嗚咽へと変わっていった。どんなに息を吸っても酸素が体にいき渡らない。けやきの大木にとまった蝉がミンミン泣き散らすその真下で、気がついたらオレは号泣していた。
「どうしました?」
 いつまでもそうしていたら、さっきの住職が戻ってきて、心配そうな顔でオレの背中をさすってくれた。でもそれに対してお礼を言うことすらできず、オレは敷きつめられた砂利に膝をついて、目がはれるまで子供みたいに泣き続けた。


 雷鳴の轟く外は、朝から大雨。
 青年団が主催する夏祭りは、明日に延期になった。急遽、休みになったからって、この雨じゃ外にも出られない。でももし今日が快晴の休日だとしても、オレは外に出る気分にはなれなかっただろう。
 三日前のあの日から、オレは志信と会話していない。
 赤い目をして寺から帰宅した日の翌日以降、上村煙火の作業場で志信を見つけるたびに徹底的に避けた。オレは、いち早く窓の外の志信に気づくおばちゃんの協力を得て身を隠し、三日間、彼の前に姿を見せずに済んだ。ケンカ中か、と笑うおばちゃんたちに苦笑いを返して、そのあとかかってきた二回の電話も無視している。子供っぽい行動だと自覚しているが、いまは志信と会って、どんな顔でどんな話をすればいいのかわからなかった。
 昔から志信はモテモテだったけれど、たくさんのウワサが舞う中、誰かと付き合ってるというはっきりした証拠は表に出てこなかった。かげでこっそり恋人を作っていたのかもしれないが、事実は一度もオレの耳に入っていない。
 志信と理香は、付き合ってる。それは三日前に自分の目で見た、二人の水子供養が物語ってる。なにも知らないでいることが幸福なのだと、いま知った。遠く離れた場所で、自分が知らないあいだに志信と理香が愛を育んでいたのだと想像すると、嫉妬でつむった目の奥が赤く染まった。
 オレに触れるより優しく、彼女に触れるのだろうか。オレを見るまっすぐな目より真剣みを帯びた視線が、彼女を貫くのだろうか。
 止まらない思考に体が震えだしても、オレはそのさきを想像することをやめられない。志信の大きな手が、彼女の素肌に触れる。子供ができたのだから、二人はそういうことをしていた、ということになる。志信はどんなふうに理香を抱いたのだろう。下衆な思いつきがリアルな映像となって頭の中に浮かんだ。いても立ってもいられなくなってベッドにもぐりこみ、布団を頭までかぶった。暗い視界の中、自分の心音と窓をたたきつける激しい雨音が、内と外からオレを追いつめてゆく。
「い、やだ……」
 もう限界だった。
 この三日間、ずっと混乱しっぱなしで、考えたくもないのに志信と理香のことばかりが頭をよぎる。もう、この苦の無限ループから解放されたい。オレは、ベルトのバックルに手を伸ばした。もたつきながら震える指で前をくつろげ、ズボンと下着を下ろす。性器に触れると、少しだけ芯をもっていた。
 オレは変態だ。志信と理香のことを考えて興奮してるなんて普通じゃない。そしていま手で性器に触れたことで、なにかが終わった。オレは二度と這いあがれない地の底に落ちた。
「しの…………」
 そっと呟くことで罪の意識は増す。興奮してるのに集中力は散り散りで、不必要な罪悪感だけが異常に膨れあがり、なかなか射精までいきつかない。震える手で握りしめる性器にどれだけ圧力をかければ快感なのか、普段は考えなくてもわかるようなことが、いまはどんなに考えてもわからない。雨音を聞きながらただ解放だけを求めて夢中で性器をこすっていると、真っ暗だった視界が突然ひらけて、目の前が明るくなった。
 丸まったオレを包んでいた掛布団が、ベッドの下に落ちている。ゆっくり視線を上げると、驚いた顔でこっちを見下ろす志信と目が合った。
「な、つき……」
 呆然と呟いた志信の視線が、オレの下半身に移動する。両手で隠すように握られた性器が目に入ったのだろう、一歩後ずさった志信は立ったまま石のように固まった。オレが避けて、電話にも出なかったから、志信は家に乗りこんできたのだろう。来る途中、傘からはみでたのか、スカイブルーのシャツのところどころに、雨に濡れたネイビーの染みができていた。妙に冷静に志信を観察してから、オレは床に落ちた掛布団を拾おうとした。
「な、に……?」
 固まっていたはずの志信に手首をつかまれて、今度はオレの全身が硬直する。汚れた手のひらをぎゅっと握りしめて顔を上げると、まっすぐオレを見つめる目と目が合う。淡い色の瞳に強い光が宿っていた。怖いくらいの視線に刺されながら、オレはつかまれた手首を振り払おうとした。
「はな、せっ」
 何度ゆらしても解けない拘束に焦っていると、もう片方の手首もつかまれる。
「なっ…………、や、あーっ」
 パニックでわけのわからない言葉を発して暴れていると、志信が片膝をベッドに乗りあげてきた。
「夏生」
 甘くかすれた声で、オレの名前を呼ぶ。苦しそうに眉を寄せた表情は、いつになくセクシーで魅惑的だった。じっと黙って見つめられるとぞくぞくした。体じゅうが冷たくて、性器だけが異常に熱い。さっきはいくらこすっても射精できなかったのに、いまは空気に触れているだけで暴発してしまいそうだった。
「ん……、はな、して。おねがい」
 屈辱と羞恥。史上最悪の状況のはずなのに、オレはどうやら志信に見られてることが気持ちいいらしい。もう終わってる。
 目をつむって快楽に耐えていると―
「志信ー、夏生いたかー?」
 階下から父さんの声がして、張りつめていた空気が一瞬でパリンとはじけた。しばらく無言で見つめあったあと、志信はオレの手首を解放して、下に向かって叫んだ。
「いたー」
 掛布団を拾ってオレの体にそっとかぶせると、志信はそのまま部屋を出ていった。
「さい、あく……」
 外から扉が閉められたあと、階段を駆け下りる足音を聞きながら、布団の中でぼそりと呟く。風邪でもないのに、吐いた息が熱い。オレはひとりになった途端、懲りずにまた性器を握りしめた。手首をつかんだ志信の手のひらの感触を思いだしながら、数秒後、長引く大きな快楽の波に飲まれた。





夏待ち恋花火(6)

 翌日は昨日の雨が嘘みたいに晴れた。雲のない昼間の青空は漆黒の夜空へと変化し、暗闇に目をこらす市民たちが見守る中、色とりどりの花火が次々と頭上に打ち上がった。
 時間にしてたった三分足らず。最後の大玉が天高くで割れると、鮮やかに咲いた冠菊が光の糸を垂らしながら暗闇に吸いこまれていった。一瞬の静寂のあと、大きな拍手と歓声がわき起こる。青年団主催の夏祭りは、大成功で幕を閉じた。
 でもオレは今日一日、失敗ばかりしていた。今日は理香ちゃんが来てないからスムーズに仕事が進むな、と冗談を言って笑い合っていた従業員たちの期待を裏切って、オレは見事に理香の代理をつとめて仕事を滞らせた。結果的に打ち上げが成功で終わったからよかったものの、危険をともなう現場では小さなミスもあってはならない。出発時に消火器をトラックに積み忘れたのを皮切りに、花火の設置場所に水をまき忘れ、消防署の最終点検の立ち会い時刻を勘違いして遅刻する、というさんざんなダメっぷりだった。
「しっかりしろ」
 そんなオレをずっと近くで見ていた志信が、寄ってきて頭を優しく撫でながら言った。オレはその一言で立ち直るどころか、湯気が立ちそうなほど真っ赤になってうつむき、直後、打ち上げ筒に足をひっかけて転んだ。
 失敗はすべて志信がフォローしてくれた。オレのせいで仕事量がいつもの倍になっても、志信は疲れを顔にださず、文句のひとつも言わなかった。片づけを終えて、青年団のメンバーと飲みに行くという父さんや志信たち従業員に今日一日の不手際を謝罪し、オレは誘いを断ってひとり帰途についた。
 昨日あんなことがあって、もう志信の顔すらまともに見られなくなっていた。だから失敗をフォローしてくれたお礼も、まだ告げられていない。というかもう、このさきどんなふうに志信と接していいかわからない。
 帰宅後、ひとり縁側に座ってぼんやりしていると、また頭の中がぐるぐるし始めるから、オレは戸棚をあさって昨年の残りの線香花火をだしてきた。暗い庭の真ん中でしゃがみこみ、和紙に火を点ける。激しく火花を散らす小さな火の玉に、意識を集中して無心になる。じっと見つめているとやがて勢いを失った火花は消えて、玉が地面に落下した。それを見届けてまた新しい和紙に火を点け、オレは次から次へと線香花火を消化していった。
 地味な線香花火は、どんなに必死であがいても最後はポトリとあっけなく落ちてしまう。微弱すぎる光は暗闇でなにかを照らすこともできず、パチパチはじける音は小さすぎて誰かに気づかれることもない。
 男なのに男の志信を好きになってしまった、まるで自分の、ゆく末のない恋愛を見ているみたいだった。どんなに強く志信を想っても、報われることのないこの気持ち。誰も幸せにしない、誰からも祝福されない。落下する結末を知りながら、ただ必死で想いをつのらせるだけ。このさき何度もやってくる夏のたびに、オレはパチパチはじけて死んでしまう。燃えつきてひっそり地面に落ちる火の玉は、まるでオレの分身のようだ。
「線香花火?」
「あ…………」
 ちょうど光が落下した瞬間、真上から声がしてオレは咄嗟に顔を上げた。みんなと飲みに行ったはずの志信が、目の前に立っていた。
「すごい集中してんのな。俺がこんな近づいても、ぜんぜん気づかねーの」
 志信のセリフに、オレはまたゆっくりと視線を落とした。集中していて近づいても気づかない。その言葉はまるで、昨日のオレに言ってるみたいだった。よみがえってきた恥ずかしい出来事を消してしまいたいと願っていたら、志信がそこを掘り返してくる。
「夏生、昨日ごめんな」
「な、んでしのが、あやまるの」
 むしろあやまって礼を言うべきなのは、今日一日、やってはいけないミスばかり繰り返したオレのほうなのに。
「いやな思いさせた。呼んでも返事がないからって勝手に部屋入ったし、無理やり布団はがしたし」
 それはオレが志信を避けて、かかってきた電話も無視し続けたのがそもそもの原因だ。ちゃんと応答していれば、突然志信が押しかけてくるような事態にはならなかった。
「困ってる顔ずっと見てたし、怯えてるおまえの手首つかんで、さらに怖がらせた。理性失って、そんなことしちまったのはさ―」
「もういい」
 志信がいちいち細部を思い起こさせるようなことばかり言うから、オレはこの会話をひとことで終わらせて、また新しい線香花火に火を点けた。
「俺、好きだぜ」
 志信の言葉に一瞬ドキリとするも、それは線香花火のことだとすぐに思い直す。あんまり近くで好きだとか言わないでほしい。勘違いしそうになるし心臓にも悪いから。自分の分身みたいな線香花火を志信が好きと言ってくれたことは嬉しい。でもオレはドキドキ鳴る鼓動をごまかすために、いま正に目の前で落下しそうな火の玉を早口でおとしめていた。
「なんか、バカみたい。パチパチはじけて、あっけなく落ちてくのって」
「そうか? かわいいじゃん、オレは好き。けなげで頑張り屋さんでさ。小さいけどあったかくて、ずっと見てたくなる」
 火は落ちていた。志信は暗闇で、火の玉の消えたこよりを手に持つオレを見つめていた。線香花火が燃えつきたいま、オレは目の前で光を放つ瞳に吸いこまれるように志信を見つめ返していた。虫ももう眠ってしまったのか、あたりは妙に静かだった。無音の暗闇で志信と二人きり。ほかに誰もいない、なにもない空間。意識の全部が志信に支配されていた。
「好き」
 静寂にぽん、と浮かんだ声は、他人のものみたいに聞こえた。短い言葉は真っ黒な空気に飲まれて、すぐあと、言ったか言ってないかわからなくなってしまった。
 だからオレはもう一度、同じ言葉を放った。
「好き。オレ、しののこと、好きなの―」
 言うつもりなんてなかったことをわざわざ二回も口走ってしまい、オレは直後、口を手でおさえようとした。―が、それはかなわなかった。言い直したオレの言葉尻を飲みこんだのは、暗闇じゃなく、志信の唇だった。柔らかく温かい志信の一部が、意思を持ってオレの唇に触れている。
「んっ…………、ふゎ!」
 尻もちをつきそうになったオレの肩を引き寄せて、志信はさらにキスを深くした。閉じたすき間を舌でなぞられて口をひらくと、口腔内に舌が侵入してくる。
「ひぁ……、んっー」
 未体験の深いキスに、身体がガチガチに固まる。縮こまっている舌に舌を絡められ口の中を舐めまわされると、背筋に電流が走った。怖くて寒気がするのに、ずっとやめないで、こうしていてほしいと思う。志信の右手がオレの左耳に触れたときに、気づいた。この背筋をビリビリ這いあがる感覚が、快感なんだってことに。
「ん、っぁ、だ、め」
 オレは柔らかい拘束から逃れようと、志信の胸を両手で押した。肩を支えていた手が離れてゆくと、オレは尻もちをついていた。
「夏生」
 名前を呼ばれて身体が震えた。地面に尻をつけたまま後ずさる。
「夏生、俺―」
「ごめん、なさ……」
 なにか言おうとした志信を遮って、オレは立ち上がった。見上げてくる光を宿した瞳から目をそらし、振り返ると暗闇に向かって一目散に走りだした。





夏待ち恋花火(7)

 待て、って言った志信の言葉を無視して、オレはひと気のない道を走り、深夜の山を登った。混乱していた。まともな行動じゃなかった。携帯電話の明かりだけで外灯のない山道をゆくなんて、正気の沙汰じゃない。
 志信にキスされた。
 あの笑うと横にイー、って伸びる唇が、オレの唇に触れた。引っこめた舌に長くて器用な舌を押しつけられたときの感触を思いだすと、また背中が寒くなった。
「なんでなんでなんで」
 ぶつぶつ呟きながら、走り続ける。
 意味がわからない。志信には理香がいるのに。一カ月も一緒の家で暮らしてるのに。子供まで作ったのに。なんでオレに、キスするの。なんでオレを、気持ちよくするの。
 走り疲れて立ち止まる。マナーモードの携帯が志信からの着信で震えまくってる。ブルブルゆれる液晶の明かりで地面を照らしてしゃがみこむ。激しい動悸とカラカラの喉。周囲の木々が吐きだしてるはずの酸素を、オレの体はうまく取りこめない。
「し、ぬ」
 息もきれぎれ。この状況がいつかのなにかに似ている気がした。
 そうだ。オレは、むかし野犬に追いかけられたときのことを思いだした。
 小学三年生だった当時、オレは学校帰りに野生の本気から必死で逃げていた。近くにいる子供たちは命の危機を感じて、みんなオレから遠ざかった。そこにたまたま志信が通りかかった。走ってくるオレを背後に隠し、真正面から野犬にランドセルをぶつけた。挑発に成功した志信は、オレの代わりに追いかけられる対象となり、塀をよじ登って野犬を撒くことには成功したが、どこでぶつけたのか、ひじには擦り傷ができていた。
『たいしたことねーよ』
 オレがあやまろうとするより前に、志信はそう言って笑った。ありがとう、と言ったら、怪我をしてないほうの手で優しく頭を撫でてくれた。頬に落ちた涙を袖口で拭われた瞬間、オレは恋に落ちた。
 この人以外、誰もいらないと思った。その想いは、いまでもずっと変わらない。さっきは衝動的に志信に告白してしまったが、それで終わりというわけではないらしい。伝えたあとも、志信を好きという気持ちは少しも弱まらない。報われないオレの強い想いは、きっとこれからもさらにつのり続けるのだろう。
 志信はだだ漏れするオレの気持ちに気づいていたのかもしれない。幼いころからの長い片思いを知っていたから、告白したオレの気持ちを汲んでくれようとしたのかもしれない。
 あのキスは、志信からの最初で最後のプレゼント。恋人にはなれないけど、大切に思ってるよ、っていうメッセージ。
 しゃがんで深呼吸を繰り返していると、鼓動と息切れはしだいにおさまってきた。着信で震え続ける携帯電話をギュッと握りしめる。
 受け入れなければいけない。志信の相手はオレじゃない。大好きな志信の困った顔なんて、見たくない。立ち上がり、涙で歪む視界でまっすぐ前を見すえ、山を下りようと一歩踏みだしたとき、背中に視線を感じた。
 咄嗟に振り返った。真っ暗な山の中で、なにかが動く気配がする。野犬の恐怖を思いだして身をすくめた瞬間、山の奥でなにかがきらりと光った。
「人間? 誰……?」
 呟くと、光がゆれる。
 上村煙火の火薬庫付近に誰かいる。こんな夜中にいったいなにをしているのか。オレは光を目ざして山道をゆっくり奥へ進んだ。
「来ないで!」
 聞き覚えのある声がして、オレは暗闇に目を凝らした。ゆらゆらゆれる光は、小さな炎だった。
「なにしてるんですか!」
 オレは叫ぶと駆けだした。走るスピードを緩めず近づき、小さな手に握りしめられたロウソクを思いきり吹き消して立ち止まった。
「なにすんのよ!」
 カチャ、カチャと何度か音がして、小さな火花が目の前ではじける。やっと点いたライターの火の向こうに、満足げな理香の顔が見えた。直後、オレはまた火を吹き消した。そして理香の右手をライターごと両手で握りしめると、驚いたのか、暗闇でハッと息を吸う音がした。
「こんなところで火を点けたら、危ないです」
 オレは取り乱している様子の理香に、冷静な口調で説いた。震える息を吐きだした理香が、泣きだしそうな声で叫ぶ。
「危なくったっていいのよ。ここを爆発させて、死んでやるんだから」
「し、し、死ぬ!?」
 どうやら理香は火薬庫に火を点け、山ごと吹っ飛ばして自殺する気だったらしい。
 それはいかにも自由奔放な理香らしい自殺方法の選択だった。でも、頑丈なコンクリート壁と土堤で囲まれている火薬庫を、ロウソク一本で燃やすことは不可能だ。そもそも理香は、なぜ自殺なんかしようとしているのか。
「一緒に、帰りましょう」
「は? あたしは死ぬんだから帰らないわよ。夏生くんひとりで帰りなよ」
「いやです。理香さんの大切な人は、あなたが死ぬことなんて望んでません」
 いったいなにが不満なのか。志信に愛されているのにどうしてその体を捨てようとするのか。逃げられないよう握った手に力をこめると、理香はふっと体を弛緩させて笑った。
「なんで夏生くんがそんなこと言うの? いつもあたしたちの邪魔ばっかしてるくせに」
 志信が仕事場に理香を連れてくるたびイライラしていたが、彼女からしてみれば、せっかく恋人とゆっくり過ごそうと思って休暇をとってやって来たのに、その恋人の周りをちょろちょろ動き回って小姑のように小言ばかり言ってるオレのほうが間違ってると言いたいのだろう。相手の立場になって考えてみると、その言い分は正しい気がした。
 もしかしたら自分の存在が、理香の自殺原因の一部だったのかもしれない。ストレスを溜めこんでいたのは、オレのほうだけじゃなかったのだ。
「もう、邪魔しません。だから死なないでください」
 心をこめて伝えた。いくら天敵だからって理香が死んで嬉しいはずがない。
「ほんと?」
 理香の声に、少しだけ明るさが混じる。
「ほんとです」
「じゃあ、あきらめてくれるのね?」
「あきらめ……」
 どうやら理香もオレの気持ちを知ってるらしい。志信本人が伝えたのか女の勘で気づいたのかわからないが、志信をあきらめることを願っているのだから知ってることは確かだ。
「あきらめることはできません」
「なによそれ。もう邪魔しないって言ったじゃない」
「邪魔はしません。でも、気持ちは消せないから、これからもずっと好きなままです」
 あきらめられるのなら、あきらめてしまいたい。でも頭でどんなに考えても、気持ちはそこから動けない。正直に伝えると、理香がふざけんな、と高い声で叫んだ。
「好きなままじゃ意味ないのよ! あきらめなさいよ、いますぐに! じゃないと死んでやるんだから」
 そう言って、左手に持った火の消えたろうそくでビシバシ、オレの体を叩いてくる。
「痛っ! 理香さんには絶対、死なせませんから!」
 ぶたれながらもはっきりと宣言する。かつて野犬から身を守ってくれた志信のためにも、オレが命がけで彼の大切な理香を守らなければならない。
「死んだら絶対許しませんから。それでも死ぬって言うなら、オレが代わりに死にます。あなたが死んだら悲しい思いをする人がいることを、忘れないでください」
 オレの言葉を、理香は嘘だと鼻で笑ったりしなかった。火薬庫前の小さな常夜灯の明かりで、オレの右目から落ちた涙が見えたからかもしれない。
「なによ……。兄弟でバカみたい。血が繋がってんのよ、わかってる? 近親相姦よ? 変態よ? 弟がかわいい、弟ががんばってる、弟は料理がうまいぃー? 弟が弟がって、いい加減うるさいのよ!」
「…………は?」
 兄妹? 近親相姦? 変態?
 いったいなんの話だ。
 理香はわんわん声をあげて泣きだした。もたれかかってくる彼女を抱きとめていると、突然、目の前がピカーッ、と真っ白に染まる。
「な、に……?」
 暗闇から、光の世界へ。
 理香とオレは同時に顔を上げた。急激な明暗に痛むまぶたをなんとかこじ開ける。眩しいのはどうやら、懐中電灯の光のようだ。理香とオレは舞台上のトップスターさながら、丸い形のスポットライトを浴びていた。
「いた!」
 声が聞こえてすぐ、光から解放される。山道を駆けてきたのは志信と、昭兄だった。
「昭兄!」
「夏生、ただいま。遅くなってごめん」
 久しぶりに顔を見た喜びで思わず叫ぶと、となりの理香にふたたびろうそくで背中をはたかれる。その衝撃で咳きこむオレをおいて、理香は前方へと駆けていった。
「昭彦!」
 叫んだ理香が昭兄に体当たりする。二、三歩後ずさった昭兄は、体にしがみついてくる理香を両腕でしっかり受けとめていた。
「え」
 なにこれ。なんで昭兄?
 志信はなにしてるの?
 探す手間もなく目の前にやってきた志信に、鼻をつままれる。
「なに昭彦の名前だけ呼んでんだよ。俺もいるだろーが」
「んーっ」
 そのまま左右にゆすられて、オレは必死で抵抗し、両手で志信の指を鼻からはずした。
「どうした、これ」
 濡れた頬に志信の乾いた指が触れる。涙の理由を聞きたいらしい。
「理香さんが、死ぬとか、言うから」
「ああ」
 ああって。なんでそんなに冷静なの?
「それより理香さんは……」
 理香はさっきと変わらず昭兄にしがみついたままだった。呆然と二人を見つめていると、となりから大きなため息が聞こえてきた。
「ああ、やっと解放される。これで一件落着だな」
「へ?」
 一件落着どころか、オレの目の前は問題だらけなのだけど。昭兄と理香のこんな場面を見て志信が傷ついてるんじゃないかととなりをこっそり見やると、なぜか妙にすっきりした顔がオレ見返してきた。
「俺がこっちにいる残りの時間、昭彦は理香の相手で忙しいから、夏生は俺といろよな」
「なに、それ。しのは平気なの?」
「なにが?」
「だって、理香さんと付き合ってるのに」
「はあぁ? おまえまだ信じてたのか。おばちゃんたちのウワサ話」
 うわー、とオレの顔を指さして、志信が心底あきれた顔をした。
「理香が付き合ってる相手は、俺じゃなくて昭彦だよ」
「え……?」
 オレをさしてた志信の指が、前方の号泣する理香をなぐさめる昭兄のほうに移動する。
「ショック?」
「え…………?」
 想像もしていなかった事実を告げられてぼんやりしてるオレに、志信はちょっとふてくされたような顔をしてみせた。
「なにが?」
「大好きな昭彦とられて」
「それは、べつに、ふつう」
 ショックというよりも、ただただ驚いていた。理香の恋人が、志信じゃなく昭兄のほうだったなんて。ショックなのは、昭兄が恋人の存在をオレに隠していたことくらいだ。
 不満げな顔で前方の二人を凝視していたら、オレの視線に気づいたのか、昭兄が理香の手を引いてこっちに向かってきた。
「ずっと、夏生には言おう言おうと思っていたんだけれどね」
 オレの言いたいことがわかったのかもしれない。昭兄は困ったように笑いながら頭をかいていた。
「理香とは小学校のころからメールでやりとりしていて、大学に進学して東京に住むようになった二年前から、付き合い始めたんだ」
「そう、だったんだ……」
 三角関係の結末を、オレは勘違いしていた。理香は志信ではなく昭兄を選んでいたのだ。
 小学生のころ、理香の話をすると口を閉ざして不機嫌になるオレを見て、昭兄は弟が自分の好きな人を嫌っていると思いこんだ。そして大学生になって理香と付き合うようになっても、またオレが不機嫌になるんじゃないかと懸念して、この話を打ち明けられなかったらしい。たしかに三角関係のウワサを耳にするたびに、イライラしていた記憶がある。オレは恋心を自覚する前の小学一年生のころから、理香のことを、志信を誘惑する恋のライバルだと一方的に決めつけていたのかもしれない。恐ろしい子供だ。
「とにかくそういうこと。昭彦はあたしのなんだから、あきらめなさいよね」
「あ、はい」
「なによ、そのあっさり。さっきはあきらめられないとか言ってたくせに」
「それは、勘違いしてたから」
「勘違いって?」
「だから……。理香さんの恋人は昭兄じゃなくって、しのだと思ってたから」
「は?」
 驚き顔の昭兄と理香の視線から逃れるようにうつむく。
 すべては自分の撒いた種だ。
 小学生のころの理香を嫌う無自覚なオレの態度が、いま現在、昭兄から恋人を紹介してもらえないという結果を招いている。二人が付き合っていることを知っていれば、こんな勘違いをしなくて済んだのだ。
「じゃあ、夏生くんが好きなのって、志信なの?」
 あっけらかんと理香に尋ねられて、オレの体はピシッと凍りついた。
 なにこれ。ここで発表しないとダメなことなの? というか、この状況おかしくない? なんで深夜の火薬庫前に、用もない四人が集まってるの? おかしいって。おかしいおかしい、いますぐ帰ろう。
 回れ右をした直後、志信に首根っこを引っとらえられる。
「言え、昭彦の前で俺が好きだと言え!」
「いやだ、言わない言わない離してーっ」
 うしろから長い腕でギュッと抱きつかれ、真っ赤になって暴れるオレを、理香のとなりの昭兄が仏のような笑顔で見守っていた。





夏待ち恋花火(8)R-18【終】

 理香が子供をおろしたというウワサは、当たらずといえども遠からずだった。
 理香は昭兄とのあいだにできた子供を両親におろせと命令され、家で毎日ケンカをしているうちに流産した。塞ぎこんでいる彼女を志信に預けて休暇を取らせてるあいだに、昭兄は東京で理香の両親と話し合いをしていた。最初のうちは家の中に通してももらえなかったが、毎日かよいつめ、真摯な言葉を伝えて謝罪することで、このさきも二人が付き合いを続けることを認めてもらうことができた。そして両親は理香本人とも仲直りする、と約束してくれたという。どうやら志信は帰省が大幅に遅れた昭彦の代理で、彼女の水子供養に付き添っていただけだったようだ。
 明日の朝、父さんに話をするという昭兄と理香は上村家に帰宅し、二人きりにしてやろう、という志信の提案を飲んで、オレは東島家の門をくぐった。志信の部屋で用意してもらったレモンスカッシュを受けとり、オレは緊張を隠してなにげなく話しかけた。
「でも、昭兄みたいな真面目な人が、避妊に失敗するなんて、なんか意外」
「ああそれ、理香がコンドームに針でプスプス穴開けてたからだって」
「あ、あ、穴!?」
「結婚したいって逆プロポーズしたら、弟が一人前になってから、って保留にされたらしい。その腹いせだ、って理香が言ってた」
「は、は、腹いせ!?」
 昭兄は、本当なら跡を継ぐ立場である自分が進学したことで、オレに選択の自由がなくなったことをどこかで悪いと思っていたのかもしれない。オレが一人前の花火職人になるまで、昭兄は結婚しないつもりだったらしい。
 オレはちゃんとやりたいことをやってるから、好きなときに結婚していいよって、明日会ったら言おう。と、そんなことより―
「昭兄、全然悪くないじゃん!」
 ちゃんと避妊してたのに理香の両親に責められて、理不尽だ。
 レモンスカッシュを飲み干して、空のグラスをカン、と音を立ててテーブルに置いたら、志信が膝歩きでこっちににじり寄ってきた。
「な、に?」
「まあ悪いのは理香だけどさ、俺ちょっとわかるんだよな、理香の気持ち」
「どういう、こと?」
「上村兄弟さ、仲良すぎだろ。夏生が俺に話しかける内容の、三分の一は昭彦だかんな。たぶん兄のほうも同じ」
 理香が言ってた、いつもあたしたちの邪魔してる、というのは、昭兄の会話の中に出てくるオレのことをさしていたのかもしれない。理香に嫌われている理由が、なんとなくわかった気がした。
「さっきも理香、死ぬとか言ってたろ? あれも昭彦にかまってほしいからなんだぜ。昭彦の携帯に今日中に来ないと上村煙火の火薬庫燃やして死んでやるって、すげー具体的なメール届いたらしいから。本気で死にたいやつはメールなんか送んないで勝手に死ぬって」
 どうやら昨日電話で、昭兄と理香はオレのことでケンカをしていたらしい。なんだか話を聞いてると、理香に対して申し訳ない気持ちがムクムクとわいてくる。
「俺も夏生が昭彦の話ばっかするから、勘違いしてたけど」
「しのもオレが昭兄を好きだと、思ってたの?」
「ああ、だっておまえ昭彦の話するとき、顔真っ赤になるじゃん」
 それはたぶん、志信にドキドキして赤くなってるのをごまかそうとして、関係のない昭兄の話をしてたのだと思うのだが。
「でも、夏生は俺が好きなのな」
 大きな手のひらが視界に映ってすぐ、頬に触れる。心音が少しずつ速まって、オレはなんとかそれに気づかないふりをしようと視線を下に落とした。
「昭兄、なにしてるのかな」
「ケンカ売ってんの?」
 さっきのいまでさっそく昭兄の話をするオレを志信が笑う。冗談でやってるのだと思われたみたいだけど完全に素だった。志信の手が触れてる頬が熱い。でも触れてないほうも熱いから、たぶん顔は真っ赤に染まってるはず。ゆっくり近づいてきた顔を反射的に手で止めると、志信が不機嫌そうに唇をゆがめる。
「なんだよ」
「理香さんのことは、いいの?」
 そう、志信は三角関係の敗北者なのだ。
「俺が理香に気があるって、本気で思ってんのかよ」
 まっすぐオレを見つめる瞳が、志信の気持ちをはっきり物語っている。いつも照れて目をそらしてばかりだったから気づかなかったけど、ちゃんと見つめ合うとわかってしまう。志信に、愛されてるってことに。
 でもオレは、そんな突然発覚した両想いにびびってしまって、悪あがきを始める。
「だって一緒に住んでたし、いっつも打ち上げの現場に理香さん連れてきてたし」
「昭彦がしっかり見とけって言うから、仕方ねーだろ」
「それに、理香さんをこの町に連れてきた理由も、嘘ついてたし」
 それは、昭兄が理香との交際をオレに内緒にしていたため、本当のことを言えない志信は嘘をつくしかなかったのだとわかっていた。
「理香を連れてきたのは、おまえに焼きもちやかすため、ってやつ?」
「そうだよ」
「で、夏生はやっぱあのとき、理香に焼きもちやいてたわけ?」
「そ、れは…………」
 言い返そうと意気込んだけど言葉は続かない。もともと暗い性格だけど、今年の夏のオレはいつにもまして陰気で後ろ向きで疑り深かった。それは、志信がかわいい女の子なんか連れてきたから。焼きもちをやかなかった、なんて大それた嘘はいくらなんでもつけない。
「なあ、言って? 焼きもちやいた?」
「言いたくない」
 絶対言わない。
「昨日、誰のこと考えながら、ひとりでしてたの?」
「最っ低ー、いやだもう」
 志信の前から逃げようとすると、ふわっと体を抱きしめられる。
「離して、よ」
「むくれんなよ。いじわる言って悪かったって」
 そう言って顔をのぞきこんでくる。サルみたいに真っ赤に染まってるはずの顔を見ても志信が笑わないでいてくれたから、オレは抵抗しないで目の前の真摯な視線を受けとめた。
 志信はなんで、こんな暗い性格のオレなんかが好きなんだろう。
 キスされる直前、ふと思った。唇同士がくっつくと心臓がきゅー、としぼられて、固くつむった目の裏に涙がたまっていく。
 たぶん、オレがいじわるな志信を好きなのと同じ理由で、志信も根暗なオレが好きなのだろう。なんの根拠もない、ただ特別だっていうだけの感情。オレは志信だから好きで、志信はオレだから好き。
 唇が触れあっているとわかる、この人じゃなきゃダメだっていう感覚。
「ベロだして」
「んぇ…………、ひぃ、ぁ……!」
 言われるままにだした舌を歯で噛まれる。そのままじゅるじゅる吸われて、オレは変な悲鳴をあげてしまった。恥ずかしくて胸を押し返そうとしたら、その右手をぎゅっと握りしめられる。まだ左手が空いていたけど、オレはもう抵抗することをやめた。
「ん……、んーっ」
 キスが気持ちいい。
 ひらきっぱなしの口の中に潜りこんできた舌が、ぬるぬると動きまわる。少しだけ残っていたレモンスカッシュの後味は、あっという間に志信の味に変わってしまった。耳にぬくい指が触れると、腰の奥が疼きだす。オレの脳の中の理性をつかさどってる器官が、仕事をやめてしまったみたいだった。
「しの…………」
 離れてゆく唇を目で追ってつぶやくと、志信は顔を傾けて、愛おしそうに俺を見た。
「ベッドいく?」
 もう、我慢ができない。怖いし恥ずかしいけどなんとかそれを押し隠してうなずく。志信がすごく嬉しそうな顔をしたからそれだけで、ああもうなにされてもいいやって思った。

 普段はいじわるな志信が、ベッドの中ではものすごく優しい。好きにしていいから、って言っても、いちいち気遣いしてくれる。
「ア……ん、もうっ」
「痛いか?」
 しゃべってもまともな声は出てこないから、首を横にゆらすことで答える。
 志信は、昨日のことを反省しているのだと言った。手首を拘束されたオレは泣きそうな顔で志信を見上げていたらしく、そういう顔をされるとさらに暴走してしまいそうになるから、甘々に優しくして、オレが怯えないよう気持ちのいいことだけをするのだと。
 怯えた顔をすれば、志信は理性を手放してくれるだろうか。長い指に尻の中の粘膜をこすられながら、オレは朦朧としながら思った。
 はじめは一本だった指が、いまは二本。中でくるくる回したり、一点に圧力をかけてゆらしたり。色んな場所に触れては、オレの反応を見る。時間が過ぎてゆくにつれて、志信はオレの気持ちのいい場所を、的確に把握していった。
「アッ、んぁー……、もう、し、のっ」
「なに?」
「もう……、んっ、あ」
「もう?」
 わかってるくせに。
「なに? 言ってみ?」
 優しいって思ったの撤回。やっぱり志信はいじわるだ。
「いれて、よ」
「なにを入れてほしい?」
 そしてど変態だ。でもそんなエロエロなことを王子様みたいな顔で言うのだから、困る。
 首をかしげながら、空いた手でツンと尖った乳首をクニクニさわってくるから、もうオレはやけくそで志信の頭をつかんで引き寄せ、耳に直接、入れてほしいものとやらを囁いた。
「夏生エロいー」
「しのが、言えって」
 恥ずかしいのを我慢して言ったのにこの仕打ち。唇を尖らせていると、かわいいって言われてキスされて、そんな簡単なことでオレの怒りはしゅるしゅるしぼんでゆく。
 大きくなった志信の先端が、オレのほぐされた入口にあてがわれる。
「息吐きな」
「ふ、わ…………、んぁあ……っ」
 身体が志信に支配される。入ってきたものを飲みこもうとする粘膜が、締めつけながら志信を奥へと導いてゆく。
「き、ついな」
 全部おさまったところで、志信がつらそうに眉を寄せた。緩めなきゃって思って下半身に意識を集中しても、初めての経験でうまく内部の収縮をコントロールできず、内ももが震えるだけだった。
 おなかの中がいっぱいでもうなにも考えられない。口を開けて浅い呼吸を繰り返してると、志信が汗で湿ったオレの髪にキスをする。
「夏生、痛い?」
「……くない」
 志信のほうが、苦しそう。
 手を伸ばして志信の頬を撫でると、安らかな表情で目が閉じられる。愛おしいその顔を引き寄せ自ら口づけると、触れた志信の唇がふっと笑った気がした。
「ん、ふぅ……、ンっ」
 キスが深くなると、オレの内部に変化が起こる。うねりだした粘膜に、志信のものが押しだされ、また入ってくる。
「ゃ……、あ……っ!」
 硬い先端が奥にぶつかると、唇が離れて声がもれる。そうやってぬくぬくとゆらされ続けると、もうたまらなかった。何度も何度も奥を突かれて、頭の中がぽやんとピンク色に染まってく。
「あー……、んぁっ、やっ……ぁ」
「夏生……、いきそう?」
「いっちゃうっ、よー……」
 恐怖にも似た快感に怯えていると、志信が宙に浮いた右手を握りしめてくれた。いっていいよ、って言われた気がして、オレは体感したことのない快楽に包まれながら、志信より少しだけさきに果てた。


 ベッドの中からガラス越しの晴れた空を眺めていると、となりで眠っていた志信が、んーと呻った。
「夏生、起きてんの?」
 寝起きのかすれた声がして、背後から腰に長い腕が巻きついてきた。
「おはよう」
 ドキドキを隠したまま振り返らないで声をかけると、うなじにキスが降ってくる。少し前までうるさかった蝉の声が、もう聞こえない。夏は終わろうとしている。
「いつ帰るの?」
「あと一週間くらいいる。昭彦も来たばっかだし、みんなで遊ぼうぜ」
「うん……」
 うなずいてみせたものの、一緒にいられる時間の短さにがっかりしていたら、志信が背後からオレの顔をのぞきこんできた。
「それとも二人きりでずっと過ごす? 一週間、朝も夜も関係なしでやりまくろっか」
「最っ低」
「痛い痛い」
 キュッとTシャツの上から乳首をつままれて、オレは背後の志信の胸にひじ鉄を食らわせた。こっちはしんみりしていたというのに、なんてデリカシーのない男。
「冗談だって。こっち向いて?」
 肩をゆらされて、真っ赤な顔をうつむけたままころんと寝返る。
「寂しいな」
 真摯な声に顔を上げると、志信と目が合う。まっすぐ見つめてくる瞳に、嘘はない。同じ気持ちでいてくれることが嬉しくて、微笑みながらうなずく。
 志信が優しく髪を梳いてくれる。温かい胸に顔をうずめると、また眠たくなってきた。
 夢うつつで微睡みながら、思う。
 これからさきはきっと、志信のいる夏が大好きになる。





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プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
BL小説投稿生活中。ブログ内の文章の転載を禁じます。

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