ひみつのきもち(1)

 車が行き交う大通りから一本なかに入った裏通り。夕方五時を過ぎたころに店先のレトロなランプに灯りが点る、グリルトメキチというふざけた名前の小さな洋食屋がある。
 約半年前のオープンから少しずつ客を増やし、予約が取れないとまではいかないけれど固定客はそこそこつくようになっている。
 俺は二カ月前、ちょうど高校二年に進級したばかりのころ、オーナーシェフに声をかけてもらったのをきっかけにして、この店でのウェイターのアルバイトを始めた。
 開けるたびに音のするベルのついた扉から、店の外に木製の椅子を運びだす。これが晴れた日の俺の最初の仕事。店先に置いたその椅子に座って、大人の背中くらいある大きさの黒板に今日のおすすめメニューを書いていく。字が綺麗だから、と言われたのが嬉しくてまたほめられたくて、崩さず丁寧にバランスよくを心がけて書く。
 となりの花屋のねえちゃんが店から出てきて、いつものように「おすすめ、なに?」と聞いてくるから、あらかじめ渡された紙の内容を読み上げた。
「えびのクリームコロッケかぁ、食べたーい。おじゃましよっかな」
「でもセットで二千円、高いよ」
「トメキチの看板少年がそんなこと言っちゃだめよ。二千円もするけどお腹一杯になる量ですってハッタリでも言っときなさい」
「お前らな~」
 店先での会話を聞きつけて、なかから真津さんが出てきた。
 スラリとした長身で、ちょっと軟派で軽薄そうな顔立ち。ぱっと見、夜の世界でもやっていけそうだけど、コックコートを身にまとったその立ち姿がどうにもしっくりきてしまうところが手におえない。黙っていても人を惹きつける見た目をしているくせに表情の変化が多彩で、格好つけることなんか興味がないとばかりに大口開けて笑ってしまうような人。
 二十四歳という若さでこの店の調理場を切り盛りするオーナーシェフだ。ちなみに俺にウェイターのアルバイトを勧めてくれた人で、俺の好きな人でもある。片想い歴八年。
「だってみっちゃんが値段が高いとか言ったらお客さんだーれも注文しなくなって、せっかく仕込んだ食材たちが腐っちゃうじゃないねえ?」
「あのなー、あんたが気にすべきはそこじゃないんだって。聡は充宏におかしなこと吹きこむなって言いてーの」
「祐輔、外では絶対に聡って言うなって言ってんでしょっ」
 目をつり上げた花屋のねえちゃんがどすのきいた声で真津さんに詰め寄る。花屋のねえちゃん(って呼ばされてる)はいま流行りのオカマちゃんだ。三六〇度どこから見ても女性にしか見えないのがすごいと思う。
 幼なじみ同士の真津さんとねえちゃんがまだ口汚い言い争いを続けているので、俺は座っていた椅子にそっと書き終えた黒板を立てかけて二人の後ろをすり抜けようとした。
「ちょっと待て。みつも値段が高いとかめったなこと外で吹聴するなよな」
「わかってる」
 本当かよ? と念押しされて無言でうなずいた。
「相変わらずしゃべんねえなお前。昔はペラペラペラペラあほみたいに饒舌だったのに」
 あほは余計だ。言い返すかわりに上目遣いに睨んでみると、真津さんは切れ長な目元を歪めて少し残念そうな顔をした。昔の、小学生だったころの俺のほうが、真津さんは好きなのかもしれない。
「なに考えてんのかなーって思ってたんだよ、それだけ」
 俺の不安を読み取ったのか、なんにつけても勘のいい真津さんはフォローするようにそう付け足した。
 大人と子供の関係、だと思う。いつまで経っても縮まらない七才の年齢差。そういうのがことあるごとに俺に降りかかってきて、いい加減いやになってくる。
「なにも考えてなんかない」
 結局、言ったそばからこんなことしか言えないんならしゃべらないほうがいいのかもしれない。
「仙人かお前は」
 真津さんのツッコミに大笑いしているねえちゃんに冷たい視線を送りながら店のなかに戻る。後ろ手に閉めようとした扉を途中で真津さんが止めた。まだなにか言いたそうな顔をしたのをそのまま放ったらかしてずんずん奥へと向かっていく。
 可愛げのない行動だとはわかっているけれど、真津さんを前にすると俺は取り乱してなにひとつうまくできない。意識すればするほど酷いことになっていく。無邪気に接していた昔の自分が羨ましくもあるけれど、大好きな真津さん相手に緊張しない幼い自分が空恐ろしくもある。小学生のころの人格が、まるでいまの自分とは別人のものなんじゃないかって時々思う。
「昔はなんであんな傍若無人な態度が―」
「傍若無人?」
 半地下の薄暗い部屋でテーブルワインの在庫表に手を伸ばした矢先、無意識だった独り言にかぶさるように背後から低い声が降ってきてバカみたいに飛びあがってしまった。
「でたっ」
「でた、っておまえね、俺は幽霊かよ……。咄嗟の反応は昔と変わんねーよな、みつ」
 笑いを含んだ声音に、まだオバケのほうがましだったと自分の間抜けな反応を後悔する。気が抜けない。
「足音くらいさせて降りてきてよ」
「はいはい、悪かったな。秘密のみっちゃんは俺に聞かれたくない独り言を在庫チェック中に漏らしてるんだ。って、数書き違えんなよ?」
「間違えるわけないよ」
 わざわざこんな言い方しなくていいのにと思ってもすべる口に脳は追いつかない。
「みつは真面目だもんな」
 うつむいた頬にちょっと驚くくらいひんやりしたものが触れて離れる。真津さんの手だ。水を使うことが多いからだけじゃない。その手はずっと昔からいつ触っても冷たかった。
 いまでは触れられるたびに「みつは昔から体温が高い」とからかわれるんだけど、この真津さんのスキンシップの多さがまた悩みの種だったりする。昔は自分のほうから真津さんにべたべた触ってたんだけど、俺が触らなくなったいまは真津さんのほうから触れてくるようになった。
 子供扱いのそれだとわかってはいるけれど、恋する相手に触れられると、身体はまるで拒否反応のようにいちいちビクリと震えてしまう。
 しゃべることも対面することもなにもかも制御不能の状態。それでも近くにいたい、離れたくないって思ってしまうんだからどうしようもない。


 グリルトメキチがオープンした半年前、ちょうど年の瀬のころ、俺は六年ぶりに真津さんと再会した。
 高校生だった真津さんは六年の歳月を経て、随分くだけた印象の人になっていた。といっても六年間も離れて過ごしたのだ。人間の記憶なんてどうにもあてにならないから、俺の気のせいなのかもしれないけど。昔の真津さんはもう少しだけ繊細というか、若い男子にありがちな潔癖さがあった気がする。怖いものなしの無邪気な小学生だった俺に対して、当時は真津さんのほうが一線を引いていた。
 高校を卒業した真津さんは調理師学校に入るため、この田舎町を離れ東京へと旅立った。
 「いつまで東京にいるの?」と尋ねた俺に、「二年で卒業する」と答えた真津さんの言葉が、二年後にはまたこの町に戻ってくるという約束に思えて、たいしたことじゃないんだと子供だった俺を安心させた。二年という歳月の長さがまだ理解できていなくて、その後辛い思いをした記憶がある。
 待ちに待った二年後、俺は当時、総菜屋を営んでいた真津家を訪問した。小さな店を二人で切り盛りするおじさんとおばさんはいつも通りの優しい笑顔で迎えてくれた。
 「ゆうちゃん、いつ帰ってくるの」と無邪気に聞いた俺に、おばさんは「あの子今度は外国行っちゃったのよ」と笑顔のまま答えた。まさかそんな答えが返ってくるとは思わず、そのままたっぷり時間をかけて固まったあと、俺は嘘みたいにひっくり返ったらしい。らしいって言うのは自分自身がそのことを覚えてないからで、おじさんとおばさんの証言によると、貼りついた笑顔のままみるみる青ざめていく俺の顔がちょっと怖かったという。
 その後二年、真津さんはイタリアのミラノにあるレストランで働いた。いいかげん帰ってくるのだろうと思ったころ、今度は東京にあるホテルのレストランに就職したと聞いて、出て行くとき「二年で卒業する」と言った言葉は、すぐに帰ってこれるという約束ではなかったのだと、俺はそのときになってようやく気がついた。
 真津さんがこの町を離れていた六年間、盆も正月でさえも一度たりとも彼が帰ってくることはなかった。その長い年月をかけて期待とあきらめを幾度となく繰り返し、すっかり憔悴してしまった俺は元気が取り柄だった小学生のころの面影もなく、無口で無愛想な高校生へと成長した。
 だから俺がこうなったのは全部真津さんのせいだ、って大声で言いたいんだけど、それはあまりに子供っぽい責任転嫁な気がしていまだ口には出せないでいる。
 小学生のころの俺は無条件に真津さんを好きだった。面倒見のいい斜向かいの総菜屋のお兄ちゃん。ときどきおいしそうな匂いがするのは店を手伝った証拠。愛想はいまほど良くはなかったけれど俺を見る眼差しが温かい。七つも下の子供ひとり相手に真摯に向き合ってくれてるっていうのが伝わってくる態度。
 毎日の小さなことがらが、いつからか俺にとってなににも代えられない大切なものになった。それは川の流れに逆らえないのに似た、ゆるやかであたりまえの変化だった。俺が真津さんに惹かれるのは最初から決まってた。能天気な小学生の俺は余計なことを考える頭も持ち合わせてなくて、釣り餌に一直線に向かう魚のごとく、仕組まれてんじゃないかってくらいアホみたいに惹きつけられたんだ。そして、無知な子供はまるで中毒患者のようにただ一人の男の世界しか見えなくなってしまった。他人事じゃないけど、かわいそうだと思う。
 一度認識してしまった感情をなにもなかったみたいに元に戻すのは難しい。引き返す道を忘れてしまったいまの俺は、先に進むこともできずただその場に立ち尽くすしかできないでいる。絶対うまくいかない未来に向かって笑顔で邁進していけるほど、もう気力も根性も残っていない。
 六年も俺を放ったらかしにした真津さんに対して、受け入れられないことがわかっているから突っぱねた態度をとってしまう。素直じゃない上に自己中心的。真津さんへのあてつけのようにひどい態度をとってるのはわかってる。わかってるのにその止め方がわからない。そんな悲惨な状態だけど、真津さんから離れることができない。アルバイトを辞めれば嫌われるような態度をさらけ出さずに済むのに、ずっと真津さんの近くにいたいと思ってしまうところが、もう救いようがなかった。





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ひみつのきもち(2)

 今日は朝からどんより重たそうな雲が上空を覆っていて、いかにも雨が降りそうな空模様だった。
「やっぱり……」
 上履きからスニーカーに履き替えて校舎の入り口へ向かう。すでに水浸しのグラウンドに、追い討ちをかけるような大粒の雨が、容赦なく叩きつけられていくさまを目のあたりにして呆然とする。
 六月になり梅雨入りが発表されてもしばらくは曇りの日が続いていた。久々の本気の雨に俺は傘を持って来なかったことを悔やむ余裕もなく、ただ視界に広がる光景と雨音に全神経をもってかれてて、背後に人が立っていることには全く気づいていなかった。
「ずいぶん長い間そこにいるけど、この雨、たぶん止まないよ?」
「あ―、どうも……」
 間の抜けた反応は陶酔していた時間を壊されてしまったことと、話しかけてきた相手が俺の苦手な人だったせい。
 美術の鳴海先生だ。美術は一年のときの必須科目で、当時彼に受け持ってもらっていた。
 肩にかかりそうな薄茶色の艶っぽい毛や血管が透けて見えるほど白い肌、くっきり大きな目に女性のような華奢な身体。見た目だけだと先生だとは誰も想像つかないだろう。洗練された容姿にざっくばらんで媚びない態度も相まって、女子だけでなく男子生徒からも好かれている。
 だけど俺は、この人が苦手だ。
「こんな時間まで補習かなにか?」
「はい」
「君だけ?」
「いえ」
 あらん限りのそっけない態度を貫く。手に持っている傘をさして、早く目の前からいなくなってほしい。
 潔癖なほどの拒絶の姿勢を示しているのに、鳴海先生は俺のそんな子供っぽさを無視していつも普通に話しかけてくる。
「傘、持ってきてないの?」
「大丈夫です」
 言ったあと、しまったと思った。一緒に入っていけと言われてもいないのについ先読みして図々しい答えを返していた。
「なにがだいじょうぶなの?」
「……いえ」
「雨もすごいしさ、僕の傘大きいから本多が入っても濡れないと思うよ?」
「…………」
 大丈夫です、と一度言ってしまったからその言葉はもう使えない。ほかにいくらでも断る台詞なんてあったのに、このときはバツの悪さからそのタイミングを逃がしてしまった。
 鳴海先生はそんな俺の気まずい葛藤を見抜いているんだろう。楽しそうに喉の奥で笑っている。広げた傘に俺のぶんのスペースを作られると、いよいよ断ることができなくなってしまった。

 校門を出てしばらくしても鳴海先生は特になにも話してこなかった。そんな沈黙の時間よりも俺は狭い傘のなか、ときどき肩どうしが触れるのがどうしても気になって仕方がなかった。
「本多ってスキンシップ苦手?」
 たったいま考えていた頭のなかを覗かれた気がして心臓が嫌な音をたててキュッと縮む。
「いえ、違いますけど」
「だよね。仲のいい友達とよくじゃれあってるし」
「じゃれあってはないと思います」
「ああ、相手が一方的にじゃれてるだけだな。でもそんな過剰なスキンシップも、きみは嫌がってない」
 雨が傘をはじく音はしだいに強さを増していく。水溜りを避けながら蛇行して歩いていると、目指す駅がはるか遠くに感じてきた。解放された外にいるのに、まるでこの傘のなかが二人きりの密室のように思えてしだいに息が苦しくなってくる。
「本多はさ、ぼくにだけ触れて欲しくないってこと?」
 無意識に離れようとする俺の肩をぽん、と軽く叩いて、鳴海先生は一度立ち止まりこっちを振り仰いだ。
「……違うと、思います」
 この質問に無言でいれば答えは肯定になってしまう。そうすると事は余計にややこしくなることは目に見えてわかってるから、俺はできるかぎり間を詰めてなんとか言葉を吐きだした。
「ならいいんだけど」
 俺の困惑なんかお見通しだと言わんばかりに鳴海先生は可笑しそうに笑いながら言った。
 どうしてだろう、といつも思う。他の生徒みたいに俺は鳴海先生を慕っていないのに、先生は校内で俺がひとりでいるときによく声をかけてくる。用事があるわけでもないのに今日みたいにどうでもいいような話をするためだけに。始めは丁寧に答えていたが、あまりにちょっかいをかけられるから、いつからかバカにされてるのかもしれないと、考えるようになった。
 そりの合わない生徒にわざわざ話しかける意図が俺には理解できない。きっと嫌いな生徒に対する軽い報復程度の嫌がらせなんだろうけど、そんなことしても時間の無駄でしかないのに。自分にあきらかに好意を寄せない子供なんてほっとけばいいじゃないか。
「君が離れていくと僕まで濡れちゃうんですけど」
 ぐるぐると内的思考に耽っているうちにも体は勝手に先生から遠のいていたらしく、その一言で俺は自分の左肩が傘からはみ出て冷たく湿気っていることに気がついた。
「すいません」
「いいえ、もっと早く声かけてあげればよかったね」
 そう言うと同時に腕を引っぱられて、俺は咄嗟に先生を押し返していた。少し驚いた顔で傘からすっかり出てしまった俺を見る。大雨に全身を打たれても、傘の外にいるほうがずいぶん居心地がよかった。
 やれやれといった表情で鳴海先生は再び傘に入れようとするから、思わず一歩後ずさった。
「風邪ひくよ?」
「先生、駅ですよね。俺、この近くに用があるから」
「こら、ちょっと―」
 くるりと踵を返すと制止する鳴海先生の声も最後まで聞かずに雨でけぶる視界のなか、俺は全力疾走でその場をあとにした。

「なにしてんの、お前」
「え、あ……、雨宿り」
「そんなずぶ濡れで?」
 ビニール傘を差した真津さんが呆れ顔で見下ろしている。手にはパンパンに膨れたスーパーの袋。今日トメキチは定休日のはずなんだけどなんで真津さんがいるんだろう。ボケーっと働かない頭で考えていると腕を引っとられて何も言わずに店のなかへ連れてかれた。
 鳴海先生と別れたあと、学校から駅に向かう途中にあるトメキチの前で足を止めた。こんなずぶ濡れの状態で世話焼きの花屋のねえちゃんに見つかると迷惑をかけるだろうから、そっと店の庇の下にしゃがみこんで息を整えていたら、そこに突然真津さんが現われた。
「とりあえず脱ぎな」
 真津さんに言われるまま、俺は店の玄関口で下着以外の衣服を全部脱いだ。投げてよこされたタオルで黙々と体を拭いていると、真津さんは俺の脱ぎ捨てた制服を持って店の外へ出て行ってしまった。
「び、っくりした」
 無人になった店内で思わず独り言をもらす。外の雨はまだやむ気配がない。照明の落ちた店のなか、全力疾走後に一度おさまった鼓動がまた少しずつ速くなっていく。
 まさか真津さんが定休日の店に来るだなんて思わないからいつも以上に心の準備ができていない。ハッと気づいてレジ裏に置いてある手鏡をのぞきこむ。
「うわっ、ぺちゃんこ、最悪」
「大丈夫、かわいいかわいい」
「わーっ」
 手鏡片手にパンツ一枚で雨に濡れた髪を整えているところに真津さんが戻ってきた。最悪。
「そんだけ短かったら濡れてても乾いてても変わんねーだろ」
 俺が張りのない髪を毎回必死でセットして店にやって来てることなんて知らない真津さんは、残酷にもそんなことを言ってのけた。
「金色のマッチ棒みたいでかわいいぜ」
「うるさいっ」
「わわっ、暴力反対」
 わざと顔を目がけて水を吸ったタオルを投げつけると思い通り真津さんの顔にぺったり貼りついて、俺は焦る真津さんを尻目に思わず声をあげて笑ってしまった。
「おー、ひさびさの笑顔」
「なに、それ」
「みつ昔に比べてあんま笑わなくなったからさ。八重歯もひさびさに見た気するわ」
 左右にある八重歯を両指でさされて思わず口を一文字に引き結んだ。笑わなくなったという指摘にそうかな、ととぼけることもできない。昔に比べて表情が乏しくなったことは誰が見ても一目瞭然なのだ。
「なんで髪、短くしたんだ?」
 真津さんが半乾きの俺の前髪に触れる。指は骨ばった見た目とはうらはらに、とても優しい感触がする。
 六年ぶりに会って、まず真っ黒だった髪色が金に近い茶髪に変わっていることを指摘されるかと思ったら、真津さんは俺の髪が短くなったことのほうに驚いていた。
「昔はこの丸いおでこがコンプレックスで前髪のばしてたのにな」
 今度は額を撫でながら真津さんが言う。
 そうか。そうだった。俺はくだらないちっぽけな悩みから日々起こる出来事まで、なにからなにまで真津さんにさらけ出していたんだった。
 あーいやだ。自己嫌悪。小学生のバカな俺を殴ってやりたい。でも昔の素直な自分が羨ましくもあって、そんな葛藤のなかで俺は思わず本音を口にしていた。
「変わらないから」
「ん?」
 意思をもった言葉を静かに口に出すと、タオルでバサバサと俺の髪を乱暴に拭いていた真津さんが不思議そうに顔をのぞきこんでくる。
「おでこは一生丸いままだから、観念してあきらめた」
 伏せていた目を上げると、真津さんは驚いたような顔で二、三度瞬きをした。その直後顔を逸らせたかと思うとはじけたように笑い出す。
「そっか、観念したか! あきらめたか!」
「なにがおかしいんだよ」
「いや、おかしくないって! わははは」
 レジカウンターをドンドン叩きながら笑い続ける真津さんの背中を俺もパシパシ叩いてみる。なにかのスイッチを押してしまったらしく、笑いのおさまらない真津さんをいいことに俺はここぞとばかりにその広い背中に何度も触れ続けた。
 触りたい欲求があるなんて自分でも知らなかった。でも触ることができてラッキーだなんてのんきに考えてると、息を鎮めた真津さんがくるりとこちらを向いた。振り上げた手のやり場がわからなくて固まってると、雨に濡れたわけでもないのにひんやり冷たい真津さんの指が宙を彷徨う俺の指に絡まされる。
「でも似合ってる。俺はいまのみつのほうが好きだぜ」
「どう、も」
 ほめられた、嬉しい。でも死ぬほど恥ずかしい。なんだこれは。よく考えたら俺パンツ一枚なんですけど。
 限界を超えてしまったみたいにバクバク鳴りだした心臓を持て余して、いまの俺の格好のおかしさを必死で真津さんに目で訴えた。
「かわいい、みつのおでこ」
 そんな俺の無言の懇願を無視して真津さんはそう言うと、一気に二人の距離が縮まった。額に一瞬だけ触れた柔らかいものは、真津さんの唇だ。そのことを理解して顔に血が昇るまで、ゆうに十秒はかかったと思う。
「なにするんだよ! おっさん」
「おっさんってちょっとひどくねえ? 俺まだ二十四なんだけど。ってか、おでこにキスくらい別にいいじゃん」
「うるさいよこの変態オヤジっ」
 嫌がらせのようにペタペタとわき腹に触れてくる真津さんを引きはがしながら、俺は必死でくすぐったさと得体の知れない高揚感と戦っていた。これじゃ本物の変態は俺のほうだ。
「ちょ、パンツは引っぱんないで! ギャーっ、俺の制服どこだよ、返せよっ」
「あー、いま 聡のとこで乾燥機かけてるからこれ着とけ、とりあえず」
 やっと正気に戻った真津さんに解放される。ほらよ、と渡された紙袋をひったくって急いで服を取り出す。なかから出てきた花柄のワンピースを手にした途端、俺の思考と体は同時に固まった。
「は? 知らないって! 俺じゃねえよ。聡にみつの着替えくれって言ったらそれ渡されたんだって、イテッ、いてーよ」
 無言で腕を振りまわして真津さんを追いかけていると、ふいに入り口の扉が開いた。
「あれ? みっちゃん、まだそれ着てないの?」
 デジタルカメラを手に入ってきた花屋のねえちゃんの顔目がけて、俺はワンピースを丸めて投げた。





ひみつのきもち(3)

 昼休みの教室は、雨のせいで異常な湿気と熱気に渦巻いていた。
 食堂に行く友人たちを見送って、自分の席でひとり弁当箱を開ける。そのなかの一角を占める、ハムときゅうりと新たまねぎの入ったシンプルなポテトサラダを確認して、思わず頬がゆるむ。これは昨日真津さんからもらったものだ。
 ずぶ濡れになった制服がまだ乾かないから、と言って真津さんは定休日のトメキチに俺を拘束した。ついでだから新作メニューの味見もしていけ、と有無を言わさぬ柔らかな強引さで、帰ろうとする俺を引き止めて。
 途中仕事を終えた花屋のねえちゃんも合流して定休日のトメキチは楽しい試食会になった。今日は給仕はいいから、と椅子を引いてもらった。甘やかされる感覚がくすぐったくて一人そわそわしていた。普段じっくり見ることのない真津さんの調理するさまを間近で見れる機会にもすっかり舞いあがって、後半はいつになく饒舌になっていた気がする。
 次から次へと運ばれてくる色とりどりの料理を空にして、最後はお腹がはじけるんじゃないかと思うほど満たされた。
 帰り際、真津さんに渡された小さなタッパー。中身は隙間なく詰められたポテトサラダ。
『自信作。店では出してないけど』
『え?』
『みつにおみやげ。冷蔵庫入れとけば明日まで保つから、本多家の明日の弁当のおかずにでもしてよ』
『いいの?』
『いいよ。それに、みつって舌も素直だから、俺けっこう信頼してんだぜ』
 舌が素直?
 よくわからなかったけれど信頼してるって言ってくれたし、そう言った真津さんが嬉しそうに笑ってたからたぶんほめてくれたんだろう。
 いまのところ、真津さんが気に入っているのは、俺の書く字とまるいおでこと素直な舌らしい。いちいち指折り数えたりするところが、自分でも卑屈だなって思う。
 まだ手をつけていないポテトサラダをドキドキしながら一口食べてみる。真津さんが自信作って言った理由がわかる、おいしい。なめらかな舌触りのシンプルな味だけど、家で出てくるのとは格段に違う。なにか秘密の調味料でも入っているのかもしれない。


 定休日の試食会の一件があってから、俺は真津さんとずいぶんまともに会話ができるようになっていた。と言っても昔ほどなんでも曝けだせるまでにはいかないけれど、それでも口を開けば悪態つくしかなかった以前に比べればマシになったと思う。
 ちゃんと話すと、真津さんは本当は変わってないんだって気づいた。社交的になったし、ためらいなくスキンシップなんてするようになったけど、中身は昔のまま。優しくて、気づかいが上手で、大らかで。一緒にいると包みこまれてるみたいな幸せな気持ちになる。
 意地を張らずに会話ができると楽しかった。真津さんは不器用な言葉を上手に汲みとって理解してくれる。伝えたいことの半分しか表現できない俺の言葉を、真津さんは想像力を駆使して読み取れる力があるみたい。
 きっとそれは誰に対しても働いている力で、真津さんと会話する人はみんな幸福になれるんだって思うと、少し気落ちしてしまうんだけど。こんな悩みも心が贅沢になってしまったから生まれるのかもしれない。


 その日はいつになく忙しかった。客は途切れず、そのわりにミスもなく順調に店は回転していた。
「そろそろ閉店時間だね、おもての看板おろしてきてくれる?」
 一組だけ残ったフロアを見渡して、俺は一緒に働いているアルバイトの先輩の言葉に返事をして外に出た。
 すっかり暗くなった空には、まばらに星が瞬いていた。空調の効いた涼やかな店内とはうって変わって、外はむしむしと湿気と熱で満ちている。じわりと首元に湧いた汗を手の甲で拭い、電飾スタンドの灯りを消したところで声をかけられた。
「もう終わっちゃいました?」
「はい、もう、今日、は……」
 コンセントを巻きとりながら立ち上がりかけて、中腰の姿勢で固まった。
「なんでこの人ここにいるの、って顔だね」
 鳴海先生は驚いて動けないでいる俺を見て、おかしそうに笑いながら言った。
「近くを通りかかったらさ、ガラス越しの店のなかにきみを見つけたから寄ってみたんだ。バイトしてることは知ってたけど、まさかここで働いてるなんてね」
「そう、ですか」
 カランと音がして扉が開く。最後の客を見送りに真津さんが外に出てきた。咄嗟にありがとうございました、と頭を下げると若いカップルはごちそうさま、と微笑んで大通りのほうへ去っていった。
「十時で閉店なの? この店」
「はい、ってうわっ」
「なにその反応」
 鳴海先生の質問に振り返った真津さんがひっくり返ったような声を出した。なんだこの過剰なリアクションは。
「なんでここにいるんだよ」
「通りかかっただけ」
 二人の会話を聞いて、素朴な疑問が頭に浮かぶ。
「知り合い、ですか?」
 興味津々の目で二人を交互に見ていると、真津さんがため息を吐いてなぜか面倒そうに声をあげた。
「知り合いの知り合いみたいなもんだよ」
「ひどいなあ。ちゃんと説明してよ、ぼくたちさ―、」
「待て、まてまてまて!」
 なんか真津さん、やけに焦ってるんだけど。というか普段予定外のピンチな状況にも動揺しない冷静な真津さんが、ここまで取り乱しているのを初めて見た気がする。
 俺に背を向け、鳴海先生の腕を肘でつついてなにやら口裏を合わせようとしているのが勘に触る。別に言ったっていいじゃん、とかあんただって困るだろ、とか。全部聞こえてるんだってば。
 ふう、とため息を吐いて振り返った鳴海先生が、譲歩したのか俺に説明する。
「そうそう。ちょっとした知り合いの知り合いみたいな関係なのよ、ぼくと祐輔さんは」
 祐輔さん? 知り合いの知り合いをファーストネームで呼ぶのか。
 探るような目を真津さんに向けると思いきり視線をそらされた。ショックで目を瞬いていると、そのとなりで鳴海先生がふっと息をはいて笑う気配がする。
「なんですか?」
 なんの考えもなしに口から言葉が飛び出てきた。クスクス笑う鳴海先生の手が真津さんの背中にさっきからずっと自然な感じで触れている。
「なんでもないよ」
 必死で笑いをこらえながら答えた鳴海先生の手を真津さんの背中から引きはがして、俺は無言でひとり、店のなかへ引き返した。

「なんなのあの人。なんで真津さんと知り合いなわけ?」
 ゴミ袋を提げて裏口を出たところで我慢できずに発した声は、憎しみに満ちた罵倒となった。吐き出すことで楽になろうと思って口に出したのに、空気を震わせた言葉は罪の意識しか残してくれない。好き嫌いははっきりしているが、嫌いだからといって陰口を叩いたりすることなんてしなかったのに。
 人が聞いていないからといっても許せない。自分で言って自分の耳が受け取った汚い言葉。罪悪感に苛まれながらもまだ体のなかにくすぶっている怒りの炎。
 ゴミ置き場に袋を放して手のひらを見る。掴むものを失くした手はかすかに震えていた。一度目をつむって落ち着け、と呟く。
 完全に見失っている。俺は真津さんの彼女でもなければ彼氏でもない。ただの昔なじみで仕事仲間ってだけだ。そんな人間がなに一人前に嫉妬なんかしてるんだ。
 頭のなかを整理してクリアにしても、感情まではコントロールできないらしい。理解はできても体はゾクゾク震えて頭には血がのぼったまんまだ。
 真津さんの交友関係を俺は全く知らない。俺と離れていた六年間にいったいどれくらいの人と出会ったのだろう。印象が変わったと感じたのは、俺の知らないその人たちが真津さんを変化させたせいだ。
 そのなかに鳴海先生も含まれているんだ。それで俺の知らない時を一緒に過ごして、体の一部に触れていても触れられていても、お互い気にならないくらい親密な知り合いの知り合いになったのか。
 こめかみが凍ってるんじゃないかと思うほどひんやりしている。ぶるりと一度身震いをした。
「みつ?」
 声がしてハッと振り返ると真津さんが後ろに立っていた。驚きと動揺で瞬時に飛びすさった俺は自分の捨てたゴミ袋に足を引っかけてすっころんでしまった。
「大丈夫か? 派手に転んだな」
「大丈夫」
 笑いも誘えない転び方をした自分を呪う。怒りの感情に羞恥やら動揺やらが上乗せされて、頭のなかがぐるぐる回る。
 ほら、と自然に手を差し出されて思わず掴んだ。冷たい手のひらの感触に、脳がこれは真津さんの手だと認識する。と同時に俺はその手をはたいて放してしまった。
 パチン、と乾いた音がした。二人の間の空気が一瞬ひずむような、嫌な音だった。
「どうした?」
 険悪な雰囲気を変える優しい声。俺は真津さんと喧嘩をしたことがない。小学生のころ、一方的に怒りをぶつけることはあったけれど、向こうは取り合わなかった。ずっとこうやって甘やかされてきたのだ。
 鳴海先生にはどうだろう? 同じように甘やかしてあげるのかな、それとも感情をぶつけて喧嘩したりするのだろうか。
「どっちも、やだな」
「なにが?」
 こっそり呟いた言葉は真津さんの耳に届いたらしい。意味がわからないと問い返してくる声も、また優しかった。
 自分に与えられる無条件の優しさが、実は誰か他の人との共有物だった。わかっていたことなのに、具体的に想像するとお腹のなかがどす黒い嫉妬で埋まっていく。
 勝手に人と自分を比較して、勝手に嫉妬してるなんて知られたら、いよいよ真津さんに嫌われてしまうような気がした。こんな汚い心は見られちゃいけない。さっきの鳴海先生に対する八つ当たりのような自分の行動を思い返して、俺はやるせなさから抱えた膝に頭を埋めて呟いた。
「いまは真津さんと、冷静に話ができる気がしない」
「なんで?」
 消え入るようなかすれた声にもきちんと答えを返してくれた。砂利を踏む音がして、真津さんが少しだけ近づいたことがわかる。
「明日からは普通にできるから」
 聞き返された言葉には答えられないから答えなかった。自分の内だけに秘めておかなければいけない黒い感情。さっきみたいなヘマは二度としてはいけない。
「今日は、放っておいてほしい」
「わかった。今日はそっとしといてあげよう」
 明朗な声の、上から目線な物言い。その年上の男が言うには似つかわしくない奔放な子供みたいな発言に、顔は伏せたままで少し笑ってしまった。
「明日からは、こっち見て笑えよ?」
 約束だ、と確認するように自分の靴先に真津さんのそれがこつんとぶつかる。
「好きだよ、みつ」
 おだやかな声音に、一瞬なにを言われたかわからなかった。つむじのあたりにふっと温かな吐息がかかる。その直後、なにか柔らかいものが触れて離れた。キスされたのかな、と地面を見ながらぼんやり考えていると、いつのまにかそばを離れたらしい真津さんが「おつかれ、バイバイ」と言った声が遠くからかすかに聞こえた。





ひみつのきもち(4)

「ここは必ず試験に出すから覚えておくように」
 英語教師の一言に教室内がざわめく。と同時に授業終了のチャイムが鳴った。
「え、どこって言った? ここ? 本多くん」
「んー、たぶん」
 ぼんやり聞いていたからはっきりわからず、振り返って尋ねてきた前の席の女子に曖昧な返事をした。めずらしいね聞いてないなんて、と少しがっかりした様子で前に向き直った彼女の背中にごめん、となぜか謝っていた。
 派手な髪色をしてるのに比較的真面目な人、と俺は認識されているらしい。授業をいつも真剣に聞いているのは、放課後のアルバイトを終えて家に帰ってまで勉強する気になれないからなんだけど。そう思っていつも気合いを入れて授業に臨んでいるというのに、今日はなんど仕切り直しても気の抜けた風船のようにユラユラと思考がもっていかれてしまう。
 昨日、真津さんが店に戻ったあとも俺はしばらくその場にうずくまったまま動けないでいた。怒りと混乱で沸騰寸前だった頭に触れた柔らかな感触。好きだよ、と言った甘くとろけそうな声音が脳にぺったり貼りついて離れない。
 俺の怒りをおさめるための、まるで小さな子供にするみたいなものだとわかっているけれど、想い人からのそれは新たな動揺と羞恥と混乱を招いた。
 昔の硬派(?)な真津さんからは想像つかない。ふざけておでこにキスしたりパンツ引っぱったり、宥めるための手段に甘い言葉を囁いてみたり。
「こっちの心臓がもたないよ」
 今日がトメキチの定休日でよかった。昨日の今日で真津さんにどんな顔で会えばいいのかわからない。普通にしてればいいんだろうけど、その普通ができないのだ。
 帰り道、ぐるぐる考えながら歩いていると携帯電話が鳴って、母親から牛乳を買ってくるようにと命令された。この(頭が)忙しいときにって思ったけど、俺は遠回りをして格安スーパーに足を運んだ。火曜日はたしか、牛乳と卵が特売になる日のはず。
 灰色の空からいまにも雫が落ちてきそうだ。折りたたみ傘はカバンに入ってるけれど、風の強さから、きっと降りだしたら役に立たないだろう。
 急いで買い物を済ませ外に出ると、案の定コンクリートは黒く濡れていた。突然降りだした雨から逃げるように、街行く人が建物のなかに吸い込まれていく。
「仕方ない」
 遠回りしたことを悔やみつつカバンのなかを探っていると、首の後ろにひやりと冷たいものが触れた。
「わっ、なに?」
 首をすくめて振り返ると、そこには真津さんが立っている。首に触れた冷たいのは真津さんの手だった。
「なにしてんだ? みつ」
「お、おつかい頼まれて。真津さんこそなにしてるの」
 定休日でよかったなんて思ってたら、また偶然会ってしまった。
「俺は買い物。みつ学校帰りだろ? 雨なのにわざわざこんなとこまで来なくってもよくね?」
 わざわざ。真津さんの目線の先、牛乳一本だけ入った俺のレジ袋。
「今日ここ、牛乳安いから。雨もさっきまで降ってなかったし」
 言いながら自分がなんだか間抜けに思えた。たかだか五十円安いからってわざわざ遠回りして結局濡れて帰るのだ。ずぶ濡れになって帰宅することを考えたら、多少上乗せしても帰り道にあるコンビニで買ったほうがずいぶん得だろう。自分の要領の悪さに嫌気がさして肩を落とした。きっと真津さんもそう思ってる。
「じゃあ」
 すぐさまこの場を去ろうと折りたたみ傘を取りだした途端、それを横から奪われた。
「ちょ、なに? まっ、て」
 そのままスタスタと店のなかへ入っていく真津さんをなんだかわからないまま追いかける。
「かさ、返して」
 無言で人をぬって歩く後ろ姿を、雨で滑る階段で躓きそうになりながら必死で追っていると、地下の駐車場についた。
「送ってく」
「いいよっ」
 一瞬の隙をついて奪い返そうとした傘は、ナイトブルーのミニバンの助手席の扉から後部座席に放りこまれた。開かれたままの扉と無言の真津さんからの『乗れ』という圧力に負けて、俺はしぶしぶ助手席に乗りこんだ。

「真面目だよな、みつって。昔っからそういうとこは変わってない」
 車が発進すると真津さんは急に上機嫌でペラペラ喋りだした。俺はそんな真津さんの話を聞きながら、フロントガラスを濡らす細かい雨の粒をじっと見ていた。
「幼稚園のお遊戯会でみつ、木の役やったことあったの覚えてねえかな。木だから絶対動いちゃいけないって真面目だから思っちゃってさ。虎の役の大きい男の子にぶつかられて倒れても、木は自分で立ち上がらないからって、そのままじっと動かなかったんだぜ」
 俺がそのことを忘れていると思っているのか、真津さんは懐かしそうに話す。しかしいまでもそのときの記憶は、しっかり俺の頭のなかに残っている。その後、俺が頑なに動かないため、楽しいお遊戯会の場は一気に騒然となり、救急車を呼ぶ騒ぎにまでなってしまったのだ。
「それから、母の日に菊買ってきたり」
 ハンドルをがんがん叩きながら大笑いしている真津さんをひと睨みして、俺は助手席の窓に視線を移した。
 よくもまあそこまで嫌なことばかり覚えているものだ。俺が初めて母の日に送ったプレゼントは黄色い菊の花だった。母親の好きな色である黄色のカーネーションを買いに花屋に出向いたが、何軒回っても赤色しか見つけられなかった俺は、カーネーションで妥協すればいいところを黄色にこだわったため、母親にバカ、と罵られる結果になってしまった。
 いま考えればひどいことをしたとわかるけれど、そのときは喜んでもらえると思ってやったのにひどく叱られて、傷心を癒してもらおうと真津さんに泣きついたのだ。
「ほんと、バカだ」
 外の雨に向かって呟いたら、真津さんが横から俺の頭を撫でるように一度はたいた。
「バカじゃなくて真っ直ぐなんだろ? 人に喜んでもらおうと必死になりすぎて裏目に出ちゃうんだよな。その牛乳も特売で買ったほうが母さんが喜ぶだろうとか考えて、こっちまできたんじゃねーの?」
 なんでわかるんだろう? 驚いて真津さんを見ると図星、と笑って指差される。
「まあでもそんなトラウマ作ったら普通は嫌になろうもんだろうけど、みつは何度もくじけては同じ失敗をするんだよなー。喜ばせたいっていうエンターテインメント性と、真面目で融通利かないところが妙に噛み合ってなくておもしろすぎる」
 また笑ってる。実にさまざまな事件を起こしてきて、それを間近で見ていた真津さんは、俺にもわかっていない俺の性質をよく把握しているらしい。
「どうせ俺は真面目で融通きかないバカだ」
「そうやって自虐してみせても、また誰かを喜ばせたくなっちゃうんだろ? そういうの、優しいっていうんだよ。何度壁にぶつかってもみつは大切な人に対する優しさを捨てない。生まれつきで標準装備されてんのかもな」
 うらやましい、とひとこと言って真津さんは黙りこんだ。シートにもたれるフリをして横顔をそっと覗きこむと、彼は目を細めて笑っていた。
 真津さんの笑顔が好きだ。手を叩いて大笑いしてるのも、いまみたいにそっと静かに微笑んでいるのも。
 真津さんの言うとおり、俺は大切な人が喜んでいるのを見ると、とても幸せな気分になるみたい。
 とろんとした目を外に向ける。車は住宅街の入り口にさしかかっていた。雨の音に囲まれた密室の沈黙が心地よくて目を瞑ろうとしたら、真津さんが、あ、と声をあげた。
「そうだ、忘れないうちに言っとくわ。みつもうすぐ定期試験だろ? その期間とテスト前の一週間だけ、鳴海がみつの代理でシフト入ってくれるから。お前はしっかり勉強のことだけ考えていい点取れよ」
「え……?」
 気持ちよく浸っていた気持ちがパリンと弾ける。一瞬にして目の前が暗くなって、幸せに満たされていた心のなかがもやもや黒いもので埋まっていく。
「なん、で、鳴海先生なの?」
「なんかあの人、非常勤講師だからバイトできるらしいんだよな。昨日あれから電話かかってきて、暇だからやるって言うから頼んだだけ」
「知り合いの知り合いだから?」
「ハハ、まあ手伝ってくれるって言うから、いまは知り合いかな?」
 なにそれ。そう思ったけど口には出さなかった。昨日の今日で、独占欲丸出しの嫉妬なんてしたら、真津さんに嫌われてしまう。
「見知ってるぶん、お互い気つかわなくていいからな、他意はねえよ」
「ほんと?」
 すがるような気持ちで真津さんを見ると、横から長い腕が伸びてきて髪をわしゃわしゃかき混ぜられた。
「なに不安そうな顔してんだよ」
「なに、って……」
 それは口が裂けても言えない。俺の苦手な人が真津さんの知り合いで不服だとか、なんか二人が仲良さそうで嫉妬してるとか。言ってしまったらなにもかもが終わりになる。
 信号が青になるまで、真津さんはうなだれた俺の頭を静かに撫でてくれた。車が発進して心地いい感触が頭から離れても、胸のなかに湧いた小さな不安は消えてくれなかった。






ひみつのきもち(5)

「勉強はかどってる?」
 待ち伏せですか、って言いかけてやめた。試験前日の放課後、図書室を出て数歩歩いたところで鳴海先生に声をかけられた。周りに人がいないときに限ってなぜかこの人に遭遇する。
「しつれいします」
「待ってよ、トメキチのこととか気になったりしない? ぼくと真津さんが仲良く働いてることとか」
「気になりません」
 ゆく手を塞ごうと咄嗟に両手を広げた鳴海先生の腕を反射的に払い落とすと、その華奢な体は簡単にヨロリと傾いだ。
「意外に力強いね。細身で小顔なわりに身長もちゃんとあるし」
 何が言いたいのかわからなくて、見上げてくる視線をただじっと見つめ返していると、鳴海先生の方から視線を逸らして苦笑いをする。
 この人に比べれば誰だって健康そうで力もあるように見えるだろう。消えてしまいそうなほど白い肌と現実離れした容姿がどこか病的に見えて、散り際の花のように儚い。
「でも、祐輔さんのタイプじゃないね」
 目を逸らしたまま言った鳴海先生の言葉をよく把握できず首をかしげる。俺の反応を見てスッと戻ってきた視線はあきらかに挑発の色を含んでいた。
「祐輔さんはね、ぼくみたいに華奢で弱くて、一人じゃ生きていけないような男が好きなんだよ。いかにも健康優良児って感じのきみじゃ話にならないよ」
「なに言ってるの? 先生」
 女性ならともかく、男相手に守るも守られるも、タイプもそうでないもないだろう。
「彼がゲイだってことは知ってるよね?」 
 真津さんがゲイ? そんな話は聞いたことがないけれど、恋愛話じたい俺は真津さんとしたことがないから真っ向から否定することはできない。でも―
「どうして俺に、そんな話するんですか?」
 わからなかった。先生のことなんて信用してないけど、真津さんがゲイだということが真実であるにしろ嘘であるにしろ、なぜそんなことを関係ない人間から聞かされなければならないのだろう。
「どうしてだろうねぇ」
 わざとらしくあさっての方を向いて鳴海先生は言った。
 完全にもてあそばれている。俺が気になるように罠をしかけるくせに、答えを求めるとうやむやにはぐらかされる。苛立ちを抑えきれず下唇を噛んでうつむいていると、か細い指で顎を持ち上げられ強引に上向かされた。
「動揺してる?」
 挑発されているのだとわかっているけれど、俺はそれを適当にかわすような器用さをもち合わせていない。
「してますよ」
「祐輔さんのこと、好きなの?」
「好きで悪いですか?」
 手の内を見せない鳴海先生相手に、俺は持ってる手札をばらまいた。駆け引きの知らない子供なんてつつけばなんでも吐くと笑っているのだろうと思いきや、鳴海先生は驚いたように目を開いていた。
 なにをそんなにびっくりすることがあったというのだろう。真津さんを好きだと言わせるよう導いたのは、鳴海先生自身だというのに。
「ぼくにそんなことまで言っちゃっていいの? 祐輔さんにバラしちゃうかもよ」
「そうですね」
 何を考えているかわからない人間がどんな行動に出るかなんてわかるはずもない。真津さんを好きだなんて、鳴海先生に言う必要のないことだったとわかってる。でも俺はこんな、自分は無傷で相手の感情だけ引き出そうとするような、ずるい大人になりたくない。
 手元に残ったカードはない。もう鳴海先生に意地悪されることもないだろう。もし嫌がらせされるとしたら、真津さんにバラされることだろうけど、それもいまはどうでもいいと思えるほどこの無益な会話に疲労していた。
「先生、俺なんかと話してて、楽しいですか?」
 純粋に尋ねてみる。じっと目を見つめると、鳴海先生は困ったように笑ってから目を逸らし、少し寂しそうな顔をした。


 その一件以来、鳴海先生とは校内でばったり会うことはなかった。アルバイトを始めてから成績が落ちたなんて親に知れたら、いくら知り合いの勤め先だからって辞めさせられる可能性だってある。いつも以上に気を張って勉強に取り組んでいたため、トメキチで働いている真津さんや鳴海先生のことを思ったより気にすることなく二週間を過ごすことができた。
「真津さんにやっと会える」
 それでもテストが明けると集中力が切れて、二週間分の不足がどっと押し寄せてくる。急激に襲ってきた寂しさと、もうすぐ会えるという期待が交じり合って、朝から俺のテンションは異様に高かった。
 カランコロン、とドアについたベルが小気味いい音をたてる。二週間ぶりのトメキチの店内に少し緊張しながら足を踏みいれる。
 まだ開店時間までずいぶんあったけれど、久々だから仕事の勘を取り戻すためと言い訳する。本当は真津さんに一刻も早く会いたかっただけなんだけど。
 よく六年間も会わずに我慢できたなと思う。トメキチで働き始めて、真津さんとの距離が少しだけ縮まって、なんだか俺の心は贅沢を覚えてしまったみたいだ。いまは片思いでもなんでもいいから、ただ単純に顔が見たかった。
「あれ? いない」
 厨房で仕込みをしてるはずの真津さんがいない。花屋のねえちゃんとこかな、と振り返ったところにちょうど外から食材を抱えた真津さんが入ってきた。
「みつ早いじゃん。テストがんばった?」
「うん。また鍵かけないで出たの? 不用心にもほどが―」
「どうも」
 真津さんの後ろに隠れていた鳴海先生がひょこっと顔を出した。手には真津さんと同じように食材の袋が提げられている。
 試験期間をはさんで忘れかけていたが、この人は俺が真津さんのことが好きなことを知っているんだった。でも、普段と変わらない真津さんの反応からして、そのことを鳴海先生がしゃべったということはなさそうだ。
「なんで、先生が」
 今日からシフトに入るよう言われていたため、ここで鳴海先生と会うことになるとは思ってなかった。気まずさからつい真津さんを攻めるような言い方をしてしまって、後が続かず口を閉ざす。
「ああ、手伝ったから閉店後になんか旨いもん食わせろってうるさいからこの人。買出し行ってたんだ。しかし高級食材ばっか選びやがって、遠慮することおぼえろよ」
「いいじゃない、ぼく代打頑張ったし。だから本多、今日は帰っていいよ。今日までぼくが働くから。明日定休日だから次あさってね」
「あんたはなんでそういう言い方するかな」
 真津さんは困ったように頭をかきながらこっちに近づいてきて、座りな、と椅子を出して俺の肩を押した。ビクともしない俺の反応を訝しげに思ったのか、うつむいた顔を覗きこんでくる。
「どうした?」
「真津さんが試験の最終日に来いって言った」
「ああ、来てくれてありがとな」
 髪を冷たい手が優しく撫でる。触れられる感覚も久しぶりで、いまの状況も忘れて恍惚としてしまう。そんな至福の時間も鳴海先生のひとことで瞬時にぶち壊された。
「あーあ、ガキっぽい反応」
 呆れたような言い方に弛んでいた俺の全身は一瞬で凍りついた。どうしたって縮まらない真津さんとの年齢差は、俺の悩みの種だ。真津さんと対等になりたいと願いながらも、甘やかされるままに依存していることを指摘された気がして動揺した。
 顔を上げると鳴海先生と目が合う。揺れる瞳に俺の弱みを見出したのかもしれない。追い討ちをかけるように言葉が紡がれる。
「子供相手じゃ手も出せないよね、祐輔さんも」
「あんたいい加減にしろよ、ほんと」
「あれ? 子供もいけたんだっけ、祐輔さんは」
 鳴海先生のひとことに、真津さんはガックリ膝を折ってその場にしゃがみこんだ。その言葉が真津さんにとってのタブーだったらしく、うずくまって頭を抱えている。鳴海先生に目を向けると、こちらは勝ち誇ったように腕を組んでその様子を見下ろしていた。
 子供もいける、とか言ったよな。少年趣味ってこと? 鳴海先生が言ってた華奢で弱い男がタイプだってことが本当ならばそういう趣味であってもおかしくない。というか―
「真津さんがゲイだってほんとうなの?」
「はあぁー?」
 頭を整理しつつの素朴な疑問に過剰反応されて、俺はとっさに耳を手でふさいだ。しゃがんだまま見上げてくる真津さんは、瞬きを忘れたのか目をいっぱいに見開いて動かない。
「鳴海先生みたいに細くてか弱い人がタイプなの? それともやっぱり子供が好きなの?」
 質問しても答えてくれない。ただ口をパクパクさせて魚みたいになっているだけだ。
 頭のなかが混乱しきっているのに、欲しい答えは与えてもらえない。わけがわからなくなって口から出た言葉は本心だったけれど、その俺のひとことが開店前の店内の空間を一瞬にして歪ませた。
「子供が好きなんだったら、小学生のときに手を出してくれたらよかったのに」
 成長してしまったいまじゃもう遅いのなら、せめてあのころだけでも真津さんと結ばれたかった。そんな思いが無意識のうちに声になってこぼれてしまっていた。
 ハッとなって口を手で塞いだときには、鳴海先生は腹を抱えて机に突っ伏し、真津さんは俺を見上げた体勢のまま蝋人形のように固まっていた。しばらくそれぞれその状態が続いたあと、一番はじめに口を開いたのは真津さんだった。
「みつ。とりあえず、今日は帰んな」
 告げられた真津さんの言葉に背筋が凍った。ふたたび頭を抱えて深いため息を吐く真津さんを見て、自分はなんてバカなことを言ってしまったのだろうとさっそく後悔した。
「…………はい」
 喉の奥からなんとかしぼり出した返事はかすれて情けなく響く。優しい真津さんを困らせてしまった。
 一気に沈んだ心につられて体も鉛のように重くなる。それでもこの場にいることの居心地悪さからなんとか足を引きずってとぼとぼ入り口へ向かった。
「無駄足になっちゃったねぇ」
 鳴海先生のいるテーブルの横を通過するときボソッと呟く声がして顔を向ける。楽しそうに見上げてきた顔は、俺を見て驚きの表情に変わった。テーブルの上にポトリと涙の雫が落ちると同時に、腕で目元を乱暴に拭った。そんな俺を見て、なにかさらに声をかけようと伸ばされた鳴海先生の手を払い、そのまま店を飛びだした。

 午後の照りつける日差しのなか、電車も使わずできるだけ裏道を通ってトメキチから自宅までの二駅分を走った。通りすがる人がみんな俺を振り返る。当たり前だ。汗だくで泣きながら鼻水垂らして走ってる男子高校生になんてめったに遭遇しないはずだから。
 家に着くなりシャワーを浴びて自室にこもった。仕事から帰った母親が部屋の前から話しかけてきても、疲れたから寝る、とだけ言って扉を開けなかった。だってこんな状態じゃ顔も見せられない。家に帰ってからもずっと涙が止まらないのだ。しゃくりあげる声がひどくて、枕に突っ伏して布団をかぶった。喉がひきつって呼吸が苦しい。高校生にもなってこんな小さな子供みたいな泣き方をするなんて思ってもみなかった。
 真津さんから向けられた拒絶の反応。あの優しくていつも甘やかしてくれた真津さんが、俺のことをいらないって態度で示した。目も合わせてくれなかった。どうしてあんなこと口走ってしまったんだろう。
 久々に会えたことが嬉しくて、いつもより気が弛んでいた気がする。小学生のころからずっと好きだったことがこの一件ですっかりばれてしまった。しかも告白のセリフが『手を出してくれたらよかったのに』なんて終わってる。もう救いようがない。
 きっと気持ち悪いって思われてる。もう普通にしゃべってくれないかもしれない。
「やだ……」
 そう考えるともう乾ききってもよさそうな目からさらに熱い涙が溢れてくる。
 どうして嫉妬なんてしたんだろう。なんで鳴海先生の挑発に乗ったりしたんだろう。ただ近くにいれるだけのことが幸せだって、どうして気づくことができなかったんだろう。
「バカだ俺。調子乗ったからこんな目に合う」
 この先ずっと真津さんに拒絶され続けることを思うとぞっとした。根が優しい人だから徐々に距離を開けられるのかな、なんて考えてまたボタボタと涙が落ちる。
 扇風機がカラカラ音を立てて回る部屋のなか、布団を頭からかぶって寒いはずなんてないのに体の震えが止まらない。いつまでそうしていたのか、いよいよ涙すら出なくなったころ、ひどい疲労が全身を襲ってそのまま泥のような眠りについた。





ひみつのきもち(6)

 低血圧で寝起きはすこぶる悪いという自覚がある。今日はそれに加えて頭がずしりと重く、目もぼんやりかすんでいる。夢うつつ状態のさきほどから家の呼び鈴が故障かと思うくらいピンポンピンポン鳴り続けていて、さらに気分が悪くなっていた。
「誰もいないの?」
 ふらつきながら階段を下りてリビングをのぞくともぬけの殻だった。父も母も仕事に出かけたあとのようだ。もう、と悪態をついて誰かも確認せず玄関のドアを開けた。
「おはよう、みつ」
 太陽の光を全身に浴びて真津さんが立っている。思わずここが自分の家かどうか確かめるため振り返ってしまった。なんで真津さんがうちに来るんだろう。
「そんなカッコで玄関出んなよ」
 ハッとなって足元を見るとズボンを穿いていない、パンツにTシャツ姿という間抜けな格好だった。覚えてないけど夜中に暑くて脱いだんだろう。
「髪も。寝癖すごいことになってんぞ」
 短髪のせいで朝起きるといつも四方に髪がとんでいるのだ。頭を手で押さえて見るなと睨むように見上げると、目があった瞬間、真津さんはひどく驚いたような顔をした。
「泣いたのか? みつ」
「え?」
 聞かれてはじめて昨日さんざん泣きはらしたことを思い出した。やっと意識が覚醒する。そうだ、昨日真津さんにトメキチから追いだされたんだった。
 思い起こすとまた目が潤んできて、必死でそれを隠そうと首をブンブン振って泣いてない、と主張した。
「目が真っ赤だけど」
「ぜんぜん泣いてない」
「声が嗄れてる」
「うるさい、なに? こんな朝っぱらから」
「もう昼前だぜ?」
 突っぱねるたびに返される的確な指摘に、うー、と唸って頭を抱えていると、あがってもいい? と真津さんが手に持った紙の箱を掲げた。
「サンドイッチ作ってきたんだ。一緒に食べようぜ」
 なに呑気なこと言ってるんだ、と口を開こうとするより先にお腹が鳴って、真津さんの笑いを誘ってしまった。
 顔を洗って髪を濡らし、待たせてはいけないから髪の毛にワックスをつけるのはあきらめてタオルでバサバサと拭く。冷蔵庫からペットボトルの水を持って自室まで階段を駆け上った。先に上がってもらった真津さんはまだ立ったままで俺の部屋を見回していた。
「楽にしててくれていいのに」
 クッションを渡すとどうも、とニコニコして受け取る。昨日の今日で、なんでこの人こんなに機嫌がいいんだ。訝しげに眺めていると真津さんは小さなローテーブルに着々と紙の箱を解体してサンドイッチを広げていく。
「おいしそう」
 色とりどりの具に目を奪われて、吸い寄せられるようにテーブルの前にちゃんと正座してしまった。こういう食べ物に釣られてしまう単純なところが自分でもまぬけだと思う。
「どうぞ」
「……いただきます」
 一つ手をつけると、あとはもう黙々と食べ進めてしまった。昨日の夜から何も口にしてなくてお腹が空いていたのもあるけれど、なにより、どの具のサンドイッチも味がカチっと決まっていて絶妙だったから、手を止めようにも止まらなかった。
「ごちそうさま。やっぱりおいしい、真津さんのごはん」
 プロのシェフなのだから当たり前なのに、また見当違いなことを言ってしまった。謝るほどでもないけど失礼なことを言ってしまって、どんより黙ってうつむいていると「でしょ?」と軽い調子で真津さんが調子を合わせてくれる。こういうところ抜け目ないんだよな、とか妙に冷静に感心している場合じゃなかった。
 真津さんがここに来た理由を想像して顔が青ざめる。呑気にサンドイッチを食べるためだけに来たはずはない。
 昨日の返事をしに来たのだ。傷ついている俺をそう何日も放っておけるほど、真津さんは非情な人間ではない。さっきのサンドイッチは真津さんなりの謝罪の気持ちをこめた差し入れだったんじゃないだろうか。
 沈黙の落ちた室内で一人この後の顛末を想像していると、泣きはらした目にまた新たな涙が浮かび上がってくる。泣いたりなんかしたら、きっと真津さんはそんな俺を見て俺以上に悲しい思いをする。
 絶対泣いちゃいけない、と眉間に力を入れて踏んばっていると、あっけらかんとした真津さんの声が重い沈黙を破った。
「毎日ごはん作ったげるからさ、みつ俺の彼氏になる?」
「ん……?」
 あまりにいつも通りの真津さんの声だったから、思わず顔を上げてしまった。でも様子が変だ。目がひとつも笑ってない。
「はぇ? …………はあ?」
 なに言ってるんだ、この人。見た目は真津さんだけど偽者かもしれない。動転しておかしなことを考えてるのはわかってても、不審げにじろじろと見つめてしまう。
「俺、実はずっとみつのこと好きなんだけど」
「は、え?」
「みつも俺のこと好きなんだよな?」
「き、昨日のことは、その、口が滑って、あんなこと言うつもりじゃなかったんだけど」
「好きじゃねーの?」
「す、好きだけど」
「じゃ、彼氏になる?」
「なに言ってるの?」
 彼氏って、俺のことが好きだって、そんなの嘘だ。そんな自分にとって都合のいい展開なんてあるわけがない。
「だって昨日、真津さん、俺のこと店から追いだしたじゃん……」
 告白したらドン引きされて、目も合わせずため息を吐かれた。
「あのなー、突然あんなかわいい告白されて両想いだったんだってわかって、俺がみつがいる場所で一日まともに働けると思ってんのか。ぐだぐだな仕事ぶりになることは目に見えてたから帰したんだよ。無防備な目で見つめてきやがって、あれから理性かき集めんの大変だったんだからな」
 あの告白をかわいいと真津さんは受け止めたらしい。相当な変わり者だ。それより、好きだと言うならどうして六年間も俺は放っておかれたんだ。やっぱりおかしい。
 首をひねってぐるぐる考えていると、ふっと息を吐いた真津さんの冷たい手が俺の頬に触れた。
「昔っからかわいくてさー、俺が高校生のときお前まだ小学生だろ? それは手出したらだめだろってどんだけ自分を戒めてたか。それなのにみつアホみたいに俺に懐いてただろ? 苦労したんだぜ」
 アホみたいって……。たしかにそのころからずっと真津さんが好きだったけど。
 手を出してくれてよかったのにと言われたところで、小学生に手なんか出せるわけがない。そう言って笑う顔がどこか痛ましげだった。だめだって、いけないことなんだって自分に言い聞かせてなんどもあきらめようとして、それでも思いは募るばっかりで。
「みつのいない世界で生きようって思ったけど、六年で限界がやってきた」
 離れて暮らして、あきらめられないことに気づいたと言う。この街に戻ってきて自分の店を構えることに決めたとき、真津さんは俺のことを時間をかけて口説く決心をしたらしい。それなのに俺が突拍子もない告白をしたから、予定が狂って混乱してるのだと説明してくれた。
 その内容は頭に入ってくるのに、まるでそれが夢物語みたいで現実のものとは思えない。
「それで、えっと……、真津さんは、小学生が好きなの?」
「あのなー……」
 俺の疑問にがっくり肩を落としてちゃんと聞け、と諭してくる。半分は照れ隠しだったけど、半分は本当にわからなかったのだ。昔は元気で可愛げもあったけど、いまはすっかり憔悴してる根暗な高校生なのに。
「俺は、小学生が好きなんじゃなくて、みつが好きなんだ」
 小さい子供にわからせるように、真津さんは俺の頬を両手で挟んで言った。
 もうずっと昔からで、好きな理由を挙げつらねろって言われたら言えるけど、たぶんそんなことじゃなくて、嫌いになる理由が見つからないだけで、無条件にただ好きだって。
 真津さんが言う俺を好きな理由は、俺が真津さんを好きな理由と似ている。でも真津さんもそういうふうに自分を好きだというのが、どうしてもピンとこない。プクッと頬を膨らませていると、真津さんは困ったようにそっと笑った。いとおしむようなその表情のなかに、真津さんの緊張が透けて見える。再会してからはこんな顔を見ることもなかった。
 昔はよくこういう表情をしていた気がする。なにも考えず無邪気に問いかけたとき、かまって欲しいと手加減なしにまとわりついたとき。真津さんはいつもそうやって曖昧に笑って見せた。相手の迷惑を顧みることも知らない小学生の俺は、そんな真津さんの困ったみたいに笑う顔が好きだった。
「久々に見た、そんな笑い方するの」
「大人になって、取りつくろうことを覚えたからな」
「俺も変わったでしょ? 昔とぜんぜん違う」
「そう思うのか?」
 だってそんなの誰が見ても一目瞭然だ。
「真津さんも俺のこと、昔はペラペラしゃべってたのにって言ってた」
「そうゆうこと、いちいち覚えてたりするところが昔と変わってねーと思うけど」
「昔の方が明るかったし、かわいかった」
「自分で言うか。いまだって暗くないだろ? かっこよくなったし、いいじゃん」
「真津さんは華奢でか弱くて、かわいい人がタイプなんじゃないの? な、鳴海先生みたいな」
 鳴海先生の言葉を信じたくなんてないけれど、ずっと心に引っかかっていて気になってしまう。
「鳴海の入れ知恵か。興味あるかよ、あの人に。そうゆう疑り深いところもかわってねーよ、おまえは。それからあいつには気をつけろよ、みつのこと狙ってるからな」
「は? なに言ってるの」
 いままでされた嫌がらせをあげ連ね、あの人には嫌われているのだと身振り手振りで説明すると、真津さんは呆れたようにため息を吐いた。
「あの人は、みつみたいに健康健脚で少年体型の美形をいじめたおすのが大好きなんだよ」
「いじめ……っていうか俺、美形なの?」
「美形なの」
 変なところで感心していると、真津さんの手が伸びてきて俺の首筋をさらりと撫でた。たったそれだけのことに心臓がどくんと跳ねる。
 腐れ縁だ、と真津さんは言った。鳴海先生とは、専門学校時代にゲイの人たちが集まるバーで知り合ったらしい。ずっと会ってなかったらしいけど、こっちで再会して俺の学校で教師してるって知って、焦ったと言う。
「東京に出てからはこっちで溜めこんでた鬱憤を晴らしまくってたからな。俺の知らないとこで勝手にそんなのばらされちゃたまったもんじゃねーって、警戒してたんだ」
 トメキチで鳴海先生と偶然会ったとき、やけに動揺していたのはそのせいだったのか。そんなことよりもっと気になることを言われたような気がして、一つ呼吸をおいてからドキドキする胸に手を当てて尋ねてみる。
「遊んでた、ってこと?」
 過去のことだと思っても少しだけ胸が痛い。複雑な気持ちで見つめていると、これからはみつだけだよ、と甘いセリフが返ってきて、自分でもあきれるくらい簡単に機嫌がよくなってしまった。
「というより、周りに吹聴しまくってたんだよな、地元にかわいい子がいるーって。小学生男子で手が出せないんだって話までしたら、さすがに一時期友人失くしたわ」
「へ……?」
 何事もないことのようにスラスラと真津さんが話すから自分のことを言われているのだと一瞬気づかなかった。
「みつのことだよ、わかってんのか?」
「はあ……、はい」
 気が抜けた間抜けな返事をして真津さんに笑われる。自分のことだと実感が湧かないのに、顔だけは火照って異常に熱い。
「なに照れてんの?」
「照れてない」
 俺ってわかりやすいのかな。頬を両手で隠して無表情を作ってみる。
「口数が減ったぶん、表情に出るようになったんじゃねーの? みつって素直で真面目で嘘つけない子だから」
「もういいってそれ」
 つまらない人間だって言われてるみたいで嫌になってきた。たぶんその遊び心のない堅物なところが昔と変わってないところなんだろう。
 でもいっか。だって真津さんそんな俺のことが好きなんだって。俺のまぬけな告白聞いて、フォローするみたいに今日来てくれたんだよね? 昔は手出しちゃいけないって我慢してたって言ってくれたし。
「ほんとかな」
 自分の頭のなかの仮定にツッコミをいれつつも、口元がみるみる弛んでいくのが自分でもわかる。だめだ、ポーカーフェイス、ポーカーフェイス。
 どうにもならない表情の変化に頬をつねってなんとかしようと試みていると、真津さんが笑いをこらえながらほんとだよ、と教えてくれる。
「みつのこと、好きだよ」
「なんで俺の考えてることわかったの?」
「俺はみつのことならなんでもわかる、って言いたいけど、みつって昔もいまも、取りつくろうことが不可能なくらいわかりやすいんだよ」
「そうなの?」
 がーん。不可能って、努力しても無駄ってこと?
 思わず頭を抱えると、真津さんが手を叩いて大笑いしている。そこまで笑わなくても、と転がりだした真津さんの手を引っぱって起こすと、その反動を利用して体を抱きしめられた。
「わあ、なに? なんか……」
「彼氏になってくれる?」
「うん、それはなる、けど」
「けど? 好きなんだよな? 俺のこと」
「うん、好き……」
 体を包まれる慣れない感覚に身じろいでいると、顎を掴まれて真津さんと至近距離で目が合う。パッと見、軽薄そうで軟派な印象を受けるけど、実は人を見るときの目の表情がとても真摯で柔らかい。あらためて綺麗な顔してるな、って思う。俺の欲目なしにきっとモテる人なんだろう。
 そんな優しい目で慈しむように頬を撫でられると、頭の天辺から足先まで一瞬で溶けてなくなりそうだ。
「みつ……」
「ん……?」
 返事をするときにはもう唇が触れていた。ひんやりとした真津さんの薄い唇が俺の上唇を食む。なにもできないで固まっていると、触れたときと同じ自然さで離れていった。





ひみつのきもち(7)R-18

「目くらい閉じようぜ」
「う、うん」
 うなずくと、またすぐに唇がふさがれる。言われたとおり目をかたく瞑ると、視界が遮断されたぶん唇に触れた感触がいっそう生々しく感じられた。
 なにか言いたいけど口が使えないからどうにもできない。ただ一方的にほどこされるキスを受けとめるだけ。
「口あけてみ?」
「ん……、んあ?」
 触れたままの命令とともに舌がかたく閉じた唇の割れ目をなぞる。反射的に開いた口の隙間から、真津さんの舌が俺の口のなかに入ってきた。
「ふ……、あ」
 官能的に動く器用な舌が、俺の口内をゆっくりと撫でていく。舌と舌が触れ合う、唾液を交換するみたいな濃厚な感触に、思わずしびれる腰だけ引いて後ずさると、真津さんが胡坐をかいた足を伸ばし、器用にかかとを使って俺を元の場所に引き戻した。
「ちょっ、まっ……、待ってっ」
 ギュッと両足で腰を固定されて、密着したままなのに動けない。必死で身じろいでいると上半身のバランスを崩しかける。目の前の真津さんに助けを求めて伸ばした手は掴まれることなく、さらに軽く肩を押されて俺は簡単に仰向けに転がってしまった。
「なに、するんだよ」
 茫然と呟く。いつもの優しい真津さんじゃない。
「ごめん」
 謝ってくるくせに上からのしかかってきて、押しつぶす気かと思うほどぎゅうぎゅう抱きしめられた。
「痛いよ」
「ごめん」
「ごめん、ごめんって、本当に思ってる?」
「んー……」
 思ってないのか。俺の首元に顔を埋めてじっと動かない真津さんの髪に触れてみた。やわらかな手触りの少し癖のある猫っ毛。ずっと変わらない真津さんだけのものに、こうやって触れることができる日がくるだなんて思ってなかった。
「幸せだ、俺」
 そっと呟くと真津さんがのそりと顔を上げた。笑ってるのにちょっと泣きそうにも見える顔。
「俺も」
 かすめるようなキスが唇とこめかみに落ちてきて、まだ慣れない感触にギュッと首をすくめる。俺の強張った肩をポンポン叩いて、何もしないから、と真津さんが宥めてくる。
 なにもしないんだ。ホッとしたのと落胆とが一緒くたになって、重力に吸いこまれるように俺の体は床に貼りついた。真津さんはそんな俺を見下ろしてそっと笑ったあと、もう少しだけ、とまた首の根元に顔を埋めて言う。
「六年間、放ったらかしてごめんな」
「いいよ、もう」
「久々に会って、なかなか心開いてくれなかったみつが笑ってくれるようになったとき、泣きそうなくらい嬉しかった」
 空調の音しかしない部屋に、真津さんの真摯な声が静かに響いた。言葉から思いの深さが伝わって、俺はそっと背筋を震わせる。
 真津さんの言葉になんて返したらいいかわかんなくて、俺は両手で頭を抱きしめた。嬉しくて、感情のまま力を入れてキュッと絞めてしまい、痛い、と苦笑しながら顔を上げた真津さんと目が合う。
 なんて綺麗な目をしてるんだろう。まっすぐ見下ろしてくる瞳に腕を伸ばす。眼球にはさわれないから目尻を指の背で撫でると、くすぐったそうに優しげに笑う。
 芯の強さは感じるのに柔らかな印象をもつ不思議な目。いまはじっと見上げる俺だけを見つめている。二人の意思がテレパシーみたいに眼球から発信する。
 もっと触れてキスして、つながりたい。密着して溶け合って、ひとつになりたい。
 なにも言わなくてもわかりあえる。褐色の瞳に吸いこまれるように顔をよせると、真津さんが奇妙な不自然さで視線をずらした。
「え?」
 なに? いま、通じあってなかった?
「帰るわ」
「はあ?」
 俺は立ち上がろうと体を起こした真津さんの胸ぐらを咄嗟に掴んだ。
「なんで、帰るの?」
「なんで、って……、みつ今日学校は?」
「テスト明けで休み」
「テスト、いい点とれそうか?」
「いまはどうでもいいよ、そんな話」
 はあ、とため息を吐いたあと、真津さんは疲れたように「そうだな」とだけ言って自分の胸ぐらを掴んだ俺の手をそっと解いた。
 なにをためらっているのだろう。さっき愛おしげに見つめてきた瞳が、偽物だとは思えない。たしかに真津さんも、俺としたいって思ってたはず。
「しないの? しようよ」
 真津さんの躊躇の意図がわからなくておずおず尋ねるとまた盛大なため息が降ってくる。
「生足さらして、言うかそんなこと」
「あ……、うん」
 そうだ、まだ下はパンツ一枚なんだった。気が動転してるのと寝起きとで、まだ頭がしっかり働いてないみたいだ。急に湧いてきた羞恥に足をもじもじさせると、動くな、と険しい口調で言った真津さんが睨んでくる。
「当たってんだよ、みつのひざ」
「す、いません」
 地を這うような声が響いて、俺はピタリと動きを止めた。何が膝に当たってるかなんて聞かなくてもわかる。それより、いつもは優しい真津さんに真剣に睨まれるとちょっと怖いんですけど。
 すくんだ体を動かすこともできず、ただじっと真津さんを見上げていると、眉間に寄せた皺が無くなって今度は困ってるみたいに眉が下がる。
「みつって俺の七コ下なんだよな、いまさらだけど」
「ほんといまさらだよ、なに言ってるの?」
 俺が気にしてることだ。そして真津さんがもっともっと気にしてることだった。
「七つも下の少年に手出すなんて、犯罪者の気分なんだぜ?」
「七つ差は一生変わんないよ」
「でも少年はダメだろ! みつが成人したらにしよう、この続きは、な?」
 そう言って、妙案を思いついたと指を鳴らした真津さんの股間を衝動的に膝で蹴ってしまった。痛ってー、と叫んで俺の上から飛び退き床の上でのた打ち回っている。さほど強くは当たってないと思うんだけど、膝という部位が部位なだけにご愁傷様だ。反省はしてないけど。
「なにすんだよ」
 情けない声をだして恨みがましげな視線を送ってくる。俺は軽くなった体を起こし、すばやい動作で真津さんの腰にまたがった。
「な、なんだよ」
 今度はなにをされるのかとビクビクしている真津さんの唇にぶつかるようなキスをする。経験不足で真津さんみたいにうまくできないけど、唇をこじ開けて必死で舌を動かした。
 結局は自分が先に音をあげて唇を離してしまったけど。濡れた唇を腕で拭って見下ろすと、真津さんは驚いた顔で目を見開いていた。
「どうしちゃったんだよ、みつ」
「俺……、俺は、ヤリたい盛りの高校生なの。好きな人が目の前にいて、その人も俺のことが好きで……、そんな、そんな状況で我慢できるほど、大人じゃないんだよっ」
 自分でも半分以上なにを言ってるかわからない。それが自分の本心かそうでないかも定かでない。
 ただ真津さんには七つの年の差に縛られてほしくなかった。そんなことにとらわれて、いままでのように衝動を殺したりしないでほしい。求められたい、そうしたらちゃんとそれを受け止めたい。もうこれからはこの人に、我慢なんてさせたくない。
 睨んでしまうほど真剣に見つめていると、真津さんはさっと顔を背けて盛大に吹きだした。なにがおかしいのかわからず、いぶかしげにしばらく眺めていてもまったく止む気配がない。さんざん笑い倒したあと、腕をついて上半身を起こした真津さんが俺のおでこに自分のそれをくっつけた。
「まいった、男前すぎるぜ、みつ。じゃあもう、遠慮しない」
「え、あ。はい……、え?」
 宣言した真津さんにベッドに転がされる。一瞬でTシャツとパンツをスポンと脱がされた。さっきはあんなにしぶってたのに、その手際のよさに全裸にむかれたことも忘れて思わず笑ってしまった。
「なんだよ?」
「んーん、なんでもない」
 笑いながら告げると、真津さんはすねた子供みたいにとがらせた唇でキスしてくる。触れるだけの優しいキスから、徐々に深く、長く。八重歯を舐められて、舌同士を押しつけ合って、甘い唾液を交換する。
「んぁ、ふぅ……、ンっ……」
 真津さんとしてるって考えただけで、お腹の下のほうがムズムズしてきた。胸の尖りをかすめるように這う冷たい手が気持ちいい。脇の下もおへそのなかも足の爪も、全部真津さんに舐められた。「きたないよ」なんて言っても聞かない。手で持ち上げた太ももの内側を頑丈そうな歯でゆるく噛まれると、まだ性器に触れられてもないのにもういっちゃいそうだった。
「もう、して」
「なにをしてほしいの?」
「なんかその言いかた、おじさんみたいだよ」
「うわ、いまの傷ついた、おしおきしてやる」
 とか言っちゃうところがおじさんっぽいんだってば。
「あっ、やぁ……、んゃっ」
 ずっと触ってくれなかったぬるぬるになってる性器をゆるやかに扱かれ、腰が震える。奥のすぼまりにも躊躇なく舌を入れられ、抵抗する余裕もなく喉の奥から甘ったるい声が漏れた。
 その後どれくらい時間が経ったのか、室内は冷房がきいてるため快適なはずなのに、背中に触れるシーツが汗を吸って湿っていた。服を脱いだ真津さんの硬そうな二の腕も汗で光ってる。
「みつ…………」
 呼びかける声が色っぽい。ぼんやり見ていた二の腕から、真津さんの顔に視線を移す。
「大丈夫か?」
「ん…………」
 まとめた指が身体のなかから引きだされると、ぶるりと全身が震えた。もうずっと気持ちよくいじられていた内部に空洞ができた途端、物足りなくて腰が揺れる。
「早く」
 真津さんの腕を引っ張る。鋭く甘い視線に見つめられると、もうどうなってもいい気がした。
 丸い先端が入口を割って入ってくる。指とは違う質量に思わず背中が弓なりに反った。
「ぃあ、は……、んんー……」
「痛いか?」
 尋ねてくる真津さんの腕にしがみついて、首を横に振った。痛みは感じないが、圧迫感がすさまじい。すぐに抜こうとした真津さんの腰を太ももで挟んで、「入れてよ」と懇願したら、なぜか「バカ」とののしられた。
 満たされたい。真津さんでいっぱいにしてほしい。
 それを言葉にしたのか心で思っただけなのか、もうわからない。あえぐ自分の声もまるで別の人のものみたいに遠くで聞こえる。頭が朦朧とするなか、見上げるといつもより凶暴な目をした真津さんが、優しくおでこにキスしてくれた。きつく抱きしめられてゆさゆさ揺らされながら、苦痛と快楽の混ざり合った体は浮力を失くして幸福の海の底に沈んでいった。





ひみつのきもち(8)【終】

 翌日は一限目から体育の授業で、蝉の大合唱を聞きながら炎天下のなか痛む腰を押さえて、必死でサッカーボールを追いかけまわした。小さな不幸はそんな一日のはじまりからいまもずっと続いている。
 今日は週いちばんの移動教室の多い曜日だし、弁当を忘れて購買まで往復する羽目になるし、掃除当番は回ってくるし。
 くだらないと思いつつも指折り数えて歩いているとトメキチに着いた。開店前の扉をそっと開ける。真津さんと昨日の今日で顔を合わすのがちょっと照れる。
「おはようございます」
「今日も早いね。祐輔さん、いまちょっと出てるよ」
 出た、今日最大の不幸。なんでまた来てるの? この人。
「今日一日遠くから見てたけどさー、なんか辛そうに腰のあたり押さえてたよね? だいじょうぶ?」
 カウンター席から立ち上がって俺の隣まで来ると、鳴海先生はニヤニヤ笑いながらやわい手で俺の腰をさすった。
「平気です」
 無表情でそれだけ言って鳴海先生から離れてもぴったり後ろにくっついてくる。うっとうしいったらない。真津さんが言ってたことが本当なら、これがこの人の愛情表現なのだろうか?
「先生って、俺のこと好きなんですか?」
 突然振り返って尋ねると、鳴海先生は心底いやそうな顔をして俺から目を逸らした。
「なんでそんなデリカシーないかな。まあ、僕に興味がないって証拠なのかもね、それが」
 ふっと短いため息を吐いてうつむいたかと思うと、すぐさま意地の悪い笑みを浮かべて俺の肩に手をおいた。
「ねえ、昨日しちゃったんでしょ? 初めてのときって痛いだけで気持ちよくないでしょ」
 また今度は俺からどんな答えを引き出そうとしているのだろうか。怪しい目つきでこっちを窺ってくるから思わず視線を外すと、鳴海先生はそれを肯定ととったのか、ひどく優しい声で話しかけてくる。
「かわいそうに、痛かったんだね。真津さんって配慮が足りないっていうか、動物っていうか。あんな発情した犬みたいなのやめときなよ」
 人の彼氏つかまえて犬呼ばわりか、と思ったけど、口には出さない。体がだるくて声を張る気にならないのもあるが、どうせここで挑発に乗って噛みついてみたところで、鳴海先生に口で勝てないのは経験してわかっている。それに、しおらしくしていたらこの人がいったいどんな反応をするのかも少し気になった。
 じっとうつむいたまま動かないでいると、肩に乗っていた手が腕を伝って下りてくる。指に指を絡ませるように繋がれて、いったいなんなんだと顔を上げた。
「とりあえず、薬塗ったほうがいいかも」
「く、すり?」
 突然飛躍した内容に首を傾げる。
「くすりって、なんですか?」
「なかが炎症起こしてたら大変だから」
 繋がれていないほうの手で尻を撫でられて、俺は叫びそうになるのを必死でこらえた。
「今日バイト終わったらうちおいで。いい薬があるからあげるよ?」
 見上げてくる鳴海先生の目が妖しく光る。完全に誘われている。というか、いくら体がだるいからといって、黙って尻を触らせてまで鳴海先生の反応が知りたかったわけではないんだけど。
 なんでこんな茶番につきあってるんだろう、と我に返ったそのとき、突然、ドンと間近で音がして二人して飛び上がった。辺りを見回すと、全開になった裏口の扉の前に真津さんが立っている。固く握った手の触れているさき、キャベツが入ってた空の段ボール箱には、くっきりとその拳の跡がついていた。
「なにしてんだ? おまえら」
「ひぃっ……!」
 奇声を発した鳴海先生が俺の手を放すや、脱兎のごとく入り口に向かって走りだす。すぐさま後を追おうとこっちに向かってくる真津さんを止めるため、俺は真正面からぶつかるようにその体にしがみついた。
「なんで止めんだよっ」
「ちょっとふざけてた、だけだから、あの」
 追いつかれたら絶対、鳴海先生は真津さんにしかられる。それに体力差からどう考えても追いつかれることは目に見えている。別に鳴海先生を助けてあげたいなんて気持ちは欠片もなかったけれど、真津さんがわざわざこんなくだらないことで体力を使う必要はない。
「なにしてたわけ?」
 冷静な真津さんの声が頭上に突き刺さる。
「たいしたことじゃなくて」
「言ってみ?」
「あの、いっつも鳴海先生の挑発に乗って余計なことしゃべっちゃうから、今日はその、黙ってたらどうなるかな、って思って、放置してたら、なんかおかしなことになって……」
 しどろもどろになりながらなんとか説明する。反応をうかがう勇気が出なくてじっと体を強張らせていると、ギリっと歯ぎしりの音が聞こえた。
「今度会ったら、殴ってやる」
 物騒なセリフが真津さんの口から飛び出して、俺は咄嗟に胸に埋めていた顔を上げた。
「真津さんがそんなことしたら、鳴海先生吹っ飛んじゃうよっ」
 真津さんの力の強さと鳴海先生のひ弱さを考えて言っただけなのに、ギロリと睨まれる。
「あいつの肩もつんだ。好きなのか? 鳴海のこと」
「そんなわけないでしょ! 俺が好きなのは、真津さん、なんだから」
「ほんとに? 俺だけ?」
「だけだよ」
「じゃあキスして」
「こ、ここで?」
「ここで」
 濃厚なやつね、と付け足されて頭がクラクラする。なんでこんなことになってるんだ。
 真津さんの怒りを鎮めるためにも、と少し伸びをして唇をつけた。舌をさし入れると真津さんの滑らかなそれが包みこんでくれる。何度も角度を変えては隅から隅まで味わいつくされて、ただでさえ痛む腰が砕けそうになったころでやっと解放された。
 こんなの仕事前にするやつじゃない。真津さんに掴まってないと膝から落ちそうで、恨みがましく潤む目で見上げたさきには満足そうな表情がある。
「鳴海とまた変なことしてたら、おしおきな。今度はチューだけじゃ済まないから。わかった?」
「わかったっ」
 くだらない密約を交わされて、俺は照れ隠しで怒ってるふりをした。たががはずれた大人というのは子供以上に手に負えないものなのかもしれない。
 なんて低レベルな喧嘩をしているんだろうと自分でも呆れてしまう。それでも、俺の頭を愛おしげにポンポン叩きながら幸せそうに笑ってる真津さんを見ていると、怒った顔をしてるのがだんだん難しくなってきて、俺は真津さんの胸に顔を埋めて一人でこっそり微笑んだ。





プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
BL小説投稿生活中。ブログ内の文章の転載を禁じます。

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