フェードインラブ!(1)

 朝からひどかった胃痛が、ほどよく冷房のきいたスタジオに入るとさらに悪化したような気がした。ふうー、と大きく息を吐き、佐井真琴は背負っていたベースケースを壁に立てかけると、部屋の隅にうずくまった。
「だいじょうぶー? マコ」
「うん、平気」
 答えた声は小さすぎて、扉付近から話しかけてきたリツコにまで届いていない。それでも気にした様子もなくリツコが手櫛で長い髪をすいているのは、この状況がさして珍しいことではないからだ。胃痛もちの真琴が片手で鳩尾を押さえて背を丸めている姿を見るのは、バンドメンバーのリツコと悟にとっては日常だった。
「ほんと、ストレスに弱いよね、マコは。だいじょぶだって、悟の友達だからいい人だよきっと」
「うん……」
 陽気に励ましてくれるリツコに、真琴は蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯だった。
 先月の終わり、インターネットの掲示板でバンドのドラマーを募集した。初めにやってきたのはパンク好きの驚くほど無口な男だった。そして一週間ほど経って次にやってきた男は、挨拶もそこそこに立て板に水のごとくドラムのうんちくを語った。二人ともバンドマンにありがちな変わり者だったが、ドラムの腕が確かならそれも構わなかった。ただ問題だったのは、やってきた二人が同じリズム体であるベース担当の真琴と息が合わないことだった。音の土台となるドラムとベースがずれていると、ギターとボーカルは気持ちよくメロディーを奏でることができない。
 息が合わない原因は初対面だとか性格の波長の問題だとかいろいろあるだろうけれど、なにより大きかったのは、その二人が真琴をリズム体のパートナーとして見なしていなかったことだ。初めてリツコや悟と会ったときのような好意的な反応とは違って、ドラムの二人は真琴が高校生だということを聞いた途端、あきらかに表情を変えた。
 高校生は高校生同士でやってろよ。
 そんなふうに口には出されなかったけれど、顔が、態度が物語っていた。はなから合わせる気のない人相手にうまく演奏できるのは、意思疎通の必要ない超能力者くらいかもしれない。ただでさえドラムと合わせた経験がない上に、真琴にそんな能力なんて備わっているはずもなく、結局、二人がバンドメンバーに加わることにはならなかった。
 自分のせいだと落ちこむ真琴をリツコと悟は慰めるでもなく、根暗なのはいつものことだと放置してまた新たなメンバー探しを始めた。二人は真琴と違って開き直りの早いサバサバした性格をしていた。年はともに真琴より三歳年上の二十一歳で、フリーターをしている。
 真琴はこの貸しスタジオで、二人と半年前に出会った。音楽が大好きで、そんな音楽で食べていけるようになればいいな、と漠然と思っていたけれど、自らバンドメンバーを募るような行動力が真琴にはなかった。ときどきひとりでこの場所に足を運び、アンプに繋いで黙々とベースを弾いていただけの日々。
 そんなある日に、二人から声をかけられた。
『お前、幼いのにベースうめぇなー』
『いつもひとりで来てるよね。一回うちらとやってみない?』
 帰り際、悟に背後から肩を叩かれて驚いたものの、自分の音を聞いてメンバーにならないかと誘ってくれたことが真琴はすごく嬉しかった。二人で作ったというオリジナル曲を惜しみなく手渡され戸惑ったものの、曲を聞いた途端、リツコの奏でるメロディアスなギターラインと、悟の透明感のあるせつない歌声に真琴は瞬く間に惹かれていた。何度か練習をともにして、つい先日、年上の二人が真剣に頭を下げて、一緒にプロを目指そうと言ってくれた。そのときの真琴は返事もろくに出来ず、なんども頷きながら泣き崩れてしまった。
 そんな奇跡みたいな幸運の出会いが真琴の身に舞い降りてから、いまでちょうど三カ月。三人だけだとなんの問題もなかった。音楽の趣味は合うし、二人は根が明るくていい人だし、なによりそんな二人と正反対の根暗で神経質で胃まで軟弱な自分に、変な気遣いをせず明るく接してくれる。リツコと悟と一緒に音楽を奏でる時間は、内気なせいで親しい友人のいない真琴にとってはなににも変えられない至福のひとときだった。
 それが今日、また新たにひとりやってきてしまうのだ。この平和なトライアングルが崩れる瞬間がまたまた訪れる。
 ついさっき一学期が終わって明日から楽しい夏休みのはずなのに、真琴はひとつも浮かれた気分になれなかった。ドラムが加わることはバンドとして良いことなのに、喜ぶ余裕がまったくない。人見知りの上に悪い前例が二つ乗っかって、歓迎する態勢どころか真琴の体は胃痛でどんどん丸まっていく。今日やってくるのは悟のバイト先に最近入った後輩だと聞いている。以前の二人と違い、信頼のおける人の知り合いだということがかえって真琴の脆弱な精神を追いつめていた。
 もし気が合わなかったらどうしよう。断ることになったら悟に迷惑をかけるかもしれない。相手の人だっていい気分じゃないはず。
「なんかまた面倒くさいこと、考えてる?」
 ぐるぐる回る真琴の頭のなかが透けて見えるのか、リツコがそんなことを言った。
「べつにマコがやだったら、断っていいんだからね。悟に気なんか使うことないよ」
「いや、その、そんな……」
「すまん! 遅れたー」
 陽気な悟の声とともに勢いよく扉が開き、真琴はハッと顔を上げた。あちー、と真っ先に冷房の真下に駆けていった悟の後ろから、手足の長い長身の男が涼しげな顔で部屋に入ってくる。
 まるでギタリストみたいだと思った。柔らかな質感の色の抜けた髪に白い肌、少し吊り上がった切れ長の意志の強そうな目と、軽薄そうな薄い唇のコントラストがやけに色っぽい。じっと上目づかいに見つめていたら、その視線に気づいた男がゆっくりと部屋の端にうずくまる真琴に視線を向けた。なにか不思議な生物を見つけたかのように器用に片眉だけ上げるその仕草を見て、真琴はサッと目を逸らした。
「紹介するわ、ギターのリツコ」
 初めての対面に動じることなく、リツコとその男は握手をしてなにか楽しげに話している。そんな社交的で大人な態度が羨ましいけれど、自分には到底真似できそうにない。
 目が合ったのに自分から逸らしてしまったことに自己嫌悪して真琴がさらに痛みだした胃に拳を当てて圧迫していると、そのうつむく視界に三人のつま先が入ってきた。
「で、この丸まってるコンパクトなやつが、マコ」
「マコ?」
「真琴だから、マコ」
 悟の説明に男がふーん、と相づちを打つ。興味があるのかないのかわからない平坦なトーンの、でも不思議な魅力のある声だった。
 沈黙が落ちて初めて、のんきに丸まっている場合じゃないと気づく。うずく鳩尾をさすりながら、真琴は壁に片手をついてよろよろと立ち上がった。
「は、じめまして。佐井真琴、です」
 相手の表情を見るのが怖くて、目の前にある薄い唇を見ながら発した声は不安定に揺れていた。自己紹介さえまともにできない自分が情けなくて下唇を噛みしめていると、男は一度ふっと息を吐いて顔を逸らせ、口元を片手で覆って真琴のほうに向き直った。肩がプルプル震えている。
「なんか、小動物みたい」
 自分のことだろうか。確かめるためにおずおずと目線を上げると、男のほうは真琴の目を見ていた。顔半分は大きな手で隠れているけれど、目尻に皺が寄るほど笑っている。なにがそんなに可笑しいのかわからず小首を傾げていると、男は口を覆っていた右手を外して腰で一度拭い、真琴の前に差しだした。
「俺は打田玲。名前は好きに呼んでくれていーよ」
 うなずいて鳩尾を押さえていた手をゆっくり前に出すとギュッと握られる。あまり触れることのない人肌の感触に内心ドキドキしつつも、玲の友好的な振る舞いに真琴の心はじんわりと温かくなった。
「打田さんの前に募集で来た二人が、けっこう曲者でね。マコ今日もびびってたんだよね」
 ホッと息をついた真琴の反応を見て、リツコが玲に事情を説明した。
「そうだったんだー」
 ブンブンと握ったままの手を上下に揺すられて、真琴はなんだかよくわからずヘラっと笑って見せた。
「そうそう。玲は悪い人じゃないって説明したんだけどな。前の二人がマコが高校生だって聞いたら顔色変えて一気にダレやがって」
「高校生?!」
 悟の言葉に素っ頓狂な声を上げた玲が、握っていた手の動きをピタリと止めた。驚いたせいか、掴む手にさっきより力が入っている。
 高校生だとばれて、また嫌な顔されるのかもしれない。過去二回の出来事がフラッシュバックする。玲の端整な顔立ちが歪むところを想像して、真琴は防衛本能から体を硬く強張らせた。
「中学生かと思った」
「へ?」
「今どき、こんな垢抜けてない高校生っているの?」
 真正面から指をさされて、真琴はその指先のうずまきを見ながらぱちぱちと二度まばたきをした。最悪なことが起きると待ち構えていただけに予想していたのと違う反応をされて、緊張でカチカチに縮こまっていた真琴の肩がストンと落ちる。失礼なことを言われているのはわかっているけれど、高校生のくせに、って落胆されるよりずっといい。
 ぼんやり放心していると、怒った? と玲が顔を覗きこんでくる。首を振って否定すると頭を撫でられて、その仕草が中学生扱いみたいで思わず笑ってしまうと、玲が不思議そうに目をしばたいてから一緒になって笑いだした。黙っていると色気があって冷酷そうで、どちらかというと近寄りがたい印象だけど、口をひらくと途端に三枚目になる。かっこつけないで無邪気に笑う笑顔を見て、そのちぐはぐな感じが魅力的だと真琴はぼんやり思った。
「あのさー、いつまで手つないでんの?」
「へ? あ……」
 リツコに指摘されてまだ握手を解いていないことに気づく。ハッとして真琴が握っていた手を緩めても、玲は放そうとしない。というか、握手というよりさわられている感じがする。指先を撫でられて、そのゾクッとする感覚に怯えて身を引く。勢いで離れた右手を思わず背中の後ろに隠した真琴を見て、玲が意地の悪い笑みを浮かべた。
「なに……?」
「なんか、反応がういういしいー」
 人との接触に慣れていないことを指摘された気がして、恥ずかしさから顔を背ける。たかが握手ひとつでドキドキしているのがばれて、頭から湯気が立つんじゃないかと思うほど赤面してしまった。
「あんまいじめんなよ。マコ繊細なんだから」
「えーっ、俺いじめてんの、これ?」
 心外だと嘆く玲に違うと訴えたくてうつむいたままブンブン首を横に振っていると、突然とてつもなく大きなものが体にぶつかってきた。驚いて一瞬思考が止まる。真琴は硬直した自分の体が玲にきつく抱きしめられていることに、しばらく気づけなかった。
「いじめてないよね? あーかわいい。腕にすっぽりはまるし抱き心地いいし、おうちで飼いたい」
 玲の言葉が耳に直接吹きこまれて、真琴の全身が寒気立つ。直後に真っ赤に染まっているはずの耳殻をカプッと噛まれた。
「あ、あ、あの……、や、あああぁっ!」
 玲の見た目の印象とは裏腹な自由奔放な振る舞いに真琴の頭はついていかず、考えるよりさきに奇声を発していた。防音室内に響く耳をつんざくような高音に驚いて、玲が咄嗟に真琴の体を放した。支えてくれるものを失った真琴の体はふらりとよろけて、今度は真琴以外の三人の悲鳴を聞きながら、膝から崩れて床に倒れこんだ。





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フェードインラブ!(2)

 日に日に気温は上昇し、地上ではミンミンゼミが狂ったように鳴き散らしているけれど、地下一階にある貸しスタジオの個室内は、外の熱気が嘘のようにひんやりと快適な温度が保たれている。
 顔合わせの日から三日が過ぎた今日、玲を含めたバンドメンバーは再びこの場所に集まった。結局あの日は音合わせを出来ずじまいで、それどころか気を失った真琴を玲が負ぶって近くの病院まで運んでくれたという話を後から聞いて、申し訳なさでまた倒れそうになった。
 各々が奏でる楽器の音で充満する個室のなか、いつもの癖で靴を脱ぎ、正座をしてベースのチューニングをしていると視線を感じて、顔を上げた。少し遠くから、スツールに腰かけて真顔でこっちを見ている玲と目が合う。なんだろうか、と首を傾げて見せると、玲がドラムスティックで自分の額を指す。前髪で隠れているから玲には見えていないのはわかっていたけれど、真琴は片手で自分の額を覆った。
 気を失って倒れた際に床で額をぶつけてたんこぶを作っていた。三日経って腫れは引いたものの青黒い内出血がまだ残っていて、必死でバレないよう気をつけていたのに、さとい玲は会った瞬間に真琴の前髪をかき分けてそのことを指摘し、謝ってきた。自分の失態で作った痣なのに心配をかけてしまった。もう痛くないと笑顔で手を振ると、納得したのか玲は一度頷いてから今度はスティックで膝を叩いてなにかを訴えてくる。額の痣以外はどこも怪我してないと首を横に振っていると、玲が立ち上がってこっちにやってきた。
「けがは、おでこだけだよ?」
「ちがくて。なんで正座してんの?」
 膝を叩いていたのは正座を意味していたらしい。自分にとっては自然なことなのでまったく気づくことができなかった。
「あの、初めてチューニングしたときに、この格好だったから、なんかずっとこうなの」
「ふーん」
 目の前にしゃがんだ玲に真っ直ぐ目を見られていると、説明がたどたどしくなってしまった。うつむいて弦を指で弾いていると今度は突然その右手を掴まれて、何事かと顔を上げた。
「左利き?」
「え、右利き、だけど」
「だよね。なんで右腕に腕時計してんの?」
 眉を寄せて腕に巻かれた時計を凝視している玲がおかしくて、真琴はくすっと笑って答えた。
「これも一緒なの。初めて腕時計つけたのが右手だったから、なんかずっと。あの、ノートに文字書くときとかすごく書きづらいんだけど、もう変えられなくって」
「ふーん。チューしていい?」
 突然関係のないことを言い出す玲に、真琴はニコニコ笑っていた顔を歪めた。
「わけ、わかんない」
「真琴、キスしたことあんの?」
「な、いけど……」
 言ってから、バカ正直に答える必要なんてなかったのだと気づく。
「ないんだ、きもちいーよ」
「いらない。べ、別にしなくても、死なないし」
「死なないけど、めっちゃくちゃ気持ちいーよ? ん?」
 唇を突きだしてくる玲が冗談でやっているとわかっていても、赤くなってしまう自分が嫌になる。うつむいてチューニングに集中しているふうに装って、火照った顔を隠す。
「あんまり僕のこと、からかわないで」
 決死の思いで自分の気持ちを吐きだすと、玲はあのさー、と気の抜けた声を出した。
「なんで俺じゃなくて、僕って言うの?」
 玲は年上なのに、物を知らない子供みたいに質問を浴びせてくる。せっかく訴えた自分の気持ちが伝わっていないことにがっかりして、真琴はうつむいたまま淡々とまた同じ答えを返す。
「初めに自分のこと僕って言ったから、変えるタイミングがわからなくていまもずっと僕って言ってるの!」
 珍しくつっかえずに言い終えたことにだけ満足して真琴はふー、と息を吐いた。なんの反応もないなと思って顔を上げると、玲がしゃがんだまま自分の顔を両手で覆って肩を震わせている。
「なにが、おかしいの……」
「だって、すっごい信念!」
 言い終えるより早く今度は床に転がって大笑いしはじめた。服が汚れることも気にせず、ごろごろ転がっては床を叩いている。
「また玲はマコいじめてんのか」
 ヒイヒイ言って腹を抱える長身の体を悟が足で転がして、パン、とひとつ手を叩く。
「一回合わせてみっか」
 そう言った悟と目が合って真琴は唾を飲みこんで頷いた。震える指をこすり合わせて立ち上がる。いままで三人で何度も練習してきたオリジナル曲に、打楽器のリズムが刻まれる瞬間。心のなかを期待と不安が同じ比重で占めている。以前やってきた二人は演奏中、目すら合わせてくれなかったことを思い出してしまって、真琴は緊張の渦のなか、またしくしく痛みだした胃をゆっくりとさすった。
 カンカン、と歯切れのいいスネアドラムの音が響いて、真琴は思わずそちらに顔を向けた。しばらく無人だったドラムスペースに玲がいる。スツールに座って太鼓の皮の張りを確かめている玲は、なんだかいままでと雰囲気が違った。ギタリストと勘違いしてしまうようなどこか軟派な印象だったのに、玲がその場所に納まると、まるでそこが彼のために用意されていたかのようにしっくりと馴染んで見えた。なんだかかっこいいとか思ってしまって、自分の意思を無視してドキドキと高鳴る胸に真琴は混乱した。もう胃が痛いのか心臓が痛いのかわからない。
 不意に叩くのを止めて真琴を振り返った玲と目が合う。ずっと見続けていたから視線を感じたのかもしれない。真琴の表情に不安を読みとったのか、玲は歯を見せてニッと力強く笑った。
 ふと思う。さっき話しかけてきたのは、真琴の緊張をほぐすためだったのではないかと。ちゃんと話をしてくれる。視線を感じて目を合わせてくれる。そんな当たり前のことに、真琴はじーんと感動してしまった。
 自分からも歩み寄ろう。失礼なことや突飛なことを言ったりするけれど、玲は自分が高校生だからって偏見を持っていないことはわかる。音を聴いて合わせる努力をする。そう決めた瞬間、真琴の体から力が抜けた。一度目を瞑って呼吸を整え、再び目を開けたときにはさっきまで胸を占領していた不安が少しだけ薄まっていた。
 ハイハットシンバルのカウントを聴いて真琴は迷いなく弦を指で弾いた。自分が震動させた音と周りから聴こえてくる音がリンクする。ずれのないタイミングの合ったたった一音に、悪寒にも似た痺れが背骨を駆けあがる。興奮で指が走りそうになるのを、腹の底に響くバスドラムの安定した音が正しい道へと導く。いままで自分のリズムがバンドの土台だっただけに、身をゆだねる場所がある安心感が真琴の演奏にさらなる安定をもたらした。何度も聴いているはずのメロディアスなギターラインも悟の透明度の高い声も、今日は一段と美しく聴こえた。玲独特のドラムアレンジにも基本のリズムに狂いがないため、他の三人が惑わされることはない。
 演奏が終わると、一瞬の静寂が落ちる。
「すごくね? すごいしっくりきた!」
 興奮した第一声をあげた悟がハイタッチを求めて、リツコがそれに答える。
「すごい! 全然違和感ないよね?」
 紅潮した顔のリツコに同意を求められても、真琴はただ呆然と突っ立ってなにも返すことができなかった。はしゃいで突然でたらめな演奏を始めたリツコと悟から目を移す。ふー、と天井に向かって息を吐いた玲が真琴の視線に気づいて振り向き、はにかんで笑った。
「ベースうまいな、真琴。俺の思ったとおり」
 片手でスティックを回しながら誇らしげにそう言った玲に、真琴は震える足で一歩ずつ近づいた。
「思ったとおりって、なに?」
「だってまだ若いのにベース弾きの指してんもん。右手の人差し指と中指の皮が分厚いっていう」
 握手したときにしつこく指に触れていたのは、それを確かめるためだったのかといま気づく。自分の右手を一度確認してから、真琴は再び玲に視線を向けた。
「あ、あの……、あ…、あ―」
「なに、セックスの途中みたいな声だして」
「あの、ぼ、僕と一緒に、あの……」
「セックスしませんかって?」
「ち、違うっ!」
 わかっているくせにふざけておかしなことばかり言う玲に真琴は思わず怒鳴ってしまい、その自分の声の大きさに驚いて耳を塞いだ。そんな真琴の様子を見て玲は噴きだし、バスドラムのフットペダルをダンダン踏みながら手を叩いて大笑いしている。その太鼓の音に反応してリツコと悟もやってきた。
「言われなくても、俺はきみらと一緒に音楽やるつもりだけど?」
 玲の言葉を聞いて真琴はほっと息をついた。えらそうなんだよ、と玲の頭を小突く悟に、そういえば相談もなしに自分が勝手に決めることじゃなかったのだと焦っていると、背後からリツコに肩を叩かれる。
「マコと玲がいいって言うなら即決だよ」
 二人の意見はもうすでに一致しているらしく、リツコと悟は一度目を合わせてから真琴を見た。震える手でベースのネックを握り締め、真琴は玲に向かって深々と頭を下げた。
「バンドの仲間になってください」
 お辞儀をしたまま自分のつま先をじっと見つめていると、玲がいままで聞いたことのないような真剣な声で、よろしくお願いします、と言った。





フェードインラブ!(3)

 バンドの練習を重ねていくうちに、玲という人についてわかったことがいくつかある。
 まず、玲は二十歳の大学二年生だということ。体は細いのにたくさん食べるということ。そして、非情にタチの悪いセクハラをするということ。そのターゲットがバンドメンバーのなかでなぜか真琴ひとりだけだということ。でもそんなセクハラなんてチャラにしてもいいって思うくらい、ドラムを叩いてるときはかっこいいこと。
 ドラムのスツールに腰かけると、まず玲は目つきが変わる。いつも始めにスネアドラムを二回叩いてから、バスドラムのフットペダルを踏む。打楽器の確認をするようにすべての音を鳴らしてから、玲は毎回そこで穏やかな表情をする。楽器に対する敬意がその神聖なまなざしから伝わってきて、真琴はそのことに気づいたとき、玲の音楽に対する愛情の深さにひっそりと感動した。
 そう、そのときは、確かに感動したのだけれど。
「真琴! 今日こそは乳首なめさせてくらさいっ」
「い、いやです」
「そこをなんとか~」
 二十歳の男が高校生男子に、大衆居酒屋の座敷で土下座をしておかしなお願いをしている。そのさまは、周囲の客の目にどう映っているのだろうか。ハラハラして周りを見回してみるも、活気に満ちた店内の酔客たちは真琴たちのことなどまったく意に介しないようすで酒を酌み交わしていた。そのことにホッとしつつもこのセクハラをどうにかしたいのは事実で、真琴が向かいの席に座るリツコと悟に助けを求めて視線を向けると、なぜか二人して仏のような表情でこの茶番を見守っていた。
「あのマコが人に対して、はっきりイヤと言える日が来るなんてなぁ」
「ほんとよね、あの精神薄弱で胃痛持ちのマコがねぇ」
 そろって赤い顔をした二人が焼酎のロックをあおりながら、しみじみ呟いている。状況のおかしさにも気づかず変なところに感心している様子を見て、酒が回った二人は頼りにならないと真琴はため息を吐いた。
 今日はメンバー全員、午後から予定が空いていたため、陽の高いうちから五時間もスタジオにこもって練習した。ジンジャーエール片手に刺身を食べながら、きっと疲労度が高いところにお酒が入っちゃったから、いつもより三人のテンションがおかしいのだろう、と真琴は思った。酔っぱらうという感覚がまだわからないためひとり取り残された気分で楽しそうな客たちを眺めていると、ゴトっという音と同時に自分の太ももの上に生温かいものが乗っかって、真琴はまぐろの刺身を丸まま飲みこんでしまった。
「ん……っ、な、なになになにっ」
「真琴のひざまくらー」
「ちょ、待って、のいてっ」
 壁にもたれて伸ばしていた脚を畳み、手を使って必死で下に降ろそうとしても玲の頭は石のように動かない。泣きそうになっているところに追いうちをかけるように、玲が腰に両腕を回してくる。もはや膝枕なんてものではない。腕できつく腰を絞められた状態で、玲が呼吸するたびに無防備なお腹に熱い息がかかる。真琴はそのゾクゾクする感覚をなんとかやり過ごそうと真下にあるふわりとした質感の髪を緩くポカスカ叩いた。
「ね、ねえ……、お行儀悪いよ、打田さんっ」
「りっちゃん、さとちゃんってあいつらのことは呼ぶのに、なんで俺のことは玲ちゃんって呼んでくんないのさ」
 顔を上げた玲が不満げな表情で見上げてくる。自分で好きなように呼べと言ったくせにくだらないことを言うと思いながらも、真琴自身、そこを躊躇している自覚があるだけになにも言い返すことができなかった。
「なあ玲ちゃんって呼んでよ」
「いー……、まだ、まだダメ」
「なんで? 玲でもいいよ」
「それは、もっと無理、だよ」
「だから、なんで無理なんだよーっ」
「わ、わかんないのっ」
 自分でもわからないのだ。人見知りの真琴にとって、友好的に接してくれる年上の人というのはとても話しやすい。だから年上で明るいリツコや悟にはすんなり懐いたのだけど、どうしてか、同じく年上で二人以上に友好的に馴れ馴れしく(セクハラという武器を使って)コミュニケーションをとってくる玲と話すときはいつも緊張してしまう。でもそれはきっと、セクハラされるかもって身構えてるせいだろうという考えに至ってひとり納得していると、おなかの周りでもぞっと玲が動いた。その直後、背中に生っぽい皮膚の感触がした。
「乳首、さわらして」
「ぃ―、っ!」
 Tシャツをまくってなかに忍びこんできた手を必死で叩いても、酒で痛覚を失っているのか玲はまったく怯まない。パニックを起こして腰に巻きついた玲を振りほどこうと、ほふく前進で自分より大きな体を真琴が夢中で引きずっていると、額が誰かの膝にぶつかった。見上げるとそこには完全に酔いが醒めている冷酷な表情のリツコが、仁王立ちで自分たちを見下ろしていた。
「バカなことしてないで、帰るよ」
「ふぁ~い」
 真琴よりさき、玲が気の抜けた返事をする。頭をかいたあと大きく伸びをして、玲はあっさり真琴を解放した。自分があんなに嫌がっても放してくれなかったのに、リツコのたった一言に素直に従う聞き分けのいい玲に無性に腹が立って、真琴は立ち上がりかけた玲の向こう脛を反射的に足の裏で蹴り飛ばしてしまった。

 ワンルームマンションの一室。シャワーの流れる音を聞きながら、真琴は渡された缶コーヒーを開けることもせず握りしめ、立ったまま硬直していた。
 玲が自宅でシャワーを浴びている。その場所になぜ自分がいる?
 居酒屋を出たあと帰る方角が違うリツコと悟と別れ、酔っぱらって家までたどり着けないと嘆く玲の手をしぶしぶ引き、道案内されるままにこのマンションまで送り届けた。帰りがけ、打田さんって男の人が好きなんですか、と緊張を隠して根本的な疑問を投げかけると、いいや、と冷静な答えが返ってきた。
『真琴の乳首が触りたいだけ』
 笑いながらまた胸に伸びてくる腕を払って、やっぱりふざけてるだけなんだと、なぜかがっかりしてる自分に真琴は焦った。
 マンションに着いたとき、お茶でも飲んでいけば? という自然な流れの一言に、躊躇しつつも家に少し遅くなる、と連絡を入れた。そして玄関口を抜けたのはいいものの、缶コーヒーを真琴に投げ渡した玲はなぜかそのままバスルームに入ってシャワーを浴び始めた。
「なんで、お風呂入ってるんだろう……」
 独り言に答えてくれる人はいない。このまま放って家に帰ろうかとも思ったが、缶コーヒーをもらったことと居酒屋で脛を蹴ってしまったことが引っかかって、思いとどまる。だってまだお礼も謝罪もしていない。律儀にもそんなことを考えて、真琴はただそれだけのために玲を待っていた。
 いつのまにか止まっていた水音にも気づかず、突然バスルームから出てきた玲に驚いて、真琴は持っていた缶コーヒーを床に転がした。ふたが開いていなくてよかったと思った。
「お待たせー、真琴も入りな」
「は? は……、入らないよっ」
「え、なんで?」
 玲はねずみ色のスウェットパンツ一枚の姿で、タオルで乱暴に髪を乾かしながらさも不思議そうに尋ねてきた。どうして風呂に入るという話になっているのだろう。ただお茶を飲みにきただけなのに。
「僕、あの、帰る」
 ずいぶん端の方まで転がった缶コーヒーを追いかけて手に取ると、真琴は玲に向かってはっきりと自分の意思を伝えた。髪を乾かしていた玲の手が止まる。
「帰るのっ?!」
 なにをそんなに驚くことがあるのだろう。真琴はお茶を飲んで帰るものだと思っていたのに、玲のなかではいつの間にか真琴がここにとどまることになっていたらしい。
 いつどこでそんな解釈が生まれたのか。なんて大胆不敵な思考回路なんだろう、と半ば呆れて缶コーヒーの礼を告げると、真琴は玄関に向かって歩き出した。途中で脛を蹴ってしまったことを思い出して、あ、と声をあげて振り返る。
「あの、さっきはごめんね?」
「なにが?」
「蹴っちゃったから」
 スウェットパンツで隠れている脚の脛、中身はいったいどうなっているんだろう、と視線を向けると、玲がああ、と言ってわざわざ裾を捲くってくれた。細長い膝下の中央が赤黒く腫れているのを見て、真琴の顔はまたたく間に青ざめた。
「こ、こんなに腫れちゃったの……」
「うん。イエー、真琴が作ったあざー」
 本人目の前にしてなぜか自慢気に披露する玲とは裏腹に、真琴はますます青くなり、その場にしゃがんで痛々しいその痣に触れる寸前で手をかざした。
「湿布薬とか、ある?」
「あるけど、貼ったら治っちゃうじゃん」
「な、に言って、早くだしてきて!」
 頬を膨らませ、しぶしぶ歩きだした玲に付いて真琴も部屋のなかへ戻る。薬箱から取り出された湿布薬を玲の手から奪い取りその場にしゃがみこむと、無言で裾を捲くりあげ、玲の脚を引き寄せて痣の上にそっと貼りつけた。
「痛い?」
「痛くないよ、冷たくて気持ちいー」
「うそだ。こんな腫れてるのに。ごめんなさい。僕のせいでこんな……」
「お互いさまじゃん」
 立っていた玲が視線を合わせるように目の前でしゃがみこむ。前髪を後ろになでつけて痣の消えた真琴の平らな額を確認し、玲はほら、と笑って見せた。
「二週間も経てば俺のあざもこうなるってことでしょ? ほんと生き物の再生力ってすごいよなー」
 痣の消えた額の中央あたりを親指で撫でながら的外れなところで感心している玲に、真琴は違う、とゆるく首を振った。あの痣は真琴がひとりで勝手に転んで作ったもので、玲のは真琴が直接危害を加えてできたものだ。
 人に暴力を振るったことなんていままで一度だってない。なににそこまで自分が苛立っていたのかもはっきりわからないまま、衝動的に蹴ってしまっていた。真琴はそんな自分の得体の知れない尖った感情が怖くなって、背筋を震わせた。それにもし当たりどころが悪かったら、もし蹴った拍子に玲が倒れたりしていたら。いま考えたらぞっとする。痣を見せられるまで自分が犯した行為の重大さにすら気づかず、のんきに缶コーヒーなんてもらってぼーっとしていたことも恐ろしい。
「なに真っ青になってんのさ」
 いつものようになんのためらいもなく頬に触れようとしてくる玲の手を、真琴は条件反射で払いのけた。たいした力なんて入っていないのに、パシっと鳴った乾いた音に青白い顔からさらに血の気が引いてゆく。制御がきかない自分の手のひらを見て呆然としていると、玲があのさー、と頭をかきながら気の抜けた声を出した。
「俺、正直嬉しかったんだよね。真琴っていつも俺に話しかけられると、ビクビクしてるじゃん。それがちゃんとイヤって言葉にしたり、腹が立って足で蹴ったり。そうやって意思表示してくれると、俺ばっか詰めてた距離が真琴のほうからも近寄ってきてくれてんのかなーっ、てちらっと思ったりして」
 自分とはまったく違う視点から物事を見ている玲の言葉に、真琴は驚いてしばらく瞬きを忘れていた。おっきな目にゴミが入るよ、と目を手のひらで覆われて、暗い視界のなかパシパシと何度か目を瞑る。
 玲の手の温もりがまぶたから去って視界がひらけると、さっきまでの暗い気分が一緒にどこかへ行ってしまったような気がした。
「やさしいね」
「……なんだそれ」
 思わず声に出してしまった真琴の言葉に、玲は色素の薄い瞳を揺らしてぶっきらぼうに返した。そして真琴に背を向け、小さなベランダに続くガラスの引き戸を開けて桟に腰かける。
 照れてるみたい。珍しい。少し猫背の丸まった背中を凝視していると、カチッという音がして白い煙が無風の暗闇のなかに浮かんだ。
「たばこ、吸うの?」
「気分がいいときだけね」
 玲は歌うようにそう言うと、長い息で煙を吐きだして半分だけ振り返る。照れたように笑った横顔を見たら、胸がぐーっと圧迫されて息苦しくなった。
「ベースとドラムはさ、やっぱ心がつながってないとね」
 暗闇に向かっておどけたように言った玲の言葉を聞いて、今度は涙がこぼれそうになる。一緒にリズムを奏でる人が、他の誰かじゃなくこの人でよかった。そう思うと自然に体が動いた。玲の近くに行きたい。手を伸ばせば触れることのできるところに居たい。そっと近づくと、隣の場所を空けてくれる。玲の隣は夏草と甘い煙草のにおいがした。
「俺はもう、真琴じゃないベースの後ろで叩かないって、いま決めたから」
「僕も。れ……、玲、だけにする」
「うおっ! 名前で呼んだっ」
 きゃー、と叫んで後ろにひっくり返った玲を大げさだなと思いながら、でも顔はゆるんでしまう。無理にこらえないで声をあげて笑ってみると、心に羽根が生えたみたいにウキウキした。足をばたつかせてはしゃいでいる玲にハッと気づいて、真琴は咄嗟にその動きを止めさせた。
「痛くないの?」
「ないない」
「ドラム、ペダル踏むときに響かないかな」
「平気だって、男の子なんて怪我してなんぼだろ?」
 でも暴力はいけない。きちんと目を見てもう一度謝ると、玲が真面目だね、と言って、寝ころんだまま手を伸ばして優しく頭を撫でてくれた。子供扱いみたいな仕草なのに、なぜか胸がきゅんとなる。いまだけじゃない。いつも玲がふざけてペタペタさわってきたり、なにげなく肩に手をおいてきたりするときも、胸が甘く締めつけられた。リツコや悟に触れられるときとは明らかになにかが違っている。真琴はそんな自分の意識外の身体の反応に戸惑っている。だから玲といると緊張するのかもしれない。
「このあざが治るまで、なにか困ったことがあったら言ってね? 僕にできることならなんでもするから」
 まだ玲の手は真琴の頭を撫で続けている。触れられていることを意識から遠ざけようとめずらしく早口で話しかけると、玲はむくっと体を起こして真琴の目を正面から見据えた。
「なんでも?」
「僕にできることなら、する……よ?」
 玲の瞳のなかにどろりとした妖しい光を見つけて、真琴は座ったまま後ずさる。
「ほんとになんでも?」
「う、うん」
「まじで? 超ラッキーじゃん俺! じゃあ乳首なめさせ―」
「無理!」
 突然、笑顔になった玲が言い終わるより早く、その形のいい頭を平手ではたいてしまった。自分のとった反射的な行動に愕然として、真琴は自分の学習能力のなさを呪い、思いのほか手の早い性質を知った。





フェードインラブ!(4)

「ライブしようぜ」
 玲のひとことに各々楽器を片付けていた手がピタリと止まる。しばしの静寂のあと、リツコと悟は玲の提案にあっさりと賛同した。
「どこでする?」
「いつやる?」
 まだひとりなんの反応も返していない真琴を無視して、三人はライブについての細かな計画をさっそく立て始めている。せっかちなところもよく似ているリツコと悟が話に加わると、ものすごい速さで物事が決まっていくことを真琴はよく心得ていた。
「ま、待って。あの、ライブって、僕、そんなのやったことないし。なにしたらいいのかわかんない……」
「マコはいつもどーり、ベース弾いてりゃいいのよ」
「そうそう、本番はどうせ胃が痛くなるから薬もってけよ」
 慌てて口をはさんだけれど、軽くあしらわれてしまった。能天気なリツコと悟の返事に真琴が頭を抱えている間にも、話は着々と進んでいく。貸しスタジオからいちばん近いライブハウスをリツコがフロントに尋ねに行き、場所がわかると悟が問い合わせの電話をかける。ちょうど出演キャンセルがあったところらしく、電光石火でライブの日程が決まり、下見ついでにライブを見に行くと言って、リツコと悟はさっさと帰っていった。
 嵐のような二人が出て行った個室の扉を呆然と眺める。いったいなにがどうなってこうなったのか。さっぱり理解できなくて首をひねっていると、隣でそんな真琴の様子を見た玲が笑いながら言う。
「ライブ楽しみだな、来週だって。さっきの話聞いてた?」
「聞いてな、来週……? む、無理! 僕、人前で演奏なんてできないよ、自信ない」
 想像しただけで怖くなって無意識に胃のあたりをさすっていると、玲がその手をぎゅっと握って強引に腹部から離させた。
「真琴はそうやって暗示かけるから、胃が痛くなるんだよ」
「暗示?」
「痛くなるかもー、とか、ライブやったら失敗するかもー、とか。先読みして悪い方に考える癖、もうやめな」
 目をしっかり見据えてさとしてくる玲の顔は、いつものふざけているときみたいに笑っていない。造作が整っているぶん、真剣な表情をすると得体の知れない凄みがあった。この人はモテる人なんだ、って唐突に気づく。もちろん見た目もその要素に入っているけれどそれだけじゃない。人と向き合って、言いにくいことでもその人のためになることだと判断したら、ちゃんと言葉にして伝える勇気を持っている。
 なにも起こる前からなにか悪いことが起きるんじゃないかと、いつも怯えていた。玲に言われて初めてそのことに気がついた。指摘され、注意されたことに苛立ちや反発心はなく、心は不思議と静かに凪いでいる。玲の言葉が、じんわりと脳の中枢に沈んでゆくのを感じた。
「うん、もうやめる」
 注がれたままの強い視線に導かれるようにぼんやり頷くと、玲はなぜか眉間に皺を寄せた。その表情の意味が読み取れなくてじっと見つめていると、突然髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜられる。
「な、なに? ちょっと、痛いよ」
「なんだよっ、いまのカワイイのはー」
「かわいいって、なに? い、痛いってば」
 質問には答えず、さんざん人の髪をかき回したあと、玲は真琴の額をぽん、とはたいてくるりと背を向けた。と思うと、今度は自分の髪をぐしゃぐしゃにしている。頭のネジがどっかいっちゃったのかもしれない、と不安になって様子をうかがっていると、ぱたりと動きを止めた玲が乱れた髪のまま振り返った。
「俺はワクワクしてる。真琴がベース弾いてるところ、みんなに見せびらかしたいんだ」
 真剣な表情と四方にとんだ髪型のギャップが愛おしくて、無性にその胸に飛びつきたくなる。でもきっとそんなことしたらおかしな人だと思われるから、必死でその衝動に耐えた。なんだろう、この不思議な感覚は。心臓が思考を無視して玲に吸い寄せられるみたいな、強烈に危険な感じ。経験したことのない浮き足立つような甘い衝動を持て余して、真琴は自分をまっすぐに見つめてくる澄んだ瞳から目を逸らして、弱々しく微笑んだ。


 夏休み最後の日の夜。
 ライブハウス『空蝉』は貸しスタジオのある場所から線路をはさんだ駅の南側にあった。真琴たちのバンド『ルカ』(バンド名は悟の愛猫の名前にした)を含めた五組のバンドのリハーサルを終えて外に出ると、湿度の高い熱気がむっと体にまとわりついた。日はすっかり落ちたものの、風のない晩夏の夜は太陽の残した熱をまだ消化しきれず、真琴の全身を茹だらせる。
 緊張と興奮でじっとしていられなくて、近所のコンビニに用もないのに足を運びライブハウスに戻ると、さっきは無人だった入り口に黒山の人だかりができていた。ビジュアル系ファッションに身を包んだ若い女の子たちの脇を抜けて、建物のなかへ入る。ほとんどが無名のチケットを手売りするバンドのなかで一組だけ固定ファンがついているバンドがあるらしく、スタンディングで百人入ればいっぱいの小さな箱だけれど、今日は八割がた埋まるんじゃないかとスタッフが話していた。
 凍りそうなほど冷やされた狭い楽屋に一歩足を踏みいれると、色んなバンドの人たちが和気藹々と楽しげに会話していた。
「おせーよ真琴、こっち」
「ご、ごめん」
 玲に声をかけられて、ほっと息をつく。部屋の奥に見知ったメンバーの顔を見つけて、真琴は人のあいだをすり抜けるようにそちらに向かった。真琴の顔を見るなり、胃薬飲んだ? と悟が尋ねてくるので首を振って否定する。
「今日は、大丈夫だよな」
 背後から玲が問いかけてくるので、振り返ってしっかりと頷いた。リツコと悟はその様子を見て驚いたような表情をしたあと、拍手をして、真琴の成長をまるで自分のことのように喜んでくれた。玲の言葉が魔法の薬のように自分の体に浸透している。大丈夫、楽しめる。もう一度自分の心に言い聞かせると、不安は徐々に期待へと変化していく。
 スタッフの収集で真琴たちは楽器を持って楽屋を出た。舞台袖に立つと、さっきまで空っぽだった会場から人の熱気が伝わってくる。テクノポップが静かに流れる舞台上で楽器のセッティングを済ませ立ち上がると、会場内の隙間ない人の群れに圧迫感を覚えて、暗い視界のなか思わず玲を探して振り返ってしまった。
大丈夫って、言って。
 真琴の視線に目ざとく気づいた玲に、小声で信号を送る。眩しいくらいの笑顔で返ってきた『大丈夫』という言葉に、一瞬冷えた胸のなかにほのかな明りが灯る。
 スタッフの合図で流れていた音楽がフェードアウトし、舞台上に煌々とライトが照らされる、と同時に玲のカウントで全員の音がはじけた。呆然と突っ立っているほぼ満員の客を詰めた箱が、一足遅れで縦に揺れた。突然吹き荒れた熱風を音で押し返す。心臓に直に響くバスドラムのリズム。地を這うベースラインの上をなめらかに動き回るギターの旋律。せつなげで透明な声が天を支配すると、もう客との境界線が見えなくなって、ライブハウスの箱の中身が一緒くたになった気がした。何度も何度も練習して作りあげた自分たちの音をいま、会場全体と共有している。体中に溜まった幸福で身体がはち切れそうになる恐怖を覚えた。
 振り返ると玲が気づいてこっちを見る。カッチリ合った太鼓のリズムと自分の指が弾く音に鳥肌が立つ。頭が空っぽになりそうな軽いスネアドラムの、玲独特の変則的なアレンジにうっとりしてしばらく客に背を向けていたら、間奏中に寄ってきた悟に頭をはたかれてしまった。でもそれすら会場を盛り上げる要素になるらしく、ボルテージの上がる人の群れに向けて最後は夢中で音をかき鳴らした。
 終わるまで、あっという間だった。
 テンションの高い客たちに何度もお辞儀をして舞台をあとにすると、そこで初めて手が震えだした。遅れてやってきた妙な緊張と醒めない興奮で、目の表面に涙の膜が張る。
 だめだ、泣いてしまいそう。
 ライブハウスのスタッフやバンドの人たちのあいだをかき分けて、真琴はベースを抱えたまま裏口から外に出た。ぬるい夜風が火照った体にまとわりつく。遮断機の下りる音や車の騒音が、急速に感覚を現実に引き戻す。
 まるで夢のような時間だった。まったく知らない人たちと音楽を通じて一緒になれた気がした。真琴はずっと噛みしめていた唇を解いた。我慢して緊張させていた顔の筋肉が緩むと、目から大粒の涙が次々外に飛びだしてゆく。声も上げず、地面にボタボタ落ちる雫をじっと見つめていると、背後でギギっと扉の軋む音がした。
「真琴?」
 裏口から出てきた玲が振り返った真琴の顔を見て、一歩後ずさったあと駆け寄ってくる。
「な、どうしたっ。なんで泣いてんだ?」
 さっきライトを浴びてドラムを叩いていたときはあんなにかっこよかったのに、いまは焦ってなにもできずおたおたしている玲が可笑しくて、真琴は涙を流しながら思わず笑ってしまった。
「感動して、しまったの。あ。もうなんか、涙、止まんない……。んぅ、う……っ」
「わわ、わかったわかった。しゃべんなくていいから。苦しいだろ?」
 首にかけた鮮やかな青色のタオルで顔中を拭われる。かすかに香る洗剤に混じった玲の匂いにほっとして、無防備に顔をあずける。次から次へとあふれる水滴を丁寧に拭う玲は、穏やかな表情をしていた。
 それはあの、楽器を見つめるときの波ひとつない海のような、静かで神聖なまなざしだった。その慈愛に満ちた深い色の瞳には、自分以外のなにも映っていない。
 玲はいま、楽器と同じように自分のことを見ている。いつものふざけているときの顔とは違う。表情ひとつでこの人は自分のことを大切に思ってるんだとわかる、そんな目をしている。
 真琴は唐突に気づいた。玲は自分が好きなのだと。
 ひたむきに自分に向けられる意思の持った目に怯えて、真琴は玲から逃れるようにゆっくりと視線を落とした。
 玲の叩くドラムの音が好きだ。玲が楽器に全身全霊の愛を注いで、楽器はその彼の思いを包みこんで音を放つ。玲に愛されて丁寧に大切に扱われている楽器が、ずっと羨ましいと思っていた。でもいざその立場になると急に怖くなった。玲から放たれる強烈なメッセージを受けとめるだけの器を持っていない。自分なんかじゃ役不足な気がした。
「真琴……」
 顔が見えなくても名前を呼ぶ声のトーンで、優しさと真摯さが伝わってくる。いつもはふざけたりセクハラしたりするけれど、玲を形成する芯の部分にはきっと情の深さが詰まっている。呼びかけに反応しないでいると、頬を両手で挟んだ玲が真琴の顔をゆっくりと上げさせた。まばゆい光のようにまっすぐ見つめてくる瞳から逃れるため、固く目を閉じる。真琴はなんだか、自分が正義の太陽を恐れる闇の世界の住人みたいだと思った。
「いや……っ」
 怖くて思わず呟いた直後、唇に唇が触れて離れた。柔らかな吐息と、味のしない熱い玲の身体の一部。
「ごめんな、真琴」
 いつもの明るい声がしたからホッと安心して目を開いてみたら、今度は玲のほうがうつむいていてもう真琴を見ていなかった。そのまま黙って真琴の首にタオルをかけると、背を向けてもうなにも言わず、ライブハウスの建物のなかに消えていった。
 ひとり取り残されて、真琴はそこでやっと流れていた涙が止まっていることに気がついた。
 玲はさっき、なんで謝ったのだろう。明るい声で言ったごめん、という言葉は、いったいなにに対してなのか。考えようと試みても頭は回らない。ぼんやりと玲の去っていった扉を見つめながら、無意識に指で唇に触れる。
 触れてすぐ離れていったほんの一瞬の接触。真琴はその曖昧で不確かな記憶が消えてしまわないように、しばらく指先で唇をなぞっていた。





フェードインラブ!(5)

 夏休みが明けると学校が始まる。
 久々に七時にセットした目覚ましで起きて、両親と三人で朝のニュースを見ながら静かに朝食を食べる。いってきます、と声をかけて自転車で学校に向かい、ざわつく教室に入るとおはよう、と声をかけてくるクラスメイトにおはよう、と返して自分の席についた。
 平凡な日常が、また始まる。夏休みのあいだに目まぐるしく起こった出来事との落差に、寝起きの体がまだ追いついてこない。
 昨日の夜の濡れた質感とは違う、さらさらと乾いた唇を真琴はまた無意識にさわっていた。
 昨日はライブで気力を使い果たしてしまったため、帰宅して眠りにつくまで抜け殻のようにぼんやりしていたが、いまになってようやく、玲の唇が触れた生々しい感触が脳によみがえってきた。先生が教壇でなにか話してるのも耳に入ってこない。なんでもない朝のホームルームなのに、真琴はひとり胸をドキドキさせていた。
 いつもの笑顔じゃない、楽器を見るときの真剣なまなざしと目が合った。怖くて、心臓がおかしいくらいバクバクなって、その場から離れたいのに身動きがとれなかった。穏やかに静かに生きてきた真琴の感情のなかに、いままで経験したことのないような激しい情動がうずまく。
 これはなんなのだろう。自分はいったいどうしてしまったんだろう。自分の心のことなのに、真琴はうまく把握できないでいた。
 玲にキスされた。もしかしたら誰にでもするのかなって考えてみる。いつもふざけてばかりいる玲のことだからその思いつきは信憑性がある気がしたけれど、よくよく考えてみたら玲のおふざけの対象はバンド内では真琴だけで、悟とリツコにはさわったりセクハラしたりしてるのを見たことがない。
 玲は本当に自分のことが好きなんだろうか。昨日ふと思ったことが頭をよぎって、真琴は赤面した。やっぱり、あんなかっこいい玲が根暗で平凡な自分を好きになるはずがないと頭で否定しても、その思いつきは意識を無視してどんどん膨らんでいく。昨日のキスの直前、自分を見る真剣で愛おしげな玲の表情がポンと頭に浮かんだ瞬間、真琴は思わず机を両手で叩いて立ち上がってしまった。
「どうした、佐井?」
 先生だけじゃなく、クラスのみんながこっちを見てる。そうだ、ホームルームの最中だったんだ。
「な、んでも、ないです」
 朝から「いってきます」と「おはよう」しか発していなかった喉はまだ完全にひらいてなくてよれよれの声が出た。一瞬の沈黙のあと、教室が大きな笑いに包まれる。真琴は赤い顔を隠すようにうつむいて、静かに席についた。

「佐井くん」
 帰ろうと教室を出たところで背後から名前を呼ばれた。振り返ると、そこには知らない女子生徒が二人立っている。
「佐井くんってバンドやってたんだね」
 髪の短いほうの女性に突然そう言われて、真琴は驚きつつも頷いた。
 二人は、ルカが対バンしたビジュアル系バンドのファンらしく、昨日、空蝉に来ていたらしい。二人とも一学年上の三年生だという。受験勉強の息抜きに、ときどきライブハウスに行くのだと話してくれた。
 バンドでベースを弾いている真琴を見て、同じ高校の人間だと気づき声をかけてくれたようだ。真琴は自分みたいな影の薄い人間のことを学年の違う二人が知っていてくれたことに、純粋に驚いていた。
「ねえ、きみのバンドのドラムの人、かっこいいよね」
「え…………、あ、はい」
 さっきまで脳内を占領していた人物が話題に上った。
「あの人、なんて名前なの?」
「う……、打田、玲って言います」
「玲って言うんだぁ。じゃあさ、玲をうちらに紹介してくれない?」
「え?」
 ずっと真琴と話をしてくれているほうの髪の短い女性が、玲のことを玲って呼んだことにびっくりする。あの社交的なリツコでさえ、初めて会った日は玲のことを打田さんと呼んでいたから余計だった。真琴にいたっては玲って呼ぶまでにずいぶん苦労したため、そんなにあっさりと名前で呼んでしまえることが単純に羨ましかった。それに―。
「紹介、ですか?」
 玲だけ? リツコや悟は?
 そんな素朴な疑問が頭をよぎる。でも、二人はもしかしたら玲のドラムに特別惹かれたのかもしれない。あの力強くて安定した、魅力的な音に。玲のドラム信者である真琴に、その気持ちはよくわかった。
「ねっ? お願い!」
「わ、かりました」
 断る理由もないので承諾すると、二人はキャー、と叫んで手をとり合い、想像以上に喜んでくれた。ただ、紹介するだけだというのに。
 不思議に思いつつぼんやり突っ立っていると、次のライブの日決まったら教えてね、と真琴の肩を叩いて二人は去っていった。


 真琴の学校が始まる九月からは、バンドの練習は週末の土日に集まってすることに決まっていた。夏休みのあいだ二日に一度は集まっていたのが、五日間もみんなに会えないと寂しく感じた。週末が待ち遠しくてそわそわする。でも同時に、あのキスの一件があってから初めて玲に会うので、胸が痛いくらいドキドキしてもいた。
 玲はどんな顔をして、どんなふうに自分に話しかけてくるのだろう。
 スタジオの張り紙だらけのトイレの鏡で、赤く火照って変な表情をしている自分の顔を確認し、真琴はため息を吐いた。いつも自分がどんな顔をしていたのか思いだせない。玲の前でこんなおかしな顔をずっとさらしていたのだろうか。そんなことを考えているうちにもどんどん頬が赤らんでいくので、真琴はあきらめてトイレを飛びだしスタジオの個室に向かった。扉を開けるとなかには玲がひとりでいた。まだ着いたばかりなのか空調の温度調節をしているところで、真琴が締めた扉の音に反応してこっちを振り返る。
「おー真琴、ひさびさ。早いじゃん」
「あ…………、うん」
 玲があまりにいつも通りなので、真琴は拍子抜けしてしまった。しばらく呆然と立っていたが、まだ挨拶も返してないことに気づいて、こんにちは、と改めて頭を下げると、なにそのタイミング、と笑われた。
 そのあとリツコと悟が合流して何事もなく練習が始まる。いつもと変わらない、楽しくて気持ちのいい時間。細かいズレを修正して、アレンジを変えて、お互いに意見を出し合う。練習終わりにファミレスに寄って音楽の話で盛り上がりながら夕食を食べ終わると、何事もなくそれぞれの帰途についた。
 いつもどおり。何事もなく始まって、何事もなく別れた。自分はいったいなにが起こると期待して、今日玲に会うことをあんなに身構えて待っていたのだろう。
 この一週間、ずっと玲がキスをした理由を考えていた。ライブ後の高揚したテンションでキスしたのかなとか、やっぱり自分のことが好きだからキスしたのかなとか、どうしてキスのあとにごめんと謝ったのだろうとか、とにかくいろんなことを想像してドキドキしたり落ちこんだり。でも今日が来たらその答えがわかるのだと思っていた。玲から説明してもらえるって、なんの根拠もないのにそう思っていた。
 もしかしたら、なかったことにされてしまったのかな。
 ファミレスからの帰り道、ひとり国道沿いを歩きながら夜空を見上げる。鼻の奥が塩水が入ったみたいに、つんと痛い。
 この一週間、興奮と緊張のあいだでユラユラさまよっていたのは真琴だけで、玲のほうはキスしたことなんてもう忘れてしまっているのかもしれない。そう考えるとトイレの鏡で百面相をしていたさっきの自分がなんだかまぬけに思えた。
 真琴はふっと無理やり笑って弱々しい息を吐いた。
「ファーストキス、だったのに、な」
 呟いた声は、車の走行音にかき消された。

 翌日の日曜日も同じ時間に集合してバンドの練習をした。昨日のおさらいとリツコが作ってきた新曲の音合わせをしていたら、あっという間に時間が過ぎていった。
「今日もみんなでごはん食べる?」
 ベースをアンプから外してみんなに声をかけると、悟が悪りぃ、と片手で謝る仕草をした。
「これからリツコと空蝉行ってくっから」
 前回のライブ会場のスタッフから、今度は同じジャンルの音楽をやっているバンドのライブの日に出ないか、との打診があったらしく、その快諾の返事のついでに今日のライブを二人で見にいくということらしかった。
「玲とマコでごはん行ってきなよ」
 リツコの言葉に曖昧にうなずいて、真琴は玲をうかがい見た。玲は二人でごはんに行けと言われても困ってるような様子はまったくなく、リツコに、スタッフさんによろしくー、と陽気に答えていた。
 騒がしい二人が片づけを済ませてスタジオを出ていくと、途端に静かになる。ドラムのスツールに腰かけてうつむいている玲を、真琴は今日こそなにか言ってくるかもしれないと緊張しながら見つめていた。
「なに食うよ。お兄さんがごちそうしちゃるから言ってみ?」
 沈黙を破ったのは玲のいつも通りの明るい声だった。でもそれは真琴が待っていた言葉じゃない。
「お寿司が、食べたい」
 二人きりになったあとの沈黙にドキドキしてしまった自分が悔しくて、真琴はいじわるな提案をしてみた。
「回ってるやつだよな?」
「止まってるのが、食べたい」
「どうしたんだよ真琴! 俺はおまえをそんな悪い子に育てた覚えはないぞー」
 シンバルをシャンシャン鳴らして玲がくだらないことを叫んでいる。真琴だって玲に育ててもらった記憶はない。
「冗談だよな? どしたの? 機嫌悪い?」
 機嫌は悪いわけじゃないけれど、玲がキスの話をしてくれないからちょっとふてくされてる、だなんて口が裂けても言えない。
 昨日は気づかなかったけれど、今日一日冷静に玲を観察していて、真琴はひとつ気づいたことがあった。それは、いままでと変わらない玲の態度のなかで、ひとつ、以前とあからさまに違うところ―。
 スツールからぴょんと跳ねるように降りて解けた靴ひもを結び直している玲にゆっくりと近づく。そのつま先に触れる一歩手前の位置にしゃがみこむと、なめらかな手つきで蝶結びをしながら、なに? とこちらを見ないで問いかけてくる。離れているときは目を合わせてくれるけれど、一定の距離まで近づくと玲はこっちを見ようとしなくなった。キスの前まではこんなに近づいたら目が合う前にセクハラをしかけてきていたが、そうやって触れることも玲はしない。
 出来上がった蝶結びの結び目をじっと見つめる玲の後頭部を見る。一方通行の視線と触れてくる手がないことが思いのほか寂しいことに気づく。あんなに嫌がってみせていたけれど、本当は玲に触れてほしかったんだ。
「うし、じゃあ回転ずし食いにいくか」
 勢い立ち上がった玲が扉に向かって歩き出そうとする、その足首を咄嗟に掴んでいた。驚き振り返って見下ろしてくる玲と、やっと間近で目が合ったことに気が抜けてしまい、真琴は純粋な疑問を口にしていた。
「なんで、僕にさわらないの?」
「へ…………?」
 上目づかいで放った恨み言のような言葉の浅ましさに、真琴は言ったそばから自分自身で打ちのめされた。見ひらいた目で見下ろしてくる玲の足からぱっと手を放して、驚きの視線から逃げるように体を反転させる。
「あ、あの……、なんでもないの、ごめん。いまの忘れて、お願い」
 顔から火を噴きそうだった。これではまるで恋人にかまってもらえなくなって、欲求不満が爆発した人のセリフみたいだ。背中に視線は感じるものの、玲からはなんの反応もない。火照った頬を両手で覆い隠して、なんとかこの重い沈黙を破る言葉を探す。そのとき、頭のなかに数日前にあった出来事が浮かんだ。
「あ、あのね。この前高校で先輩の女の人に話しかけられてね。玲を紹介してほしいって言われたの。すっかり言うの忘れていたんだけど」
 たぶんタコみたいになってるだろう顔を両手で仰いで、真琴は玲に背中を向けたまま早口でしゃべった。二人の特徴や、彼女たちが前回のライブを見に来ていて、その翌日に声をかけられたことなどを簡単に説明した。そして次のライブの日に彼女たちを紹介する旨を伝える。恥ずかしいからひとりでペラペラしゃべっていたのだけど、玲から相づちのひとつも返ってこないことに気づいて、真琴はゆっくりと振り返った。
 玲と目が合う。その眉間にしわが寄っている。その顔は痛みをこらえているようにも、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。はっきりと特定ができない複雑な表情だったけど、彼の感情がマイナスのほうに傾いていることだけはわかった。
「まじで無理、勘弁してよ」
 無理、って…………?
 初めて聞く玲の冷たい拒絶の言葉に、背筋が凍る。
 いったいいまの話のどこに、玲をそんな不快な気持ちにさせる要素が入っていたのだろう。赤く染まっていた真琴の頬はみるみる青ざめてゆく。そしてパニックのなか必死で自分のついいましがた話した内容を思い起こしていると、その答えにぶつかる。
 真琴が言った、なんでさわらないの、という言葉。始め、玲は足首を掴まれて驚いた表情をしていた。そのあとは背中を向けてしまったため、彼がどんな顔をしていたのか見えていない。自分で言った言葉に恥ずかしくなって、それでもういっぱいいっぱいでひとりペラペラしゃべってしまったけれど、玲はそのあいだ一音も声を発さなかった。さっきは玲の気持ちまで考える余裕がなかったけれど、冷静になれば真琴のあの言葉がこんな事態を招いたのだとわかる。
 突然なぜさわらないのかと言われて、玲は気持ち悪くなったのかもしれない。昨日と今日のたった二日スキンシップがなかったからって、恋人づらでそんなセリフを言われたら引いてしまってもおかしくない。真琴は玲にキスされたことで、この一週間舞い上がっていた。自分のことが好きなのかも、というひとつの可能性にドキドキして、久々に会った玲がいままで通りに振る舞うことにふてくされて、触れられないことに不満を覚えて。
 でも玲にとってみれば、あのキスにそんな深い意味なんてなかったのだろう。ライブ後のノリとか、真琴が泣いていたから慰めるためとか。理由はどれかわからないけれど、いまの玲の反応を見るかぎりあのキスに深い意味がなかったことには間違いなさそうだ。
「う、ウソウソ、ごめん。いまのなし!」
「え……?」
 自分のつま先を見つめて暗い思考にふけっていると、玲が明るい声をかけてきた。顔を上げると、玲の顔からはさっきのマイナスの表情が消えていた。真琴が沈んでいるのを見つけて、優しい玲はそんな言葉でフォローしてくれたのかもしれない。
「今度、その先輩たち紹介してよ」
「う、ん。わかった」
 なんとか笑顔で返すと、玲もにっこり笑う。その笑顔はいつもと違ってなんだかぎこちなく見えた。





フェードインラブ!(6)

 二回目のライブには、玲の大学の友達という人たちが男女合わせて五人来ていた。楽屋に差し入れを届けてくれて、リツコと悟とともに玲に紹介される。当たり前のことだけど、玲には自分の知らない世界があることを初めて意識した。真琴が高校に通うのと同じで、玲も大学やバイトに行く。真琴は自分の高校にみずからライブに招待するような特別親しくしている友達がいないけれど、玲は大学やバイト先に親密な交友関係を持っているようだ。
 友達のひとりの胸の大きな女の人が、すし詰め状態の狭い楽屋でずっと玲の隣にいた。そのグロスできらめく肉厚な唇が玲の耳元でなんども囁く様子を、真琴は差し入れのバウムクーヘンを食べながらぼんやり見ていた。
 自分たちの出番が終わって、真琴はフロアに下りた。バーカウンターでこっそりもらったモスコー・ミュールというお酒を一口飲む。甘みと苦みが半々の液体を飲み下すと、喉がカッと熱くなった。
 ライブが楽しい。二回目のライブは初めての前回と違って少し余裕を持って客席を見渡せた。自分たちの音に反応して盛り上がってくれるお客さんを見ると、気持ちが高揚した。そしてなにより演奏中は、近づいても玲が絶対こっちを見てくれる。日ごとに距離を置かれる恐怖もこうやって音楽をやってさえいれば、なんとか玲の気持ちを繋ぎとめていられる錯覚にとって替えられる。
 ここ数日、真琴は自分が純粋に音楽と向き合っていないことには気づいていて気づかないふりをしていた。玲は夏休みが明けてからの一カ月のあいだに、リツコや悟が不自然に思わない程度にゆっくりじわじわ時間をかけて真琴との距離を離していった。真琴の機微や落ちこみには相変わらず敏感で、察知するやフォローするところは変わらない。そういう前提があったから、二人の目が合う頻度が少なくなっても、いままでほど玲が真琴にかまわなくなっても、リツコと悟はそれほど変に思わなかったのかもしれない。
 平等になったんだと思う。玲の真琴に接する態度は、リツコや悟に対するものと同じになってしまった。特別じゃない、三人のなかのひとり。いままでひいきされていたのはメンバーから見ても一目瞭然だっただろうけれど、玲はその特別扱いを不自然に見えないようにゆっくりとなかったことにしていった。それはまるで魔法かと紛うほどに巧妙で、そして真琴にとっては拷問のような時間だった。
 リツコと悟がたとえ気づいていなくても、徐々に玲が離れていくのを身をもって体感している真琴が、その変化に気づかないはずがない。いま思えば玲に言ってしまった、なんでさわらないの? という発言がこの結果を招く引き金になったのだとはっきり言える。ライブ後の解放感から悪ノリでキスした男相手に、さらに先を求めるようなことを言われたんだから、距離を置きたくなるのも当然だ。
 玲が自分のことを好きだなんて、よくそんな都合のいい勘違いができたものだ。真琴は爆音で奏でられる音楽を聴きながら、天井を見上げてカラカラ笑った。なんだかもう笑うしかない気がしたし、お酒のせいか頭がふわふわして気持ちいいし、それになにより今日は楽しかったし。
 ほろ酔い気分で真琴はひとり会場を抜けだし、裏口から小さな通りに出た。空き地を囲む冷たいフェンスに興奮とアルコールのせいで体温の上がった気だるい体をあずけ、雨上がりの湿っぽい空気を胸に思いきり吸いこむ。
 ふと、近くに人の気配を感じて、真琴は自然とそちらに目を向けた。暗い夜道に男女が立っているのが見える。その二人を真琴は知っている。片方は玲で、もう片方の髪の長い女性は自分が玲に紹介した高校の先輩だ。
 今日のリハーサルのとき、高校の二人の先輩は真琴が事前にライブの日を知らせていたため、ライブハウスに姿を見せた。声をかけられて促され、二人を玲に紹介した。簡単な挨拶を交わす三人を見届けてそれで紹介は終わった。はずだった。
 ずっと真琴に話しかけてくれていたほうの、髪の短い先輩はどうしたのだろう。彼女の後ろでずっと微笑んでいただけの髪の長い先輩が、いまはちゃんと玲と会話している。
「なんで?」
 紹介して、終わりじゃないの?
 思わず呟いた直後、女性が唐突に玲の胸に顔を埋めた。そのまましばらく動かなかった玲の手が、彼女の長い髪に遠慮がちに触れた。
「え……」
 玲が自分に触れることはあったけれど、その手が自分以外の誰かに触れるのを真琴は見たことがなかった。さっきまでお酒のおかげでふわふわ気分がよかったのに、急に胸が苦しくなった。紹介したあとにこんな展開が待っているなんて思いもしなかったのだ。
 カラカラ、と間近でなにか音がした。真琴はそれが自分の手からすべり落ちた空のプラカップが、道を転がる音だと気づかなかった。見たくなんてないのに、視線も身体も凍りついたようにその場から離れない。にじむ視界に目を凝らしてじっと見ていた玲のかかとに、透明のカップがコツンとぶつかった。
 玲が振り返る。目が合った。直後、少し気まずそうに笑う。そのぎこちない笑顔を見た瞬間、真琴は回れ右をした。
 さっきまでふわふわだった頭のなかが、ものすごい速さで真っ黒のもやもやで埋め尽くされていく。都合よく目の前にフェンスがあったから、真琴はそのもやもやを振り払うため、硬い針金に頭をガンガンぶつけた。
「ちょっ、どうした!? 真琴」
 玲の焦ったような声に振り返る。髪の長い先輩から離れて、大股でこっちに向かってくる玲を見つけて、真琴は彼から逃げるように夜の道を小走りに駆けだした。
「どこ行くんだよ」
「玲には関係ないの」
 独り言のように答えた声は、機械みたいに抑揚が欠如していた。血管がはち切れそうなほど頭に血が上っているのに、声にはなんの感情も表れないのが不思議だった。怒りなのか、悲しさなのか、悔しさなのか、正体のわからない感情が胸の内側をぐるぐる渦巻いている。
 次第に速くなる自分の足につまずきそうになりながら、目的の場所もないのに無我夢中で走り続けた。途中、追いかけてくる玲が後ろでなにかしゃべっているのが聞こえたけれど、内容はまるで頭に入ってこなかった。スタスタと歩を進めるたびに変わる風景が視界に入っても、目に浮かぶのは玲と先輩の抱き合う姿の残像だけ。
 すごくお似合いだった。玲の胸に髪の長い先輩の小さな体がすっぽりおさまっていた。楽屋で見た胸の大きな女性の柔らかそうな体も玲の隣にふさわしく見えた。
 真琴はゆっくりと走る速度を緩めて立ち止まった。ここはいったいどこだろう。潮の匂いが鼻をかすめる。海が近い。振り返るとどこで撒いたのか、玲の姿は見えなかった。
 自分の体を見下ろす。彼女たちの持っているような、艶やかで長い髪や半球体の胸なんてない。凹凸のない胸、薄っぺらな腰、骨っぽいガリガリの脚。自分の体が玲に愛される対象にならないという当たり前のことに、いまさら気づいた。そしてそんな体しか持っていない自分が、とんでもなく悲しかった。
「好き、なんだ」
 玲が自分を好きなんじゃない。自分が玲をそういう意味で好きなんだと気づいた。きっとずいぶん始めのころから胸に棲みついていた恋愛感情をはっきり意識すると、同時に救いようのない絶望感に見舞われた。玲に初めてみずから触れたら、無理だと拒絶された。あれは冗談でセクハラしていた相手から迫られて、そんなつもりじゃなかった玲からの、男は無理なのだ、という意思表示だったのだろう。
 女の子が好きな玲と、そんな玲を好きな真琴。捨てることのできない真琴の気持ちと受け入れることを拒否する玲の気持ちが、ねじれの位置に存在していて、このさき一生交わることはない。
 ふらふらと足が赴くままに、国道から海岸に続く階段を下りた。波の音は聞こえてくるのに、目の前に広がるのは空と海の境目のないただの暗闇。砂地にしっかり足を踏みしめていても、まるでその先の海に潜っているみたいに息が苦しい。自覚したばかりの初めての恋がこのさきずっと報われることがないと思うと、なんだか可哀想だった。きっといつかこの気持ちも玲のことも忘れて誰かを好きになるという前向きな考えすら、真琴の心は潔癖に打ち消す。いまのこの気持ちを捨てたくない、玲を好きなことを忘れるだなんて、そんな想像したくない。
「う……、あ、あぁ」
 開いた喉から、普段の真琴とは思えない低い嗚咽が漏れる。女の子の丸く華奢な身体、丁寧にメイクされたキラキラと輝く顔、振り返った玲の気まずそうな笑顔。頭のなかを走馬灯のように駆ける鮮明な記憶に、苦しくて吐きそうで、もう限界だと思った。
 目の前は、ちょうど海。このまま死んでしまえばいいや。咄嗟にそんな考えが浮かんだ。臆病でなにをするにも二の足を踏む自分とは思えない大胆な思考に、興奮した体がぶるりと震える。波の音に誘われるように、一歩ずつ海へと近づく。脳内麻薬が異常分泌されているのか、恐怖心はなくやけに気持ちが高揚していた。冷たい海水がくるぶしまでを浸す。肌に触れるひんやりした水温が心地いい。
 もっと深く、包まれたい。もうこれ以上、なにも考えたくない。
「なに、してんだよっ!」
 静かな波の音をかき消すような怒声が背後から聞こえた。ゆっくり振り返ると、砂浜をこちらに向かって駆けてくる黒い影が見える。
 玲だ。さっきまで女の子とイチャイチャしてた男。
「こ、来ないでっ」
 止まっていた思考が動きだすと、体は玲に拒否反応を示す。真琴は玲から逃げるためにさらに沖へと歩きだした。バシャバシャと浅瀬で水を蹴る音が背後から聞こえる。追いつかれる恐怖から潜って泳ごうと水に顔をつけようとした瞬間、腰に巻きついた腕にすごい力で引き戻された。
「なに、なに? 放して、さわんないでっ」
「うっせーよ! アホか」
 暴言を吐いた玲の肩に担がれて海から出ると、砂浜に転がされる。息を切らして、鬼の形相で見下ろしてくる玲の隙をついて立ち上がろうとすると、足を引っかけられて真琴はまたその場に転がった。
「足はえーよ! そんでちょっと見失った隙に、なに考えてんだよおまえは!」
「お、泳ごうと、思った、だけだよ」
「服着たまんまで、こんな真っ暗な海で、たったひとりでか?」
 視線を合わせずにいると答えろよ、と玲が仰向けに転がった体をまたいで腰かけてくる。
「の、のいて。やだ、退けよ、のけっ! 僕にさわらないでっ」
「やだね。なにがあったんだよ? なんで沖に向かって歩いてたか教えなよ」
 腕を組んで見下ろしてくる玲のいつになく厳しい視線が怖くて、砂まみれの手で顔を覆った。砂が目に入るだろ、と腕を掴もうとする玲の手を力いっぱいはねつける。
 もう無意識に構わないでほしい。優しくされるとどうしたらいいかわからなくなる。
「もう、いやだ」
 呟いた自分の声がやけに悲愴に聞こえた。そんな呟きをいたわるように、なにが? と問い返してくる玲の声は、嫌になるほど優しかった。





フェードインラブ!(7)

「もう、やめる。バンドも音楽も」
 乾いた唇から放った言葉は空々しく響いて、波音に混じってそっと消えた。自分の言ったことに傷ついて、落ちた沈黙に震える唇を噛みしめる。じわじわと浮かんでくる涙をせき止めようと、固く目を閉じた。それでも理性で感情を止めることはできず、引きつった喉から嗚咽の声が漏れだす。
「泣くほど嫌なのに、なんでやめるとか言うかな。あんなにベースが好きなおまえが、音楽から離れられるわけないだろ」
 優しく説き伏せる玲の声に、いつもの条件反射で身を委ねてしまいたくなる。今日見たなにもかもが、無かったことにできたらいいのに。そんな非生産的な考えが頭に浮かんだとき、玲の冷たい手が砂に半分沈んだ頭を撫でた。と同時に、火に触れたみたいに、真琴は顔を覆っていた手で玲の左手を払いのけた。
「さ、さわんな、さわんないでっ! 玲さっき、あの女の人の長い髪にさわったっ! ず、ずっと、僕のことは避けて、さわろうともしなかったくせに! もうやだっ」
 一度心のなかを正直に吐きだしてしまうと、そのあとは目をつむって腕を振り回しながら感情のままに叫んだ。怖い、嫌い、さわるなと、ひとしきり喚き散らして、ふと自分の腕がなににもかすらないことに気づき動きを止める。おそるおそる目を開けると、玲はしきりに瞬きをしながらただ呆然と真琴を見下ろしていた。
「ごめんなさい、のいてください」
 真琴は自分と玲の温度差に愕然とし、パニックの反動で急に冷静になった。そしてぼんやりしている玲の胸をそっと押して拘束から逃れ、素早い動作で起きあがると、くるりと体を反転させてクラウチングスタートを切って走りだそうとしたのだけど―
「待て待て待て!」
 あえなく失敗。意識を取り戻した玲に腰を掴まれて、ふたたび転がされてしまう。
「だってあの子はさ、真琴が紹介した女の子じゃん」
 逃げようとするなとさとして、また真琴の腰にまたがった玲が責めるような口調で言う。
「紹介したけど……。なんでさわるの?」
 そこのつながりがわからなくて純粋に問うてみると。
「なんで、ってなー」
 玲は頭をかいて困ったように笑った。真琴が紹介した髪の長いほうの先輩は、玲が前の彼氏に似てるから、という理由で交際を申しこんできたらしい。付き合えないと断った途端、泣きながら抱きつかれたのだという。
「別に知らない人ならさ、なんかおかしな理由だし突き放しちゃってもいいんだろうけど、真琴に紹介された人だから無下にもできないじゃんか」
 真琴の知り合いだから、と玲は言った。名前も知らない先輩二人を頼まれるままに紹介したけれど、玲は真琴とつながりのある人としてちゃんと誠意を持って対応してくれたのだ。そのことがわかると自分のいい加減さが恥ずかしくなったけど、同時に心のなかのもやもやは少しだけ晴れていた。
「もしかしてさ、真琴って俺のこと好きなの?」
「へ?」
 唐突に玲が尋ねてくる。
 真琴本人に聞いているのに、他人の噂を口にするみたいに淡々とした口調だった。その温度の低さに真琴の全身からまた血の気が引いていく。嘘をつくこともできず、かといってさっき自覚したばかりの好きという気持ちを言葉にするにはまだ勇気が足りない。それに言ったところでうまくいくはずがない。玲にまた無理、と拒絶されることを想像したら、怖くなって砂についたままの背中が震えた。
「俺、真琴に振られたと思ってたんだけど」
 なにも答えられずに硬直していると、玲が突然よくわからないことを言いだした。
「ふ、ふら?」
 振られた?
 いったいなにを言ってるのだ。真琴は玲に告白をされた記憶なんてない。
「だってキスしたとき、真琴すっげー拒絶したじゃん。身体ガチガチにさせていやー、って言ってさ。あれ傷ついたんですけど」
「あ、あれは」
 いやだったわけじゃない。いつも笑顔でふざけてばかりいる玲が、楽器を見るときのような真剣な目でこっちを見るから怖くなっただけだ。
「そんなことがあったあとにさ、なんでさわらないの、って爆弾発言しただろ? あのとき、うわーって、もしかしてさわってほしいのかなーって、一瞬期待したわけよ。でもその直後に、女の子紹介するとか言いだすしさ。もうわけわからん」
 そう言って自分の髪を手でかき乱す玲を呆然と見上げる。
 あのときは気分が上昇と下降を繰り返して、混乱していたのだと教えてくれた。玲のちょっとした言葉や表情の変化に振り回されていた真琴には、その玲の気持ちがすごくよくわかった。相手のたったひとつの言葉を何倍にも膨らまして、期待と不安を行ったり来たり。
 玲も自分と同じように、悩んでた?
「あまりにショックでさ、なんか俺に女の子あてがって自分のことあきらめさせようとしてんのかなーって。俺に口説かれるのが迷惑だから女の子紹介するんだって思って、真琴のことちょっと避けてたんだけど、わーごめんなさい」
「な、んであやまるの?」
「いや、よく考えたら真琴はそんな裏で人使って手まわしたりする子じゃないよなって、冷静になったらわかるんだけど。なんかいろんなことが起こりすぎて、俺の頭はこんがらがってたんだな」
 そうだそうだ、うん、と自分の言ったことに相づちを打ってへへっと笑い、玲はもう一度、ごめんなさいと謝った。
「で。なんで女の子紹介してくれたのさ。先輩たちに頼まれて断れなかった? それとも俺そんなに彼女ほしそうに見えた?」
「そ、それは」
 玲が冗談っぽく上から睨みつけてくる。玲と自分のあいだで、「紹介する」という言葉に解釈の違いがあることに真琴は気づいた。玲のほうは恋人の候補を仲立てされたと思っていたらしいが、真琴は単に顔を合わせるだけだと思っていたのだ。
「あの、ね……」
 いろいろ誤解が生じているから説明しようとしたけど、いっぱい話さなきゃいけないことがあって、どこから話していいのかわからなくなってきて、それに、ライブ後に飲んだお酒でフラフラだったところに、たくさん走ってしまったから真琴はすごく疲れていた。
 玲の話を聞いてるうちにもしかしたら自分がひとりでぐるぐる悩んでいたのは全部杞憂だったんじゃないかと思えてきて、そうしたらなんだかほっとして、モヤモヤがまたふわふわに変わってきて、お腹に乗っかった玲の重みが気持ちよくて、本当はあのセクシーな大学のお友達とはお付き合いしてないの、とか、あのときのキスにはちゃんと意味があったの、とか聞きたいことがたくさんあったはずなのに、なんか全部がどうでもよくなってしまった。
 それは、見上げた玲が夜空を背負って、あの楽器を見るときの神聖な目でこっちを見ていたから。目をつむらずにちゃんと見返してみたら、真実がその目のなかにあるのだとわかったから。
 もう怖くない。なにに怯えていたのかも思いだせない。優しい玲に特別扱いされたい。スティックを握る大きな温かい手のひらで、ほかの誰かに触れてほしくない。このわがままで強い気持ちを、玲に知ってほしい。
「好き」
「え…………?」
「僕、玲のことが好きなの」
 その言葉を言ってしまったら、大きな睡魔が襲ってきた。水を吸った洋服が砂の布団に沈んでいく。玲の驚いた顔を見ながら、真琴はおやすみなさい、と呟いてそっと目を瞑った。






フェードインラブ!(8)R-18

「し、死ぬ……」
 死ぬ?
 玲がぜーぜー苦しそうに呼吸している。
「死ぬの? 玲」
 ぼんやり尋ねると、玲が真後ろにいる真琴を振り返った。
「おまえねー……」
 寝ぼけ眼をこすっていると、なにか言いかけた玲が大きなため息を吐く。
「いいんだけどさ。なんだよ、好きのあとのおやすみなさいって。そんで人の背中で爆睡って」
 ぶつくさ言いながら靴を脱いで、玲は目覚めたばかりの真琴を負ぶったままバスルームへ向かった。
 ここは玲の部屋だ。一度来たからわかる。クリーム色の照明で包まれたバスルーム内をぼーっと見つめていると、玲がゆっくり真琴を背中から降ろして立たせた。
「覚醒してるかー? 真琴」
「うー? うん」
「いまから服脱いで、それを洗濯機に放りこんでスイッチ入れて、遅くなって親御さん心配してるだろうからちゃんと家に電話して。そのあとシャワー浴びて砂を洗い流す。わかった? オケー?」
「は、ぁい」
 あくびをかみ殺して返事をした真琴に、ちゃんとわかっているのか確認するように復唱させると、玲は納得したのか風呂場から出ていった。言われた通り、順を追ってひとつひとつ行動に移し、熱いお湯を浴びたところでシャキリと目が覚めた。
「ど、どうしよう」
 砂を洗い流して風呂から上がり、ふかふかのバスタオルに湯上がりの体を包んで呟く。
 さっきの出来事をなにもかも思いだしてしまった。あんな大切なところで眠りにつくなんて。玲はあきれてしまったかな。しかも記憶がないうちに、告白した直後の相手に家まで運ばせてしまったし。非常識すぎる自分の行動を振り返ってズドンと落ちこむ。でもずっとここで悩んでいるわけにもいかず、玲が用意してくれた下着と大きめのパジャマの裾を折って身につけ風呂場から出たところで、玄関の扉がひらいた。
 帰ってきた玲にどこに行ってたのかと聞くよりさきに、その手に持つベースが目に飛びこんできて、自分がシャワーを浴びてるあいだにわざわざライブハウスに忘れてきたのを取りに行ってくれたのだとわかった。
「玲、あ、ありがとう」
「どういたしまして」
 にっこり笑って手渡されたベースを、真琴はぎゅっと胸に抱えた。部屋で待ってるように言われて、風呂場に向かう玲の後ろ姿に頷く。
 砂浜で眠ってしまった真琴を家まで運んだだけでもへとへとになってるだろうに、ライブハウスに楽器まで取りに行ってくれた。すごく申し訳なくて、でもすごくうれしい。楽屋に置きっぱなしのベースは、オールナイトのイベント終了後に持ち主が現れないと忘れ物としてライブハウスが保管しておいてくれるはずだ。玲もそれをきっとわかっていて、それでも疲れているのを押し切って取ってきてくれた。それはきっと、真琴にとって楽器がとても大切なものだと、玲は知っているから。いつもはおちゃらけているくせにほんとはそんなに優しいから、玲のことを独り占めしたくなってしまうのかもしれない。
 もう一度ちゃんとお礼を言わなきゃ、と緊張しながら待っていると、まだ水音が聞こえてからそんなに時間が経ってないのに、パンツ一枚で髪からポタポタ水滴を落としながら玲が風呂場から飛びだしてきた。
「真琴! 今日お泊りする?」
 必死の形相に思わず笑ってしまう。どうやら急いでシャワーを浴びたらしい。
「玲、しずくが垂れてるよ」
「なあなあ、泊まってかないの?」
「玲がよければ、僕はお邪魔したいけど……」
 緊張で震える指を握りしめて伝えると、イエーイ、と天に向かってガッツポーズをする。子供みたい。
「髪、乾かさなきゃだめだよ」
「真琴がやって」
 はい、とドライヤーを手渡される。ソファーに腰かける真琴の目の前に正座した玲が、ん、と頭をさしだしてくる。水に濡れたせいでいつもよりきついウェーブがかかった髪におそるおそる触れる。ドライヤーで熱くなったり、髪に自分の指がもつれて痛くなったりしないように丁寧に乾かしていると、もっとガシガシやっていいよ、と玲が顔を上げた。
「そんなエロいさわり方されたら、勃起しそう」
「ぼ……! エロく、ないよっ」
 エロいエロいと騒ぐ玲の頭をぐっと押して、また下を向かせた。
「ねえ、今日は乳首さわらせてくれんの?」
 玲の質問に聞こえないふりをしていると、ねえねえねえ、と大声を張りあげるので、真琴はドライヤーのスイッチを切った。
 玲は女性の髪に触れていた理由を教えてくれたけど、自分にキスをした理由は教えてくれない。告白したあとに眠ってしまった真琴が言うのもなんだけど、その返事もまだ聞いていない。玲は肝心なことをまだひとつも言っていないのだ。確か、真琴に振られたと思った、って言ったけど、あれって、そういう意味なのかな。
「玲って、僕のこと、好きなの?」
 さっき砂浜で聞かれた質問を、玲にそっくり返してみた。
「え、だって、わかるじゃん?」
 ニッコリ笑った自分を指さして言うので、首を横に振ることで答える。
「ええー、だって俺、いままでそんなの言ったことないんですけど」
 真剣なまなざしで見つめていると、玲のきれいな顔がみるみる赤くなっていく。きっとあの初めてのライブのあとのキスが、玲の意思表示だったのだろう。突然だったから、驚いて怖くて意味がわからなくて真琴は混乱した。でも玲はいままでそうやって肝心な言葉は口に出さず、雰囲気の流れで誰かとお付き合いしてきたのかもしれない。
 その玲と付き合った知らない誰かを想像してまた少しもやもやしていると、目の前で乾いた髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜていた玲がその手を止めて顔を上げた。
「言ってほしい?」
「う、ん。聞きたい」
 玲は真琴から一度目をそらして、難しい顔をした。柔らかな髪の隙間からのぞく耳まで真っ赤に染まっている。玲はたぶん、すごい照れ屋さんだ。
「真琴だから、言うんだかんな」
 ゆっくり向けられた視線に、さっきまでのふざけた色はもう消えていた。
「好きだよ」
 真摯に紡がれたたったひとことに、胸の中に残っていた不安は一掃された。このかっこいい人が、自分のことを好きだなんて。幸福で目が眩む。
「あと、死ぬな。二度とあんなことするな」
 真剣で、少し泣きそうな表情と目が合うと、ドキドキ高鳴る胸がチリッと小さく痛んだ。誠実な言葉が深く突き刺さる。海に向かって乱暴に投げ出そうとした命を、玲は自分のことのように大切に思ってくれている。
「ごめんなさい……」
 一瞬でもバカなこと考えて、ごめんなさい。
 謝罪の言葉を告げると、パジャマごしに太ももをペチペチ叩かれた。
「ごめんはいらない、返事をして」
「あ……、はい。もうあんなこと、しない」
「よし。あとバンドも辞めんな、俺が悲しいからさ」
 自分主体の考え方に少し笑ってから、もう一度はい、と笑顔で答えると、玲もつられたのか一緒になって笑った。
「かわいいなー、って思ったんだよ、真琴を初めて見たとき」
 恥ずかしいついでだから言うけど、と前置きして、玲が真琴の隣に腰かけた。
「うつむきがちでソワソワしてて、垢抜けてない純粋そうな少年がさ、俺に人見知りしてるのがむちゃくちゃかわいかった」
 隣から紡がれる声に、赤面しつつもそっと耳をそばだてる。
「でもそんなうじうじしてるかわいい男の子が、楽器に触れると途端にかっこよくなっちゃってさ、そんなのもう、惚れるなっていうほうが難しいじゃん?」
 どこか茶化したような言い方だけど、隣り合って触れる肩から玲の緊張がちゃんと伝わってきて、ドキドキした。
 いままで誰かをこんなふうに好きだと思ったことがなかった。人に対して受け身で、いつもなにかに怯えて、始まる前からうまくいくはずがないと決めつけて。恋愛なんて自分には無縁のもので、心が動かされるすべては音楽に費やされるものだと思っていた。
 そんな硬い殻を割って、玲は手を差しのべてくれた。優しくしてくれるのも、ときに厳しくしてくれるのも、追いかけてきてくれるのも、それはいつも玲のほうで、自分はそんな玲から逃げ回ったり、癒されたり、心を打たれたりしているだけだった気がする。
 なにかお返しがしたい。玲が喜ぶことをしてあげたい。だから―
「玲……、あ、あの。ち、乳首、さわってもいいよ?」
 ずっとさわりたがってたから。
 体の向きを変えて顔を覗きこむように提案すると、目をいっぱいにひらけて瞬きしたあと、玲がはあー、と息を吐いて脱力した。
「真琴さん」
「な、なんですか」
 突然さん付けで呼ばれて、さっきの発言がおかしかったのだと思い直した。
「あ、あのやっぱり……」
「服脱いで」
「ぬ、なんで脱ぐの?」
 生でさわるの?
「いいからいいから」
 ばんざいをさせられて袖から引っ張られた大きめのパジャマがスルスル脱がされる。恥ずかしいのを隠すために寒いと訴えてみたけれど、すぐ熱くなるから大丈夫だとわけのわからない答えが返ってきた。
「ぁ…………」
 少しかさついた玲の親指の腹が、両方の乳首にふれた。わき腹を掴む手がくすぐったくて鳥肌が立つ。突起を揺らすように何度も往復するから、恥ずかしくて身をよじった。
「も、もうおしまい」
「やだ、まだする」
 何度ももうだめと言ったのに、玲の手は止まらない。爪でひっかくようにコリコリされると腰のあたりがしびれてきて、甘ったるい声が出てしまう。これ以上されたら、たぶんもう、なんかいろいろ我慢できなくなってしまいそう。
「ゃ、んー……、だ、め」
 玲の手首を掴んで胸から離させると、今度は逆に手をとられて、そのままベッドの前まで連れていかれた。
「寝転がって?」
「なんで?」
「するから」
「す、す、するの?」
 二人で目の前の布団を見ながら、変な会話をしている。
「真琴はしたくない?」
 したくなくは、ないんだけど。だってさっき電話でお母さんに、今日は帰らないって言ったし。だけどそんな恥ずかしいことを口には出せずもじもじしていると、髪をそっと撫でられた。思わず顔を上げると、困ったように笑う玲と目が合った。その顔が少しずつ真顔に変わりつつ近づいてくるのを途中まで見て、目をつむる。
「ん……。ぅ…………」
 唇が優しく啄ばむように触れたあと、しっとりと互いに吸いつくように重なる。閉じた唇の境目を滑らかな舌で舐められ、思わず口を開いた隙に、ためらいない舌が侵入してきた。
 二回目のキスは、くっついてすぐ離れた一回目のキスとずいぶん違う。いつもはエッチなことを言ってもどこか爽やかな玲なのに、口のなかでゆったり蠢くその舌は妖艶で、爽やかさの欠片も見当たらない。玲の舌が舌の表と裏をしつこく行き来し、丁寧に舐めつくす。左手で頭を抱えられ、右手の指で乳首を挟んで揺らされるともうたまらなくなって、したい気持ちがむくむく膨らんでくる。
 ちゅ、と音を立てて離れていく玲の唇を真琴は無意識に目で追っていた。
「きもち、いい」
 思わず呟く。初めて体験する種類の快楽に脳が浸されていて、普段なら言ったそばから後悔しているはずのセリフなのに真琴はぼんやりと玲を見つめ、催促するようにシャツの裾を引っぱった。
「寝転がる?」
 さっき言われたときは躊躇したけれど、今度はあっさり頷いて真琴は自分から布団をめくった。
 続きがしたい。体の芯がとろけるような、深くて甘いキスの続き。全身が玲を欲していた。あんな少しだけじゃ、全然足りていない。
 その先にある未知の快楽を求めて、真琴はベッドの上に寝転がった。愛おしそうに見下ろしてくるだけの玲の手を、真琴は自分から引っぱってベッドにいざなった。






フェードインラブ!(9)R-18【終】

 それからどのくらいの時間が経っただろう。
「もう、いいよ、玲……、あ、もうダメっ」
「うーん?」
 さっきから何度もそう伝えているのに、聞く耳を持たない玲は、曖昧な返事をして真琴の言葉をさらっと無視する。ひらかれた自分の脚の間で、玲の柔らかな髪が上下に揺れている。キスもしたことがなかった自分がフェラチオなんてされたこともなく、その口内の粘膜に性器が包まれる強烈な刺激に、真琴はずっとさっきから限界を訴えていた。
「も、う……、やぁーっ」
 いきそうになった途端、緩められる口の動き。許されない絶頂を求めて、はしたなく動く自分の腰にも、もう嫌気がさす。
「真琴、恥ずかしい?」
「ンっ……、は、ずかしいよ」
「いきたい?」
 根元を指で握りしめ、玲が真琴のペニスから口を離して尋ねてくる。空いた片方の手が、さらに後ろの内部を指でかき回した。
「あっ、いきたい、も、それ……、やだっ」
 ずっと埋めっぱなしの玲の二本の指は、なかで開いたり閉じたりぐるぐる回したり、思いもよらない動きで真琴を翻弄する。そのたびに内腿は震え、下半身から力が抜ける。はじめ指が侵入してきたときは怖くて気持ちが悪いだけだったのに、ペニスを口に含まれつつ、時間をかけてじっくりほぐされた内部はやわらかく蕩けてしまった。異常なほどの快感に無意識のうちに下唇を噛むと、上に伸びあがってきた玲が、かたく閉じた唇を解くように優しくキスをした。
「じゃあ入れていい? まだだめ?」
 入れるって、なにを。
 自分の張りつめたペニスから玲の指が離れていく。解放された心もとない感覚に思わず離れた指の行く先を目で辿ると、玲は自分の屹立したそれを握って何度か扱いた。
「これ、真琴のここに、いれたい」
「ふ、わぁ……っ」
 ここ、と言いながらまた内部で玲の指が蠢く。もう何度喘がされたかわからない奇声をあげて、それでももう早くどうにかなってしまいたくて、目を腕で覆ってがくがく頷いた。
 指にかわってあてがわれたものの質量に、背筋がぞっと凍った。こんなもの入るんだろうか。ずっと靄がかかっていたようなふわふわした思考が一瞬クリアになる。不安が押しよせてきて、目を覆った腕をずらし、自分の体を半分に折り曲げる玲をそっと見上げた。
「絶対痛くしないから、大丈夫」
 神聖に微笑むその表情を見た瞬間、真琴の力んでいた体から力が抜ける。楽器を扱うみたいに、丁寧に傷つけないようにと、大事に大事に自分も愛されている。そのことに気づくと、もうたまらなくなった。無意識に揺れる腰を玲の下半身に押しつけると凶悪な顔で睨まれたけれど、それは玲だって悪い。ずっといかせて、って訴えていたのに、いきそうになったら寸止めを繰り返して真琴をいじめたのだから。
「傷つけないようにしたいんだって! たがが外れるような誘い方しないでよ」
「だって、玲がいじわるするし、そんな顔で見るから」
「顔?」
 ヒクヒクと期待に収縮する自分の内部を感じながら、この生殺し状態をどうにかしたくて、真琴は乾いた唇を舐めて口をひらいた。
「玲が、ドラムを叩くとき、するの。あの、愛おしいみたいな、大切なものを見る顔。たぶん、僕しか気づいてないよ? 僕だけ知ってる。優しい目で、こっち見るから……」
 我慢できないの。そう口にしたとき、玲の膨らんだ先端がぐりっと入り口をえぐった。
「あ、あ、あっ!」
「ごめ……、痛かった? でもいまのは真琴が悪いんだかんな」
 痛いわけではなかった。ただびっくりしただけで。ごめん、ともう一度言って、玲はゆっくりと真琴のペニスを手の平で撫でた。だからその両方されるのが、頭が変になっちゃいそうだからやめてほしいのだけど、何度だめだと言っても玲はわからない。感じる裏筋を絶妙の力加減で擦りながら、張りつめた性器をゆっくりゆっくり、ぬくぬくと内部に埋めてくる。
「あっ、ゃあっ、もう! ま、前はやめて」
「ん? 大丈夫そう。ちゃんとスルスル入ってくよ」
 噛み合わない会話を指摘する余裕はもうない。指とはまったく違う質感と量に、目の前がチカチカとハレーションを起こす。玲のものが全部なかに収まっても、息を吐くひまもなくその硬いもので内部を優しくこすられる。ひらいた喉の奥から、自分のものとは思えない喘ぎ声がとめどなく溢れ出てくる。
「真琴、痛くない?」
 最中とは思えない優しい声で尋ねられて、知らずのうちに固くつむっていた目を開いた。真上から見下ろす玲の顔が幸福そうに蕩けているのを見つけて、ああそうか、と気づく。
 自分を襲った波があまりに大きすぎたから気づかなかったんだ。これは快感だ。だって玲がこんなに気持ちよさそうなんだから、自分だって気持ちいいに決まってる。
 首を起こして二人の繋がった場所を見る。入ってる、玲のが自分のなかに。
「あ、んっ、気持ち、いいよぉ」
「ちょ、なに真琴、急にエロいこと言わないで! うっかり暴発しそうだから」
「だって、あ、ンッ、ほんとの、ことだも、やぁんっ、玲おっきいっ」
「おまえ、それなに? 素なの? 素でそれなの? やばいって鼻血出そう。っていうか、真琴ちゃん、ちょ、力抜いて、ゆるめて。まじで絞めすぎだってば。殺す気かー!」
「う、るさいっ。んっ、やー……、もっと揺らしてっ」
 しゃべってばかりで動きを止めてしまった玲の肩をグーでポカスカ叩いて、真琴は続きを催促した。
「くそ、小悪魔め」
 ふ、と息を吐いて呟いた玲の顔があまりにセクシーで、真琴の下腹部が疼いて大きく波打つ。だから絞めるな、という言葉ももう真琴には聞こえていない。そもそも絞めたりゆるめたり、コントロールできるほどのテクニックを真琴は持っていない。
「ほんとに痛かったら、言ってね?」
 がくがく頷くと、玲は真琴の汗で濡れた髪をかきあげてから後頭部を引き寄せた。そのままぐっと頭を持ち上げられて、向かい合わせで座るような体勢になる。唇が触れそうで触れない。目の前で見つめ合いながら、律動が再開する。
「わ、あ……、んぁーっ、あっあっやぁッ!」
 さっきまでとはあきらかに違う力強い腰使いで中を穿たれ、真琴は背を仰け反らせた。
「や、あっんっ! だ、めぇ……っ、んはっ」
「痛いか?」
「い、たくは、ない、けどっ……、んぅっ、やっ、あ、あんっ」
 下から突き上げてくる動きに翻弄されて、開いた口から意味のない言葉ばかり漏れだす。反った背中のせいで突き出した形になってしまった乳首を、親指と人差し指で挟んで揉みつぶすようにこねられると、真琴の腰が前後にいやらしくうねりだす。玲の突き上げる上下の動きと、真琴の腰の前後の動きが絶妙のタイミングで折り重なり、快感がさらに膨らんでゆく。
「あンっ、やぁ、そこ、な、に……、やだ」
 複雑な動きのなか、偶然、玲の先端が真琴の内部の一点をかすめる。
「ここ? 真琴」
 にっこり笑った玲が少し体を後ろに倒して、その突かれると異様にぞくぞくする一点に先端が命中するよう体勢を変えた。
「そ、こ、ぁ……、だ、めそこ、あん、あぁ、あんっ!」
「真琴、声おっきいかわいい」
 乱暴に腰を揺らしながら、玲が独り言のように呟く。まるで新しいおもちゃを見つけた子供みたいな好奇心に満ちた表情で、その感じすぎる場所ばかりを執拗に同じリズムで穿ってくる。真琴は夢中になってる玲にだめ、と訴えたかったけれど、大声で叫びすぎて嗄れてしまったのか、声を出すこともできなくなっていた。天を仰ぎ、喉を仰け反らせると、ひゅう、と風の音が体内から漏れる。朦朧と宙に視線を彷徨わせていると再び乳首をつままれた。その瞬間。
「あ、だめ…………っ」
 ぽつりと声が漏れたときには、もう遅かった。全身がぞわっと大きく波打つ。なんの前触れもなく、真琴は射精していた。腰を揺らしていた玲が、あれ? と不思議顔で真琴を見る。
「いっちゃった?」
 性器に直接触れられてないのに、お尻を突かれて乳首をいじられていってしまった。ぼんやりと玲を見つめ返す。長引く快感の余韻で内部が収縮し、まだ中にいる玲を締めつけてしまう。
「あ、それはだめ、真琴ちゃん」
 そう言った玲が、ゆっくり中から性器を抜きだしてゆく。その内壁を硬いものがこすって出てゆく動きに、いったばかりだというのに真琴の腰は無意識にまた揺れた。
「気持ちよかった?」
「うん……」
 ぼんやりかすむ焦点を玲に合わせて、真琴は素直に頷いた。でも、でも、本当はこんなつもりじゃなくて。
「眠い?」
「うん」
「寝るか?」
「うん、でもね」
 自然と閉じてゆくまぶたを人差し指で緩慢にこすりつつ、真琴は夢うつつで呟く。
「玲ともっといっぱいしたい。キスももっといっぱいして、一緒にいって、一緒に眠るの」
 いまは疲れていて続きができないけど、本当はもっと玲と長くつながっていたかった。理想を語り終えるともう眠気を避けることができなくなっていて、真琴はまた玲の反応も見ないまま、おやすみなさい、と呟いて完全に意識を手放した。


 鼻の奥をくすぐる甘い煙草の匂いで目が覚めた。薄明るい部屋で、見慣れない天井に目を凝らす。
「そうだ、玲と……」
 ぼんやりと呟いた声はかすれてほとんど音にならなかった。真っ赤になってひとつ咳払いをすると、窓辺の方からおはよう、と声がかかる。
「よく眠れた?」
 布団のなかで態勢を変えて、声のした方へ顔を向ける。壁にもたれて煙草を吸っていた玲と目が合った。
「お、はよ」
 顔を見ると昨夜の出来事が鮮明に脳裏に蘇ってくる。気持ちのいいこととか、恥ずかしい言葉とか全部。
 赤面して枕に顔を埋めているあいだも、次から次へと細部が思い起こされて。
「あれ?」
「どした?」
「昨日、僕、最後……」
「ああ、疲れてたみたい。いったあと寝ちゃった」
 なんの装飾もなくズバリと言われて、真琴の赤らんだ顔は一瞬で青ざめた。それもそのはずだ。はっきり思い出せるその行為の続きの記憶がまったくない。目が眩みそうな突然の快感に体を震わせたあと、自分はまたひとりで勝手に眠ってしまったらしい。
「あ、あの、玲、はそのあと、どうしたの?」
「ま、気にすんなって。俺は真琴とひとつになれただけで幸せなんだからさ」
 煙草を消してニコニコ顔で枕元にやってきた玲が、真琴の寝癖で乱れた髪をゆっくりと手ですいた。煙草を吸うのは気分がいいとき。それは前に玲から聞いて知っているけれど、それでも申し訳なくて、真琴はおずおずと提案した。
「あの…………、口で、する?」
「は、はいー?」
「だって玲、昨日いってないでしょ?」
 昨日自分がされたことを玲にもする。申し出て真琴が体を起こすと玲は奇声をあげ、カンガルーばりの跳躍で後ろにとんだ。口淫されることに抵抗があるのだろうか。
「手のほうがいい?」
「……じゃなくてー」
 恥ずかしいけれど、玲を放ってひとりでいってしまったことを申し訳ないと思っているから提案しているというのに、玲はなぜか乗り気ではないらしい。気落ちしてうつむいていると、玲がまたベッドの脇までやってきた。
「純真なエロって、すっごい威力あるのな。昨日から俺ずっと心臓バクバクなんですけど」
 なにを言っているかわからず、真琴は首を傾げた。その直後、事故のような唐突さで玲にベッドに押し倒される。
「な、に?」
「いや、一方的なのより、やっぱ二人一緒のほうが気持ちいいかなーって」
「だ、めだよっ、昨日の今日で、そんなの」
「ねえ、真琴。昨日眠る前に俺に言ったこと、覚えてる?」
 眠る前? なにか言ったかな。
 いってしまったあとの記憶がない。そのほかのエッチな行為は鮮明に浮き上がってくるけれど、眠る前に自分が言った言葉は思いだせない。
「お、ぼえてないけど、なにか変なこと、言ってた?」
 寝言とか? お母さんとか言ってたら、すごくはずかしい。
「覚えてないんならいいよ。いまから実践して思いださせてあげるから」
「な、なになになにっ、待って、やだ、今日はだめっ」
「だいじょぶだいじょぶ。ぜーったい痛くしないから! 気持ちよくするだけ。今日はちゃんと満足させてあげるから、ね?」
 昨日だって十分すぎるくらい満足したのに、どうしてそんなことを言うのか。不穏なセリフに怯えつつ、覆いかぶさってくる玲の甘いキスを受けとめる。
 このときの真琴はまだ知らなかった。快楽に浸っていくなかで、昨夜、自身が吐いた恥ずかしすぎるセリフを思い起こし、羞恥に全身真っ赤になりながら、いやというほど執拗な玲の甘い施しを受けるはめになることを。






フェードインラブ!その後SS

「デビュー!?」
 青天の霹靂だった。スタジオに入ってくるなりデビューが決まったぞ、と叫んだ悟に、リツコと俺の声がぴったり重なった。
「いや、そこまで大きな話じゃねーんだけど、インディーズレーベルの人が、俺らがライブでやってる曲でミニアルバム作ってみねーか、って言ってくれてんだよ」
 あちー、と言いながら冷房のスイッチを入れようとする悟の頭をリツコが思いきりはたく。そんな二人から背後に視線を移すと、正座でチューニングをしていた真琴が、まだ事を把握できずにいるのか、黒目がちな目をぱちぱちとしばたいている。
「真琴、インディーズデビューだってさ」
 目の前にしゃがんでぴっちりそろえられた太ももを指でつんつんつつくと、まばたきを繰り返しながらゆっくり顔を上げ、俺に視線を合わせてくる。
 この愛らしい小動物と付き合い始めて、半年が過ぎた。反応は出会った頃と変わらず、ほかのメンバーより一足遅い。
「で、デビュー!?」
「ミニアルバム出してくれんだって」
「信じ、られない……」
 薄いピンク色の唇をぽかんと開けて放心してるので、たまらなくなって思わず顔を近づけると。
「チューは家でしろ!」
 背後から飛んできたピックが頭に直撃する。相変わらずリツコの命中率は高い。
「だってさ。家帰ったらいっぱいしような」
 同意を求めたけど、真琴は真っ赤に染まった顔をふいと逸らし、頷いてはくれなかった。

 リツコと悟には、二人が付き合ってることを報告している。律儀な真琴が黙ってはいられないからと、付き合って三日後には告白した。別れても解散はさせないから末永くお幸せに、という二人からの言葉を聞いて、真琴はすごく嬉しそうな顔をしていた。
「仲いいんだよなぁ、あいつらと」
「なになに? なんか深刻な悩み?」
 バイト先のコンビニで、商品棚のそうじをしながらくだらない嫉妬を吐きだしていると、バイト仲間の女の子が近づいてきて肘をつついてくる。
「いやー、恋人が俺以外の人と仲良くするのが不満だなー、って話」
「は? のろけ? 仕事中にやめてくんない?」
 表情を一変させた女の子ににらまれながらも、恨み言のひとつも言いたくなる。昨日は悟とカラオケに行ってたみたいだし、今日はリツコに誘われてデパートに買い物にでかけている。
「それってデートじゃん」
 バイト終わりにコンビニで買った、真琴お気に入りのモンブランタルトの入った袋を揺らさないよう、注意しながら家路を急ぐ。
 りっちゃんとデパートで別れてから、遊びに行ってもいい?
 週末に泊まりにおいでよ、と誘ったのは俺のほうなのに、真琴はそんなふうに遠慮がちに尋ねてきた。少しだけ頬を染めて、少しだけ不安そうに。
 その上目使いの、いつもちょっと眠そうなうるんだ目を思いだして、また足は速くなる。先週も会ったけど、まだまだ会いたいって思う。この半年の間にたくさん身体を重ねたけど、もっと触れたいって思う。はじめから変わらない初々しさとか、触れ合うたびにひらいていく大胆さとか、それを後ろめたく思ってるような態度とか。真琴の全部が愛おしい。
「ただいまーっ」
 扉をひらいて声をかけると、おかえりなさい、と遠慮がちな声が奥から漏れてきた。心臓がぎゅん、と上昇したような気分。
「けっこう待ってた?」
 まだ三月も半ばで肌寒いというのに暖房もつけず、フローリングに正座している真琴を見つけて急いで駆け寄る。冷えた肩に脱いだばかりのコートをかけると、ありがと、と消えそうな声で呟く。
「今日はちゃんと家の中に入ってたのは誉める。でも次からは暖房もつけて待ってることな」
 合鍵はずいぶん前から手渡していて、だけど真琴がみずからそれを使おうとしないから、無理やり約束して家で待たせようとした前回。帰宅すると寒空の中、扉の前で突っ立っていたため、今回は家の中に入ることを言っておいたのだけど、結果はこれだ。
「もっと図々しくなれよな」
 リツコや悟と話す時みたいに、俺にも気を楽にして接してほしい。
 手を引いてまだ出しっぱなしのこたつにいざなおうとしたら、首を横に振る。
「図々しくなったら、嫌われるから」
「はぁ? 俺が真琴を嫌うわけないだろ」
 逃げようとする冷たい手をぎゅっと握りしめて目の前にしゃがみこむと、小さな肩が怯えて揺れるのがコート越しにもわかった。
「なあ、なんか不安でもあるの?」
 なんだか最近、いつにも増してよそよそしい気がする。尋ねるとまた、手をぎゅっと引っこめられた。指先の硬い、ベース弾きの真琴の指。絶対に放さない。ふたたび引き寄せて、指の甲に無理やり唇をつけた。
「ゃ……っ、はな、し……っ」
「やだね」
 そのまま手首を引っぱって、今度は唇に口づける。
「んっ、ぁ……、ふ……」
 ほんのり甘い真琴の口の中。驚いてる隙に舌で唇を割り、無我夢中で口内を舐めつくす。逃げる舌に強引に舌を絡ませ続けると、片手で抱き寄せた細い腰がびくびくと揺れた。
「ぅ……んっ、だめっ、もう」
 解放した途端、真琴の目からぽとりと一粒、涙がこぼれた。
「な、ど……、なしたのっ?」
 あまりの動揺で言葉がおかしくなる。
「あ! 待って! 別れ話なら、お断りだからな」
 なにか言いかけた真琴を阻止して、それだけは伝えておく。
「れ、玲のほうが、僕なんかと別れたいんじゃないの」
「はあ?」
「だって玲は、いつも女の子と楽しそう……」
 そこまで言うと嗚咽をこらえられなくなったのか、真琴は目を手で覆ってうつむいた。
「なになになに、待ってよ。なんの話?」
「ライブのあとに、ファンの女の子と楽しそうに話してた」
「いつよ?」
 声をかけられれば話す。ライブ後に女の子と話した記憶はいくつかあった。だけどそれは本当に後ろめたいことなどひとつもない、たわいのない話ばかりで。
「今日だって、短いスカートの店員さんに肘つつかれてたね」
 どうやら真琴はデパートからの帰り、バイト中の俺と女の子の様子を見ていたようだ。
「真琴が最近よそよそしかったのってさ。もしかして俺が女の子と仲良さそうにしてるのが、やだったから、とか?」
 びくっと揺れる肩を見つけて、確信する。
 なんだ。真琴も俺と同じように不安だっただけなんだ。
「あー、やばい、かわいすぎ」
 焼きもち焼いて泣いてしまう真琴とか、たまらない。いてもたってもいられなくて、両手でぎゅっと抱きしめる。
「バカにしてるんでしょ」
「してねーよ。俺も一緒だからさ。ちょっとしたことに不安になる気持ち、わかるよ」
 もう泣くな、と赤く濡れた目に唇をくっつけると、小さな顔が微かに縦に揺れる。
「本当はわかってるの。玲がちゃんと僕を好きなこと」
 肩口に額をつけて、真琴は俺の心臓にそっと囁いた。
 すごくわかる。俺もリツコや悟が、真琴と本当にどうにかなるだなんて思っていない。
「だけどね、可愛い女の子と話してる玲を見ると、やっぱりもやもやしてしまうの。それだけ」
 言いきると脱力して、ペタッと胸に体を預けてくる。
 強い信頼と小さな嫉妬。自分と同じ気持ちが真琴の中にも存在する。
 半年経っても変わらないところと、変わったところ。この先もきっと何度も、俺たちに降りかかる。ひとりじゃ解決できない、すごくくだらなくてすごく大切な不安を、真琴が声に出して俺に伝えてくれたことが嬉しかった。見えないところで、ちゃんと近づいてると思った。真琴の歩幅で、真琴のやり方で、俺との距離を少しずつ埋めてきてくれてる。
「真琴」
「ん?」
「あー……、乳首さわらせて?」
 あーあ。真琴は成長してるというのに、俺はこの体たらく。言ったそばからくだらねー、って思う。本当は俺の気持ちをちゃんと伝えようとしたんだ。そうやって真琴を安心させてやりたいって思うけど、好きだとか愛してるとか、どんなに思ってても軽々しく言えないじゃん。
「いいよ」
「へっ?」
「僕も、さわってほしい、から」
 思考が瞬時に止まる。緩慢に顔を上げた濡れた目に見つめられると、バカみたいに心臓が騒ぎだす。
「真琴ってさ、天然だよね?」
 いよいよ不安になって、尋ねてみると。
「最近ちょっとだけ、計算も覚えた」
 素直な真琴の口から意外すぎる答えが返ってきて、ひっくり返りそうになった。
 マズイマズイ。こんなに純粋でかわいい小悪魔の存在が、みんなにばれたら大変なことになる。この先バンドが有名になったりしたら、寄りつく虫の退治に手間取られそう。
 恐ろしい近い将来を想像して頭を抱えていると、楽しそうに笑った真琴が俺の耳に熱い唇をくっつけて、僕も好き、と囁いた。





プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
BL小説投稿生活中。ブログ内の文章の転載を禁じます。

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