恋香るひと(1)

 凍りそうになるくらい寒い、真っ暗な夜道に呆然と突っ立って、男がなかに入っていった目の前の平屋建てを眺めてる。
「俺は、なにやってんだ……」
 知り合いでもない、ときどきコンビニで見かけるだけの男を、街で偶然見つけてあとをつけてきてしまった。俺はいったいなにをしてるんだ。

 その男のそばを通ると、いつもいい匂いがした。
 彼と出会う場所は、自分のバイト先である居酒屋近くにあるコンビニ。時刻は午後八時すぎ。俺がバイトの休憩中にコンビニへ立ち寄ると、かなりの高い確率で会う。
 男はちょっとそこらにいないような、見目麗しい姿をしていた。濡れ羽色をした髪が、卵のように白くて形のいい顔を覆う。目にかかるすれすれのところで揃えられた少し重めの黒髪、薄くて赤い唇、小ぶりな鼻。目はまっすぐ水平に切れ長で、闇のような漆黒の黒目の割合が多い。視力が悪いのだろう、少し遠くの商品を見る時、空間をにらみつけるように目を細めているのをよく見かけるが、やけに長い下まつげの存在と下唇を噛む(癖だろう)せいで、その仕草はいつも泣くのを我慢しているみたいに見えた。
 まあ人並みはずれて美しいわけなんで、その男は俺以外の人の目も惹きつけているのだけど、そんな衆人環視に嫌気がさしているのか当の本人は誰とも目を合わすことをせず、ぼんやりと手に取った商品を眺めていることが多かった。
 知り合いでもなんでもない。ただコンビニで見かけるだけの男。その男からは、いつも上品で静謐な、特別な香りが漂っていた。


 クリスマスムード一色の年の瀬の繁華街。大学の友達と飲みに行って別れた帰り、ひとりほろ酔い気分で歩いていたら、前方から男が歩いてくるのを見つけた。
 コンビニ以外の場所でその姿を見るのは初めてだった。いつものけだるそうなイメージとは打って変わって、男は早足で、無我夢中に歩いていた。人の合間をぬい、前だけ見据えてとり憑かれたように歩を進める。彼はクリスマスを目前にしたどこか浮ついた人たちのなかで異彩を放っていた。
「あ」
 男が俺の腕に肩をぶつけた。しかし振り返ったのはこっちだけで、男はそのことには気づいた様子もなく風のように通り過ぎていった。ふわりとなびく黒髪から、いつものかぐわしい匂いがした。人ごみのなかに溢れている香水や整髪料の香りとは一風違う、どこか懐かしいような不思議な芳香。
 俺は男を振り返ったまま、その場で立ち止まっていた。みるみるうちに遠くなる後ろ姿を、しばらく眺める。
 ぶつけられた腕をさする。いままでずっと見てるだけで、男にさわったのはこれが初めてだった。
 なぜか無性にもったいないと感じた。釣り餌に引っかかりかけた魚が、うまく逃れて海に流れていってしまう。これを逃してはいけない、そんな気がした。
 俺は来た道を引き返した。
 酒に酔っていた、というだけではどうにも説明のつかない衝動。視界から男が消えてしまうのが怖かった。居ても立ってもいられなくて、俺は得体のしれない大きな波に背中を押されるように、力強く地面を蹴った。

 大通りから走ること十分。男が引き戸を自分の体ひとつ分だけ開けて、吸いこまれるように入っていった平屋建ての前。俺はそんな用もない場所で、もう五分ほど突っ立っていた。
「なにやってんだよ、俺は……」
 何度か同じ言葉を呟いてみたが、なぜかこの場所を離れることができない。このまま時間が過ぎていってもここを離れられない、そんな気がした。
 一時間後に動きだすのなら、いましたって同じだ。
 好奇心と寒さに背中を押されてそう決心し、木でできた引き戸をノックする。鍵がかかっていなかったから、そこでためらいを一切捨てて戸を引いた。
「すいませーん」
 真っ暗ななか、声をかけてみる。建物のなかは神秘的な香りが漂っていた。
 しばらくすると奥のほうから板の間を裸足で走るような軽快な足音が近づいてきた。パチっと音がして数秒後、黄みがかった暖かな照明が空間を照らしだす。急激な明暗の変化に目を凝らしていると、どこか奥へ続く細く暗い廊下の先端に、男が立っているのを見つけた。
「あ、どうも。こんばんは」
 間の抜けた挨拶をしてすぐ、ほかになにを言えばいいのかわからなくなった。建物のなかに入ってみたはいいけれど、なんと声をかけるかも考えていなかったことに、彼と対面してから気づいた。
 男からはさきほど歩いていた時のような尖ったオーラは感じられなかったが、虚無の空間を見ているような表情のない目を俺に向けていた。
 背中に一筋の冷や汗が流れる。
 夜中に突然、門を開けた見知らぬ男。男がそんな顔になるのもわかる。だっていまの俺はとっても怪しい。
 なにか言葉を継ごうと追いかけてきた言い訳になるようなものを考えていると、男は一度ゆっくりと瞬きをしてから、想像したより低い声で話しかけてきた。
「今日はもう、店じまいをしたんです」
 どうやらここは民家ではなく店舗らしい。その言葉にはっとして、俺は明りがついてから初めて男以外の周囲に目をやった。透明のビニールシートで覆われたガラスケースが目の前にある。こまごまとしたものが並べられているようだけれど、シートがあるせいでいったいそれが何かまではわからなかった。
「ここって何屋ですか?」
 なんの店か知らずに入ってきたのだと宣言してしまった。怪しく見せないための言い訳を考えていたのに、俺は頭に浮かんだ言葉をなんの装飾もせず口に出していた。これは酔ってるゆえの思考の足りなさなんかじゃなく、俺には普段からこういうところがある。単純で浅い男なのだ。
「買い物に来たわけじゃないのか、コンビニ少年」
「お、俺のこと知ってんの!?」
 少年という歳ではなかったが、そう呼んだのは男が俺より年上だからかもしれない。こっちが一方的に見ていただけで目と目が合った記憶なんてなかったから、男のその発言は意外だった。尋ねると少しだけ気まずい沈黙が流れる。
「いつもマンガ雑誌を立ち読みしてる」
 目をそらし、言うのが嫌だというように男は早口で呟いた。コンビニで自分が手に取る商品以外のなににも興味がないような態度をとりながら、実際はちゃんと周りを見ていたらしい。存在を知られていることが妙に嬉しくて、勝手に頬が緩む。ついでに気も緩んで、ハハハ、と声に出して笑ってしまったことで、男の眉間にしわが寄る。
「買い物じゃなければ、なんの用か?」
 男にキッとにらまれながら聞かれて、なんの用もないことに気づいた。やばい、なにしに来たんだっけ。
「いや、さっき街で見かけたから、ついてきただけ」
 どうしようもないので、正直に言ってみたら―
「…………………………は?」
 たっぷり時間をかけてその一音を発音すると、男はピンポン球がちょうど入るくらいに口を開けたまま固まってしまった。そんな間抜けな表情すら美しい男がやって見せると絵になるのだが、固まったままずっと動かないのでいよいよ可笑しくなって、今度は腹を折り曲げて大笑いしてしまった。俺が笑うと男が怒るというシステムになっているのか、目を細めて下唇を噛む、あの遠くを見る時にする顔でまたこっちをにらみつけてくる。
「ごめんって。さっきの顔があんまり可愛かったからさ、なんか笑けてしまったんだ」
「……なんだそれ」
 年上だろう男に向かって可愛いという発言がいけなかったのか、彼の機嫌がよくなることはなかった。ただその白い頬が微妙に色づいて見えるのは、俺の気のせいか。
 その変化をしっかり確認したくて長い下まつげの垂れる涙袋のあたりをじっと見つめていると、男が俺の視線から逃れるように俯いて、ずいぶんさっきの質問に答えをくれる。
「ここは香の店。俺が一人でやってる」
「コウの店?」
「線香とか、お香とかを売ってる」
 男は土間に降りて草履をつっかけ、ガラスケースにかけられているビニールのシートをわざわざはがしてくれた。引き戸がついたガラス棚のなかに、等間隔で商品が陳列されている。
 線香やお香と聞くと仏壇や墓参りのイメージしか浮かばなかったが、ガラスケースのなかにはよく見かけるお供えの細長い線香の他に、渦巻型のものや花をかたどった色とりどりの可愛らしいものも並んでいた。しばらくそのガラス板で囲われたカラフルな世界に目を奪われていると、男が突然口を開いた。
「とりあえず、うちのなかに上がって」
 あまりに唐突だったからか、男が言った内容の奇抜さゆえか、俺はその簡単な言葉を一瞬理解できなかった。陳列された商品からゆっくり顔を上げると、男は奥へ続く暗い廊下を指差してもう一度、『ナカニハイレ』と一音ずつ区切って言った。
「え? なん……でいいの?」
 そこから先は住居なのではないかと思って尋ねると、男は首を横に振りつつ手招いた。
「いいも悪いも、いま奥で火を使っているから」
 追い返すことはしないのか。コンビニで見かけるくらいしか接点のないストーカーまがいの怪しい俺に、尋ねられるがままに店の説明をほどこし、部屋に招きいれようとする。それは親切というようなものとはどこか違う気がした。
 俺は頭の片すみに引っかかったこの違和感を、この場で追及しなかった。それは、驚きでまだ動けだせずにいた俺に向けられた男の視線のなかに、すがるような色を見つけたからかもしれない。
「じゃあお邪魔しまーす」
 ことさら明るく言ってみせると、男はほんの一瞬だけ安らいだ顔をした。そんな微妙な表情の変化のすべてが、俺の思い過ごしかもしれない。でもこのあと俺は、そのすべてが思い過ごしなんかでなかったことを、身をもって知ることになる。
「鍵かけて電気消して」
 俺に指図すると、もうその小さな背中は暗い廊下の奥へと消えていた。






スポンサーサイト

恋香るひと(2)R-18

 暗闇に足をとられながら灯りの漏れる和室にたどり着くと、男はこっちに背を向けて正座していた。
「あの……」
「どうぞ」
 と、言われても。
 振り向きもせずに応えた男の背後、用意された座布団の上に少し迷って正座する。手元でなにか作業をしているらしい華奢な後ろ姿をじっと見つめていると、しばらくして部屋のなかに柔らかな香りが満ち始めた。
「いい匂い……」
 思わず呟いた俺のほうへ男はゆったりと身体の向きを変え、正座のまま後ろへ一歩下がった。膝元に置かれた小さな香炉を、二人のちょうど中間に置く。ひとつも焦ることをしない優雅で無駄のない所作は、いつもコンビニで見かける時のけだるげな彼とも、さっき歩いていた時の刺々しい彼とも違って、また別の人のようだった。その妙に落ち着いた振る舞いが男の見た目の若々しさに反していたけれど、その意外性はとても魅力的だった。
「これは白檀っていう、単独で香りのする天然の木なんだ。線香の原料や、温めなくても少し香るから扇子の骨組みなんかに使われる」
 柔らかな微笑を浮かべて、男はうっとりと二人の間の香炉を見つめた。香りが好きなことが表情を見ているだけで伝わってくる。煙が出ない不思議な香炉をじっと見ていると、俺の視線の意味に気づいた男がさらに説明をつけ足す。
「これは空薫といって、直接火をつけるのじゃなく、炭で温めた灰のなかに沈香や白檀なんかの香木を埋めて、間接的に香りを出す方法なんだ」
 キラキラ輝かせた目を何度も瞬かせ、身丈に見合わない長い腕を持て余しながら、身振り手振りで説明する男。こんないきいきした彼を見るのは初めてだった。
「やっぱなんか、かわいいな」
「は?」
 思わず目を見つめて思ったままを呟いてしまった。そんな俺の言葉に男はおもしろいくらいに頬を染め、サッと顔を俯けた。えらく楽しそうに話していた腰を折ってしまったことを反省しつつも、その初々しい反応がまたさらにかわいらしい。
 せっかくのお香の説明を無駄にしないよう、俺は邪念を捨てて固く目を瞑った。そして、ゆっくりと肺いっぱいに空気を吸いこむ。鼻腔をくすぐる上品で静謐な香りに、思わず甘いため息がこぼれる。
「田舎のばあちゃん家っぽい匂いがする、懐かしい」
 白檀の匂いに喚起されて、小さいころよく遊びに行った、祖父母が住む田舎の風景が色鮮やかに頭に浮かび上がった。いつも男から漂っていた微かな香の残り香に懐かしさを覚えたのは、十年も訪れていない田舎の家の匂いに似ていたからかもしれない。
 思い出に浸っていたのも束の間、思わず呟いてしまった独り言の子供っぽさに自分で苦笑する。
「匂いってさ、音楽に似てない? 時間が経ってから同じ香りをかぐと、当時の記憶がよみがえってくるんだな。そうやって忘れかけてた大切なものと香りを通じて繋がるって、なんかいいな」
 言ってすぐに独り言の言い訳みたいだと感じて後悔したが、男は俺のそんな間抜けな言葉を笑わなかった。
 気まずさで引きつった俺の顔を、ただじっと見つめてくる。彼の意図しないところにある熱が目玉の黒い球体に宿っているみたいに、突き刺さる視線から本能的になにかを求められているような気がした。
「あんた、俺の顔は好きか?」
 ゆったりと一度瞬きをしてから、男が真顔でそんな不思議なことを尋ねてきた。
「好きか嫌いかって言われたら、好き、かな。すごく綺麗な顔だと思うよ」
 まだ話したこともない段階で、細部に至るまで観察していた程度には、俺は男の顔が好きだった。
 相手の無表情につられて、こっちも淡々と返す。じっと目を見つめられるまましばしの沈黙が流れて、なにか話そうかと口を開きかけた時、男は香炉を横に退かして一歩こっちに近寄ってきた。
「なに……?」
「付き合っていた人と別れたんだ、ついさっき」
「はあ、それはまあ、なんていうか、災難だな」
 そういうことがあったから、あんな険しい表情で街中をずんずん歩いていたのか、と納得はいった。しかしほぼ初対面のような男の突然のぶっ飛んだ告白に虚を衝かれてもいて、俺の返した答えは間抜けなものになった。頭を掻いてその滑稽さをごまかしているうちにも、男はじりじりと俺との距離を詰めてくる。膝がくっつくほどそばまで近づかれたところで、男の様子がおかしいとようやく気づいた。
 漆黒の奥二重の瞳から、妖しい色香が漂う。透けるような白い肌とは対照的な、なにもつけていないのに深い赤色をした唇が、不自然な笑みの形を作る。俺の太ももの上に薄っぺらな白い手の平が乗せられ、正座でしびれた足にぐっと体重がかかった。鈍い痛みに耐えてなんとか平静を装っていると、男は腰を浮かせ俺の耳に唇を寄せて、濁りのない声で淡々と囁いた。
「今日だけ、別れた男の代わりになってくれないか」

「マジで」
 思わず呟かざるを得ない展開に目を瞠って、俺は身体を震わせた。
 まだ名も知らない男がどうやら男と別れたらしいということまでは、なんとか頭のなかで整理できた。同性を相手に恋愛をする人間がいることは知っていたが、身内や仲間にそういった類がいないため、そこは自分とは縁のない世界だと思っていた。
 だからいまの自分が置かれた状況の奇怪さに、しばらく呆然としてしまった。
 にしても、凄すぎる。あまりの超展開に萎えてしまっている俺の性器を、男はその小さな口にくわえ込んで、根元の茂みに顔を突っこむ勢いで口淫している。
 男は俺が正座で足のしびれを切らしているのをいいことに、あきらかに自分より大きな身体をまず横になぎ倒した。床から足が離れた瞬間、無数の虫が這ってるような感覚に襲われ、絶句してる俺の身体を転がして、鮮やかな手つきでジーンズと下着を剥がし、いまに至る。
 男が俺を部屋のなかへ招きいれる時、一瞬だけ見せたすがるような目つきを思い返す。そして、ほぼ初対面の人間に対する親切にしては過剰すぎたあの違和感。
 いま思うと、誘われていたのだ、と思う。『なかに上がって』と言われ、『俺の顔は好きか』と尋ねられた。普段、女性からアプローチされることはあってもここまであからさまな誘い方をされたことはなかった。あまりに直球すぎる誘い方は、色恋というジャンルにおいては逆にわかりづらい。
 色事の初期における共通意識である、駆け引きやまどろっこしさ、怠惰な甘い時間なんてものを男は完全にすっ飛ばし、直截すぎる男らしいやり方で男の俺を誘っていたらしい。
 その清々しいほどのストレートは、色事における経験不足がありありとわかってしまう誘い方でもあった。そしてそれを隠す術さえ知らない男の不器用さに、俺は妙な庇護欲をかきたてられていた。
 俺をなぎ倒してからこうなるまでの一連の男の動作にも、迷いや躊躇はいっさい無かった。ただ、雄を求めて床に這いつくばる男の餓えと捨てたプライドがなんだか見ていて痛々しく、同時にその懸命に尽くしてくる小さな身体を包みこみたい衝動に駆られてもいた。
 上半身を起こし、蛍光灯の明かりをうけてつやめく黒髪にそっと手を乗せると、ピクリと肩を震わせ、男の動きが止まる。先端だけを口に含んで、ゆっくり顔を上げた男の上目遣いに潤んだ目と目が合った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「気持ち、よくないか?」
 揺れる大きな黒目と震えるか細い声がもし演技なのだとしたら、この人は相当な悪人だと思う。
「すごい気持ちいいよ、たまんない」
 正直に答えると不安そうな表情がゆっくりと和らいでいった。その花の蕾が開くような緩やかな変化を目にして、次第に形を変えつつあった俺の性器はさらに大きく膨れあがった。手のなかのものの嵩が増えたことに気づいたらしい男が、目を瞠ったあときゅっと眉を寄せた。どうしたのかと尋ねるより早く、子供が飽きた玩具を捨てるような唐突さで手から俺のものを解放して立ち上がると、部屋の明かりを落として戻ってきた。
 障子窓を通した外灯と月明かりの光だけになった薄暗い部屋のなか、目の前に立つシルエットを見上げると、男はやはり躊躇なく自分のズボンと下着を脱いで下半身だけを露わにさせた。細長い脚の間にある欲望が、薄闇のなかで濡れて光っているのが見える。自分のものを口に含んで男は興奮したのだと想像すると、ぞくりとするような甘い感覚が胸に湧きあがった。
 『入れないから』と小さく呟いて、男はそっと俺の肩を押して仰向けに転がした。そのまま太ももに跨ると、腰の位置を調節してちょうど二つの性器の裏筋がぴったり重なるように移動する。
「我慢できないから、一緒に……」
 いい―?
 切羽詰った独り言のような呟きにはっとなって、視線を下半身から男の顔に移す。暗いなか、目を凝らしてみても表情まではわからなかった。不確かな視界に小さな不安を覚えて、せめて名前だけでも知りたいと尋ねてみても、首を横に振るだけで男は返事をしない。そのかわり、二つの性器を大切そうに両手のなかに収めて俺の上でゆっくりと腰を動かし始めた。
「んっ……」
 不器用な誘い方をしたわりに行為自体には慣れているのか、そのほっそりとした白い腰は器用に前後左右にと蠢く。微かに漏れ聞こえる小さな喘ぎ声と、合わさった性器が奏でる水の音が、曖昧な視界を埋めるかのように耳にクリアに入ってくる。
 部屋の隅に移動させられた香炉からは、まだほのかな香りが漂っていた。さっきまでは温もりのある神聖な空気をこの和室にもたらしていたのが、いまは雄特有の匂いと混じって、妖しい香りへと変化していた。
 さまざまな身体への刺激に射精感が高まり、いよいよ限界が近くなった頃、男は腰の位置を微妙にずらし、二つの性器から手を離して俺のものを自分の尻の間に挟んだ。何事かと思って見ていると、そのまま小さな尻をスライドさせて挟んだ性器の裏筋を扱いていく。
「ぁ……、んっ」
 尻を押しつけるように乱暴に腰を揺らしながら、男は自分の性器を片手で扱き、空いたもう片方の手はシャツ越しに自ら乳首をいじり始めた。暗闇のなかで恥じらいを捨てたその強烈にエロティックなシルエットを前に、俺も夢中になって合わせ目に欲望を圧しつけた。
「あ……、ぃや……、好き、だ、それ」
 矛盾したことを口にしながら男の動きが速まっていく。その腰を両手で掴んで圧しつけながら揺すっていると、かすれた声を上げて男のほうが先に達した。その身体を震わせるさまを見て欲望を吐き出しかけた一歩手前で、それを阻止するかのように闇に浮かび上がった白い指が、俺の性器の根元にきゅっと絡みついた。
「な、にす……、うわっ」
 再び股間に顔を埋めた男が、いったばかりだとは思えない冷静な動作で強張った性器に吸いつき、俺はあっけなくその小さな口のなかに己の精を吐き出した。

 なんだかあれよあれよという間に、すごい体験をしてしまった。前の彼女と別れて半年弱、その間誰とも肌を重ねることなく過ごしてきたが、そのことを抜きにしても今回の男相手の初体験は俺の身体に新鮮で強烈な快感をもたらした。
 そういう素質があったのか、それとも彼が相手だからここまで興奮したのか、はっきりとはわからない。でも、ためしに大学の悪友相手にそんな想像をしてみたら、開始五秒で自己嫌悪と吐き気に見舞われた。
「あの、やっぱさ、名前を教えてくれない?」
 俺、岡野明良って言うんだけど。
 行為中、尋ねたが拒否されたのにもめげず、再び男に問いかけた。襲われた直後にその相手をナンパするなんて、前代未聞かもしれない。
 でも、とてもかわいかったのだ。無性に守ってやりたいと思ってしまった。
 衝動的に始まった行為だったけれど、迷いがあれば途中いくらでも止めることができた。男の要求を受け入れて快楽に身を委ねた自分の反射的な判断を、間違いだと思わない。そもそも知り合いでもない彼を追いかけて、ここまでやって来たのは自分のほうだ。
 単純明快な俺の脳は、いともあっさりと性別の垣根を越え、自分の気持ちから最短の簡潔な結論をはじき出した。問いかけには答えず、黙々と衣服を正していた男が部屋の明かりをつけ、正座して待つ俺の正面に今度は胡坐をかいて座った。そして開口一番、無機質な声音で告げてくる。
「今日のことは忘れてくれ」
「え、なんで」
「あんたと名前を名乗りあうような、深い仲になるつもりはない」
 きっぱりと告げられた言葉に、そわそわと浮き足立っていた気持ちが一気にズドーンと地に落とされた。薄闇のなか微かに見えた悩ましい表情が嘘のように、いまの男は冷徹な無表情を貫いている。
「じゃあ、なんで俺とこんなことしたのさ」
「なんとなく。気晴らし。深い意味はない」
 まるでこれが正論だと言わんばかりに、男はまっすぐこっちを見つめて言った。呆気に取られて何も言い返せないでいると、男は立ち上がって入り口の障子を開け、帰ってくれと言いたそうに俺を見下ろした。
 なんだこの変わり様は。まるで多重人格者だ。
 外見は同じでも内に宿る心は別人であるかのように、いまの男からはさっきの行為の余韻を微塵も感じられない。あまりにとらえどころが無さすぎる。
 整理のつかない頭でなにか言おうならまた傷つく答えを返されそうで、しぶしぶ立ち上がり、先に立って短い廊下を進んだ。見送ってくれるらしい男が丁寧に店舗の入り口の引き戸まで開けてくれる。
「それじゃあ。楽しかった、ありがとう」
 なにも反論せず外に出たところで男が最後にとろけそうな笑顔でそう言った。
 一度限りの相手が聞き分けのいいヤツで良かった、と思っているかのような笑顔。
 扉を閉めかけた男の手を咄嗟に握りしめる。笑顔から一転、不安そうな表情で顔を上げた男に向かって、俺は一方的に言葉を放った。
「あなたが嫌でも、俺はまた来るから」
 しばらく男の顔を見つめたあと、言葉を待たずに俺は来た道を引き返した。
 振り返る直前、男は驚いた顔をすぐさま歪ませて、本当に嫌そうな顔をした。






恋香るひと(3)

 木枯らしの吹き荒ぶ、年の瀬の夕刻。ここ一週間で通いなれた路地裏の道を、目的地へ向かって急ぎ足で歩く。ちょうど女性が一人、引き戸を開けて出てきたのと入れ違いに、俺は目指していた店のなかへ入った。
「こんちはー、郁」
 店主に声をかけると、店を出る女性に笑顔を向けていた男の顔が一瞬で歪む。その何度も見慣れた表情を目にして思わず笑ってしまった。
「またあんたか、しかも呼び捨て」
「たまには嘘でも歓迎してみせてよ」
 憎まれ口にへこたれることなくひょうひょうと返すと、男はわざとらしくケッと吐き捨ててこっちに背を向けた。
 もう何度こんな扱いを受けただろうか。また来ると宣言した翌日から今日までの一週間、俺はずっとこの梅村郁の経営する香の店に通い続けている。
 始めのうちはいくら能天気な俺でも、郁のあまりに手酷い扱いに多少は傷つきもしていたが、いまではそれにももう慣れた。毎日しつこく自分のことを聞かれるのに嫌気が差したのか、昨日ようやく郁は(とても嫌そうだったけれど)自分の名前と二十五という年齢だけ教えてくれた。
「毎日毎日、あんたはどんだけヒマだ。ニートか」
「ニートじゃなくて、大学生だって。冬休みに入ったから、ヒマといえばヒマだけどさ」
「あっそう」
 無味乾燥な相づちを打ったあと、郁はガラスケースに商品を補充しながら、ふいに『バイトはしてないのか?』と尋ねてくる。
「今日は休み。あのコンビニ近くの飲食店で働いてんの。郁っていっつもおにぎりとか惣菜パンとか買ってるよな。もしかして夕飯あれだけ? 俺調理場で働いてるからさ、よかったらごはん作ってあげよっか?」
 ストーカーだと宣言しているような怪しい内容を、ペラペラとしゃべり過ぎていることはわかっていた。だけど俺にまったく興味なさそうだった郁が、単なる気まぐれでも自分のことを尋ねてくれたのが嬉しかったのだ。
 またひとことで切り捨てられるかと思いきや、郁はガラスケースを磨くダスターを手にしたまま静止していた。これはいったいどういう反応だろう。真意が読みづらい言動をすることが、郁にはよくある。
「俺、だし巻き玉子作るのが得意なんだけど、郁、だし巻き嫌い?」
 待っていれば郁からなにかアクションがあるのかもしれないけれど、生来の気の短さがわざわいして、俺は固まったままの郁に畳みかけて質問を浴びせていた。
 ガラスケースからゆっくり顔を上げた郁が、不思議なものを見るような目を向けてくる。
「好き、だけど」
「え、なにが?」
 咄嗟に聞き返してすぐに、だし巻き玉子のことだと気づく。話のつながりをすっ飛ばして都合のいい解釈をしてしまうほどに、郁の好きという言葉は俺にとって威力があった。
「たまごが、だよっ」
 少々鈍いところはあるが、しょっちゅう口説きにかかるため俺の好意には気づいているらしい郁が、勘違いの問いかけに一刀両断の返答をくれた。身体じゅうの血が全部集まったみたいに、顔を真っ赤にして。
「だよな~」
 郁がこれ以上へそを曲げては困るので、可愛らしい反応に思わず緩んだ頬をごまかすためにおどけて言った。
「じゃあさ、たまご買ってくるから台所借りていい? 郁の仕事が終わる時間に合わせて作るから一緒に食べよう」
 多少強引な気もしたが、郁のたまご好きに望みをかけて心のなかで拒絶されないことを祈る。しばらくの沈黙のあと、郁は赤い顔のまま俺から目をそらして細い廊下を指差した。
「台所、好きに使っていい」
「まじか!? やった! ありがとう、俺料理できる男でよかった!」
 嬉しさのあまり、心で思ったことを全部しゃべってしまった。間抜けすぎる俺の発言に郁は眉を寄せてから、なんだそれ、と呟いて俯き加減に笑った。


 タイムリミットは十日間。冬休みが終わって大学が始まると、いままでのように毎日は郁の店に通えなくなる。休み明け以降、ここに来れるのは大学とバイトが休みの週末だけ。郁がまたコンビニ通いをするなら、平日そこで顔を見るくらいはできるかもしれないが。
 年末年始の店が休みのあいだも、郁はこの店舗兼自宅で一人きりで過ごすと言うので、俺は家族や友達と初詣や初売りに出向くことはせず、いままでどおり日を開けず香の店に通いつめた。年越しそばを一緒に食べて、簡単なおせち料理も作った。郁はたまご料理が本当に好きらしく、伊達巻を作ってみせると、キラキラした目をして『すごい』とほめてくれた。
 そんな単純なひとことを原動力にして、俺は大学の冬休みが明けるまでになんとか郁の餌付けに成功しようと、レパートリーを駆使して料理を作り続けた。結果、そのタイムリミットの十日間で少しばかり、郁は俺になついてくれた、と思う。
 まず俺のことを、『あんた』じゃなくて、『明良』と名前で呼ぶようになった。話しかけてくる口調や態度がぞんざいなのは変わらないけれど、気を張って感情を抑制することが少なくなった気がする。おかしければ反射的に笑うし、買い物についてきてはたまごやお菓子をポンポンかごに入れる。俺が家に帰ろうとすると一応引き止めるくせに、居残るとこたつで眠り始めるくらいには遠慮がなくなった。
 それは俺にとって嬉しい変化ではあったのだけれど、その無防備は同時に俺への信頼でもあるわけで、郁が懐きだしたここ数日は俺にとって鋼鉄の精神育成期間でもあった。
「くそー、なんだよもう」
 こたつにもぐって抱き枕代わりの白くまのぬいぐるみを抱えて眠る姿は、見続けていることが幸福なのか拷問なのか紙一重のかわいらしさだった。美しい人が完全に意識を手放している状態を覗き見るのはなんだか特別なことのようで、単純だけど自分が選ばれた人間になったような気がしていた。
 でも、この美しい寝姿を自分以外にも見た人間がいる。そう考えただけで胸のなかがカッと熱くなった。郁を独占したい気持ちが日に日に膨れていくのを止められない。この店に初めて訪れた日から二週間が過ぎた。あの日は二人が身体を重ねた日で、同時に郁が恋人と別れた日でもある。
 郁はいまもまだ、終わった恋を引きずっているだろうか―。
 幾度も脳裏をかすめた疑問。
 もう忘れた、という答えが聞きたくて、一度だけ、郁に尋ねたことがある。
『前の彼氏ってさ、どんな人だった?』
 サラダに飾る卵を茹でながら、嫉妬が声に表れないように軽い調子で尋ねた。しばらく経っても返事がないから居間を振り返ると、郁は握った拳を正座をした太ももの上に乗せた姿勢で固まっていた。その時、まだここには踏みこんではいけないんだと悟った。
 名前も顔も知らない男に嫉妬して、郁を困らせている自分が情けなくなった。時間をかけるしかないと頭ではわかったはずなのに、安らかに眠る柔らかそうな白い頬に触れて、そのぬくもりを確認したくてたまらなくなる。でもまだそこまでは許されていないという現実。一度だけ身体を触れ合わせたことがあるぶん、よみがえる記憶に夜毎、悶々とうなされる。このおあずけ状態は一体いつまで続くのか。
 こたつで眠る郁を上から見下ろす。白い肌に映えるさくらんぼみたいな赤くつやめいた唇が、半開きで俺を誘ってるみたいだ。
「キス、してー……」
 切実な呟きが口から漏れて出る。あんなやらしいことはしたのに、まだ指でさえ触れたことのない唇をじっと見つめながら欲望を言葉にすると、もろい理性が簡単に崩れそうになる。
「んー…………、朝?」
 俺の欲にまみれた声に反応して、郁が目を覚ます。白くまを小脇に抱え、夜を朝と勘違いしてこたつから出てくる。そんな日常の一コマですら、俺の危ない恋心に拍車をかける。
「まだ夜。もう布団で寝なよ」
「帰るの…………?」
 寝ぼけ眼をこすりながら寂しげに見上げてくるその天然さが、いよいよ空恐ろしくなってきた。
「うん、今日はもう遅いからさ。また明日来る」
 これ以上ここにいたら、郁に危険がおよぶ。愛しい郁を部屋にひとり残して、俺は後ろ髪を引かれる思いで家路についた。






恋香るひと(4)

 短い冬休みが明け大学が始まると、やっぱり香の店へ行くことができるのは土日のみになった。平日は大学で講義を受けてからバイトに向かい、休憩中にコンビニで郁と会う。生気のない顔をしておにぎりを手に取る郁の肩を叩く。
「ああ………、明良か」
「おつかれ、郁」
 コンビニで会う郁がなぜここまでぼんやりしているのか、最近わかった。真面目で勤勉な彼は仕事中、いつもピリッとした空気を身にまとって客と接しているため、店じまいをしてここに現われるときは、仕事に精を使い果たしたあとの脱け殻となっているからだ。
「これ、よかったらおにぎりと一緒に食べて」
 今日はさほど忙しくなかったので、店長に断ってさっき、居酒屋の調理場でスパニッシュオムレツを作った。出来たてが入った温いプラスチックトレーを差しだすと、パッと目を輝かせてこっちを見る。
「い、いいのか?」
「いいもなにも、郁に食べてほしいから愛をこめて作ったんだぜ」
 毎度の軽い口説き文句に、郁は眉を下げて下唇を噛む。困ったようなこの表情も毎度の反応だ。俺の想いが一方通行だと知らされる瞬間。
 まだ前の男のことが、忘れられないのかもしれない。ふと頭に黒い影がよぎる。
 以前、前の恋人のことを尋ねたときの、ガチガチに固まって動かなくなった郁の拒絶反応を思いだす。郁のほうからなにも言わない限り、古傷をえぐるようなことはもうできない。だから、そうやって聞きだせないかわりに、俺は想いを伝えることで二人の関係を変えようと躍起になっているんだけど、郁との間にへだたる壁は思った以上に高くてぶ厚い。
「ありがとう、いただく」
 俺の目を見て無表情にそう言うと、郁は差しだしたトレーを受け取った。
 困らせたいわけじゃなくて、気持ちを知っていてほしいから伝えるのだけど、いつも結局困らせるだけで終わってしまう。この押しつけがましさがいけないのはわかっていても、募るばかりの想いを発散させないと、身体のほうが暴走しそうで恐ろしい。
 本心を言ったわけだから冗談だよと宥めることもできず、かと言って謝るのも筋違いな気がして、次の言葉が継げない。優しくしてあげたいと思うのに、俺の気持ちは空回りしてばかりだ。焦ったって仕方がないことはわかってる。でも、交わる兆しのない二人の気持ちに手の打ちようはなく、俺の心に残るのはいつも歯がゆさだけだった。
 なにを言っていいのかわからず珍しく俺が沈黙していると、郁が小さく咳をしてから言葉を発した。
「あさっての土曜は、月一回の定休日なんだ」
「え、そうなの?」
 沈んでいる俺を気遣ってか、少し緊張した面持ちで切り出した郁に、俺はつとめて明るく聞き返した。
「ヒマだったら昼の一時に、駅前に来て」
「へ………………?」
 突然の申し出に固まっていると、郁が『一時十分まで待ってる』と言葉を残して、そそくさとその場を去っていった。


 休日に外で待ち合わせなんて、デートのお誘いだって勘違いしたっておかしくないと思う。一昨日の沈んだ気持ちとは一転、浮かれて駅前で待っていると、現われた郁は今日行われるらしい自ら主催するお香教室の説明を、がっかりうなだれる俺に淡々と施してくれた。
 教室は月初めの土曜の午後、香の店から駅三つ向こうにある木造の平屋建てで行われる。少人数で肩肘張らないものらしいが、俺を除いた六名の生徒は全員女性で、和室内の静けさと普段味わうことのない厳かな雰囲気に、俺は下座で冷や汗を垂らしながら正座していた。
 招き人である香元の郁が、香炉に火を入れて香りを確認する。丁寧で大胆な所作には一つの迷いもなく、すっと上座の女性の右手側に、香り立つ器を差し向けた。ここに着くまで洋服を着ていた郁が、いまは藍染めの作務衣を身につけている。全身一色の藍が白く透き通った肌を際立たせていて、そのあまりの妖艶さを直視できず、俺は畳の継ぎ目ばかり見ていた。
 香りを楽しんで、郁が用意した抹茶と簡素な茶菓子で場が和んだころには、俺の緊張もずいぶん緩和されていた。女性たちのにぎやかなおしゃべりが尽きた頃、郁が丁寧にお辞儀をして、場はお開きになった。
 女性たちがすんなり立ち上がり和室をあとにする後ろ姿を見つめながら、俺は立ち上がろうとして失敗した四つん這いの間抜けな格好で固まっていた。足がしびれすぎてもう自分のものじゃないみたいになっている。というかもうこれが他人のものであってほしいと思うくらい、痛くて痒くてこそばゆい。
「だいじょうぶ、か……」
 女性たちを見送って戻ってきた郁が、扇子で口元を隠して尋ねてくる。肩が揺れて、扇子から覗いている目と声がもうあきらかに笑っている。
「む、り……。大丈夫じゃない」
 手の下にある座布団がズルズル滑って、俺はそのままうつ伏せに転がった。その様子を見ていた郁が勢いよく扇子を畳んだ途端、堪えるのをやめて声高に笑い出した。
「明良、正座が苦手なのな!」
 呼吸困難に陥る寸前の郁が、笑いの合間に涙を拭いながら言った。それでもまだプルプル震えるだけでなにも返せない俺を見て、またはじけたように笑い出す。しばらく止まない甲高い笑い声を聞きながら、なんとか身体を仰向けに引っくり返した。
「くっそー、笑いすぎだって。そういえばまえに郁に襲われた時も、俺正座してたんだっけ」
 目透かし張りの天井を見つめながら呟くと、郁の笑い声が止んだ。
 郁がまた前の男を思いだすんじゃないかと思って、今日までこの話題にも一切触れてこなかった。こっそり目線だけ向けると、郁は口元を腕で覆って真っ赤になって俯いている。あんな大胆な誘い方をしたくせにここまで恥ずかしがるのも珍しい。笑われたことへのちょっとした意趣返しのつもりがなんだか気の毒になってしまって、俺は頭を掻いてから勢いをつけて身体を起こした。
 正面の雪見障子のガラス越しに、小さいけれど整えられた庭が見える。
「いい部屋だな」
 話題を変えるいい機会だと思って、ここに入ってからずっと気になっていたことを言葉にした。物のない漠然とした部屋なのに、庭の緑や畳の匂い、柱の木目など、この空間を形作る一つ一つの要素がこの部屋に温もりを与えている。
 きっと家主が日々の手入れを怠らずにいるから、ここも香の店と同様こんなに気持ちがいいのだろう。
「ここって、誰かの家?」
 庭の全貌が見たくてなんとか足を踏んばって立ち上がり、障子を開けながら何の気なしに尋ねると、郁がその開いた隙間をすり抜けて縁側に腰を下ろした。じっと正面を眺めていたかと思うと、おもむろに口を開く。
「おばあちゃんの住んでた家。去年死んだんだ」
「……そっか」
 なにを言えばいいのかわからず、ただ相づちを打ってその隣に腰を下ろした。いつも自分の素性については貝のように頑なに口を割らない郁の突然の告白に、俺は内心動揺していた。おばあさんの形見だという小さな庭を見据える真剣な眼差しを見て、きっとこの場所が、いまの郁の心になにか特別な作用をもたらしているんじゃないかと思った。
「香の店も俺が継ぐ六年前までは、おばあちゃんの店だったんだ。俺、両親も死んでて、兄弟もいない。おばあちゃんが俺にとって唯一の身内だった。すごく優しい人で死んだ時は辛かったけど、もうこの世に俺と直に血の繋がる人がいないんだって思ったら、おばあちゃんと引き換えに自由を手に入れたような気がして、なんか妙に身体が楽になった」
 正月にたったひとり、店に残っていたわけがいま解けた。郁には帰る場所がないのだ。
 あっけらかんと言い放つその横顔をじっと見つめる。整いすぎていて、人を惹きつけるのと同時に、きっと近づき辛さから郁は人を遠ざけもしているのだと思う。
「でも悲しくない? 大切な人の代わりに手に入れた自由だなんて」
 天涯孤独だと言い張る妙に冷めた独白がなんだか白々しく感じられて、気づけば言い返していた。振り向いた郁が眉根を寄せてにらみつけてくる。
「明良は幸せな家庭で育った? 両親に大切にされて、なんの不自由もなくのびのび育った、なんだかそんな匂いがする」
 言われて即座に否定するような不幸な境遇には確かにいない。両親と弟妹に囲まれた騒がしい家で、時々けんかもしながら幸せに暮らしてきた自覚があった。
 そうだな、と答えると、俺の鼻を明かしたとばかりに郁は得意げに、でも少し寂しそうに笑った。
「さらに俺はゲイで、女の人と結ばれない不幸な体質に生まれてきたから、結婚なんてできないし子作りもできない。梅村家の血は俺のせいでこのさき途絶える。そんなやつは孤独に死んでいくのが一番いい」
 郁の達観したような自虐的な物言いも、こんなに自分のことを長々と話すのもいままで聞いたことがなかった。いつもはこっちの話に答えたり、茶々を入れたり、香について話すことがほとんどで、郁がこんな尖った感情を表に出したのは初めてだった。
 なにかが違うんじゃないかと思った。おばあさんは優しい人だったと郁は言った。
 なんの感情も表れない横顔を見つめながら、ふと思いだす。自分が郁の焚いたお香の匂いに誘発されて田舎のばあちゃんを懐かしんでいた時、あの黒曜石のように冷たい色をした眼球が熱を含ませていた。郁は俺の記憶に、大切な人との思い出を重ね合わせていたのではないだろうか。
 きっと自由を手に入れたとでも思わないとやりきれないほど、大切な人の死が辛かった。だって身寄りがないということは、この遺された家や店を一年経ったいまも、こんなに大切に丁寧に保管しているのは郁自身だ。
「いい庭だな」
 なにを言えば正解なのかわからず、馬鹿の一つ覚えみたいに褒め言葉を口にすると、隣の肩がぶるっと震えた。寒いのか、と尋ねようとしてやめる。天を仰いだ眼差しの強さに、涙をこらえているのだとわかった。
 自分がなんとかしてあげたいと、思った。身寄りのない孤独の淵へ、手を差しのべて引っぱりだしてやりたい。でも、そんな一方的な感情だけでは人の心を動かせないということも、俺は郁と一緒にいたことでわかってしまった。暴走しそうになる恋愛感情をぐっと心の底に沈めて、見えない場所で拳を握りしめた。
「たまにはさ、俺にも部屋の掃除させてよ。どうせヒマだからさ」
 社交辞令ではないけれど、郁を泣かせたくなくて繕った言葉だったことは確かだ。ゆっくりとこっちに目を向けた郁は、一度俯いて目元を拭うと、わざと悪魔のような微笑を見せて言った。
「じゃあまず玄関から」
「ああ、うん……、ん?」
「たったいま掃除がしたい、と言っただろ?」
 俺が首を傾げている間に郁は立ち上がって早口で告げると、目元を腕で拭いながらそそくさと部屋のなかへ戻ってしまった。

「そりゃ手伝うとは言ったけどさ」
 ぼそっと呟いてしまった言葉に、振り返った郁が目を半眼にしてじとーっとねめつけてくるので、笑顔で首を振ってなんでもないと主張した。
 部屋で洋服に着替えた郁が戻ってくると、スパルタ教育並みの掃除指導が始まった。普段し慣れないことにあたふたしていると檄が飛ぶ。雑巾の絞り方がなってない、上の埃を先に落とせ、水拭きしたばかりの床を素足で踏むな。姑だったら嫌なタイプの細かさだ。
 郁の指導に従い、必死になって隅から隅まで磨き上げたら、シャツ一枚の背中に汗がじんわりにじんでくる。こんな大変な作業を、郁は誰かに頼まれたわけでもないのにいつもひとりでやっている。孤独に自分を律し続けることは、きっと想像以上に難しい。
「今日のお礼に、なにかごちそうしたい」
 使った雑巾を干していると、背後から郁が声をかけてきた。
「あ、ああ、あー、うん。じゃ、お言葉に甘えて」
 その一言を言うのに、すごく勇気を使ったんだろう。振り返った郁の赤い顔を見たら、胸のそこからあふれ出してくる愛しさで、疲れが一気に吹き飛んだ。






恋香るひと(5)

 普段飲まないビール以外の酒の飲むペースがわからないらしく、白ワインを水のようにあおって郁はぐだぐだになっていた。飲み始めは香の話をペラペラしゃべっていたが、途中からは舌が回らなくなってきて、そんな自分がおかしいらしくずっと笑っていた。
 居酒屋を出るともうすっかり出来上がってしまって、上機嫌に夜道をスキップしている。酔っ払い特有の自分の能力を超えた派手なアクションにびくびくしつつ、怪我だけはさせないよう、後ろから郁を注意深く見ながらついていく。
 ジグザグ進む郁に目をやりつつ、やっと香の店の前にたどり着いてホッとしたのも束の間、俺の想像を上回る動きを見せた郁は、最後の最後にスキップの着地に失敗して前のめりになった。咄嗟に体の前に腕を出すと、ヨタヨタとふらついた郁がすがるように腕にしがみついてきた。
「大丈夫かよ」
「だめ~。全然だめ」
 埒の明かないことを言って、酒のせいで体温の高い額を肩口に押しつけてくる。どうしたものかと困っている俺の気持ちも知らないで、郁は目を瞑ったかと思うとムニャムニャ言って全体重を預けてきた。
「ちょっと、鍵どこよ? ここで寝んなよ」
「寝ない……」
 全然説得力がない。必死で睡魔に耐えている人が寝てない振りをすることはよくあるが、思いっきり目を瞑って体を委ねている状態で寝ないだなんてよくも抜け抜けと言えたものだ。声をかけ、軽く頬を張っても目は開かず、嬉しそうに笑うだけ。でもそんなたがが緩んだ締まりない顔が、死ぬほどかわいかった。
 誘った自分が悪いのか、がぶがぶ飲んだ郁が悪いのか。どっちにしろ、いまのこの状態はお互いにとって危険すぎる。
「ねえ……、ねえってば」
「んー?」
「俺、あなたのことが好きなんだよ?」
 警告しても返事はない。酔っ払い相手に告白なんて暖簾に腕押しだとわかっていたけれど、もういいかげん決定打をうっておかないと、酒ひとつで度々こんな無防備をさらされてはこっちの理性の糸が切れるのも時間の問題だ。
 冷たい冬の夜風が、二人のいる路地裏を吹き抜ける。足元で空き缶の転がる音がした。途端、肩にかかっていた重みがなにも無くなった。目の前の郁は二本の足でしっかり立っている。
「あれ? もしかして、いまの聞いてた?」
 突然体を起こしたこのおかしな態度は、俺の告白を聞いたからとしか考えられない。またいつもの唇を噛む困った顔をさせてしまうだろうか。俯く郁の表情を確認しようと覗きこんだら、俺の視線から逃れるように背中を向ける。突風になびく黒髪の隙間から見えた後ろ姿の耳たぶが、酔っているにしても赤すぎた。
「俺は……、あ、あの―」
 消え入りそうな郁の声に耳を立てていると、背後から自分を呼ぶやけに陽気な声に邪魔された。
「あれ? 岡野か? お前なにしてんだ、こんなとこで」
 振り返って、暗い路地に立つ大きなシルエットに目を凝らす
「…………伊佐木さん?」
 大股で近づいてきたその彫り深い顔の持ち主は、俺のバイト先である居酒屋の副店長、伊佐木だった。
「今日はバイト休みか? なぁにやってんだ、こんな裏通りで」
「痛てっ」
 力任せに背中をはたかれて空咳が出る。悪気のないスキンシップだとわかっているが、伊佐木のこの加減の知らなさが恨めしい。
「あれ? 郁と一緒じゃねぇか。なに、お前ら知り合いか?」
「えっ?」
 驚いて背後を振り返ると、さっきとは一変、青ざめた顔をした郁と目が合った。
「ああ、知り合いで―、うわっ」
 伊佐木に説明しようとすると、突然郁が俺の腕と脇の間をすり抜けて、二人の間に体で割って入ってきた。
「か、彼は、うちの店を手伝ってくれてるだけの人です。そう、あの、土日だけ」
 だけの人。確かに郁の言ってることに偽りはないが、その愛のない説明に肩からスコーンと力が抜ける。
「あのお二人は……」
 知り合いですか―? 
 こっちを振り返りもせず郁が伊佐木に尋ねる。徐々に萎んでいったその語尾は、虫でも聞きとれないくらいに小さかった。
「ああ、岡野は俺んとこの居酒屋のバイトな。俺なんかより働いてる期間がむちゃくちゃ長いよな、三年だっけか」
 ギャハハ、と天を仰いで笑った伊佐木の声は、静かな夜の路地に不自然に響き渡った。
 知り合ってからずいぶん経ったいまは彼が根っからの悪人ではないことがわかったが、いまだこの空気の読めなさは受け入れられずにいる。
 バイト先の店長と学生時代の友人らしい伊佐木は半年ほど前、突然店に現われてそこから副店長としてフロアの責任者を務めている。なにか弱みでも握られているのか、信頼のおける店長の人選とは思えない不真面目な男の採用に、その当時の居酒屋はざわついた。いまでもそのテキトーさとサボリ癖のせいで伊佐木のバイト内での評判はすこぶる悪く、彼が唯一店に貢献していることといえば、悪意を一人で担って周りを団結させ、アルバイト達の士気を高めていることくらいだろう。そういう意味では店にとって必要な存在なのかもしれないが。
「あの、今日は帰ってもらえませんか?」
 風が一瞬止んだ静寂の暗闇に、郁の頼りない声が吸いこまれていった。まっすぐ伸びた華奢な背中が、寒さのせいか小さく震えて揺れていた。
「なんだ? まあいいけどよ。じゃあ今日は引っ返すわ。また来るな」
 手を上げた伊佐木に、俺は軽く会釈を返した。目の前の郁はなにも言わず動かない。去っていく伊佐木の姿が闇に溶けて見えなくなっても、郁の背中は微かに震えたままでなにかアクションを起こす気配はなかった。
「伊佐木さんと、知り合い?」
 二人だけの気まずい沈黙に堪えきれず、なるべく不自然にならないように明るく尋ねたつもりだが、郁からの答えはなかった。
 伊佐木が現われてからの郁の不自然でぎこちない態度が気になる。夜遅くに連絡もせず家を訪れるというのは、二人の間にある程度の親密さがないとできないことだ。
 郁が以前付き合っていた男というのは、伊佐木なのではないだろうか。ふと頭にちらついた邪推をすぐさま払拭する。事実は当人の口からしか知らされないことだ。
 しかしいくら待ってみても郁は俺の質問に答えなかった。じっと動かずにいるその後ろ姿を眺めていると、しばらくしてゆっくりとこっちを振り返った。
 背景の闇に浮かび上がったその顔は、紙みたいに白かった。
「どっか、具合悪い?」
 そう尋ねずにいられないくらい。
 首を横に振って否定したあと、郁は抑揚のない声で、独り言のように呟く。
「明良は、もうここに来るな」
 しつこいくらいに通い詰めた始めのころ、何度も言われた言葉だった。だけどまっすぐ矢のように胸に突き刺さったのは今日が初めてだ。それくらい表情と声音に拒絶が現われていた。
「俺、なんか郁に嫌われるようなことした?」
 問いかけてしばらくしても返事はない。まっすぐ俺に向けられていた小さな頭が、時間をかけてゆっくりと垂れていくだけだった。
 尋ねても答えないため郁と伊佐木との関係はわからないし、なにが原因でこんな事態になったのかもわからないし、その修復の方法なんてもうさっぱり見当つかない。
 好きとはっきり告白したらもう来るなと言われ、質問しても答えない郁相手の八方塞がりの状況を、自分ひとりで打破する方法が見つからない。ここまでの拒絶を示されたんだから、これがいわゆる、引き際というやつなのかもしれない。
 目の前の郁を見る。力なく首を垂れる姿は、いつもの郁よりさらに小さく見えた。
 『もうここに来るな』というのは、本当に望んで言った言葉なのか。郁は本気で、もう俺に会いたくないと思っているのか。
 少しずつだけど笑う回数が増えて、遠慮がなくなって、自分のことを話してくれて、ついさっき想いを伝えたら真っ赤になって―。
 短い期間に起きた、緩やかだけど奇跡みたいな郁の変化を、俺はこの目でしっかり見てきた。嘘の下手くそな不器用な郁の真意を、ちゃんと確かめるまではあきらめられない。
 それになにより、郁との関係を俺自身がどうしても手放したくなかった。
「とりあえず、今日は帰るけど」
 吐いた白い息が、俯いた郁の頭上で消えた。
「あなたが嫌でも、俺はまた来るから」
 どこかで聞いたセリフだな、と思うそばから、自分が郁に言ったんだと思い出す。
 たいがい俺もしつこい男だと考えてふっと笑ってしまった。息の漏れた音に気づいて、郁がそっと顔を上げた。目が合うとすぐさまその顔は背けられる。
 一瞬だけ目が合った、目元を潤ませて泣きそうに歪んだ顔も、驚くほどに美しかった。





恋香るひと(6)

 週明けの月曜、バイトの休憩時間にコンビニへ行ってみたが、案の定、そこに郁の姿はなかった。予想していたことだが、実際会えないと肩すかしを食らったような欠落感が襲ってくる。
 毎日のように顔を見ていたから、週末まで会えないと考えたら急に心もとなくなった。でもいままでとは明らかに違う、心からの拒絶をされたいま、郁に会いに行ってもどんなふうに接していいのかわからない。郁の困った顔を想像して、そんな顔を俺がさせるのだと思うと、胸が痛んだ。
 居酒屋が閉店後の調理場でひとり、砥石で包丁を研ぐ。考えても埒が明かない問題から目をそらそうと躍起になってその単調な作業に没頭していたため、誰かが調理場に入ってきていたことに俺は気づかなかった。
「岡野ちょっといいか? 土曜のことなんだけど」
 真後ろで声がして振り返る。そこには伊佐木が立っていた。
「おつかれ、す」
「おま、あ、危ねぇからそれしまえよ」
「あー…………」
 包丁を握ったままの、自分の手元を見下ろす。本当だ、危うく刺さるところだった。洒落にならない。
 研ぎたての切れ味鋭い出刃包丁と砥石を棚に仕舞って、俺はさっき伊佐木がなにか言いかけていたことを思い出した。
「なんか話ですか?」
「ああ、土曜にさ、会っただろ? 郁のとこで。俺が帰ったあとに、あいつからいろいろ聞いたか?」
「いえ、特になにも」
 伊佐木の言う『いろいろ』がいったいなにを指しているのかはわからないが、なにも話は聞いていないので俺は簡潔にそう答えた。
「いや、実はさ、郁とはクリスマス前に別れたんだけどよ。その原因が、俺にカミさんと子供がいることがバレたからでさぁ」
 伊佐木が俺の返事を無視して唐突に語り始めたことにも驚いたが、その告げられた内容には度肝を抜かれた。
「け、結婚してたんですか?」
 俺は伊佐木に妻子がいることを知らなかった。
「ああ、他の連中には内緒な。カミさんと子供がいるっつったら、モテなくなるからよ」
 この居酒屋内ではそれを言っても言わなくても伊佐木の評価に変わりはないだろうが、どうでもいいことなので黙っておいた。
 そんなことより―
「その話、俺にはしてもいいんですか?」
「なんでだめなんだ?」
 伊佐木は目を見開いて、心底不思議そうな顔をした。
 二人は付き合っていたという。姿の見えない俺の嫉妬の対象は、やはり伊佐木だった。しかも不倫という後ろ暗いおまけつき。
 伊佐木は郁と俺が知り合いであることは、土曜に会ってわかっているはずだ。それなのに、二人の不倫関係を俺が知っているかどうかも確認せず、簡単に話してしまってもいいのか。そもそも伊佐木は郁の許可を得て話してるのか。というか、俺はなんでこんな大事な話をこのおっさんから聞かされなきゃならないのか!
 伊佐木の話があまりに唐突すぎて、嫉妬なのか怒りなのかわからない感情が一気に湧きでて収拾がつかない。返事ができないで黙っていると、伊佐木はハッと笑ってから俺の肩に腕をまわしてきた。
「頼むからさー、言わないでくれや。結婚してて、さらに不倫までしてるってバイトの連中にバレたら、信用なくすだろうがよ」
「いや、そうじゃなくって」
 伊佐木は俺がこのことを誰かに話すのではないかと心配しているようだった。だけど俺が言いたいのはそんなことじゃない。
「これって、伊佐木さんひとりの問題じゃないですよね。このこと、郁には許可とって話してるんですか」
「ああ? ああ平気平気、あいつはなに言っても怒らねぇからよ。扱いやすいっつうんか、良い奴だよな?」
 同意を求められて、俺はゆっくり首をひねった。腹の底に冷たい石がひとつ沈んでいく。混乱でぐちゃぐちゃになっていた頭のなかが、瞬時に怒りの一色に染まった。
「扱いやすい、ですか」
 怒らないからなにを言ってもいいのか。良い奴というのはそういう扱いやすい奴のことをいうのか。
 そう思ったが口には出さなかった。言っても真意は伝わらない気がした。たぶん、伊佐木とは考え方が根本の部分で違っている。
 触れられているとどんどん怒りが膨らんでいく気がして、肩にまわされた腕をゆっくりほどいて伊佐木から離れた。そんな俺の行動をどう思ったのか、伊佐木は一度大げさに肩をすくめ、口を歪ませて笑った。
「まあいったん別れたんだけど、また付き合うことになったんだわ、俺たち」
「…………はい?」
 誇らしげな伊佐木の表情を呆然と見つめる。これはなんの悪夢だ。たった三日でいったいどんな展開があったというのか。付き合う、ということは、不倫関係を再開するということか。
「奥さんとは、別れたんですか」
「まさか別れるわけねえだろ。郁は俺にとってペットなんだよ」
 ペット、愛玩動物。いつから人間は人間を飼うことができるようになったのだろう。いや違う、伊佐木は愛人という意味で郁のことをペットと言っているのだ。
 再び襲ってきた混乱が思考を乱し、俺はまたしばらくなにも言えずにいた。伊佐木の言うことを脳がはっきり理解した直後、俺は上司に向かってありえない口のきき方をしていた。
「はあぁ? なんっだそれ」
「あいつむちゃくちゃ綺麗な顔してるだろ? まあ言っても男相手にやったことなんかなかったから、ケツは使ったことねえんだよな~。なあなあ、お前もあいつとやったんだろ? そっちも使ってんのか? おい」
 包丁を仕舞っておいてよかったと心の底から思った。手に持ってたら、いま確実に刺してる。
 郁と一度だけ性行為をした時、明りを消して視界を鈍らせ『入れないから』と言った郁の言葉を思いだす。そんな気遣いを郁にさせたのは、いま目の前にいる男かもしれない。
 伊佐木の下品な好奇心で歪んだ笑みを、視界に入れることにすら嫌悪を覚えた。
 郁はこの男のどこを好きになったのだろうか。俺にはさっぱり理解できないが、人の好みなんてそれぞれだ。郁はこの男に魅力を感じているのかもしれない。
 考えても埒が明かない。理解しえない苦悩と嫉妬で、胸が焼かれるだけだ。
 冷静になれ、と自分に言い聞かす。ここまで話を聞いてしまったからには、どうしても一点確認しておきたいことがあった。感情を腹の底に沈めて、俺は努めて淡々と声を発した。
「彼は、あなたが結婚してることを、知ってるんですか」
 想像ができなかった。繊細で不器用な郁が愛人としての役目を平然とこなして、心晴れやかでいられるだろうか。
「ああ……」
 悶々と考えていると伊佐木が一言発して口ごもり、ぐるりと目玉を回してしばらくなにか思案するそぶりをしてから、思い当たることがあったのか、わざとらしく顎をさすりながら言った。
「カミさんと子供がいるっつったら、あいつむちゃくちゃ怒ってな。それで一旦別れたんだけどよ。でもあいつは俺にベタ惚れだからな。今回、またやり直してぇって、向こうから言ってきたんだぜ」
「郁が?」
「そう、また俺とやりてぇんだとよ」
 下品な笑い声が響く薄暗い調理場内にグワン、と低い金属性の音がこだました。積み重ねられた数枚の小皿が揺れて、カチャカチャ触れ合うのが視界の端に映る。ステンレス製の調理台を反射的に力まかせに叩いた拳が、熱を帯びて震えていた。
 内からあふれ出した俺の唐突な怒りを前にして、伊佐木は一瞬慄いたように見えたが、すぐに同情するかのような笑みを浮かべた。
「お前の気持ちはわかるけどよ。そうそういねえもんな、あんな上玉は。お前もあれを手放すのが惜しいんだろ? でもあいつは俺のペットだから。今回は手、引いてくれな」
 話は終わったらしく、伊佐木が俺の肩を叩こうとした。その手が肩に触れるよりさきに手で払いのける。
「さわるな」
 床を見ながら発した声は、ほとんど音にならなかった。伊佐木は笑いを含んだ声で、悪いな、と一言告げて去っていった。
 寒気がした。身体自体が冷えているわけじゃなくて、心の芯が凍ってるみたいに震えている。
 自分が見ている郁の人柄と、伊佐木の語るそれがまったく重なり合わない。妻子ある男のペットの役割に、志願してなるような人だろうか。
 腕時計を見ると、十時半を過ぎたところだった。俺は帰り支度をしてバイト先をあとにした。
 最後まで冷静でいられなかったことが悔しかったし、伊佐木に自分が同種の人間だと思われたことも癇に障った。でもそんなのはほんの些細なことでしかなかった。自分の大切な人が粗雑に扱われていることに純粋に腹が立ち、同時に悪気がないにしても郁をおもちゃのように扱う伊佐木がどうしても許せなかった。






恋香るひと(7)

 夜中の十一時という非常識な時間に、俺は香の店の戸を叩いた。
「郁いるー?」
 一度だけ声を張りあげる。煙草の煙のような白い息が宙を舞った。
 不倫なんて本当に望んでしてるのか。ペットの役目で幸せなのか。どうしても真相を確かめずにはいられなかった。信用できない伊佐木の言葉なんかじゃなく、郁の口から本当の気持ちを聞きだしたい。
 しばらく待っていると、ゆっくりと木製の引き戸が開く。床に就いていたのだろう、丹前を羽織った郁が、少しだけ開いた戸の隙間から赤い目でにらみつけてくる。
「酔っているのか?」
「酒は飲んでないよ」
「今日はもう店は閉めた」
「わかってる。話がしたくて来たんだ」
「もうここには来るなと言っただろう。それに、俺はなにも話すことない」
「嫌でもまた来るって言ったじゃん。俺は郁に聞きたい話があるんだ」
 言いこめて帰そうという意気込みは感じたが、眠る前で頭が働かないのか、郁はさらに言葉を継ごうと開いた口を閉じて眉根を寄せた。無意識に鼻をすすった俺を見て困ったような表情をしたあと、無言でなかに入るよう手招きする。
 ひんやりと冷たい板敷きの廊下を抜け、郁に続いて和室に入った瞬間、俺はその異常なほどの強い香りを吸いこんだ衝撃で思わず咳きこんだ。
 鼻先に花束をつきつけられたかのようなむせ返るほどの芳香が、和室内に充満している。
「郁、どうしたのこれ!?」
 灰でいっぱいになった香炉を指差して、郁に尋ねる。いたずらが見つかった子供みたいに目をそらすので、とりあえず換気しようと部屋の障子窓を全開にした。外の冷たい新鮮な空気を吸いこむと、クラクラしていた頭が少しクリアになった気がした。
「なんでこんな―」
 振り返って尋ねると、郁は穴の開いた紙風船のようにへなへなと敷かれた布団に座り込んだ。
「放っておいてくれよ、もう」
 両手で顔を覆って、かすれた声で呟く。簡単に折れてしまいそうな白くて細い指がかすかに震えていた。俺は好きな男からの切実さのこもった拒絶の訴えに、物の見事に打ちのめされた。
 ああ、迷惑だったのか。
 なにが真相か、なんて探偵気どりでやってきたものの、そんなのは俺の好奇心を埋めるだけで、郁にとってそれは俺に知ってほしいことなんかじゃなかった。ただ迷惑なだけなのだ。
 少しずつでも、郁が俺に心を開いてくれていると感じていたのは、勘違いだったのだろう。郁が沈黙で隠す部分を勝手な想像で埋めて、俺は彼の迷惑も考えずひとり舞い上がっていただけだ。
 ひどく疲れた様子でうなだれる郁を見て、自分の強引すぎた振る舞いを反省した。恋愛ってやっぱり二人でするもので、どんなに俺が一人で奮闘してみたところで実を結ぶような都合のいいものじゃなかった。郁が必要としているのは、俺ではなかったということだ。
「つらいな」
 思わず本音が漏れる。俺の声を聞いて、うなだれる郁の身体が少しだけ震えたのがわかった。
 この美しくて、かわいくて、繊細で、芯の強い人を、どうしても手に入れたかった。自分の腕のなかに収めて、なんどもキスして、とろとろになるくらい甘やかしたかった。俺は郁に悲しい思いをさせない、幸せにできる自信があった。でもその妄想は現実にはならない。
 動かない郁の前にしゃがんで、ゆっくり息を吸った。胸が痛んで死にそうだったけど我慢した。あとでいくらでも泣けるから、郁の前では最後まで明るい俺でいよう。郁を不安にさせないように、普段通りの声で解放の言葉を届けよう。
「いままでごめん、もう来ないから安心しなよ」
 ピクリと肩を揺らした郁の、顔を覆う指先の震えが止まる。ちゃんと耳に届いたことを確認して立ち上がる。
 出口へ向き、決意の一歩目を踏みだした。その足首に、ものすごい圧力がかかる。思わず自分の足下を見た。心霊現象のように白い二つの手が俺の右足首に強く絡みついている。
 振り返ると、それはさっきまで自らの顔を覆っていた郁の手だとわかる。よくわからない展開に頭はついてこず、まだうなだれたままの郁の黒髪のつむじあたりを呆然と見下ろしていると、その下の白い布団カバーにぼたぼたと水滴が落ち始めた。
 雨か、と思った。混乱していたのだけれど、降りはじめた大粒の雨みたいに続々水が落ちるので、勘違いしたのだ。
「い、郁?」
「なんで急に、そんなこと……、いままではずっと、拒んでも拒んでも、追いかけてきたくせにっ!」
「ご、ごめん、じゃなくて、え…っと……」
 郁のあまりの剣幕に反射的に謝ってしまったが、なぜ怒られているのかはまったく理解できていない。
「待って郁、痛い痛い」
 足首を掴んでいた郁が脛に爪を立てるので、俺はしゃがんでその手を外させた。泣き顔を見られるのが嫌なのか、目元を隠すように三角座りをして自分の膝に顔を伏せる。
「俺は明良のことをずっと見てた。あんたが俺を知るずっと前から」
「え…………?」
「俺はゲイなんだ。毎日同じ時間にコンビニへ行くと、自分の好みの男がいつも同じ場所で漫画を読んでる。目で追ったっておかしくないだろ」
 覇気のない潤んだ声での唐突な告白に、一瞬混乱してしまった。
「お、俺? 好みの男って」
「他に誰がいるんだ」
「いや、誰って……、ええーっ!?」
 無意識に目で追っていた郁のほうも、実は俺のことを見ていたということか。
「それにしては目が合わなかった気がするんだけど」
 嘘のような話にやっぱり出てきた破綻を見つけて尋ねると、顔を上げて泣きはらした目でにらみつけてくる。
「あんたが俺のことを見てくるようになってからは、あんまりこっちから見ないようにした」
「は?」
 だって目が合うじゃないか、と言われても、それのなにがいけないのか俺にはわからない。目が合ったっていいと思うんだけど。
 時間の経過にともなって頭が追いついてくる。突然すぎた告白の内容が脳内で鮮明になると、ひとつ疑問が浮かび上がってきた。
「じゃあさ、郁の好みなのは、俺の見た目だけってこと?」
 自分で言っといて、ものすごくアホらしい質問だと気づいた。でもそう考えてしまうのは、いままで何度好意を伝えても郁からいい返事はもらっていないからだ。悲しいが、人格が見た目の好みを打ち消すほど酷かったと考えると、つじつまが合う。しつこく言い寄った自覚があるぶんその可能性には信憑性があったが、郁からの答えはまた俺の想像とは別のところにあった。
「明良は、あの日、不幸な目に合った俺に神様が用意してくれたプレゼントだったんだ」
「はい?」
 ちょうど男と別れて家に帰ったら俺が店にやって来て、追いかけて来たとかわけのわからないこと言って、そんな都合のいいタイミングで、いつもこっそり見ていた好みの男が目の前に現われて、無茶な望みを聞いてくれて。そんな夢のようなことはあるはずがないと、郁は思ったらしい。
きっとこれは不幸な目にあった自分に、神様がプレゼントをくれたんだ、と。
 顔をまた覆おうとしかけた震える手をとって阻止すると、怯えたような眼差しで見つめてくる。なにを不安に思うことがあるのかと、郁の目に訴えかけて冷えた手をぎゅっと握った。二つの手の温度差が少しずつ縮まってくると、郁はまたゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「一回だけでよかった。そんな幸せ続くわけがないことはわかってたから、一度だけ、その男に抱かれてみたかったんだ。望みが叶っておしまいのはずなのに、そのプレゼントは次の日も、また次の日も俺のところにやってきた。混乱した、わけがわからなくなった」
 自分がまるで感情のない物扱いされていることに苦笑した。でもそれはとても郁らしい発想の仕方だと思う。郁のように不器用で慎重な人間が、突然現われた俺に対して突飛的な行動をとったのは、処理できない様々な出来事が立て続けに起きた末に、彼の脳が俺をプレゼントだと割りきったからだと考えるとしっくりくる。
「毎日来てくれるし、冷たくしてもプレゼントは怒らない。優しくて、あたたかくて、健全で、そんないかにももてそうな男が、なにを血迷ってかしょっちゅう口説いてくるし、俺のことを好き……だ、とか夢みたいなことを言って、料理を作ってくれて、俺をいつも気持ちよくしてくれて。そんな幸せなぬるま湯に浸かっていたから、やっぱり罰が下ったんだ」
「ばつ?」
 ゆるく握っていた俺の手を、郁は自分の手から外させた。おぞましい出来事でも思い出したかのように耳を両手で塞いでうつむく。
「知り合いだなんて思わなかった。明良と伊佐木さんが」
「ああ、俺もびっくりした」
「あの……、取り乱して悪かった。いま引きとめたことは、忘れてくれていい。それからやっぱり、もうここには来ないでくれ」
「伊佐木さんが来るから?」
 咄嗟に口をついて出てきた俺の嫉妬にまみれた質問に、郁がゆったりと顔を上げてこっちを見る。
「さっき伊佐木さんに話聞いた」
「え…………?」
 なにを、と聞かれて不倫のこと、と答える。
「聞いた、のか?」
「うん、全部聞いた、ごめん」
 謝ったが、郁からの返事はない。ポカンと開いた口から魂が抜け出ているのではないかと思うくらい、郁の不動の沈黙は長かった。
「全部って、どこからどこまで?」
 知っているのに隠しているのも悪い気がして、伊佐木に妻子がいることを知って別れたことから、また付き合うようになったこと、性行為において挿入はしていなかったことまで、俺は聞いた話をすべて明かした。そして、本当かどうかわからないにしても、他の人の口からこんな大事なことを聞いてしまったことを、頭を下げて謝った。
 そのあとの沈黙の長さは、さっきの比じゃなかった。銅像のように固まっていた郁が動くまでに軽く五分はかかった。しかも突然立ち上がるのでびっくりする。
「死んでくる」
「待って待って!」
 扉に向かおうとする郁の足に、今度は自分の腕を巻きつけ必死で止める。
「死なせてくれ、もう生きていられない。恥ずかしい、情けない、明良にだけは絶対知られたくなかったのにっ! あのウソつき、絶対言わないでって言ったのに!」
 半狂乱に喚きちらすと、郁は俺の拘束から逃れ、かけ布団のなかにもぐりこんだ。
 名前を呼んでも、返ってくるのはごめん、という謝罪の言葉だけ。
「ねえ郁はなんで、伊佐木さんとのこと俺に知られたくなかった?」
 ゆっくりと尋ねると布団の塊が小さく揺れた。
 感情に任せて叫んだ郁の言葉のなかに、きっと真実はある。祈る気持ちで返事を待っていると、のっそりと郁が布団から出てきた。
「明良のことが、す、好きなんだ……。とても、好きになってしまった。ごめん、なさい」
 正座をした郁が、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、真正面から俺を見て言った。
「なんでごめん?」
「俺は汚れてるんだ。伊佐木さんは決して善人ではなかったけど、ばあちゃんが死んで寂しい時に、いつもやってきて身体で慰めてくれて、バカみたいだけど俺はその行為を愛だと思ってたんだ。でも、結局、俺はただの浮気相手だった。不倫をしてたくせに、その事を隠して明良の前で綺麗なふりをしてた。嫌われたくなかった。もう一度、伊佐木さんと付き合うことになったのも、不倫してたことを明良に知られたくなくてあの人に口止めしたら、交換条件で提示されたからなんだ。俺はあの人の家族よりも、自分の保身を選びとるような、最低なやつだ」
 どうやらここだけ話が違う。今回の交際の話は郁から申しこんだのでなく、伊佐木に脅されて受け入れてしまっただけのようだ。伊佐木は自分の都合のいいように話をでっち上げていたのだ。そしてなにより、伊佐木が交換条件の意味をわかっていないらしいことに驚いた。
「健全で真っ直ぐな明良の前にいると、自分がずるくて、汚れているのを自覚する。一緒にいる時は、幸せと罪悪感が同時にやってきて、どうしたらいいかわからなかった」
 どうやら郁は、俺のことを聖人君子かなにかと勘違いしているらしい。相手を美化して、自分を曝けだすことに怯えている。恋愛の初期症状にはまっている郁を目の前にして、その相手が自分であることに胸が幸福で打ち震える。
「じゃあ、付き合おっか」
「お……、俺の話のなにを聞いていた?」
「え、だって問題は解決したわけでしょう?」
 郁は不倫していたことを俺に知られたくないから、伊佐木ともう一度付き合うことにしたと言った。俺がその事実を知ったわけで、交換条件は成り立たなくなったのだ。それに俺は郁が好きで、郁も俺が好きなわけで。
「なに笑ってるんだ。なにも問題は解決していない」
「なんで? 郁やっぱり伊佐木さんと付き合うわけ?」
「別れる。無理だ。不倫なんてやっぱり出来ない」
 うっ、と息を詰まらせて、郁が右手の平で目元を覆った。嗚咽を必死で噛み殺しながら涙を流す郁の冷えた黒髪にそっと触れてみた。抵抗がないのをいいことに、その頭を自分の肩口に引き寄せる。後頭部を撫でさすると安心したのか、声を押し殺すことをやめて子供のように泣きだした。
「このさき明良ともう会えないのに、伊佐木さんと不倫もしなくちゃならないって思ったら……、なんっ、で、こんな、なにもかもうまくいかないのって憂鬱になって。そしたら、昨日からっ、どんなに香を焚いても、香りを感じないんだ。布団に入っても眠れないし、お客さんにも心配かけてしまって―」
 線香を大量に燃やした理由は、精神的な苦痛で嗅覚が利かなくなったからだったらしい。
 俺の肩に顎を乗せてわんわん泣く郁の背中を、しばらくぽんぽん叩き続けた。徐々に呼吸のタイミングがずれてきて引きつった泣き方に変わっていく。苦しそうな郁の身体をいったん自分の肩から離して、涙で濡れた顔を手のひらで拭った。







恋香るひと(8)R-18【終】

「そんなのはさ、憂鬱の原因を取り払ったら治るよきっと」
 鼻をすすりながら、郁が俺の目をじっと見つめる。
「憂鬱の原因?」
「そう、伊佐木さんとの不倫をやめて、俺と付き合えばいい」
「でもそれは……、俺は汚れてるから」
「だからぁ。そう思ってんの、郁だけだぜ?」
 見上げてくる顔を両手で包んで、頬に残る涙の跡に軽くキスをした。驚きで目を見開き抵抗を忘れているようなので、今度は半開きの唇に唇を重ねた。ずっとさわりたくてたまらなかった赤い唇。夢中で吸って引っぱり、歯並びのいい小さな前歯を舌で舐めていると、そこでようやく郁は手で俺の胸を押し返してきた。
「ん、んっ、だぁ、めっ……!」
「いでででで!」
 胸を押しても無駄だと思ったのか、頬を両手でつまんでくるので、俺は奇声を上げながらしぶしぶ郁から唇を離した。
「らー、にが、だめなのさ」
 まだ全然したりないんだけど。
「何度も言った、俺は汚れてる。健全な明良に相応しくない」
 出た、この頑固者。
 でも俺だって好かれてるってやっとわかったのに、ここで引くわけにはいかない。
「郁はさ、伊佐木さんに妻子がいることを知らずに付き合ってたわけだろ?」
 事実を肯定して頷く郁を見て過去に嫉妬しそうになる自分を戒め、冷静にゆっくりと言葉を継ぐ。
「そこはさ、自分が汚れてるなんて悲観する前に、相手をもっと責めるべきところじゃないの? 家族に知られて困るのは向こうなのに、なんでおかしな交換条件呑んじゃうかな」
「俺はただ、明良に、嫌われたくなかった」
「嫌わねーよ。俺は神様が用意したプレゼントでもなければ、嘘一つ吐いたことない聖人君子でもない、自分の意思で行動する、短絡思考で、まあまあ快楽に弱い、ただの人間なんだ」
 伝わってくれと、願いをこめる。
「相応しいとか相応しくないとか、恋愛ってそんな頭で考えてするもの? かわいいなって、楽しいなって、ドキドキして、イチャイチャしたくなって、気持ちの深いところで繋がりたくなってさ。俺は郁を、そういう風に好きになったよ」
 どうか、俺の手に落ちてきてほしい。
 心のままに紡いだ言葉は、郁に届いただろうか。郁を縛りつける最後の枷を外すことができるのは、他の誰でもない郁自身だ。
 沈黙の落ちた部屋に、壁掛け時計の秒針がカチカチ音を立てる。いったんは乾いていた赤い目に、ふたたび水の膜が張る。零れそうな涙を拡散させるようにゆっくりと一度瞬きをした郁が、小さく頷いてから呟いた。
「明良がこんな俺でいいって言うなら―」
 二度目の瞬きで郁の左目から落ちた涙が、俺の手の甲ではじけた。
「心も身体も好きなだけ、もっていってくれて構わない」
 見つめてくる瞳が、無風の草原のように静かでたくましい光をたたえていた。その眩しい光に思わず目を細め、あらためて俺は目の前の男を綺麗だと思った。

 ためらいつつ伸ばした俺の手を、郁は拒まなかった。むきたての卵みたいに滑らかな頬から顎のラインに指をかけると、安心したように目を瞑って手の平に頬ずりしてくる。
「どう、したの? なんか素直」
「悪かったな、いつもは心が歪んでて」
 郁はどうにも褒め言葉を裏にとって、さらに悪いことを上乗せして解釈する癖があるらしい。そんなふうに毒づきながらも、表情は柔らかく、母親の腕のなかにいる無垢な子供のように無防備だ。じっと閉じていた瞳がゆっくりと開き、目が合う。
「少し疲れてるのかもしれない」
 掠れた声で郁が言う。扇情的な眼差しで見つめられて、心臓がばくばく跳ねる。
「ずっと明良に嫌われないようにだとか、実は好きなんだってことがばれないようにだとか、いろんな枷を自分に設けて。あんたが来るたびに嬉しい自分がいるのに、気を張ってるせいでいつも少しだけ疲れてた」
「…………、そっか」
「うん」
 酔っぱらった郁があそこまで開放的になったのは、普段心に溜め込んでいたものが爆発したからなのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えていると、再び目を瞑った郁が頬に添えた俺の手におそるおそる自分の手を重ねた。
「初めての……、あの日は、もうコンビニに行きさえしなければ会わない人だからって大胆になれたけど、このさき、一緒にいるあんた相手に何をすべきで、何をすべきでないのかわからない。俺は器用でないから、考えてみても深入りして土壺にはまるのはわかってる。だ、だから…………」
 言いよどむ郁の顔がじわじわと赤らみ、瞑った目がさらにキュッと閉じられる。その変化をじっと見つめていると、意を決したように郁が目を開いた。
「なにも聞かないで。明良がしたいようにしてくれたらいい」
 うわあ…………。
 生唾を飲みこんでも、次々と口のなかに唾液が分泌されていく。まるでご馳走を前にした腹ペコの犬状態だ。
 いまのはどう考えても、お誘いの言葉だろう。怯えて逃げ出さないよう慎重に、などと考えていたことが、嵐の直後みたいに頭のなかからすっぽり消え去ってしまった。
「う、あー、じゃ遠慮なく」
 いただきます、と小声で言うと、ゆっくり目を瞑った郁が唇だけでそっと笑った。

 真っ白な肩甲骨と背骨の間のくぼみに、自分の顎から伝った汗が、ポトリと一粒落ちる。それがゆっくりと美しい斜面を流れて、郁の肩から布団に落ちた。
 猫が伸びをするみたいに、郁は膝をつき尻を高く上げて、布団に這いつくばる。初めのうちは布団に手をつき腕を突っ張っていたが、いまは力尽きて額と肘で身体を支えていた。
「んっ、もっと強くして……、お願い」
 苦しそうな声音で、矛盾したことを言う。
「でも、そんなにしたら痛いだろ? 後ろ初めてなのに」
「……ったく、ない、からっ、んぁ、あっ」
 前に手を伸ばし性器に触れると、そこは挿入する直前の状態とは違い、柔らかく萎んでいた。
「ほら、痛いんじゃん」
 なかから自分のものをゆっくりと抜きだそうとすると、振り返った郁の手が細腰を掴む俺の手を引っぱった。
「ぬ、かないで、お願い」
 涙声で訴えられて混乱する。そこまで痛いのに、もっと強くしろだなんて、なにかがおかしい。
「なあ、なに考えてんの? 郁」
 浅い所にある性感帯を自分のものでゆっくり突きながら尋ねる。前に伸ばした手で軽く性器を扱くと、萎んでいたのが少しだけ嵩を増した。
「明良に愛されてるって、実感が欲しい、んだ」
「愛してるよ」
「こ、言葉じゃなくて、本能的に求められたいっ」
 理性が飛びそうになるのをぐっとこらえる。ゆっくりと自分の性器を抜きだして、郁の身体を仰向ける。怯えた目で見つめてくるその顔中に、柔らかいキスを落とした。
「郁が痛がってるのに、俺が気持ちよくなれると思ってんの?」
「う、ぁんっ」
「一緒に気持ちよくなろうよ」
「や、あっ、ま、て……っ」
 初めてエッチなことをした時に郁が俺にしたように、二つの性器の裏筋を合わせて腰をスライドさせた。恥ずかしいのか、俺の下で首を伸ばして顔を背けるので、空いた手で引き寄せて深く長いキスをした。
「もう、だめっ! それ……、いっちゃう、から、あ」
「いいよ、俺もいきそう」
 入れてほしかったのに、とまたたがが外れるようなことを言う口をもう一度塞いで、二人で果てるまで腰を揺らし続けた。

「セックスの最中は素直だね、郁」
 風呂から出てきた郁に開口一番告げると、持っていたバスタオルが顔目がけて飛んできた。
「ごめん、怒った? ほめ言葉だったんだけど」
 頭に被さったバスタオルを除けると、湯上がりにしても赤すぎる顔をした郁が、下唇を噛んだ困り顔で俺の前にしゃがみこんだ。
「やっぱり挿入れるのは、抵抗あるんだろ」
「は? なんの話」
「だから、その、触ったりするのは平気だけど、インサートはしたくないという……、ふぎゃっ」
 だんだんうつむいていく郁の鼻を摘むと、おもしろい声をあげるので笑ってしまった。
「俺を伊佐木さんと重ね合わせるのはやめましょうー」
 片手を上げて明るく標語のように言ってみせると、郁のほうもぷっと噴きだした。
「楽しみなことは先延ばしにしたっていいんじゃない? これからもずっと一緒にいるんだからさ」
「うん」
 笑顔で返ってきた清々しい返事が、死ぬほどかわいらしかった。
 郁の手首を掴むと、驚いたように瞬きを何度か繰り返してから、拒絶しないで身体を寄せてくる。
 目を瞑った郁の唇に自分の唇がくっつく直前、いきなり目を見開いた郁が背後を振り返った。
「あ、伽羅の香り! 明良が焚いてくれたのか?」
「うん、ってあれ? 鼻治ったの?」
「あ…………」
 背後の香炉を指さして『あ』の口の形のまま郁がまた固まった。その口の端に触れてすぐ離れるキスをする。
「よかったな、治って」
 頬を染めた郁がなにか言いかけた口を閉じ、腰を伸ばして胡坐をかいた俺の太ももにそっと手を乗せた。じんわりと体重がかかる心地よさにゆっくり目を瞑ると、柔らかく震える唇で不器用なキスをくれた。






恋香るひと その後SS

 信号待ちをしている明良を、ガラス越しに見る。長身で立ち姿が美しい。青になって歩きだした。足が長いから一歩の幅が大きい。花屋の店員と思わしきおしゃれなエプロンを着けた女が大きな植木鉢を持って信号を渡っていて、それを見つけた明良がひとこと声をかけ、代わりにひょいと両手で鉢を担いで歩道まで運んだ。
 そんなたいしたことしてないですから。でもすごく助かったので、連絡先だけでも。いやいやマジで気にしないで。
 そんな会話が繰り広げられただろうあと、軽やかな足取りでこちらに向かってくる明良と、その後ろ姿をうるんだ目で見つめ続ける花屋をしばらく見ていた。明良が俺の視線に気づく。手を上げようとしたところまで見てそのまま目を伏せると、広げただけでまったく読んでいなかった雑誌を棚に戻して、おにぎりのコーナーに向かった。
「おつかれ、郁」
 いつもと同じように背後から肩を叩かれ、声をかけられても今日は振り返らなかった。だけど明良は俺の不機嫌丸出しの態度を気にしたようなそぶりは見せず、梅と昆布のおにぎりを選んでレジに向かうあとを追いかけてくる。
「伊佐木さん、今日で仕事辞めたよ」
 俺の元恋人(不倫だったと後で知ったが)だった男の情報を、明良はこうやって時々教えてくれる。一度、復縁を迫られて以降、明良に言われるまま奥さんにばらすと脅してみたら、伊佐木からおかしなことを言われるようなことはなくなった。そのときはすごく安心したし、明良の助言には今でも感謝している。
「奥さんに夜の女遊びがバレた罰として、彼女の実家の農家を継がされることになったんだって。あの人、ろくでなしだけどけっこういい奥さん掴まえたよな」
 コンビニを出たあとも、背後から提供してくれる情報を無視してずんずん歩く。繁華街のだらだらとした人の流れが煩わしい。いつもより手前で角を曲がり、すっきりした裏道に抜けると、家までの道のりを、さらにスピードを上げて歩いた(ほとんど走った)。
 引き戸を開けた無人の店舗兼自宅は今日もほのかに香っている。狭い廊下を抜け、居間に入るとおにぎりの二つ入った袋を畳に放って、すぐさま香炉に火を点けた。
 落ち着かなければ。気持ちを落ち着けて、胸に湧いたむかむかした気持ちを静めたい。煙が立って、息を吸いこむ。だけど、何度か深呼吸して香りを堪能しても、気持ちは治まらなかった。
「俺に言えばいいのに」
 突然、背後から声が聞こえてきて、驚きで振り返る。
「なんでここにいるんだ」
「相変わらず扱いひどいな」
 そんなことを言って笑う明良の顔を見てると、泣きたくなってきた。
 付き合い始めてもう半年も経っているのに、自分は全然、明良の恋人としてうまく振る舞えない。自分でも恋人相手にひどい扱いをしている自覚がある。だけど明良といるとなぜか自分はしょっちゅう不機嫌になって、頭で考えるより感情で動いてしまうため、無視などという大人として最低な行動をしょっちゅうとってしまったりする。
「なんで我慢するのさ」
「我慢?」
 俺は我慢なんてひとつもしてない。わがまま放題、自分の感情のままに動いているからこんな大人げない行動をとっているのに、明良はなにを言ってるのだろう。
「不満は小出しにしてかないと。また爆発して香りがわかんなくなったらどうするんだよ」
「明良に不満なんてない」
「ふーん。じゃあ俺が知らない女の子と話してても平気?」
 さきほど目にしたばかりの光景が脳内によみがえってくる。
「へ、いき」
「ほんと?」
「本当だ」
 嘘だった。俺は明良と付き合うようになって、こんな小さな嘘を頻繁につくようになっていた。
「花屋の店員さんと横断歩道の前でなに話してたか、知りたくない?」
 具体的な話になると、咄嗟の嘘が出てこなくなってしまった。さきほど二人が話していた内容。知りたくてたまらない。答えられず、ごくりと唾を飲みこむと、近づいてきた明良の魅惑的な声が、耳元で、知りたい? と囁く。その痺れるような感覚と、好奇心と、知ってしまうことの恐怖で、体が小さく震えたとき。
「連絡先、聞かれたんだよ」
 やっぱり。俺の妄想は当たっていたのだ。
「でも断った。愛しい恋人がヤキモチ妬くから、教えられないって」
 まさかそんな甘い答えが返ってくるとは予想もしておらず、驚きで目をいっぱいにひらいていると、ぎゅっと体を抱きしめられる。
「安心した?」
「…………うん」
「お、素直」
 時々、明良はこうやって素直だと俺をほめる。たぶん普段が相当ねじくれているから、めずらしく本音を言うとほめてくれるのだろう。というか、本当のことを言うと明良は喜ぶのかもしれない。付き合い始めた頃から始まった、なぜか気持ちと反対のことばかり言ってしまう癖が、ここ最近ではひどくなってもいたし。
 一度、素直になってみようか。
 抱きしめられたまま、間近で整った顔を見つめてみる。目が合うと心音が速まっていく現象にはまだ慣れない。
「ドキドキする」
 正直に伝えると、明良は一瞬目を見ひらいてから、俺も、と言ってくれた。その動いた唇に口づけた。一回素直になると、堰が外れたように欲望が内側から融けて流れだしてゆく。かたまっている明良の唇を舌でたどたどしくつついていると、ようやく口を開けてくれたので舌を中にもぐりこませた。
「ん、ふー……」
 明良から積極的に舌を絡められると、体から力が抜けた。髪を優しく梳かれて恍惚とする。何度しても気持ちがいい。明良とのキスに飽きる日なんてくるのだろうか。
「あー、わけわからん」
 唇を離した明良が、目の前で叫ぶのでびっくりする。
「なにがわからないんだ」
 尋ねると、あなたがだよ、という答え。
「どこまで俺を振り回せば気が済むんだよ」
 自覚はまったくなかったが、どうやら俺は明良を振り回しているらしい。明良は俺と違っていつも正直で快活だから、その振り回しているという言葉の意味をすぐに教えてくれるものだと、じっと目を見て待っていたら今度は、小悪魔、とののしられる。
「俺が、嫌いか?」
 悪魔を好きな人間などいるものか。不安になって尋ねると、大きなため息が返ってきていよいよ不安になったのだけど。
「好きだよ」
「そうか……」
 正直者の明良から意外で嬉しい答えが返ってきて、頬が緩む。素直を実践するため、こみ上げてくる嬉しさをかみ殺さずニコニコ笑っていると、明良も可笑しくなったのか、一緒になって笑いだした。
「ヤキモチ妬かせようとして、まさかこんな展開になるとは思わなかった」
 俺に対して、未知数、という答えを出した明良に、とりあえずしようと誘われ、素直になった俺はすぐさま香の火を消し、畳に布団を敷いた。





プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
BL小説投稿生活中。ブログ内の文章の転載を禁じます。

カテゴリ
むらびと
ランキングに参加しています!にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説へ
にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説家志望へ
にほんブログ村
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文: