ハナからはじめる恋のお話(4)

 弱みを探れというハナの指令も忘れて、はじめは成瀬とどんどん親しくなっていった。成瀬が生徒とのあいだに垣根を設けていないため、はじめが懐くと二人の距離が近づくのはすぐだった。
 今日は成瀬がマスクをして教室に現れた。声が嗄れていて、ときどき下を向いては咳をしている。風邪だ。はじめは授業が終わると教室を抜けだし、エレベーターに乗ろうとしていた成瀬の腕を後ろからつかまえた。
「おわっ。はじめ、どうした?」
 昼休憩でコンビニや食堂に向かう生徒たちが、講師の腕を引っ張って廊下を歩くはじめをおかしな目で見ていたが、気にせず目的の場所を目指す。階段を降りて使われていない個別指導室に成瀬を押しこみ、自分も中に入って後ろ手に扉を閉めた。
「な、にしてんだよ! 俺、風邪ひきかけなんだって。うつるとだめだから外出ろ」
 狭い個室の隅っこに移動した成瀬の忠告を無視し、はじめは斜め掛けバッグをガサゴソ漁って、小さな机の上に次々と物を並べた。
 のど飴にうがい薬、冷却ジェルシート、ビタミン剤、栄養ドリンク……。
 さらにバッグに突っこんだはじめの手を成瀬がつかんで止める。
「その中は、四次元につながってるのか」
 はじめが風邪をひいてるわけじゃないのに、どうしてそんなに用意がいいのか。
 受験で失敗した日以来、はじめは風邪を天敵扱いしていた。常に予防を欠かさず、ひいたらすぐに対応する。バッグの中はいつウイルスが襲ってきてもいいように、常に万全の準備をしていた。聞かれるままにそう説明しながら、はじめは栄養ドリンクのふたを開けて成瀬の手に持たせ、冷却ジェルシートを熱いおでこに貼りつけた。
「早く飲んで!」
「わ、わかったわかった」
 夏の風邪は長引く。対応が早いほうが治りも早い。成瀬が小さな瓶の中身を飲み干すのをじっと見つめて、今度はのど飴を渡した。
「もしかしてこれ、手作り?」
 いびつな形をしたそれを口に放りこんだ成瀬にうなずく。
「形はそろってないけど、効きますから」
「のど飴って、作るもんなの?」
 成瀬は首を傾げながらもおいしいとほめてくれた。はじめはそれが嬉しくて残りののど飴を全部、成瀬のスーツの左右のフラップポケットに詰めた。うがい薬とビタミン剤を成瀬に持たせ、すぐに医者にかかること、しっかり食べて眠ることを約束させると、はじめは大きく息をついた。
「先生って、ぼくを不安にさせます」
 成瀬の胸ポケットに入っている煙草を抜きとって、眉を寄せる。
「どうして風邪なのに、こんなの持ってるんですか?」
「いや、あのー……、うん、ごめん」
「もっと自分のこと大事にしてください。どうでもいいものと思わないでください」
 ずっと気がかりだった。成瀬の自然体な振る舞いは、いつもどこか投げやりに見えた。
「はじめがお医者さんだと、けっこう癒されるかも」
「え…………?」
 ネクタイの結び目に人差し指を引っかけて緩めながら、成瀬がふっと笑いをこぼす。
「ダメな大人ってさ、自分がダメなことを自覚してるんだけど、自分以外の誰かからダメだって叱られたいときがあるんだよな」
 そのことに今思い至った、と言って成瀬は新たなのど飴の包装をむいて口に放りこんだ。
「先生はダメなんかじゃないです」
 あんなわかりやすくて素敵な授業をする人間がダメなわけがない。自分を卑下する成瀬に突っかかると、ありがとう、とかすれた優しい声が返ってきた。
「はじめの優しさってうわべじゃないのがわかるから、まっすぐ伝わってくるんだよ。医者って正しい診断を下して適切な処置をするのが仕事だけど、でも病は気からって言うじゃん? 真剣に自分を心配してる人からの容赦ない忠告は、弱ってる人の心に染み入る」
 そこまで話すと成瀬は大きく咳きこんだ。苦しそうだから背中をとんとん叩いてあげたら、頭を撫でて返された。
「前に言ってたことと繋がるかもしれないけど。はじめは確かにメスより聴診器が似合うかもね」
 成瀬にとっては特別な意味を持たない、会話の流れの中の冗談交じりの何気ない言葉だったのだろう。だけどはじめにとってそのひとことは最後の一押しだった。ずっと誰かに背中を押して、認めてほしかったのかもしれない。大層な言葉を並べたてられるでもない、メスより聴診器が似合うから、というふざけた理由が、はじめの心から一瞬のうちに迷いを消した。
「うわっ、なに。ちょ、待て、どうした」
 気づいたらぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。自分でも特に悲しいことが起きたわけじゃないから驚いていたが、目の前の成瀬が自分以上におろおろしていたので、はじめはなんとか冷静でいられた。
「ごめん! 悪かった! なんとなくそう思っただけなんだよ。俺、思ってることなんでも口にする癖があって」
 知ってる。
「外科医になるなって言ってるわけじゃなくて、はじめみたいな町医者がいたら風邪ひくたびに通うだろうな、って思っただけで、深い意味はなくて、決してそうなれと強制してるわけでもなくてな?」
 わかってる。こぼれる涙を手のひらで拭いながら、はじめは優しく頭をなでながら泣き止まそうとしてくれている困り顔の成瀬に何度もうなずいた。
「悲しいんじゃなくて、嬉しかったん、です」
 鼻が詰まって呼吸が苦しかったけど、なんとかそれだけ声に出した。言葉を発したことで喉が引きつり、嗚咽をこらえることが難しくなってしまって、はじめは声をあげて泣きだした。ハナと自分を平等に愛してくれる外科医の両親には言えなかった。両親と同じ外科医になることを子供のころからともに目指していたハナにも言えなかった。自分ひとりが家族の輪から外れるみたいで怖くて、みんなを裏切るみたいで申し訳なくて。だけどそうやって本当の気持ちを隠していることが、大切な家族を裏切っていることになるのかもしれないと、今気づいた。
 迷うことを許してくれたのも、決断する勇気をくれたのも、目の前にいる成瀬だった。
「嬉し涙なんだとしたら、泣きすぎ」
 ふっと小さく笑いをこぼして、成瀬ははじめの濡れた頬を指先で拭った。前に触れられたときより、風邪のせいか手が熱かった。
「もう泣きやめよ。君、童顔だから、子供泣かせてるみたいな気になってくるんだって」
 成瀬の手のひらのぬくもりにうっとりしていたはじめが、ゆっくりと顔を上げる。
「子供、ですか?」
 成瀬は自分のことを、やっぱり子ども扱いしてるのだろうか。
 それは、いやだ。
 じっと見上げて答えを待つ。ゆっくり目を見開いた成瀬が、はじめの頭を上から押さえつけて髪をぐしゃぐしゃにかき回す。
「子供だよ、色気づくなよな」
 痛いと訴えると、そんな返事が来た。髪から手の感触が消えるとすぐに、成瀬は個室を出ていった。

 三日後に会った成瀬は、もうマスクをつけてなかった。
「はじめのおかげで治った」
 お礼だ、とジュースを手渡されて、はじめは嬉しいのと恥ずかしいので自分の靴を見ながらひそやかに微笑んだ。
 梅雨明け間近の空はよく晴れ、一日の仕事を終えた太陽は街全体を淡いオレンジ色に包みこんでいた。予備校の屋上からその景色を見下ろしていると、成瀬が柵に寄りかかるはじめの隣に来て、同じように街を眺めた。
「最近どもらないで話すようになったよな、はじめ」
 横顔が楽しそうに笑っている。
「先生のおかげです」
 一呼吸おいてから、話し始める。
 成瀬にしゃべるときのコツを教わってから、はじめはそれを毎日実践していた。
「君が自分で、努力した結果だよ」
 大学に受かったときも、成瀬はこんなふうに言うのかもしれない。
「俺と話すみたいに誰とでもうまくしゃべれるようになったら、はじめは今よりずっとモテるんだろうな」
 成瀬は遠くを見つめていた。
 はじめが予備校内でいつもハナと一緒にいるのに気づいているのだろう。もっと周りに馴染めと暗に言われてる気がして、はじめは頑なに首を横に振った。
「別にモテたくありません」
 不特定多数に好かれたいわけじゃない。成瀬と親密になりたいだけだ。もっと深く知りたいし、知られたい。でもこんなことを考える自分は、自然体で自由な成瀬には重いのだろうと思った。
 成瀬の言葉通り、誰とでもうまくしゃべれるようになったら、またほめてくれるだろうか。そもそも将来医者になろうという人間が、人見知りなんてしている場合じゃないのかもしれない。わざわざ言葉にして聞かせるということは、成瀬もはじめにもっと社交的になったほうがいいと思っているからに違いない。
 無理をしてまで友達を作ることに、抵抗がないわけじゃなかった。でも―
「ぼくがみんなと仲良くなれたら、先生はそんなぼくを、好きになりますか?」
 成瀬が明るく社交的なほうが好きだと言うならば、自分にとって無益な努力もいとわない。成瀬とより親密になるための近道があるなら、どんな方法でも実践しようと思った。
 すがるような目を向けていると、柵にもたれていた成瀬がよろける。
「ちょ、待って」
 口元を大きな手で隠し、ふらふらと後ずさってしゃがみこむ。がっくり首を垂れて丸まる成瀬に駆けよって、はじめは肩を揺さぶった。
「だ、大丈夫ですか」
 触れた肩が熱を持っていた。髪のすきまから見える耳が、夕焼けに焼けたみたいに赤く染まっている。病み上がりでまだ体調があまり良くなかったのかもしれない。バッグを開けて冷却ジェルシートを探していると、成瀬がはじめの手を止めて突然立ち上がった。
「おれは大丈夫、風邪は治ってる。平気だから。か、勘弁して、ほんと」
 成瀬はよくわからないことを言いながら、袋小路に追い詰められた犯人のように一歩ずつ後ろに下がった。いつもと明らかに違うおかしな成瀬を見て、風邪は治ったと本人は言うがやはりまだ完治してないのだと思った。扉を開けて屋内に消えた後ろ姿をすぐさま追いかけたけれど、どんなスピードで階段を下りたのか、はじめがふたたび成瀬の姿を見ることはできなかった。






スポンサーサイト

ハナからはじめる恋のお話(3)

 成瀬はすごく自然体な人だ。
 今までそのことをぼんやりとしか認識していなかったけれど、はじめは成瀬と二人きりで会話することで、あらためてそのことを意識した。
 初めての授業のとき、どの講師も『必ず受からせてやる』とか『努力は報われる』とか熱い言葉を生徒にかけていたのに、成瀬だけは『やる気のない人は来ないほうがいいと思う』と言った。シーンと教室内が静まり返るのも気にとめず、彼は初日から淡々と授業をこなしたのを今でもはっきり覚えている。その言葉は生徒を奮起させるための挑発的な表現なんかじゃなく、成瀬の本心だったんじゃないかと思う。スーツに合うオシャレを楽しんだり、小テストの最中に口笛を吹いて生徒にうるさいと怒られたり、気さくで気負いがないから生徒との距離も近い。そんな自由奔放な成瀬をよく思わない講師もいるようだったが、それでも彼が表立って非難されないのは、成瀬の英語の授業が丁寧で非常にわかりやすいと評判だからだろう。洗練された見た目と気さくな性格で明解な授業をする講師が、モテないわけがない。ハナ以外にも成瀬に夢中になっている女の子は予備校内にたくさんいた。
 そんな人気者の成瀬の黒い噂を、はじめは今日初めて耳にした。それは、昔高校の教師をしていた彼が、生徒に手を出して学校を辞めさせられた、というものだった。
「ほんとっぽいよね、だって成瀬先生って軽そうじゃん。うちらにも超フレンドリーだしさ。この中の誰かといつか恋に発展したりして」
 ありうるよね、とはしゃぐ前の席の女の子たちの会話は、聞きたくなくても耳に入ってきた。そっと隣を見やると、ハナはじっと前を見すえて座っている。会話は聞こえているはずだけど、なんの反応も示さない。ハナは噂話や陰口の類が嫌いなのだ。振られたから弱みを探れ、なんて理不尽な命令を下してみたりもするが、基本的にハナは正義の人だった。自分の妹を誇らしげに思いつつ、はじめは立ち上がってハナに手を差しだした。
「帰ろ?」
 うなずいた彼女の手をとって教室を出たところで、廊下の先から声をかけられた。
「よう、ハナはじめ」
 さきほどの黒い噂の人物だった。今日は、魚の形をしたネクタイピンをつけている。
「模試の結果、二人ともよかったみたいだな」
「当たり前です」
 ほめてくれた成瀬に礼を言おうとはじめが口を開ききるあいだに、ハナはその一言を返していた。
「当たり前なのかよ、余裕かまして気抜いてると痛い目あうぞ」
「気なんて抜きません。私たちは毎日予習と復習をかかしませんから」
 ハナは振られたことなど微塵も感じさせない強気な態度で成瀬と向き合う。
「立派だな。感心するわ」
 パチパチ瞬きをしながら、成瀬はハナとはじめを交互に見た。このセリフも他の人が言ったら嫌味に聞こえただろうが、自然体の成瀬が言うと彼の本心に聞こえる。
「じゃあなんで現役で合格しなかったんだ?」
 自然体ゆえか成瀬は言葉も選ばなかった。悪気はないのだろうが、ハナの弱みを針の先端で突き刺すようなその発言に、はじめは隣の小さな肩が微かに揺れるのを感じて、ズキンと胸が痛んだ。
「風邪で、受験できなかったんです」
 なるだけ暗い雰囲気にならないよう、はじめがつとめて明るい声を出すと、そうなんだ、と成瀬も何事もないように返した。
「受験さえできていれば、二人とも受かりました」
 うつむけた顔をゆっくり上げてハナは言う。
「清々しいほどの自信家だな」
「ここに通わなくても次は受かりますけれど、暇だから時間をつぶすために通っているんです」
「親にお金出してもらってる身で、そんなこと言ってると罰当たるぞ」
「うちは湯水のように使ってもまだ寄付する余裕があるくらいお金持ちなのでご心配なく。将来外科医になって、父と母には投資してもらった何倍もの幸せを与えるつもりですから」
「そこまで言いきると、もうなんか一周まわってかっこいいな」
 成瀬とハナの早口で交わされる会話にはじめはひとりついていけず、テニスの審判のように目をきょろきょろ移動させて、その楽しそうなやりとりを呆然と見ていることしかできなかった。ハナは女性だから成瀬に振られてしまったけれど、もし二人が同性ならばうまくいくような気がする。
「仲良しで、いいな」
 ぽつりと呟いた言葉を聞いた二人は、なぜか呆れたような表情になった。
 自分がハナのように頭の回転が速くてスラスラしゃべることができたら、成瀬とこんなふうにラリーのような会話をしてみたいと思う。はじめはいつもハナに憧れていたけれど、それはハナのことが純粋に大好きで、そんな彼女と対等になりたかったからだ。誰かと会話するハナを羨んでこんな嫉妬のような感情を抱くのは初めてのことで、不思議な感覚に包まれながらはじめは少しだけ戸惑っていた。
「先生、これから帰られるんですか?」
 自分の心のもやもやに頭を悩ませていたはじめは、ハナの一言でハッと現実に戻された。
「おー、飯食って帰るわ」
「おひとりなら、はじめも連れていってください」
 ぽん、と肩を叩かれて数秒後、はじめはハナの言った内容を把握して焦った。
「な、なに言って、なに言っ……!」
「弱みを探ってくるのよ」
 成瀬に聞こえないようはじめに耳打ちして、ハナはごきげんよう、と手を振って去っていった。
「あ、の……、ぼくも帰ります」
 急速に赤く染まった頬を両手で隠して、はじめはカクカクした動きで回れ右をした。一歩目を踏みだしかけたとき、頭のてっぺんに成瀬の冷たい手のひらが乗せられる。
「はじめ、カレー好き?」
 さらりと下の名前で呼ばれた。驚いて赤い顔で振り返るはじめの動揺を知ってか知らずか、成瀬は口角を上げた楽しそうな表情で、ん? と小首を傾げ、答えを催促してくる。カレーは自分でも時々作るくらい好きなので素直にうなずくと、決まり、と成瀬は指を鳴らした。
「下で待ってて。荷物取ってきてすぐ行く」
 はじめの髪をくしゃっとなぜてから、成瀬は軽いステップで階段を降りていった。

「あの、いいんでしょうか。先生がぼくなんかと、ごはん……」
 はじめは成瀬の車の助手席にひっそりと収まり、シートベルトを両手でギュッと握りしめていた。
 この前迷惑をかけたばかりなのに、今度はハナが無理やり約束を取りつけてしまって成瀬は困っているはずだ。それに予備校講師と一生徒が個人的に食事をすること自体、いけないことなのではないだろうか。そんなことを考えながらひとりビクビクしていたのだけど―
「いいんじゃない?」
 いいらしい。
 成瀬は軽い調子で言って駐車場に車を止め、外に出た。
「おいで」
 振り返って手招きされ、はじめも急いで車から降りると『ネパール料理』と書かれた看板の店に入っていった成瀬のあとを追った。
 薄暗い店内に一歩足を踏みいれると、食欲を刺激するスパイスの香りが漂ってきた。ヘビが出てきそうなエキゾチックな音楽が流れる店内は、ほぼ満員の客でにぎわっている。テーブル席に案内され、成瀬が注文を済ませてしばらくすると民族衣装を着た店員が次々と料理を運んでくる。耐熱ガラス越しに見える厨房の大きな窯の内側にくっついていた草履のような形をしたパンは、大きすぎて皿からはみ出していた。
「なんですか、これ」
「ナンです」
 答えた店員と困ったような表情で見つめ合うはじめを見て、成瀬が思いきり噴きだす。このパンの名前がナンというのだと教えてもらい、納得して両手を合わせた。海老の入ったオレンジ色のカレーは、食べるとレモンの爽やかな味が口の中に広がる。成瀬の真似をして、白ゴマがたっぷり入ったナンにカレーをつけて食べると、その組み合わせの妙に思わず、んー、と唸って、はじめは落ちそうなほっぺたを両手で押さえた。
 社交的なハナと違って、はじめは家族以外とほとんど外食をしない。お手伝いさんが作ってくれる料理か、彼女に教えてもらって作る自分の料理以外、普段あまり口にすることがなかった。香辛料で口の中が辛くなってきたころ、ラッシーという飲み物が運ばれてきた。マンゴーが香るサラッとしたヨーグルト風味の飲み物は、ヒリヒリした喉をまったりすべり落ちていく。
「おいしい……、毎日食べたいです」
 感動が大きすぎて、はじめはそれを伝えずにいられなかった。
「じゃあ、毎日来ようか?」
 成瀬の言葉に反射的にうなずいてしまう。その反応を見て手を叩いて笑う成瀬に、はじめは真っ赤になりながら前言撤回した。
 お腹が満たされ、食後のチャイが運ばれてくるころには、車の中で感じていた不安や緊張はすっかり消え失せていた。座り心地のいい椅子に沈んだ体を立て直し、成瀬に尋ねる。
「先生って、昔は高校で教えてたんですか?」
「そうだよ、誰かに聞いた?」
「今日、噂を耳にしました。生徒に手を出して、辞めさせられたって」
 女の子たちが話していた会話を思いだし、はじめは聞いたままを装飾せず、慎重に伝えた。安易な好奇心で真相が知りたかったわけじゃなかった。ただ自分の意図せぬところで耳にした信憑性のない情報を、真実を知る成瀬にちゃんと伝えておきたかった。
「あー、俺も聞いたことある、その噂」
 まるで他人事のようにそう言って、成瀬は煙草に火を点けた。
「でも残念ながら、俺が勤めてたのは女子高なんだな。だから手を出そうにも出しようがない」
 はじめから目をそらして、成瀬はふっと自虐的に笑った。ゲイだという成瀬が女子生徒に手を出すとは考えにくい。今日聞いたあの噂はどうやら嘘のようだ。これですっきりするはずなのに、はじめの心のもやもやは晴れなかった。
「じゃあどうして辞めちゃったんですか?」
「なんとなく、かな」
 まっすぐ見つめるはじめの視線から目をそらしてチャイを一口飲み、煙草を深く吸いこむ。なんてことない動作だったけど、そこにはちょっとした拒絶みたいなものが見えて、はじめは成瀬が答えを濁したのだと思った。知りたい欲求が満たされないことで心のもやもやは広がっていく。本当の理由はわからないが、二年前、高校教師を退職した成瀬はこの予備校講師のアルバイトを始めた。非常勤講師は比較的休みの融通が利き、自由度が高いところが気に入っているのだと言う。
「噂は撤回しないんですか?」
 はじめは心のもやもやを成瀬にぶつけた。成瀬は自分の噂を耳にしながらも放置している。真実でないのなら訂正するべきだと思った。成瀬の授業はいつも丁寧でわかりやすかった。やる気のない人は受けないほうがいいなんて言いながら、生徒の興味を引くための細工が随所に見られる。授業を受けた人間なら誰でも気づく、成瀬は教えるのが好きな人だ。こんなくだらないことで成瀬の評判が落ちたりしたら悲しくてやりきれない。
「噂ってのはさ、否定することで余計怪しさが増すんだよ。言いたいやつには言わせときゃいいじゃん。たいしたことじゃないしさ」
 たいしたことじゃ、ない。
 はじめは口の中だけで小さく呟いた。
「俺はゲイで、結婚する気ないし、自分ひとりが今食えればいいわけ。守るものもないしね。人間なんていつ死ぬかわかんないじゃん」
 先を見据えない刹那的な考え方は、成瀬の自由な振る舞いにぴったり当てはまっているように見えた。でも生徒に言ってしまうにはあけっぴろげすぎる自暴自棄な発言が、はじめの気持ちをズドンと暗くさせた。
「なんではじめが、そんな顔するんだよ」
 困ったように笑う成瀬の手が目の前に伸びてくる。冷たい指が頬に触れて、自分の顔に血が上っていることに気づいた。噛みしめていた下唇を解放すると、空気に触れた瞬間じんわり鈍い痛みが広がった。噂を耳にしたときの腹立ちよりも、成瀬が成瀬自身を卑下してどうでもいいもののように扱うことのほうがはじめには堪えられなかった。
「楽しい話、しようぜ?」
 成瀬に前髪をゆるくはたかれて、はじめはそろそろと頷いた。せっかくおいしい料理を食べさせてもらったのに、ひとり機嫌を損ねている自分の子供っぽさを反省する。落ち着こうとぬるくなったチャイをゆっくり喉の奥に流しこんで、目の表面に溜まった水分を手の甲でごしごし拭った。
 それからはガラにもなく、はじめはペラペラと自分のことをしゃべった。困った顔をさせてしまった成瀬を笑わせようと、自分の少ない引き出しからありったけのエピソードを引っ張りだした。忙しく留守がちな医者の両親とは、メールでなく交換日記をしていること。出来のいい双子の妹とは顔も性格も似てないが、とても仲がいいこと。交友関係の狭いはじめの話はほとんど家族の内容だったけれど、成瀬は身振り手振りで懸命に話すはじめの話を、相づちを打ちながら楽しそうに聞いてくれた。
「いい子だな、はじめは」
 話が途切れたとき、成瀬ははじめの髪を撫でて言った。その心地よさにまったりと深くまばたきをしながら問う。
「僕の、どこがいい子ですか?」
「自覚ないか。君ってちょっと信じられないくらい純粋なのに、決して鈍感じゃないんだよな。俺の心の機微を読みとって、優しい気づかいなんかしてしまうところが好ましいなって思った。いい子いい子」
 さっきより乱雑に髪をわしゃわしゃ撫でられる。家族以外ではじめのことをいい子だとほめてくれたのは成瀬が初めてだった。だけどそれはどこか子ども扱いのような気がして、贅沢にもなんだか不満に感じてしまった。
 店を出て車に乗りこんでも、はじめのおしゃべりは止まらなかった。普段は家族内でも聞き役で、誰かに自分のことをこんなにたくさん話すことはめったにない。口下手なはじめが緊張せずに話し続けられたのは、成瀬が焦らすことをせず、上手に話を引きだしてくれたからだ。
 静かな住宅街に車がゆっくり滑りこんで停止する。ヘッドライトを浴びた野良猫が、光に驚いて一目散に逃げていくのを見て二人で笑った。家の前まで送ってもらったのだから、お礼を言って車から出なければいけない。おしゃべりも十分したし、ほかにすることなんてないのだから。だけど、はじめはどうしても成瀬の隣から離れるのが嫌だった。
「先生」
「ん?」
 隣を見ると、軽く眉を上げた成瀬と目が合う。その柔らかな表情に吸いこまれるように、はじめはぽろっと言葉を吐きだした。
「ぼくは、外科医に向いてますか?」
 成瀬にわかるはずのないことだった。自分自身で答えを出すべきことだともわかっている。でもそれは両親やハナにも相談できず、ずっとひとりきりで背負ってきたことだった。
 尊敬する両親のような医者になりたい。そう思う気持ちに嘘はなかった。でもおっとりと反応が鈍く、緊張で赤面するような自分が、緊急の手術など咄嗟の判断が求められる場面で迅速で的確な対応ができるだろうか。年を重ねてハナとの違いを意識する回数が増えるごとに、自分には外科医でなく内科医や小児科医のほうが向いてるんじゃないかと思うようになっていた。
「自分がしたいことと自分ができることって、案外違ったりするからな」
 突然のわけのわからないはじめの質問を茶化したりせず、成瀬は真摯に答えてくれた。
「でもきっと、はじめの純粋さや真面目さがあれば、どの選択をしても道は必ずひらかれていくと思うよ。覚悟を決めて選ぶ瞬間が来るまで、焦んないでさ、ゆっくり前向きに悩み続ければいいんじゃない?」
「そ、っか……」
「そうそう」
 はじめは肩から力が抜けて、シートにポスンと背中を預けた。ずっとひとりで悩み続けて苦しいばかりだったけれど、こうやって悩むことが悪いことじゃないのだと教えてもらって視界が明るくなる。成瀬の答えは行き詰っていたはじめの窮屈な思考を、柔らかく解放してくれた。
「なんだか、帰りたくないです」
 思わず本音がもれた。成瀬といると居心地がいい。ずっと双子のだめなほうだった自分が、ゆるされている気持ちになる。
「帰りなさいバカ。襲うぞ」
 冗談っぽく言われて、成瀬がゲイであることを意識した。別に襲われてもいい気がしたけれど、成瀬が自分を襲う気なんてさらさらないことがわかるから、はじめは大人しく車から外に出た。
「ごちそうさまでした」
「また遊ぼうな」
 手を振るのにお辞儀を返して、家の扉のノブに手をかけたとき、成瀬に名前を呼ばれて振り返った。
「君は、俺みたいになるなよ」
 小さく言ってすぐ、車は走りだす。外灯の光は車内にまで届かず、言葉を放った成瀬の表情をはじめは確認することができなかった。






ハナからはじめる恋のお話(2)

 ネオンがきらめく繁華街の裏通り、会員制とだけ書かれた重そうな黒い木製の扉に手のひらを当てて呟く。
「なんの店だろう」
 週末の二連休を前にした金曜の夜。予備校の授業が終わると、友達と食事をして帰るハナと別れ、はじめは成瀬のあとをつけてこの場所にたどり着いた。
 ハナから下された『成瀬先生の弱みを探る』という指令を実行しようと思っていたのだが、弱みとはどう探るものなのかわからないまま誕生日から五日が過ぎていた。会話をしないと情報が引きだせないことだけはわかっていたが、なにを話せばいいのかわからないので声をかけることができず、ぐるぐる考え事をしながら成瀬をストーカーのように追いかけてきてしまった。見失わないよう成瀬以外のものを見ていなかったため、電車を乗り継ぎ、夢中で歩いてやってきたこの場所がいったいどこなのかもわからない。扉に会員制と書かれているのだから、会員でないはじめが中に入ったら怒られるかもしれない。でも帰り道もわからず、見知らぬ街に心もとなさを感じていたはじめには、目の前の扉を開く以外の選択肢はなかった。
 勇気を振りしぼってノブに手をかける。そっとひらくと、外観の重々しさに反して店内は明るく、思ったよりにぎわっていた。看板は出ていないがどうやらここはバーのようだ。
「いらっしゃい」
 派手な化粧をしているマスターに声をかけられて、はじめは唇を引きつらせた。
 なんだろう、このお店。
 真面目そうなサラリーマンから、派手なパジャマみたいな服を着た若者まで、店内は雑多な人種であふれていた。それに、化粧をしている人もいるが、客も店員も全員男性だ。
 入口に突っ立っているのも不審な気がして、はじめはおそるおそるカウンターに近づいた。
「君、未成年じゃないの」
 マスターに尋ねられて、はじめは首を横にぶんぶん振った。会員でない上に成人もしてないとばれたら、店から放り出されると思ったのだ。
「いいじゃん、かたいこと言わないの。カワイイねー、あんた。名前なんていうの?」
「あ。ま、円はじめです。よろしくお願いします」
 隣にやってきた派手なパジャマ男に、はじめは真面目に答えて頭を下げた。
「カワイー、はじめちゃんって言うんだ。来て早々なんだけど、お兄さんとお店の外でお話しない?」
 首にぎゅっと腕が回され、頬と頬がぶつかりそうな至近距離で尋ねられる。
「い、いえ。ぼくは先生と、話をしなくちゃいけないから」
 先生って誰だ、と二人の話を聞いていたカウンター周囲がざわつき始める。はじめは人を巻きこんでしまっていることにオドオドしつつも、自分で口に出した成瀬に話さなければならない内容、というのがまだ定まっていないことに焦りを感じていた。とにかく拘束を解こうと体をよじってみても、酒くさい息を吐くパジャマ男から逃れられない。涙目になっていると、奥のテーブル席から驚いた顔でカウンターでのやりとりを見ている成瀬と目が合った。
「なにやってんの? 君」
 近づいてきてパジャマ男の腕を解放させると、成瀬は眉をひそめて正面からはじめをじっと見つめた。
「あ、あの、あ…………」
 なにをやっているのだろう。成瀬と対面して、あらためてそう思った。
「とにかく出ようぜ」
 背中をぽんと押され出口へと促される。
「待ってよ、おれがさきに声かけたんだぞ」
 酔っぱらったパジャマ男が成瀬のジャケットの裾を引っ張る。
「コージ、悪いけどこいつの相手してやって」
「はあぁー? なんでだよー。ていうか、あんたから呼びだしといて、オレほったらかしかよー」
 成瀬にコージと呼ばれた、スリムで筋肉質な男の悲愴な叫びに、バー内が明るい笑いで包まれる。文句を言いながらも、彼はパジャマ男の手を引いてソファーに座らせていた。
 成瀬はここで彼と待ち合わせをしていたようだった。二人の邪魔をしてしまった申し訳なさから、はじめは扉の前で振り返り頭を下げた。顔を上げると、コージからは嫌味のないさわやかな笑みが返ってきた。

「あ、あの、ここがどこか教えてくれれば、ぼくはひとりで帰れますから」
 店を出てすぐそう訴えてみたが、成瀬はいいからいいから、とはじめの腕をつかんで歩きだした。
「でも、あの人と約束をしていたんじゃ……」
「今度埋め合わせするから」
 軽い調子で言いながら成瀬は迷いなく歩を進める。たどり着いた先は繁華街の外れにある小さな純喫茶だった。カラン、と音の鳴る扉を開けると、時間帯が遅いせいか店内には客の姿がなかった。
「カプチーノ二つね」
 成瀬は白髪の年老いたマスターに注文してテーブル席に着く。木の温かみのある店内を見回して、はじめもためらいながら成瀬の向かいに座った。
「あ、あの」
「飲めるか? カプチーノ」
 うなずくと成瀬はふっと息をこぼすように笑ってから、煙草に火を点けた。その大人っぽい仕草に思わず見惚れてしまう。授業の中では絶対見られない成瀬の姿を目にして、はじめは胸をドキドキさせた。
「もしかして、予備校帰りの俺をつけてきたのか?」
「あ、う、あの……、は、い」
「うわぁ、悪趣味」
 自分でもなんてバカなことをしてるんだろうと思っていたところなので、はじめは素直にごめんなさい、と謝った。
「妹の仇を打ちにきたとか?」
「いや、あ、あの、そういう……」
 仕返しをするというハナのために成瀬の弱みを探ろうとしていたのは事実なので、仇打ちかと聞かれてはっきりと否定はできない。かといって具体的になにをしようとしてつけてきたのかもわからなかったのでうまく説明できず、はじめはしどろもどろになって、結局ハナの言葉通り伝えてしまった。
「ぎゃふんと言わせに、来、ました」
 なに言ってるんだろう。自分がわからないのだから成瀬にはもっとわけがわからないはずだ。取り消さなきゃと焦っていると、目の前の成瀬がぷっと噴きだす。頑丈そうな木のテーブルをパシパシ叩いてはじけるように笑う。授業の際にも、人間だから多少笑ったり呆れたりいろいろな表情を見せるが、ここまで本格的に笑っている成瀬は見たことがない。ナチュラルな振る舞いや煙草を吸う行為に、プライベートの共有を許されている気がして、はじめはなんだか胸がくすぐったくなった。
「妹に頼まれたんだ?」
 問いかけられた事実に素直にうなずいた。双子を知る人たちから、はじめはハナの言いなりだとよく言われてきたから、成瀬からも同じ言葉を告げられると少しだけ身構えた。
「いい兄ちゃんだな」
「え……?」
「妹思いじゃん。家族愛っていうの?」
 俺好きだな、と言って、成瀬は唐突に立ち上がった。カウンターを出ようとしていたマスターの手からトレーを受けとって自分で運んでくる。カウンター内に目をやると、マスターが足を引きずって歩くのが見えた。
「どうぞ、召し上がれ。俺が作ったわけじゃないけど」
 カップを手渡されて、はじめはきらきらした目で成瀬を見上げた。優しい人だと思った。そして、優しさを行動に移すことを躊躇しない、大人の男性だとも感じた。
「俺が妹を振った理由、わかっただろ?」
 ほのかにキャラメルの風味がするカプチーノをゆっくりすすりつつ、はじめは首を傾げた。
「俺ゲイだから、女の人は恋愛対象になんないの」
「ほわ?」
 カップに口をつけたまま発したはじめの驚きの声は、湯気にこもっておかしな音になった。
 わかってなかったのか、と呆れて見せてから、成瀬はさっきのバーがゲイの人たちばかりが集まる店なのだと説明した。これはハナの言う成瀬の弱みなのかもしれない。それにこのことをハナに伝えたら、自分が振られた理由が自分の非じゃないことを知ってきっと喜ぶだろうと思った。大好きなハナが喜ぶ顔を見たい。そう思ったけれど、はじめは、このことを自分だけの秘密にすることにした。
「似てないな、妹と」
 ハナのことを考えていたら、唐突に成瀬が言った。
「彼女は気が強そうだけど、君はおっとりしてる」
 二人を評価する人はいつもハナを誉めてはじめをけなした。だけど成瀬は単純に二人の特徴を述べるに留めて、包みこむような優しい目ではじめを見つめてくる。目をそらす気配のない成瀬の視線にとらわれ続けていると、胸の奥がさわさわしだして、たまらなく恥ずかしくなってくる。
「顔、むちゃくちゃ赤いんだけど」
 笑いを含んだ目をした成瀬に指摘され、さらに赤みが増していく。鏡を見なくても今自分がどうなっているのかはじめにはわかっていた。肌が白いため普段から頬が赤くなりやすいが、恥ずかしいときや緊張したときは、茹でたたこみたいに顔から首まで真っ赤に染まってしまう。
「せ、赤面症なんです。あ、あと吃音も、あって」
 成瀬につられたのか、はじめも自分の秘密を明かしていた。はじめのほうの秘密は長く付き合えばわかることだったが、ほとんど個人的な付き合いのない今、このことを話しても成瀬は自分のことをバカにしないような気がした。
「吃音というか、妹に合わせて速くしゃべろうとするから、つっかかるんじゃない?」
「へ?」
 自覚のないことを指摘されて、はじめは目を見開いた。成瀬の分析によると、はじめは話し始めが速くてだんだんゆっくりになっていく、ということだった。それが癖になっているのかもしれないと教えてくれる。
「一呼吸おいてから話し始めるように意識すれば、簡単に治りそうだけど。妹に合わそうとしなくていいじゃん。双子って言っても違う人間なんだし」
「そ、そうなのかな……」
「そうそう」
「そ……っかぁ」
 はじめの心は長年の憑き物が落ちたようにほわんと軽やかになった。はじめはハナが大好きだったけど、自分が彼女のようになれないこともわかっていた。双子なのに彼女に似ていないことで、いつも周りからはがっかりされ続けてきた。成瀬はそんながっかりな自分を許して、認めてくれたような気がした。合わさなくていいんだって、そのままでいいんだって。
「ごちそうさまでした」
 帰り道のわからないはじめを、成瀬は地下鉄の駅まで送ってくれた。
「どういたしまして。妹にさ、恋もいいけど勉強もしっかりしろって言っといて」
 成瀬は軽口をたたいてバイバイ、と手を振った。それは生徒に対する態度とは思えない、プライベートでナチュラルな仕草だった。






ハナからはじめる恋のお話(1)

「殺してほしい人がいるの」
 レア・ステーキの中央にフォークを突き刺して、ハナは静かにそう言った。
 四人掛けのテーブルに向かい合って座る。両親が不在の二人きりの食卓。梅雨入りが発表されたばかりで、窓の外はどしゃぶりの雨だった。中まで火の通ったステーキを小さくカットして口に運んでいたはじめは、双子の妹からの衝撃の一言に、口に入れた肉の塊を噛まずに飲みこんでしまった。
「こ、ころ……、ころ……」
 動転してるのと、その不穏な響きをもつ単語を口に出すことのためらいで舌がもつれる。ハナが突き刺したフォークと肉の隙間から、赤い透明の液体がじんわり滲み出てくるのを見て、はじめは涙目になりながら椅子から立ち上がった。
「こ、殺すとか、物騒なこと言わないよ! ぼくたちは将来、人の命を救う人間になるんでしょう?」
 必死な顔で訴えるはじめをじっと見上げていたハナは、わかっているわよ、と言ってニッと笑い、何事もなかったように食事を再開した。今のはどうやらハナの冗談だったようだ。だとしても、二人の十九歳の誕生日を祝うおめでたい食卓で放つには、その冗談は過激すぎた。はじめは立ち上がるときに倒れた椅子をおこしてふたたび座り、まだドキドキが止まらない左胸を手のひらでさすりながら、血の滴る肉を豪快に口に運ぶ美人の妹を見た。
 ハナとはじめは双子なのに、見た目も性格も似ていない。それは自他ともに認める事実だった。二卵性双生児だから顔が似ていないのはしょうがない。でも小さいころから両親が不在がちで二人で過ごす時間が長かったにも関わらず、性格のほうも極端に違っていた。
 妹のハナは活発で明るく、早口で頭の回転も速い。その竹を割ったような勝気な性格は見た目にも反映されて、目鼻立ちのはっきりした典型的な美人だった。
 一方、兄のはじめのほうはおっとりしていて反応が鈍い。勉強も運動もハナほどできず、真面目なことだけが取り柄のおもしろみにかける性格をしている。顔にも妹のような華やかさがなく、丸い目は量の多いまつ毛にふちどられて輪郭がぼんやりしているし、八の字に下がった眉を隠す黒髪も、ずっしり重く暗い印象を与える。
 二人のことを昔から知る人も初めて知る人も、みな口をそろえて言う。
 双子なのに正反対だね、と。
 はじめが紅茶を入れているあいだに、ハナはデコレーションケーキにロウソクを挿して勝手に吹き消していた。ケーキに乗った六つの苺を全部自分の皿に移し、紅茶を運んできたはじめに、もらうね、と事後報告する。
 はじめはそんなハナに呆れも怒りもしない。いつも大胆不敵なハナの行動に、純粋に憧れを抱くだけ。自分に無いものをすべて持っているハナを羨ましいと思うけれど、とうていはじめには真似できそうにない。
「殺す、というのは言いすぎたけど」
 冗談で終わったはずの恐ろしい話題を蒸し返されて、はじめはケーキを口に運んだフォークを前歯で噛みしめた。
「ぎゃふんと言わせてやりたいの」
「ぎゃふん……」
 話の筋が見えずにぼんやり言葉を復唱するはじめの前で、ハナが苺にフォークを突き立て忌々しげに呟く。
「あの男、私のことを振ったのよ」
 信じられる? と同意を求められて、はじめは首を横に振った。ハナは振られたことがないのだ。でもこれだけ美しいのだから、それは当然のことだと双子は思っていた。
「相手はいったい誰なの?」
 変わった人がいるものだ。はじめは心底不思議がって尋ねた。
「成瀬千明よ」
「成瀬、先生……」
 ハナの口からその名前が出てきたとき、はじめの胸がドクン、と音を立てた。
 小さいころからハナとはじめは、尊敬する両親と同じ職に就く、外科医になることを目指していた。成績も上々で順調に年を重ねていた二人は、高校三年生の冬に小さな挫折を味わった。
 両親が卒業した地元の私立大学医学部へ、二人そろっての現役合格に不備はないはずだった。だが本番の試験前日、ハナが風邪をこじらせて高熱を出した。そして両親不在の中、彼女を看病したはじめも朝方に倒れてしまった。二人してほとんど眠らないまま、市販の薬を飲んで這って家を出ようとしたところ当直から帰ってきた母親に止められ、受験することなくまとめて不合格となってしまった。試験に慣れておくため受験した、他のいくつかの大学はすべて合格した。でも二人には他じゃ意味がなかった。
 成瀬千明は、不運にも浪人生になってしまったハナとはじめが通う予備校で、二人の選択する私立医大コースの英語を教えていた。すらりとスタイルがよく、テレビや雑誌に出てくる人みたいに垢抜けている。似たり寄ったりのスーツを着た予備校講師の中で、成瀬はひとり浮いていた。長身の体にぴったり合ったオシャレなスーツを身にまとっていて、いつもどこかに一か所、遊び心を入れている。たとえばそれは、先の尖った革靴だったり、文字盤からベルトまで黄色一色の腕時計だったり、ペンギン柄のネクタイだったり。そのお茶目な一面は規律を守ることへの小さな反抗みたいで、学生の感覚のまま講師をやっているような親近感があった。勉強を教えるためだけに存在しているような講師陣の中で、成瀬だけはちゃんと自分を主張して生きている、生身の人間に見えた。
 はじめの目に、成瀬はきらきらと輝いて映っていた。そして、そんな魅力的な成瀬は、ハナにとっても特別な存在だったのだ。
「じゃ、頼んだわよ」
「な、なに、なにが?」
 ぼんやり成瀬のことを考えてるあいだに頼みごとをされていたらしく、はじめは焦って問い返した。
「だから、殺すは言いすぎたけど、ぎゃふんと言わせてやりたいのよ。私を振った仕返しをするの。はじめ、私のためにあいつの弱みを探ってきてちょうだい」
 命令を下すと、はじめの反応も見ずに冷めた紅茶を飲み干し、ハナはリビングを出ていった。
「弱み、ってなんだろう」
 どうやって、探るんだろう。
 外から窓を叩く雨音をじっと聞きながら、はじめは与えられた指令をうまく把握できず、苺のえぐり取られたデコレーションケーキをぼんやりと見つめていた。






次のお話と拍手コメントのお返事

すっかり春ですね!(あきらめ)


さて、私のボツ作品のストックも、残り2つとなりました。

次のお話は、「ハナからはじめる恋のお話」です。
第4回小説S様新人賞(カカオ様?)総合評価C+でした。

評価シートをもとに書き直した記憶はあるのですが、ダメと注意された部分がまったく直っていないので、当時の私はなにをしていたのだろう(遠い目)。『まとめようとして削りすぎてしまっているのか、つながりが悪い箇所があります』というお言葉をいただいているのですが、私はなぜかそこからさらに30ページも削ってしまっています。まじでなにを考えていたのでしょうか(知るかいっ)

しかし! これ以上手直しはせず、公開に踏み切ります! 

目新しいものはないのですが、お時間があるときに覗きに来てくださると嬉しいです。





登場人物のなまえ
円はじめ(まどかはじめ)
成瀬千明(なるせちあき)
円ハナ(まどかはな)
コージ(こーじ)



ちなみに、このお話は投稿したものを修正しています。














続きを読む»

恋香るひと反省点と拍手のお返事

二週間で読みきれず、図書館で同じ本を連続で借りている私です、こんばんは。
このどうでもいい冒頭のネタも、どうでもいいくせにネタ切れしてきました(本当にどうでもいい)

さて、今回の反省なのですが、構成が悪いと指摘されて書き直したにもかかわらず、まだ構成が悪い気がします。
具体的にダメなところを挙げると、伊佐木の登場が遅く感じること、最後が物足りなく感じることです。そしてなにより、あの悪人の伊佐木に罰が当たっていないことに、私自身が消化不良感を抱いております! ムカー(#・∀・)

そして修正前のお話では、明良が郁に惹かれていく過程をもっと細かく書いていたのですが、自分が書きたいことが人の読みたいことではないのだと気づきました。気に入りの場面でも、展開上不必要だと感じたら泣く泣く切るよう心がけています。これがけっこう悲しい作業なのです。

実はこのお話は、D様に投稿したあとに、美王子さまにも投稿しました(なので、D様の個別批評は受けておりません)
この内容のままでかなり削って短編部門に投稿したのですが、「いい意味で短編らしくないボリューム感」というありがたいお言葉をいただきました^^ 美王子編集者様の優しさに度肝を抜かれました。自分で久々に読み返してみると、早送りで映画を観てしまったような感じでした。端折りすぎ!
あ、ちなみに総評はB+でした。


最後に、このお話を読んでくださったみなさま、そして拍手をくださった神さま、ありがとうございます!
私自身も心残りなところがあるので、みなさまにとってはきっと望む展開になっていなかったかもしれませんが、読んでくださったことに感謝いたします。
ありがとうございました!






続きを読む»

恋香るひと(8)R-18【終】

「そんなのはさ、憂鬱の原因を取り払ったら治るよきっと」
 鼻をすすりながら、郁が俺の目をじっと見つめる。
「憂鬱の原因?」
「そう、伊佐木さんとの不倫をやめて、俺と付き合えばいい」
「でもそれは……、俺は汚れてるから」
「だからぁ。そう思ってんの、郁だけだぜ?」
 見上げてくる顔を両手で包んで、頬に残る涙の跡に軽くキスをした。驚きで目を見開き抵抗を忘れているようなので、今度は半開きの唇に唇を重ねた。ずっとさわりたくてたまらなかった赤い唇。夢中で吸って引っぱり、歯並びのいい小さな前歯を舌で舐めていると、そこでようやく郁は手で俺の胸を押し返してきた。
「ん、んっ、だぁ、めっ……!」
「いでででで!」
 胸を押しても無駄だと思ったのか、頬を両手でつまんでくるので、俺は奇声を上げながらしぶしぶ郁から唇を離した。
「らー、にが、だめなのさ」
 まだ全然したりないんだけど。
「何度も言った、俺は汚れてる。健全な明良に相応しくない」
 出た、この頑固者。
 でも俺だって好かれてるってやっとわかったのに、ここで引くわけにはいかない。
「郁はさ、伊佐木さんに妻子がいることを知らずに付き合ってたわけだろ?」
 事実を肯定して頷く郁を見て過去に嫉妬しそうになる自分を戒め、冷静にゆっくりと言葉を継ぐ。
「そこはさ、自分が汚れてるなんて悲観する前に、相手をもっと責めるべきところじゃないの? 家族に知られて困るのは向こうなのに、なんでおかしな交換条件呑んじゃうかな」
「俺はただ、明良に、嫌われたくなかった」
「嫌わねーよ。俺は神様が用意したプレゼントでもなければ、嘘一つ吐いたことない聖人君子でもない、自分の意思で行動する、短絡思考で、まあまあ快楽に弱い、ただの人間なんだ」
 伝わってくれと、願いをこめる。
「相応しいとか相応しくないとか、恋愛ってそんな頭で考えてするもの? かわいいなって、楽しいなって、ドキドキして、イチャイチャしたくなって、気持ちの深いところで繋がりたくなってさ。俺は郁を、そういう風に好きになったよ」
 どうか、俺の手に落ちてきてほしい。
 心のままに紡いだ言葉は、郁に届いただろうか。郁を縛りつける最後の枷を外すことができるのは、他の誰でもない郁自身だ。
 沈黙の落ちた部屋に、壁掛け時計の秒針がカチカチ音を立てる。いったんは乾いていた赤い目に、ふたたび水の膜が張る。零れそうな涙を拡散させるようにゆっくりと一度瞬きをした郁が、小さく頷いてから呟いた。
「明良がこんな俺でいいって言うなら―」
 二度目の瞬きで郁の左目から落ちた涙が、俺の手の甲ではじけた。
「心も身体も好きなだけ、もっていってくれて構わない」
 見つめてくる瞳が、無風の草原のように静かでたくましい光をたたえていた。その眩しい光に思わず目を細め、あらためて俺は目の前の男を綺麗だと思った。

 ためらいつつ伸ばした俺の手を、郁は拒まなかった。むきたての卵みたいに滑らかな頬から顎のラインに指をかけると、安心したように目を瞑って手の平に頬ずりしてくる。
「どう、したの? なんか素直」
「悪かったな、いつもは心が歪んでて」
 郁はどうにも褒め言葉を裏にとって、さらに悪いことを上乗せして解釈する癖があるらしい。そんなふうに毒づきながらも、表情は柔らかく、母親の腕のなかにいる無垢な子供のように無防備だ。じっと閉じていた瞳がゆっくりと開き、目が合う。
「少し疲れてるのかもしれない」
 掠れた声で郁が言う。扇情的な眼差しで見つめられて、心臓がばくばく跳ねる。
「ずっと明良に嫌われないようにだとか、実は好きなんだってことがばれないようにだとか、いろんな枷を自分に設けて。あんたが来るたびに嬉しい自分がいるのに、気を張ってるせいでいつも少しだけ疲れてた」
「…………、そっか」
「うん」
 酔っぱらった郁があそこまで開放的になったのは、普段心に溜め込んでいたものが爆発したからなのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えていると、再び目を瞑った郁が頬に添えた俺の手におそるおそる自分の手を重ねた。
「初めての……、あの日は、もうコンビニに行きさえしなければ会わない人だからって大胆になれたけど、このさき、一緒にいるあんた相手に何をすべきで、何をすべきでないのかわからない。俺は器用でないから、考えてみても深入りして土壺にはまるのはわかってる。だ、だから…………」
 言いよどむ郁の顔がじわじわと赤らみ、瞑った目がさらにキュッと閉じられる。その変化をじっと見つめていると、意を決したように郁が目を開いた。
「なにも聞かないで。明良がしたいようにしてくれたらいい」
 うわあ…………。
 生唾を飲みこんでも、次々と口のなかに唾液が分泌されていく。まるでご馳走を前にした腹ペコの犬状態だ。
 いまのはどう考えても、お誘いの言葉だろう。怯えて逃げ出さないよう慎重に、などと考えていたことが、嵐の直後みたいに頭のなかからすっぽり消え去ってしまった。
「う、あー、じゃ遠慮なく」
 いただきます、と小声で言うと、ゆっくり目を瞑った郁が唇だけでそっと笑った。

 真っ白な肩甲骨と背骨の間のくぼみに、自分の顎から伝った汗が、ポトリと一粒落ちる。それがゆっくりと美しい斜面を流れて、郁の肩から布団に落ちた。
 猫が伸びをするみたいに、郁は膝をつき尻を高く上げて、布団に這いつくばる。初めのうちは布団に手をつき腕を突っ張っていたが、いまは力尽きて額と肘で身体を支えていた。
「んっ、もっと強くして……、お願い」
 苦しそうな声音で、矛盾したことを言う。
「でも、そんなにしたら痛いだろ? 後ろ初めてなのに」
「……ったく、ない、からっ、んぁ、あっ」
 前に手を伸ばし性器に触れると、そこは挿入する直前の状態とは違い、柔らかく萎んでいた。
「ほら、痛いんじゃん」
 なかから自分のものをゆっくりと抜きだそうとすると、振り返った郁の手が細腰を掴む俺の手を引っぱった。
「ぬ、かないで、お願い」
 涙声で訴えられて混乱する。そこまで痛いのに、もっと強くしろだなんて、なにかがおかしい。
「なあ、なに考えてんの? 郁」
 浅い所にある性感帯を自分のものでゆっくり突きながら尋ねる。前に伸ばした手で軽く性器を扱くと、萎んでいたのが少しだけ嵩を増した。
「明良に愛されてるって、実感が欲しい、んだ」
「愛してるよ」
「こ、言葉じゃなくて、本能的に求められたいっ」
 理性が飛びそうになるのをぐっとこらえる。ゆっくりと自分の性器を抜きだして、郁の身体を仰向ける。怯えた目で見つめてくるその顔中に、柔らかいキスを落とした。
「郁が痛がってるのに、俺が気持ちよくなれると思ってんの?」
「う、ぁんっ」
「一緒に気持ちよくなろうよ」
「や、あっ、ま、て……っ」
 初めてエッチなことをした時に郁が俺にしたように、二つの性器の裏筋を合わせて腰をスライドさせた。恥ずかしいのか、俺の下で首を伸ばして顔を背けるので、空いた手で引き寄せて深く長いキスをした。
「もう、だめっ! それ……、いっちゃう、から、あ」
「いいよ、俺もいきそう」
 入れてほしかったのに、とまたたがが外れるようなことを言う口をもう一度塞いで、二人で果てるまで腰を揺らし続けた。

「セックスの最中は素直だね、郁」
 風呂から出てきた郁に開口一番告げると、持っていたバスタオルが顔目がけて飛んできた。
「ごめん、怒った? ほめ言葉だったんだけど」
 頭に被さったバスタオルを除けると、湯上がりにしても赤すぎる顔をした郁が、下唇を噛んだ困り顔で俺の前にしゃがみこんだ。
「やっぱり挿入れるのは、抵抗あるんだろ」
「は? なんの話」
「だから、その、触ったりするのは平気だけど、インサートはしたくないという……、ふぎゃっ」
 だんだんうつむいていく郁の鼻を摘むと、おもしろい声をあげるので笑ってしまった。
「俺を伊佐木さんと重ね合わせるのはやめましょうー」
 片手を上げて明るく標語のように言ってみせると、郁のほうもぷっと噴きだした。
「楽しみなことは先延ばしにしたっていいんじゃない? これからもずっと一緒にいるんだからさ」
「うん」
 笑顔で返ってきた清々しい返事が、死ぬほどかわいらしかった。
 郁の手首を掴むと、驚いたように瞬きを何度か繰り返してから、拒絶しないで身体を寄せてくる。
 目を瞑った郁の唇に自分の唇がくっつく直前、いきなり目を見開いた郁が背後を振り返った。
「あ、伽羅の香り! 明良が焚いてくれたのか?」
「うん、ってあれ? 鼻治ったの?」
「あ…………」
 背後の香炉を指さして『あ』の口の形のまま郁がまた固まった。その口の端に触れてすぐ離れるキスをする。
「よかったな、治って」
 頬を染めた郁がなにか言いかけた口を閉じ、腰を伸ばして胡坐をかいた俺の太ももにそっと手を乗せた。じんわりと体重がかかる心地よさにゆっくり目を瞑ると、柔らかく震える唇で不器用なキスをくれた。






恋香るひと(7)

 夜中の十一時という非常識な時間に、俺は香の店の戸を叩いた。
「郁いるー?」
 一度だけ声を張りあげる。煙草の煙のような白い息が宙を舞った。
 不倫なんて本当に望んでしてるのか。ペットの役目で幸せなのか。どうしても真相を確かめずにはいられなかった。信用できない伊佐木の言葉なんかじゃなく、郁の口から本当の気持ちを聞きだしたい。
 しばらく待っていると、ゆっくりと木製の引き戸が開く。床に就いていたのだろう、丹前を羽織った郁が、少しだけ開いた戸の隙間から赤い目でにらみつけてくる。
「酔っているのか?」
「酒は飲んでないよ」
「今日はもう店は閉めた」
「わかってる。話がしたくて来たんだ」
「もうここには来るなと言っただろう。それに、俺はなにも話すことない」
「嫌でもまた来るって言ったじゃん。俺は郁に聞きたい話があるんだ」
 言いこめて帰そうという意気込みは感じたが、眠る前で頭が働かないのか、郁はさらに言葉を継ごうと開いた口を閉じて眉根を寄せた。無意識に鼻をすすった俺を見て困ったような表情をしたあと、無言でなかに入るよう手招きする。
 ひんやりと冷たい板敷きの廊下を抜け、郁に続いて和室に入った瞬間、俺はその異常なほどの強い香りを吸いこんだ衝撃で思わず咳きこんだ。
 鼻先に花束をつきつけられたかのようなむせ返るほどの芳香が、和室内に充満している。
「郁、どうしたのこれ!?」
 灰でいっぱいになった香炉を指差して、郁に尋ねる。いたずらが見つかった子供みたいに目をそらすので、とりあえず換気しようと部屋の障子窓を全開にした。外の冷たい新鮮な空気を吸いこむと、クラクラしていた頭が少しクリアになった気がした。
「なんでこんな―」
 振り返って尋ねると、郁は穴の開いた紙風船のようにへなへなと敷かれた布団に座り込んだ。
「放っておいてくれよ、もう」
 両手で顔を覆って、かすれた声で呟く。簡単に折れてしまいそうな白くて細い指がかすかに震えていた。俺は好きな男からの切実さのこもった拒絶の訴えに、物の見事に打ちのめされた。
 ああ、迷惑だったのか。
 なにが真相か、なんて探偵気どりでやってきたものの、そんなのは俺の好奇心を埋めるだけで、郁にとってそれは俺に知ってほしいことなんかじゃなかった。ただ迷惑なだけなのだ。
 少しずつでも、郁が俺に心を開いてくれていると感じていたのは、勘違いだったのだろう。郁が沈黙で隠す部分を勝手な想像で埋めて、俺は彼の迷惑も考えずひとり舞い上がっていただけだ。
 ひどく疲れた様子でうなだれる郁を見て、自分の強引すぎた振る舞いを反省した。恋愛ってやっぱり二人でするもので、どんなに俺が一人で奮闘してみたところで実を結ぶような都合のいいものじゃなかった。郁が必要としているのは、俺ではなかったということだ。
「つらいな」
 思わず本音が漏れる。俺の声を聞いて、うなだれる郁の身体が少しだけ震えたのがわかった。
 この美しくて、かわいくて、繊細で、芯の強い人を、どうしても手に入れたかった。自分の腕のなかに収めて、なんどもキスして、とろとろになるくらい甘やかしたかった。俺は郁に悲しい思いをさせない、幸せにできる自信があった。でもその妄想は現実にはならない。
 動かない郁の前にしゃがんで、ゆっくり息を吸った。胸が痛んで死にそうだったけど我慢した。あとでいくらでも泣けるから、郁の前では最後まで明るい俺でいよう。郁を不安にさせないように、普段通りの声で解放の言葉を届けよう。
「いままでごめん、もう来ないから安心しなよ」
 ピクリと肩を揺らした郁の、顔を覆う指先の震えが止まる。ちゃんと耳に届いたことを確認して立ち上がる。
 出口へ向き、決意の一歩目を踏みだした。その足首に、ものすごい圧力がかかる。思わず自分の足下を見た。心霊現象のように白い二つの手が俺の右足首に強く絡みついている。
 振り返ると、それはさっきまで自らの顔を覆っていた郁の手だとわかる。よくわからない展開に頭はついてこず、まだうなだれたままの郁の黒髪のつむじあたりを呆然と見下ろしていると、その下の白い布団カバーにぼたぼたと水滴が落ち始めた。
 雨か、と思った。混乱していたのだけれど、降りはじめた大粒の雨みたいに続々水が落ちるので、勘違いしたのだ。
「い、郁?」
「なんで急に、そんなこと……、いままではずっと、拒んでも拒んでも、追いかけてきたくせにっ!」
「ご、ごめん、じゃなくて、え…っと……」
 郁のあまりの剣幕に反射的に謝ってしまったが、なぜ怒られているのかはまったく理解できていない。
「待って郁、痛い痛い」
 足首を掴んでいた郁が脛に爪を立てるので、俺はしゃがんでその手を外させた。泣き顔を見られるのが嫌なのか、目元を隠すように三角座りをして自分の膝に顔を伏せる。
「俺は明良のことをずっと見てた。あんたが俺を知るずっと前から」
「え…………?」
「俺はゲイなんだ。毎日同じ時間にコンビニへ行くと、自分の好みの男がいつも同じ場所で漫画を読んでる。目で追ったっておかしくないだろ」
 覇気のない潤んだ声での唐突な告白に、一瞬混乱してしまった。
「お、俺? 好みの男って」
「他に誰がいるんだ」
「いや、誰って……、ええーっ!?」
 無意識に目で追っていた郁のほうも、実は俺のことを見ていたということか。
「それにしては目が合わなかった気がするんだけど」
 嘘のような話にやっぱり出てきた破綻を見つけて尋ねると、顔を上げて泣きはらした目でにらみつけてくる。
「あんたが俺のことを見てくるようになってからは、あんまりこっちから見ないようにした」
「は?」
 だって目が合うじゃないか、と言われても、それのなにがいけないのか俺にはわからない。目が合ったっていいと思うんだけど。
 時間の経過にともなって頭が追いついてくる。突然すぎた告白の内容が脳内で鮮明になると、ひとつ疑問が浮かび上がってきた。
「じゃあさ、郁の好みなのは、俺の見た目だけってこと?」
 自分で言っといて、ものすごくアホらしい質問だと気づいた。でもそう考えてしまうのは、いままで何度好意を伝えても郁からいい返事はもらっていないからだ。悲しいが、人格が見た目の好みを打ち消すほど酷かったと考えると、つじつまが合う。しつこく言い寄った自覚があるぶんその可能性には信憑性があったが、郁からの答えはまた俺の想像とは別のところにあった。
「明良は、あの日、不幸な目に合った俺に神様が用意してくれたプレゼントだったんだ」
「はい?」
 ちょうど男と別れて家に帰ったら俺が店にやって来て、追いかけて来たとかわけのわからないこと言って、そんな都合のいいタイミングで、いつもこっそり見ていた好みの男が目の前に現われて、無茶な望みを聞いてくれて。そんな夢のようなことはあるはずがないと、郁は思ったらしい。
きっとこれは不幸な目にあった自分に、神様がプレゼントをくれたんだ、と。
 顔をまた覆おうとしかけた震える手をとって阻止すると、怯えたような眼差しで見つめてくる。なにを不安に思うことがあるのかと、郁の目に訴えかけて冷えた手をぎゅっと握った。二つの手の温度差が少しずつ縮まってくると、郁はまたゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「一回だけでよかった。そんな幸せ続くわけがないことはわかってたから、一度だけ、その男に抱かれてみたかったんだ。望みが叶っておしまいのはずなのに、そのプレゼントは次の日も、また次の日も俺のところにやってきた。混乱した、わけがわからなくなった」
 自分がまるで感情のない物扱いされていることに苦笑した。でもそれはとても郁らしい発想の仕方だと思う。郁のように不器用で慎重な人間が、突然現われた俺に対して突飛的な行動をとったのは、処理できない様々な出来事が立て続けに起きた末に、彼の脳が俺をプレゼントだと割りきったからだと考えるとしっくりくる。
「毎日来てくれるし、冷たくしてもプレゼントは怒らない。優しくて、あたたかくて、健全で、そんないかにももてそうな男が、なにを血迷ってかしょっちゅう口説いてくるし、俺のことを好き……だ、とか夢みたいなことを言って、料理を作ってくれて、俺をいつも気持ちよくしてくれて。そんな幸せなぬるま湯に浸かっていたから、やっぱり罰が下ったんだ」
「ばつ?」
 ゆるく握っていた俺の手を、郁は自分の手から外させた。おぞましい出来事でも思い出したかのように耳を両手で塞いでうつむく。
「知り合いだなんて思わなかった。明良と伊佐木さんが」
「ああ、俺もびっくりした」
「あの……、取り乱して悪かった。いま引きとめたことは、忘れてくれていい。それからやっぱり、もうここには来ないでくれ」
「伊佐木さんが来るから?」
 咄嗟に口をついて出てきた俺の嫉妬にまみれた質問に、郁がゆったりと顔を上げてこっちを見る。
「さっき伊佐木さんに話聞いた」
「え…………?」
 なにを、と聞かれて不倫のこと、と答える。
「聞いた、のか?」
「うん、全部聞いた、ごめん」
 謝ったが、郁からの返事はない。ポカンと開いた口から魂が抜け出ているのではないかと思うくらい、郁の不動の沈黙は長かった。
「全部って、どこからどこまで?」
 知っているのに隠しているのも悪い気がして、伊佐木に妻子がいることを知って別れたことから、また付き合うようになったこと、性行為において挿入はしていなかったことまで、俺は聞いた話をすべて明かした。そして、本当かどうかわからないにしても、他の人の口からこんな大事なことを聞いてしまったことを、頭を下げて謝った。
 そのあとの沈黙の長さは、さっきの比じゃなかった。銅像のように固まっていた郁が動くまでに軽く五分はかかった。しかも突然立ち上がるのでびっくりする。
「死んでくる」
「待って待って!」
 扉に向かおうとする郁の足に、今度は自分の腕を巻きつけ必死で止める。
「死なせてくれ、もう生きていられない。恥ずかしい、情けない、明良にだけは絶対知られたくなかったのにっ! あのウソつき、絶対言わないでって言ったのに!」
 半狂乱に喚きちらすと、郁は俺の拘束から逃れ、かけ布団のなかにもぐりこんだ。
 名前を呼んでも、返ってくるのはごめん、という謝罪の言葉だけ。
「ねえ郁はなんで、伊佐木さんとのこと俺に知られたくなかった?」
 ゆっくりと尋ねると布団の塊が小さく揺れた。
 感情に任せて叫んだ郁の言葉のなかに、きっと真実はある。祈る気持ちで返事を待っていると、のっそりと郁が布団から出てきた。
「明良のことが、す、好きなんだ……。とても、好きになってしまった。ごめん、なさい」
 正座をした郁が、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、真正面から俺を見て言った。
「なんでごめん?」
「俺は汚れてるんだ。伊佐木さんは決して善人ではなかったけど、ばあちゃんが死んで寂しい時に、いつもやってきて身体で慰めてくれて、バカみたいだけど俺はその行為を愛だと思ってたんだ。でも、結局、俺はただの浮気相手だった。不倫をしてたくせに、その事を隠して明良の前で綺麗なふりをしてた。嫌われたくなかった。もう一度、伊佐木さんと付き合うことになったのも、不倫してたことを明良に知られたくなくてあの人に口止めしたら、交換条件で提示されたからなんだ。俺はあの人の家族よりも、自分の保身を選びとるような、最低なやつだ」
 どうやらここだけ話が違う。今回の交際の話は郁から申しこんだのでなく、伊佐木に脅されて受け入れてしまっただけのようだ。伊佐木は自分の都合のいいように話をでっち上げていたのだ。そしてなにより、伊佐木が交換条件の意味をわかっていないらしいことに驚いた。
「健全で真っ直ぐな明良の前にいると、自分がずるくて、汚れているのを自覚する。一緒にいる時は、幸せと罪悪感が同時にやってきて、どうしたらいいかわからなかった」
 どうやら郁は、俺のことを聖人君子かなにかと勘違いしているらしい。相手を美化して、自分を曝けだすことに怯えている。恋愛の初期症状にはまっている郁を目の前にして、その相手が自分であることに胸が幸福で打ち震える。
「じゃあ、付き合おっか」
「お……、俺の話のなにを聞いていた?」
「え、だって問題は解決したわけでしょう?」
 郁は不倫していたことを俺に知られたくないから、伊佐木ともう一度付き合うことにしたと言った。俺がその事実を知ったわけで、交換条件は成り立たなくなったのだ。それに俺は郁が好きで、郁も俺が好きなわけで。
「なに笑ってるんだ。なにも問題は解決していない」
「なんで? 郁やっぱり伊佐木さんと付き合うわけ?」
「別れる。無理だ。不倫なんてやっぱり出来ない」
 うっ、と息を詰まらせて、郁が右手の平で目元を覆った。嗚咽を必死で噛み殺しながら涙を流す郁の冷えた黒髪にそっと触れてみた。抵抗がないのをいいことに、その頭を自分の肩口に引き寄せる。後頭部を撫でさすると安心したのか、声を押し殺すことをやめて子供のように泣きだした。
「このさき明良ともう会えないのに、伊佐木さんと不倫もしなくちゃならないって思ったら……、なんっ、で、こんな、なにもかもうまくいかないのって憂鬱になって。そしたら、昨日からっ、どんなに香を焚いても、香りを感じないんだ。布団に入っても眠れないし、お客さんにも心配かけてしまって―」
 線香を大量に燃やした理由は、精神的な苦痛で嗅覚が利かなくなったからだったらしい。
 俺の肩に顎を乗せてわんわん泣く郁の背中を、しばらくぽんぽん叩き続けた。徐々に呼吸のタイミングがずれてきて引きつった泣き方に変わっていく。苦しそうな郁の身体をいったん自分の肩から離して、涙で濡れた顔を手のひらで拭った。







恋香るひと(6)

 週明けの月曜、バイトの休憩時間にコンビニへ行ってみたが、案の定、そこに郁の姿はなかった。予想していたことだが、実際会えないと肩すかしを食らったような欠落感が襲ってくる。
 毎日のように顔を見ていたから、週末まで会えないと考えたら急に心もとなくなった。でもいままでとは明らかに違う、心からの拒絶をされたいま、郁に会いに行ってもどんなふうに接していいのかわからない。郁の困った顔を想像して、そんな顔を俺がさせるのだと思うと、胸が痛んだ。
 居酒屋が閉店後の調理場でひとり、砥石で包丁を研ぐ。考えても埒が明かない問題から目をそらそうと躍起になってその単調な作業に没頭していたため、誰かが調理場に入ってきていたことに俺は気づかなかった。
「岡野ちょっといいか? 土曜のことなんだけど」
 真後ろで声がして振り返る。そこには伊佐木が立っていた。
「おつかれ、す」
「おま、あ、危ねぇからそれしまえよ」
「あー…………」
 包丁を握ったままの、自分の手元を見下ろす。本当だ、危うく刺さるところだった。洒落にならない。
 研ぎたての切れ味鋭い出刃包丁と砥石を棚に仕舞って、俺はさっき伊佐木がなにか言いかけていたことを思い出した。
「なんか話ですか?」
「ああ、土曜にさ、会っただろ? 郁のとこで。俺が帰ったあとに、あいつからいろいろ聞いたか?」
「いえ、特になにも」
 伊佐木の言う『いろいろ』がいったいなにを指しているのかはわからないが、なにも話は聞いていないので俺は簡潔にそう答えた。
「いや、実はさ、郁とはクリスマス前に別れたんだけどよ。その原因が、俺にカミさんと子供がいることがバレたからでさぁ」
 伊佐木が俺の返事を無視して唐突に語り始めたことにも驚いたが、その告げられた内容には度肝を抜かれた。
「け、結婚してたんですか?」
 俺は伊佐木に妻子がいることを知らなかった。
「ああ、他の連中には内緒な。カミさんと子供がいるっつったら、モテなくなるからよ」
 この居酒屋内ではそれを言っても言わなくても伊佐木の評価に変わりはないだろうが、どうでもいいことなので黙っておいた。
 そんなことより―
「その話、俺にはしてもいいんですか?」
「なんでだめなんだ?」
 伊佐木は目を見開いて、心底不思議そうな顔をした。
 二人は付き合っていたという。姿の見えない俺の嫉妬の対象は、やはり伊佐木だった。しかも不倫という後ろ暗いおまけつき。
 伊佐木は郁と俺が知り合いであることは、土曜に会ってわかっているはずだ。それなのに、二人の不倫関係を俺が知っているかどうかも確認せず、簡単に話してしまってもいいのか。そもそも伊佐木は郁の許可を得て話してるのか。というか、俺はなんでこんな大事な話をこのおっさんから聞かされなきゃならないのか!
 伊佐木の話があまりに唐突すぎて、嫉妬なのか怒りなのかわからない感情が一気に湧きでて収拾がつかない。返事ができないで黙っていると、伊佐木はハッと笑ってから俺の肩に腕をまわしてきた。
「頼むからさー、言わないでくれや。結婚してて、さらに不倫までしてるってバイトの連中にバレたら、信用なくすだろうがよ」
「いや、そうじゃなくって」
 伊佐木は俺がこのことを誰かに話すのではないかと心配しているようだった。だけど俺が言いたいのはそんなことじゃない。
「これって、伊佐木さんひとりの問題じゃないですよね。このこと、郁には許可とって話してるんですか」
「ああ? ああ平気平気、あいつはなに言っても怒らねぇからよ。扱いやすいっつうんか、良い奴だよな?」
 同意を求められて、俺はゆっくり首をひねった。腹の底に冷たい石がひとつ沈んでいく。混乱でぐちゃぐちゃになっていた頭のなかが、瞬時に怒りの一色に染まった。
「扱いやすい、ですか」
 怒らないからなにを言ってもいいのか。良い奴というのはそういう扱いやすい奴のことをいうのか。
 そう思ったが口には出さなかった。言っても真意は伝わらない気がした。たぶん、伊佐木とは考え方が根本の部分で違っている。
 触れられているとどんどん怒りが膨らんでいく気がして、肩にまわされた腕をゆっくりほどいて伊佐木から離れた。そんな俺の行動をどう思ったのか、伊佐木は一度大げさに肩をすくめ、口を歪ませて笑った。
「まあいったん別れたんだけど、また付き合うことになったんだわ、俺たち」
「…………はい?」
 誇らしげな伊佐木の表情を呆然と見つめる。これはなんの悪夢だ。たった三日でいったいどんな展開があったというのか。付き合う、ということは、不倫関係を再開するということか。
「奥さんとは、別れたんですか」
「まさか別れるわけねえだろ。郁は俺にとってペットなんだよ」
 ペット、愛玩動物。いつから人間は人間を飼うことができるようになったのだろう。いや違う、伊佐木は愛人という意味で郁のことをペットと言っているのだ。
 再び襲ってきた混乱が思考を乱し、俺はまたしばらくなにも言えずにいた。伊佐木の言うことを脳がはっきり理解した直後、俺は上司に向かってありえない口のきき方をしていた。
「はあぁ? なんっだそれ」
「あいつむちゃくちゃ綺麗な顔してるだろ? まあ言っても男相手にやったことなんかなかったから、ケツは使ったことねえんだよな~。なあなあ、お前もあいつとやったんだろ? そっちも使ってんのか? おい」
 包丁を仕舞っておいてよかったと心の底から思った。手に持ってたら、いま確実に刺してる。
 郁と一度だけ性行為をした時、明りを消して視界を鈍らせ『入れないから』と言った郁の言葉を思いだす。そんな気遣いを郁にさせたのは、いま目の前にいる男かもしれない。
 伊佐木の下品な好奇心で歪んだ笑みを、視界に入れることにすら嫌悪を覚えた。
 郁はこの男のどこを好きになったのだろうか。俺にはさっぱり理解できないが、人の好みなんてそれぞれだ。郁はこの男に魅力を感じているのかもしれない。
 考えても埒が明かない。理解しえない苦悩と嫉妬で、胸が焼かれるだけだ。
 冷静になれ、と自分に言い聞かす。ここまで話を聞いてしまったからには、どうしても一点確認しておきたいことがあった。感情を腹の底に沈めて、俺は努めて淡々と声を発した。
「彼は、あなたが結婚してることを、知ってるんですか」
 想像ができなかった。繊細で不器用な郁が愛人としての役目を平然とこなして、心晴れやかでいられるだろうか。
「ああ……」
 悶々と考えていると伊佐木が一言発して口ごもり、ぐるりと目玉を回してしばらくなにか思案するそぶりをしてから、思い当たることがあったのか、わざとらしく顎をさすりながら言った。
「カミさんと子供がいるっつったら、あいつむちゃくちゃ怒ってな。それで一旦別れたんだけどよ。でもあいつは俺にベタ惚れだからな。今回、またやり直してぇって、向こうから言ってきたんだぜ」
「郁が?」
「そう、また俺とやりてぇんだとよ」
 下品な笑い声が響く薄暗い調理場内にグワン、と低い金属性の音がこだました。積み重ねられた数枚の小皿が揺れて、カチャカチャ触れ合うのが視界の端に映る。ステンレス製の調理台を反射的に力まかせに叩いた拳が、熱を帯びて震えていた。
 内からあふれ出した俺の唐突な怒りを前にして、伊佐木は一瞬慄いたように見えたが、すぐに同情するかのような笑みを浮かべた。
「お前の気持ちはわかるけどよ。そうそういねえもんな、あんな上玉は。お前もあれを手放すのが惜しいんだろ? でもあいつは俺のペットだから。今回は手、引いてくれな」
 話は終わったらしく、伊佐木が俺の肩を叩こうとした。その手が肩に触れるよりさきに手で払いのける。
「さわるな」
 床を見ながら発した声は、ほとんど音にならなかった。伊佐木は笑いを含んだ声で、悪いな、と一言告げて去っていった。
 寒気がした。身体自体が冷えているわけじゃなくて、心の芯が凍ってるみたいに震えている。
 自分が見ている郁の人柄と、伊佐木の語るそれがまったく重なり合わない。妻子ある男のペットの役割に、志願してなるような人だろうか。
 腕時計を見ると、十時半を過ぎたところだった。俺は帰り支度をしてバイト先をあとにした。
 最後まで冷静でいられなかったことが悔しかったし、伊佐木に自分が同種の人間だと思われたことも癇に障った。でもそんなのはほんの些細なことでしかなかった。自分の大切な人が粗雑に扱われていることに純粋に腹が立ち、同時に悪気がないにしても郁をおもちゃのように扱う伊佐木がどうしても許せなかった。






恋香るひと(5)

 普段飲まないビール以外の酒の飲むペースがわからないらしく、白ワインを水のようにあおって郁はぐだぐだになっていた。飲み始めは香の話をペラペラしゃべっていたが、途中からは舌が回らなくなってきて、そんな自分がおかしいらしくずっと笑っていた。
 居酒屋を出るともうすっかり出来上がってしまって、上機嫌に夜道をスキップしている。酔っ払い特有の自分の能力を超えた派手なアクションにびくびくしつつ、怪我だけはさせないよう、後ろから郁を注意深く見ながらついていく。
 ジグザグ進む郁に目をやりつつ、やっと香の店の前にたどり着いてホッとしたのも束の間、俺の想像を上回る動きを見せた郁は、最後の最後にスキップの着地に失敗して前のめりになった。咄嗟に体の前に腕を出すと、ヨタヨタとふらついた郁がすがるように腕にしがみついてきた。
「大丈夫かよ」
「だめ~。全然だめ」
 埒の明かないことを言って、酒のせいで体温の高い額を肩口に押しつけてくる。どうしたものかと困っている俺の気持ちも知らないで、郁は目を瞑ったかと思うとムニャムニャ言って全体重を預けてきた。
「ちょっと、鍵どこよ? ここで寝んなよ」
「寝ない……」
 全然説得力がない。必死で睡魔に耐えている人が寝てない振りをすることはよくあるが、思いっきり目を瞑って体を委ねている状態で寝ないだなんてよくも抜け抜けと言えたものだ。声をかけ、軽く頬を張っても目は開かず、嬉しそうに笑うだけ。でもそんなたがが緩んだ締まりない顔が、死ぬほどかわいかった。
 誘った自分が悪いのか、がぶがぶ飲んだ郁が悪いのか。どっちにしろ、いまのこの状態はお互いにとって危険すぎる。
「ねえ……、ねえってば」
「んー?」
「俺、あなたのことが好きなんだよ?」
 警告しても返事はない。酔っ払い相手に告白なんて暖簾に腕押しだとわかっていたけれど、もういいかげん決定打をうっておかないと、酒ひとつで度々こんな無防備をさらされてはこっちの理性の糸が切れるのも時間の問題だ。
 冷たい冬の夜風が、二人のいる路地裏を吹き抜ける。足元で空き缶の転がる音がした。途端、肩にかかっていた重みがなにも無くなった。目の前の郁は二本の足でしっかり立っている。
「あれ? もしかして、いまの聞いてた?」
 突然体を起こしたこのおかしな態度は、俺の告白を聞いたからとしか考えられない。またいつもの唇を噛む困った顔をさせてしまうだろうか。俯く郁の表情を確認しようと覗きこんだら、俺の視線から逃れるように背中を向ける。突風になびく黒髪の隙間から見えた後ろ姿の耳たぶが、酔っているにしても赤すぎた。
「俺は……、あ、あの―」
 消え入りそうな郁の声に耳を立てていると、背後から自分を呼ぶやけに陽気な声に邪魔された。
「あれ? 岡野か? お前なにしてんだ、こんなとこで」
 振り返って、暗い路地に立つ大きなシルエットに目を凝らす
「…………伊佐木さん?」
 大股で近づいてきたその彫り深い顔の持ち主は、俺のバイト先である居酒屋の副店長、伊佐木だった。
「今日はバイト休みか? なぁにやってんだ、こんな裏通りで」
「痛てっ」
 力任せに背中をはたかれて空咳が出る。悪気のないスキンシップだとわかっているが、伊佐木のこの加減の知らなさが恨めしい。
「あれ? 郁と一緒じゃねぇか。なに、お前ら知り合いか?」
「えっ?」
 驚いて背後を振り返ると、さっきとは一変、青ざめた顔をした郁と目が合った。
「ああ、知り合いで―、うわっ」
 伊佐木に説明しようとすると、突然郁が俺の腕と脇の間をすり抜けて、二人の間に体で割って入ってきた。
「か、彼は、うちの店を手伝ってくれてるだけの人です。そう、あの、土日だけ」
 だけの人。確かに郁の言ってることに偽りはないが、その愛のない説明に肩からスコーンと力が抜ける。
「あのお二人は……」
 知り合いですか―? 
 こっちを振り返りもせず郁が伊佐木に尋ねる。徐々に萎んでいったその語尾は、虫でも聞きとれないくらいに小さかった。
「ああ、岡野は俺んとこの居酒屋のバイトな。俺なんかより働いてる期間がむちゃくちゃ長いよな、三年だっけか」
 ギャハハ、と天を仰いで笑った伊佐木の声は、静かな夜の路地に不自然に響き渡った。
 知り合ってからずいぶん経ったいまは彼が根っからの悪人ではないことがわかったが、いまだこの空気の読めなさは受け入れられずにいる。
 バイト先の店長と学生時代の友人らしい伊佐木は半年ほど前、突然店に現われてそこから副店長としてフロアの責任者を務めている。なにか弱みでも握られているのか、信頼のおける店長の人選とは思えない不真面目な男の採用に、その当時の居酒屋はざわついた。いまでもそのテキトーさとサボリ癖のせいで伊佐木のバイト内での評判はすこぶる悪く、彼が唯一店に貢献していることといえば、悪意を一人で担って周りを団結させ、アルバイト達の士気を高めていることくらいだろう。そういう意味では店にとって必要な存在なのかもしれないが。
「あの、今日は帰ってもらえませんか?」
 風が一瞬止んだ静寂の暗闇に、郁の頼りない声が吸いこまれていった。まっすぐ伸びた華奢な背中が、寒さのせいか小さく震えて揺れていた。
「なんだ? まあいいけどよ。じゃあ今日は引っ返すわ。また来るな」
 手を上げた伊佐木に、俺は軽く会釈を返した。目の前の郁はなにも言わず動かない。去っていく伊佐木の姿が闇に溶けて見えなくなっても、郁の背中は微かに震えたままでなにかアクションを起こす気配はなかった。
「伊佐木さんと、知り合い?」
 二人だけの気まずい沈黙に堪えきれず、なるべく不自然にならないように明るく尋ねたつもりだが、郁からの答えはなかった。
 伊佐木が現われてからの郁の不自然でぎこちない態度が気になる。夜遅くに連絡もせず家を訪れるというのは、二人の間にある程度の親密さがないとできないことだ。
 郁が以前付き合っていた男というのは、伊佐木なのではないだろうか。ふと頭にちらついた邪推をすぐさま払拭する。事実は当人の口からしか知らされないことだ。
 しかしいくら待ってみても郁は俺の質問に答えなかった。じっと動かずにいるその後ろ姿を眺めていると、しばらくしてゆっくりとこっちを振り返った。
 背景の闇に浮かび上がったその顔は、紙みたいに白かった。
「どっか、具合悪い?」
 そう尋ねずにいられないくらい。
 首を横に振って否定したあと、郁は抑揚のない声で、独り言のように呟く。
「明良は、もうここに来るな」
 しつこいくらいに通い詰めた始めのころ、何度も言われた言葉だった。だけどまっすぐ矢のように胸に突き刺さったのは今日が初めてだ。それくらい表情と声音に拒絶が現われていた。
「俺、なんか郁に嫌われるようなことした?」
 問いかけてしばらくしても返事はない。まっすぐ俺に向けられていた小さな頭が、時間をかけてゆっくりと垂れていくだけだった。
 尋ねても答えないため郁と伊佐木との関係はわからないし、なにが原因でこんな事態になったのかもわからないし、その修復の方法なんてもうさっぱり見当つかない。
 好きとはっきり告白したらもう来るなと言われ、質問しても答えない郁相手の八方塞がりの状況を、自分ひとりで打破する方法が見つからない。ここまでの拒絶を示されたんだから、これがいわゆる、引き際というやつなのかもしれない。
 目の前の郁を見る。力なく首を垂れる姿は、いつもの郁よりさらに小さく見えた。
 『もうここに来るな』というのは、本当に望んで言った言葉なのか。郁は本気で、もう俺に会いたくないと思っているのか。
 少しずつだけど笑う回数が増えて、遠慮がなくなって、自分のことを話してくれて、ついさっき想いを伝えたら真っ赤になって―。
 短い期間に起きた、緩やかだけど奇跡みたいな郁の変化を、俺はこの目でしっかり見てきた。嘘の下手くそな不器用な郁の真意を、ちゃんと確かめるまではあきらめられない。
 それになにより、郁との関係を俺自身がどうしても手放したくなかった。
「とりあえず、今日は帰るけど」
 吐いた白い息が、俯いた郁の頭上で消えた。
「あなたが嫌でも、俺はまた来るから」
 どこかで聞いたセリフだな、と思うそばから、自分が郁に言ったんだと思い出す。
 たいがい俺もしつこい男だと考えてふっと笑ってしまった。息の漏れた音に気づいて、郁がそっと顔を上げた。目が合うとすぐさまその顔は背けられる。
 一瞬だけ目が合った、目元を潤ませて泣きそうに歪んだ顔も、驚くほどに美しかった。





プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
BL小説投稿生活中。ブログ内の文章の転載を禁じます。

カテゴリ
むらびと
ランキングに参加しています!にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説へ
にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説家志望へ
にほんブログ村
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文: