白に混じる幸福(4)

 久保田先生が帰ってくる、という噂が数日前から院内で流れていた。
 心臓外科医である久保田千尋は、プライベートの時間も『先生』と呼ばれることを望む人だった。
 だから静は久保田と付き合っていた一年間、一度も彼を名前で呼んだことはなかった。それは、セックスの最中でも、だ。
 今から五年前、静は看護大学を卒業し、この総合病院で勤務することになった。二十二歳だった。久保田はその頃まだ三十代後半だったが、心臓手術に不可欠な手技の速さと確かさを持っており、院内では若くして名医と呼ばれていた。
『君って、ゲイでしょ。見ているとわかるよ』
 まだ仕事に就いて間もない頃、ほとんど接点のなかった久保田にそんなふうに声をかけられ、静はすごく驚いた。違います、と答えようとしたのだが、声は出なかった。
 その頃の静は、自分がゲイだという自覚がまだなかった。二十二年間の人生で誰かと付き合ったことはなかったが、このさきいつか女性と結婚するのだろうと漠然と思っていた。
 だけど久保田にゲイだと指摘され、ハッとした。今まではっきり意識していなかった感覚が急に研ぎ澄まされ、過去にぼんやり感じていた男性に対する欲求が一気に強烈なものとして脳内に降りてきた。
『わたしもゲイだから気づいたんだ』
 久保田は言った。お仲間だな、と。
 それで静は、久保田と付き合うことになった。その流れは不自然でなく、むしろスムーズでなんの躊躇もなく、その会話を交わした夜には身体の関係になっていた。
 その時の自分の気持ちを静はよく覚えていない。どうして恋愛経験ゼロの自分が、よく知りもしない久保田を受け入れようと思ったのか。魔が差した、というには、一年の交際期間は長すぎる。だけど久保田のどこを好きだったかと聞かれると、今でもやっぱり静は答えられない。
『きみは男なら誰でもよかったんだ』
 久保田は事あるごとに言った。でもそれはたぶん、事実だ。
『淫乱で、変態だからな』
 いつも病院の中では穏やかで優しい久保田先生が、静と二人きりの時は冷酷で非情だった。付き合い始めのころはその落差を恐ろしいと感じたが、月日が経つのと性行為が過激化していくのにともなって、恐怖心のほうは徐々に麻痺していった。
 初めは目隠し程度だったのが、鞭やロウソクを使われるようになり、縛られ、吊るされ、痛いことはだいたい経験した。道具と性器を二本同時に挿入されることもしょっちゅうで、痛みしか感じない中、まだ足りないのかと嘲笑われた。
『気持ちいいんだろ、きみはこうしないとイケないんだからな』
 付き合いの最後のほうの行為では、久保田はそんなことを言って両手で首を絞めてきた。この場面で久保田の発言通りイケないと彼を不機嫌にさせ、さらに過激なことをされることはそれまでの経験でわかっていたので、静は目をつむったまぶたの奥で快楽とはなにか、必死で考えながら腰を振っていた。
 普通じゃなかった。異常な関係性だった。静はそのことに、別れたあとで気づいた。
 付き合い始めてちょうど一年後の春に、久保田の渡米が決まった。ニューヨークにある大学病院で最新医療を学びつつ、さらに手技の精度を上げるための転職だったらしい。
 久保田からの相談なんてものはいっさいなかった。前日に報告だけされ、ほとんど捨てられた形での別離だった。その頃の静は身体も心もぼろぼろだったため、久保田から解放されたことに内心ほっとしていた。
 交際していた一年間、いつも言われてきた。自分は価値がない人間なのだと。医師である久保田とは雲泥の違いがあると。淫乱で変態の薄汚れた身体を抱いてやってるんだからありがたく思え、と。

 今でもその時の感覚が染み付いている。久保田に与えられたほとんど快楽といえない苦痛の数々、何度も繰り返された罵詈の一言一句が、ひとつも消えることなく静の内部に潜んでいる。
 だけどそれはすべて、静が自分で選んだことだった。誰かに命令されて久保田と付き合ったわけじゃない。今でも時々考える。どうして捨てられるまで久保田を受け入れ続けたのか、自分から彼を突き放さなかったのか。未だに答えは出ていない。確実にわかることは、静自身が選択したということだけ。こんなに汚れてしまったのは、誰のせいでもない。
 異常な状態のさなかにいる時は不思議なもので、それが正常のような気がしていた。ゲイを自覚した直後、相手が男であるというだけで受け入れ、苦痛の中にある微かな快楽を与えられ続けた日々。
 病院の白を、夜勤明けの朝の光を、四月の真新しい空気を、まぶしいと感じ目を背けるようになった時、静は自分が汚れてしまったのだと知ることができた。
 そんなふうに自分が汚れていても、人に不愉快な思いさえさせなければそれでいいと思っていた。今まで通り仕事に打ちこみ、人との交流をできるだけ避ける。変態だと知られて誰かを気持ち悪くさせないように、目立たないように、静かに生きていく。それで問題がなかった。
 あいつに、須田に、出会うまでは。


 六月に入ると新人看護師たちもだいぶ仕事を覚えて動けるようになり、病棟内はすこし落ちついてきていた。
「日が長くなったよね」
 とりとめのない会話をしながら、日勤の帰る時間が一緒になった先輩看護師と職員通用口から外に出ようとした時だった。
「あ、待ち伏せされてるよ」
 静のシャツの裾を掴んだ先輩が後ろから、笑いを含んだ声で耳打ちしてくる。扉のすぐ外に、長身の長い影が伸びていた。
「しかし静くんに懐いたよねぇ、須田くん」
 しみじみとそんなことを言う先輩看護師を振り返り、静は否定した。
「懐いてませんから」
「そう思ってるの、静くんだけだよ」
 くすくす笑いながら先輩は、でもちょっとうらやましいな、と口をとがらせる。
「やっぱ男の子同士だからかなぁ。たった二か月足らずでこんなに仲良くなれちゃうのって。私たちも静くんと仲良くなりたかったけど、全然心ひらいてくれなかったもんねー。みんな仲良さそうな二人見て、羨ましがってるんだよ」
 恨みがましい目つきでにらまれて、静は、え、と素っ頓狂な声をあげた。
 看護師仲間たちは暗く無口な自分に嫌気が差して離れていったと思っていたが、実際はそんな静の想像とはすこし違っていた。
「でもまあ、職場内に仲間がいることはいいことだからね。男の子同士で話しやすいだろうし、いろいろ相談できるし、困った時は助け合えるし」
「そんな関係じゃないですから」
「はいはい」
 適当にあしらわれるとそれ以上否定することもできなくなって、そのままおつかれさま、と挨拶を交わして先輩とは別れた。外に出ると夕日を浴びてやわらかな色に染まった須田が、静を見つけて声をかけてくる。
「静さん、おつかれ。一緒に帰りましょう」
 その声が聞こえたのか、バス停に向かっていた先輩が振り返って笑った。やっぱ懐いてるじゃん、と言いたげなその目線から気まずげに目を逸らし、静はひとり歩きだす。
「静さん、おなか空いてません?」
「空いてない」
「うそだー。今日昼早かったじゃん。絶対ペコペコでしょ。今から飲みに行きましょうよ」
 一緒に帰ることをまだ了承していないのに追いかけてくる須田と、腹が空いてる空いてないで言い合いを続けているうちに、空腹感はどんどん膨らんでいく。
「静さんってお酒は飲みます?」
「腹が膨れない程度には飲むこともある」
「ああ、食事がメインなんだね。静さんらしいすね」
 静さんらしいとか、なにもわかってないくせにわかってるような言い方をするな。悪態を心の中だけにおさめたのは、もうしゃべるだけでもカロリーを消費してさらに腹が減りそうだったからだ。
「近くにすごく安くて料理のうまい居酒屋さんがあるんだけど」
「行かない」
「そこの手羽先の甘辛揚げがうまいんすよ。ビールにも合うし、たれの味で飯もいけるし。あと、〆に卵かけご飯も出してくれるの。新鮮な卵に甘めのしょう油かけて食うんすけど、それがまた絶品なんすよね~」
 よだれが垂れかけてハッとしたところで、うしろを歩いていた須田が静の一歩前に出てきて行く手を阻む。
「静さんって鶏とか卵とか好きでしょ。病院の食堂でよく食べてますもんね」
 よくわかってるじゃないか。
「行きませんか?」
「…………行く」
 食欲に負けた静が渋々応えると、須田は嬉しそうに笑った。

 須田がグラスに注いでくれたビールを半分だけ飲んだあと、静はひたすら食べ続けた。
 居酒屋は病院から歩いて十分ほどの場所にあった。細い路地を入った奥まった位置にあるため静は今までその存在を知らなかったが、狭い店内は平日なのに満席で賑わっている。
「本当においしいな」
「静さん、さっきからそれしか言ってない」
 ビールから焼酎に変えた須田が、ロックグラスを傾けて大人の顔で笑う。
 最近はめっきりすくなくはなったが、仕事帰りに同僚と飲んで帰ることもある。久保田と付き合っていた頃は、バーなどに立ち寄ることもあった。そんな時、腹が減っていても静は相手に合わせて酒を飲む。もちろんつまみにも箸は伸ばすが、今みたいに相手のペースを無視してご飯の盛られた茶碗を片手に本気で食べることなどしたことがない。静は人前なのにこんなリラックスして、相手に気を使わず、自分のやりたいように振る舞っていることが不思議だった。須田には知られたくないことがいっぱいあって、誰よりも遠ざけたい相手であるにもかかわらず、なぜか遠慮を忘れて気を抜いてしまう。
 おかわりしたご飯に生卵を落としてもらって、二杯目は卵かけご飯にした。もう何度目かわからない、本当においしい、を須田に伝えたあと、静はグラスに残っていたビールを飲み干して焼酎を注文した。
「自由だなぁ」
 そんな感想を漏らして、須田が愛おしげに見つめてくる。正面からの視線を受け止めきれず、静は運ばれてきたばかりの大きな氷が浮かぶグラスをくっと傾けた。
「仕事、慣れたか」
「慣れたり、慣れてなかったりっすかね」
「なんだそれは」
「慣れた部分もあるけど、やっぱ難しいっすよ。人間相手だし」
 須田の口から弱気な発言が飛び出して、静は驚いた。それが顔に出ていたのか、オレにも悩みくらいありますよ、と苦笑される。
「患者と深く関わるぶん、こっちの気持ちの浮き沈みが伝わっちゃうというか。今日ちょっと機嫌悪いね、なんて言われてドキッとしたりして」
「須田に機嫌の悪い日なんてあるのか」
「静さん、オレのことどんな人間だと思ってます?」
 まじまじと見つめると、不貞腐れたような顔をした須田におでこを指で弾かれた。
「そりゃあプライベートでいろいろあった日には、ちょっとへこんだりしますよ」
「いろいろって」
「たとえば、好きな相手にわかってもらえなかったりとか、邪険に扱われたりとか、避けられたりとか、キスしたのにオレ以外がタイプとか言われてそのあと放置されたりとか?」
 自分に当てはまる具体的な例を挙げられて、静は須田から目をそらした。
「あ、困ってる」
 笑いの混じった声に、須田はやっぱりどこまで本気なのかわからないと思う。こんなことでドキドキしてるのは自分だけな気がする。
「とか言って。でもこっちの不機嫌なんて比じゃないくらい、患者はしんどい思いしてるでしょ? そんなこと覚られてる場合じゃないなって思います。オレもリハビリの経験はあるけど小さな怪我だったし、今健康なオレが今リハビリの必要な人の気持ちを百パーセント理解することって無理だけどさ。本人にしかわからないつらさがあると思うから。でもその気持ちに近づきたいってやっぱ思います。時々想像するんです。身に染みついてた機能が突然失われて、まっさらな状態になるってどんな気持ちなんだろうなって」
 ほとんど独り言のように呟いて、須田はひらいていた手のひらをゆっくり握りしめた。指を動かすことなんて意識しなくてもできる。でもそれがある日できなくなったら。
 怖い、と思う裏側で、静はどこかうらやましい、と思ってもいた。まっさらに、なにもなかった状態にリセットできたら、どんなに幸せだろうと。
「…………いいな」
「いい?」
 ぼそっと呟いた言葉を拾われて、心臓がどくんと跳ねた。
 患者の気持ちに寄り添いたいと考えている須田の前で、自分はなにも考えず、ひどく不謹慎な感想を漏らしてしまったことで嫌な汗が噴きだしてくる。
「僕には、忘れたいことがあって……。それで、身に染みついたものをまっさらにできるってうらやましいなって、思ったんだけど」
 言い訳みたいに説明を始めてはみたけど。
「ごめん。そんな話じゃないよな。病気や怪我で苦しんでる人をうらやましいとか、不謹慎なこと言った」
 医療従事者として、ひどい失言だ。突っ伏すように頭を下げると、いいじゃん、と軽い調子で須田がテーブルを指先でとんとん叩く。
「別に公の場で発表してるわけじゃないんだし、オレしか聞いてないんすよ?」
「でも」
「好きなこと話そうよ。オレは静さんに話を聞いてもらいたいし、それで静さんがオレの話の中のなにかに引っかかって、思ったままを口に出してくれるのは純粋に嬉しいです。思いついても言わないでおこう、って考えるよりさきにしゃべっちゃったってことでしょ? 酒が入ってるせいかもだけど、オレに気を許してくれてる感じがして嬉しい」
 おずおずと顔を上げると、目の前の須田は本当に嬉しそうな顔をしていた。一気に気が抜けて、詰めていた息が漏れる。自分は須田に気を許しているのだろうか。きっとそうなんだと思う。
「静さんの忘れたいことって、なんすか?」
 なんでもないことのように、須田が尋ねてくる。今までずっと、過去の失敗や汚点をすべてなかったことにできたらどれだけ幸せだろう、と考えていた。自分の汚れを自覚するたび、汚れる前の白い状態に憧れを抱いていたけれど、今すこしだけ、須田に自分の過去を打ち明けたいと静は思い始めていた。
 純粋だった頃の自分でなく、今の汚れた状態の自分を知ってほしい。その上でいつか須田に認められたいだなんて、都合がよすぎるだろうか。こんな願望を人に抱くのは、初めてのことで戸惑ってしまう。
「いつか、話してね」
 まっすぐ見つめてくる須田を見つめ返す。自分の過去を須田と共有したい、とはっきり思ってしまった。
「あ、そうだ、忘れてました。オレ静さんにひとつ、罪を告白しなきゃならないんだった」
「罪?」
「実はオレ、盗みを働いてしまったんすよ」
「は? なに言ってるんだ」
 唐突に須田が笑顔で可笑しなことを言いだすので、静はなんのことかわからず首をかしげた。
「あ、でも盗んだものの代替品はちゃんと用意しましたから」
「なんのことだよ」
「いつかわかると思います」
 そう言ってくつくつ笑いながら、須田はグラスを空にした。

 その後、二人で焼酎をもう一杯ずつ飲んでから居酒屋を出た。
 外は小雨がぱらついていた。雨の中行こうとする須田を引き止め、鞄にいつも入れている折り畳み傘を手渡す。
「静さんも一緒に入って」
 腕を引かれ、須田の隣に並んだ。ひとりでも窮屈な傘に、二人で無理やり入って駅までの道を急ぐ。ほとんど差していないのと変わらないような濡れ方をしたけれど、二人とも傘を言い訳に密着したまま離れなかった。
「和真?」
 どこかから女性の声がした。暗い路地の前方からカツカツとヒールの音が近づいてくる。
「え、あ、安奈さん?」
「やっぱり和真だ」
 須田に安奈さんと呼ばれた女性は、姿がわかるくらい近づくと小柄で化粧気がない人だった。だけど目鼻立ちがはっきり整っていて、はつらつとした華やかな印象がある。彼女は静に向けて小さく会釈をしてから、須田の二の腕に触れた。
「ここでなにしてるの? もしかしてあの店行った帰り?」
「あ、バレました?」
「やっぱりね。この路地、店から駅までの近道だもんね。って実はあたしも今からひとりで行こうとしてたとこなんだ」
 笑いあう、気安そうな二人から静はすこし離れた。須田と入っていた傘から外に出てみると、雨はすでに止んでいた。二人の話を聞いていると、あの居酒屋は元々安奈の行きつけだったことが知れた。彼女はどうやら同じ病院に勤める理学療法士で、須田の先輩のようだった。
「彼女、森橋安奈さんです。オレ今仕事二年目なんすけど、新人だった去年一年間、安奈さんにずっとついて教えてもらってたんです。本当にいろいろ勉強させてもらって」
「そうだったんだ」
 須田に紹介された安奈は、ヘヘッと照れ笑いした。
「まぁ和真は一年目から優秀だったから、ほとんどあたしが教えることなんてなかったけどね」
「またまたぁ」
 褒め合ったり、担当していた患者のその後を報告し合ったりして、二人はしばらく共通の話題で盛り上がっていた。
「じゃあね」
「おつかれっす」
 別れる直前、今度は一緒に飲みに行こうね、と安奈が言って二人は約束を交わしていた。須田に行きましょう、と促され、頷きつつも静はそっと振り返った。数歩先で立ち止まっていた安奈と目が合う。彼女はさっきまで須田と笑い合っていた女性とは別人のような、感情の見えない真っすぐな目で静を見ていた。




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B王子様に出しました!


こんばんは
今日〆切のB王子様に、長編・短編の2作を投稿しました。


長編のほうは、ルチ〇様の随時募集に送ったものを改稿したものです。
原稿用紙で270枚、投稿書式で102枚。初のSF? タイムスリップものです。
前回投稿した時から3ヶ月ほど経って読んでみたら破たんがボロボロ見つかって、全体を大幅に変えました。しかしこれもまた時間をおくと新たな破たんが見つかるのでしょうね…(遠い目)

短編のほうは、闇期(書けない時)にプロットも作らず好きなように書いていたものです。
原稿用紙で59枚、投稿書式で23枚。エロなし、放尿ありの大学生ものです。

秋の結果発表までのんびり待ちたいと思います。
B王子様に投稿されたみなさま、おつかれさまでした!


そして今ブログで週末ごとにUPしているお話の批評シートが、カカオ様より私のところにも届きました。
暴食で荒れていた胃にぐっと拳をねじこまれるような厳しいご指摘がありましたが、思い当たるふしがあるゆえの痛さだったので、もうこれからはどんなタイミングでの批評も万全の体調で受け止めるため、食べすぎにはくれぐれも注意していきたいところです。
こちらの批評シートは、お話が終わり次第公開したいと思います。



では週末ですので、のちほどブログ更新します。よろしくお願いします。





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白に混じる幸福(3)

 術後の経過が順調で、傷口をふさぐガーゼが日に日に小さくなっていく。体を切った直後は痛みと熱で食事も睡眠もままならなかったのが、今ではぐっすり眠ったあとの朝食の薄味に文句も言えるくらい元気になった。そんな患者の快復していく変化を見るのが、看護師という仕事をしている上でいちばん幸せだと静は思う。
「おしまいです」
 ガーゼ交換のあと、全身の清拭をして新しい寝衣に着替えさせた老年の患者が、嬉しそうに静を見た。
「やっぱり静ちゃんがいちばんだぁな。丁寧だし、気ぃつかってくれるし、優しいしさ」
「なんですかそれ」
「女はだめよ。顔はニコニコしよっても、腹でなに考えてるかわからんから」
 処置を終えてベッドの仕切りカーテンをひらくと、四人部屋のほかの患者たちも聞き耳を立てていたのか、話に入ってくる。
「そうそう。俺ぁこの前、新人の女の看護婦さんに体拭いてもらったんだけど、着替える時に腕引っぱられてちぎれそうになったんで」
「痛いって言っても、ごめんなさぁい、我慢してくださいねぇ、とかぬかしやがる。女は誠意が足りんのよ」
「新人は新人でも、あの男はよくやってくれてるぞ。ほら、この前ここの戸で顔ぶつけて鼻血出しよった」
「須田、ですか」
 静が名前を出すと、須田のリハビリを受けていない患者までもがそうだそうだ、あいつはいい男だ、と同意しだす。
「まだ新人だけど勉強熱心でな。あいつは闇雲に明るいだけじゃないよ。思うとおりに体を動かせんワシの気持ちを理解しようとしてくれてる。そういうのが伝わってくるから、こっちもリハビリ頑張ろうって思えるのよ」
 思わぬところから須田の評価を耳にして、静はなぜか胸がじいんとなった。患者との接し方にも人間が出る。リハビリの仕事は看護師以上に患者と深く関わっていく。人が好きでないとできない仕事だ。理学療法士は、裏表のない須田に向いているのだろう。
「なに静くん、ニヤニヤしてめずらしい」
 ナースステーションに戻ると、先輩看護師に指摘されて静はゆるんでいた表情を引き締めた。自分でもなにがそんなに嬉しいのかと思う。自分とは関係のない須田が褒められただけだというのに。
「ちょっといい加減にして、あなた」
 突然、怒りをまとった主任の声が響き、ステーション内の空気が一瞬でピリッと固まる。
「できない、じゃないの。やってちょうだい」
 嗚咽を隠しきれないくらい泣きじゃくっている女性の新人看護師に、主任は慈悲もなくそう言い残してステーションを出ていった。主任の姿が見えなくなると十秒ほどざわざわとした空気が流れたが、その後はみな自分の業務に戻っていく。今日は月曜で朝から新たな入院患者が入ったり、ベッド移動があったり、検査が多かったりで、誰もが人を手助けするような余裕がなかった。
 いつもは助けてくれる先輩たちが目も合わせてくれないのを見ると、新人看護師はさらに目に涙を溜めた。静も自分の仕事があったが、そんな状態の彼女を放っておくわけにはいかない。
「どうしたの」
 通路の邪魔になっている彼女を移動させ、尋ねると、すこしホッとした様子で事情を説明してくれた。数日前に一度失敗した同じ患者の、点滴のルート確保が怖くてできない、という話だった。
「今日は僕がやるから、隣で見てて」
 彼女と一緒に準備をして病室へ移動する。その男性患者はまだ四十代と若く、血管も太く柔らかそうで、静脈を見つけだすルート確保が難しくはなさそうだったのだけど。
「絶対失敗するなよ」
 彼はきっと一度目の時も同じことを言ったのだろう。針を見た直後に発せられた患者のひとことで、彼女がプレッシャーによって恐怖を感じているのだとわかった。
 一発で針を刺して点滴を通し、病室を出る。ナースステーションに戻る途中、うしろを歩く新人看護師にそっと声をかけた。
「ああいうこと言う人たまにいるけど、気にしなくていいから」
「はい……。静さんくらいになると、もうどんな状況でも失敗しなくなるんですか?」
 自分くらい、と言われるほどに経験を積んでいるわけではなかったが、その点は指摘せず、あるよ、と答えた。
「たまに外す」
「ほ、ほんとですか。そういう時、どうするんですか?」
「謝る」
「それだけ、ですか?」
「うん」
 難しく考えすぎている彼女に、静は自分の失敗談を聞かせた。
「新人の時、強面の患者さんに三回刺して失敗して、殴られたこともある」
「な、殴られちゃったんですかっ」
「うん、女の子は殴られないから羨ましい」
 男は相手が同性だと容赦しないのだと教えると、彼女はふふ、と後ろで小さな笑いをこぼした。
「どんな立派な看護師も失敗した経験があって今があるんだと思う。辛いことも多いけど、やりがいもあるから。困った時は声かけて。出来る限りのことはしたいと思ってるから」
「……はいっ」
 芯のある返事を聞いて、振り返り、彼女の顔を確認する。涙のあとのきらきらした目で見つめてくる新人看護師とその場で別れ、静は自分の仕事に戻った。


「静さんって誰にでも優しいんですね」
 午後三時。食堂ですっかり遅くなった昼食をとっていると、休憩でコーヒーを飲みに来た須田がテーブルの向かいに座った。
「なんだそれ」
「内田さんから話聞いたんすよ。静さん、さっきフォローしてあげたでしょ。彼女と廊下でばったり会って、泣き腫らした目でニコニコ笑って歩いてるから何事かと声かけたら、仕事で困って泣いてる時に静さんに助けてもらっちゃったって、自慢されました」
 それを自慢と受けとる須田はどうかしてる。静は黙々とざるそばをつゆにつけてすすりながら、須田は女性看護師の新人とちょっとしたことで声をかけ合うくらいに親しいんだな、とか考えている自分もどうかしてると思う。
「僕は優しくない」
 そばを平らげたあとは、チキン南蛮定食、小鉢のとろろ納豆と白和えとほうれん草まで、テーブルに並べたすべてを食べきってから静は訂正した。あまりに間が空いていたため須田は一瞬ほうけたような顔をしたが、静の言ってる意味に気づくとなぜ、と反論してきた。
「静さんは優しいですよ。いろんな人から話聞くもん。仕事ができる、気を使える、優しい人って、誰からの評判もいいですよ」
 裏でなにをこそこそ聞きまわってるんだ、と頭の片隅で非難しつつ、まっすぐ見つめてくる目から目をそらして、静も反論した。
「それは僕が、いい人の振りをしてるから」
「振り?」
「僕はいい人じゃないから、いい人の振りをしてる。優しくないから、優しく見えるように努力してる。悪人が善人ぶってるだけだ」
 いつも気をつけている。できるだけ自分の汚れが露呈しないように、目立たないように、誰の目からも変態であることを隠すように。人と接する時はそのことだけを考えている。
「みんなそうだよ」
 ひどくそっけなく告げられた須田の言葉に、静はうつむいていた顔を上げた。
「根が優しい人なんて、ごく一部なんじゃないすか? みんないい人に見られたいとか、人に好かれたいとか、いろんな理由で人に優しくしてるんじゃないかな。少なくともオレはあなたを見ていて優しいと感じるし、静さんの周りの人たちもみんな静さんをいい人だと認識してます。人の目にそう映れば、もうそれが真実なんすよ。だから優しいんだよ、あなたは」
 言いきる須田にまた反論しようとしたら、手のひらを顔の前にかざされて止められる。
「あ、この考えは絶対譲りませんからオレ」
 目を細め、凄んだ表情で須田がにらみつけてくるので、気が抜けた。ふっと息を吐くと柔らかい気持ちがむくむくとこみあげてきて、こらえる余裕もないまま静はなんだか笑ってしまった。
「めったに笑わないけどさ、笑うとかわいいすよね、静さんって」
 目は細めたまま、表情をゆるめた須田がそんなことを言うので、漏れ出てくる笑いを引っこめたら。
「そうやって気持ち隠すの、やめたほうがいいよ」
 ありがた迷惑な忠告に、眉間に皺が寄る。
「あ、今、うるさい須田黙れ、って思ったっしょ」
 須田の言ったことが心の声とほとんどぴったり合ってたので、もう我慢できず噴きだしてしまった。笑顔を見られないようにランチトレイを須田のほうに押しやって突っ伏して笑った。
「あーなんかたまらん。静さんが感情豊かにしてるの嬉しいし可愛いしたまんないす」
「本当にちょっと黙って」
「やっぱりさっきも心の中で思ってたでしょ。オレの言ったこと当たってたでしょ」
「うるさい須田黙れ」
 声をあげて笑う須田につられて、静もテーブルに向かってクスクス笑い続けた。

「残業おつかれっす」
 業務が長引いて遅くなったその日の帰り、職員通用口を出た静を須田が出迎えた。無言で隣を通過すると、あーあ、鉄仮面に戻ってる、とぼそっと呟くので、静は昼休憩の時の名残でまたこっそり笑ってしまった。
「そういえば、患者さんがおまえのこと褒めてたよ」
 隣に並んだ須田のことは見ないで伝えると、え、と一音なのに喜んでいるのがまるわかりな反応が来た。
 昼間の患者たちとの会話を思い出して須田の評判を本人に教えると、素直に嬉しい、と言った。
「裏表がないのに評判がいい須田こそ、本物の優しい人なんじゃない」
 本音ではあったが、これを言うことで須田は調子に乗るんじゃないかと思ったら、意外にも否定の言葉が返ってくる。
「いや、オレこそ真の偽善者ですから。人は好きだし、本気で仕事に取り組んでるけど、いざ仕事を離れたところで患者さんたちに優しくするかって言われたらしないもん。仕事だから真剣に向き合ってるけど、プライベートではオレけっこう人に冷たいんすよ」
「嘘だ、優しいじゃないおまえ」
 須田は遠慮がないが、その大胆不敵な言動の裏には優しさが透けて見えたりするので訂正したら、だからさ、と甘い声が耳に吹きこまれる。
「それは静さんが相手だからでしょ」
「なにそれ」
「静さんは、オレがプライベートでも優しいと思ってもらいたい人ってことです」
「意味がわからない」
「あ、そのさ、意味がわからないっていうの、静さんの口癖ですよね。本当はわからないんじゃなくて、わかりたくないんすよね。そのことについて深く考えたくないんでしょ」
「おまえ本当うるさい」
「あー、静さんが無視しないで感情をぶつけてくれるようになったことが幸福」
 指で数えられるほどしか星の見えない夜の空を見上げて立ち止まる須田を置いてくと、怒った? と嬉しそうに尋ねながらすぐに追いついてくる。
「ちなみに昼間オレが食堂で、静さんに優しいって言ったの、あれ内田さんに対する嫉妬から出てきた発言ですから」
 嫉妬。
 須田は、静さんは誰にでも優しいんですね、と言った。それが嫉妬だというのか。
「なんで男が男に嫉妬するんだよ」
 静は自分で言って可笑しくなった。まさに自分自身が男に嫉妬する人種であるというのに、非難めいた声を須田にぶつけているのが滑稽だった。
「静さんってさ、男はだめ?」
「なに言ってるんだ」
 うしろを歩いていた須田が隣にやって来て、真剣な声音でそんなことを言いだすから、心音がますます速まっていく。
 男がだめなんじゃない、男しかだめな自分。
 だけどそんなことを唐突に直球で尋ねられても、静のほうは正直に答えられない。
「男相手とか、気持ち悪いって思っちゃいます?」
「そう思うのは、須田のほうだろ」
 以前、デートに誘った女の子が少食だと嫌だ、と話していた。須田はそうやって今までに何度も女の子をデートに誘ってきたということだ。ああ嫌だ。こんなずいぶん前の須田との会話の中の、些末な一部分を覚えている自分の気持ち悪さに鳥肌が立ってきた。
「オレのほうは平気っていうか、むしろ積極的に静さんと交わりたいっていうか」
 右手が、右側を歩く須田の左手とぶつかった。偶然触れただけだと思ったそのすぐあと、指先をまとめてぎゅっと握られて、ただでさえ速すぎた心臓が爆発しそうになり、静はその場に立ち止まった。
「オレは今までは女性としか付き合ってこなかったけど、静さんだったら、というかもうそんな問題じゃないや。たぶんすでに落ちてるんだと思う」
 独り言のような伝える気のなさそうな須田の声が、うつむいたつむじの辺りに重くかぶさってくる。暗い夜道との境が曖昧な自分の真っ黒なスニーカーをじっと見つめていると、繋がれた手とは反対の須田の手が、うつむいた頬に触れた。こんなに激しくドキドキしている裏側で、須田の体温の高さに居心地のよさを感じている自分がゆるせなくなって、その怒りを須田にぶつけようとしてキッとにらめつけるように顔を上げたところで、キスされた。唇に。
 その唇もやっぱり温い、と感じたのは一瞬。
「…………っ、ぅ」
 驚いて口を開けそうになって留まる。抵抗もできないまま、だけど、気持ちいい、と意識しそうになる程度には長いくちづけだった。
「やらけー」
 キスの直後に感想とか言うやつはバカだ。とか心の中だけでも悪態を吐いていないと、顔がどんどん赤くなっていってしまう。今が夜でよかったと思う。
「ねえ、だめ?」
 甘い声で須田が尋ねてくる。男相手はやっぱりだめか、と問うてくる。
 正直に答える必要なんてなかった、と数分後には後悔していた。だけどこの時は突然のキスの興奮で体が火照っていて、内側からなにかを発散しないと沸点を超えて脳みそが爆発しそうだったから、静は濡れた唇を手の甲で拭って、須田をにらみつけながら告白してしまった。
「僕はゲイだから」
 ほとんどやけくそだった。
「ずっと男が好きだから。男相手に気持ち悪いって思わない」
 早口の声が上ずる。おまえみたいに女と付き合ったことのある人間とは違う。本物の男好きを見て幻滅するならしろ、とどこか傷つきながら思ってたら。
「マジで? ラッキー」
 軽くてのどかな声がして、指先を握る手にきゅっと力がこめられた。
 この男がどこまで本気なのかわからない。
 触れられた手を振りはらう。とにかく怖かった。
「でもだめ」
「だめって、オレがだめってこと?」
「そうだ」
「じゃあさ、静さんはどういう男の人がタイプなんすか?」
 タイプなんてない。自分はただ男が好きなだけ。男だったら誰だっていい。そう、淫乱で変態なんだから。
 あの人に言われた。何度も何度も。おかしな行為の最中に植えつけられた言葉が頭の中をぐるぐる回る。
「カッコいい人? 優しい人? 面白い人?」
 誰だっていい。
「須田以外」
「はい?」
「須田以外の人がタイプ」
 とにかくおまえはだめだと伝えたかった。この言葉で須田を傷つけることは確実だったけど、手段を選ぶ余裕が静にはなかった。
 そしてこの発言で、須田を傷つけると同時に嫌われることになる。最悪の方法だけど、彼を遠ざけることができるんだからこれでよかったんだと自分に言い聞かす。嫌われることに怯え、傷つけることに傷つき、ほかに幾らでも人との距離を取る方法なんてあるはずなのにそれを思いつけない自分の対人スキルの低さに嫌気が差す。
 よく知りもしないくせに、白衣の天使だとか過大評価をして距離を詰めてくる須田が憎い。だけどそんな須田に惹かれ始めている自分の心が、いちばん憎い。
「どういうことすか、それ」
「言葉、どおりの意味だ」
 なにも持たない手が震えだす。さっきまで須田に握られていた手を、今はひとりきりでぎゅっと握りしめていたら。
「だとしたら、ひでー」
 須田は夜空に向かって言葉を放つと、腹を抱えて笑い出した。なんでひどいと言っておきながら、そんなに笑えるのか。本気で意味がわからない。
「でもそれって、すっごい意識されてる気がしますね」
 確かに。当たってる。須田のことをすごく意識してる。
 須田を意識し始めたのは、いったいいつからだろう。ふとそんなことを考えて時間を巻き戻し始めると、『名前、なんですね』と言った須田との最初の会話がぽん、と頭に浮かんで、まさかそんな出会いの頃から意識していたわけないだろ、とドキドキしながら静は自分の思いつきを否定した。
「おまえは僕を買いかぶってる。僕は須田が思ってるような人間じゃないから」
「オレが静さんのことをどんな人間だと思ってるか、わかってるみたいな言い方しますね」
「白衣の天使だろ」
「アハハ、やっぱ静さんおもしれーな」
 自分で言ってて恥ずかしかったが、そもそもそれは須田が言いだしたことだ。なにも間違ってないのにバカにされて言い返そうとしたが、今はそんな小競り合いをしてる場合じゃないと思い返す。
「とにかく、須田はだめ」
「はいはい」
 適当にあしらわれたことは納得いかなかったが、そもそも須田はそこまで本気でアプローチしているわけではないのかもしれないと思い直す。須田はきっと、いや絶対モテる。軽い気持ちで、その場のノリで口説いて口づけてみただけ、ということもありうる。
 自分だってまだ須田がどんな男かよく知らない。静はそう気づいたのと同時に、もっと知りたいと思っている自分を戒めた。




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白に混じる幸福(2)


 白色の壁に、ところどころ薄い葡萄色の染みが飛び散っている。それはもうすっかり乾いていて、血の匂いはしない。匂いがしないとは言っても、本当にそれが血のあとだという証拠はない。
 ただの噂だ。この仮眠室で昔、看護師が手首を切って自殺をしたという噂話。
 五年前、静がこの病院で働き始めた頃に先輩の看護師からその噂話を聞いた。その先輩も先輩から聞いたわけで、いったいどれくらい前に起きた出来事なのかもわからないようなあやふやな話なのだが、噂が流れてからずいぶん経つであろう今でも不吉だ、怖い、と言って、この仮眠室に近づく者はいない。たったひとり、静をのぞいて。
 長い夜勤の休憩時間、静はいつもこの誰も使わない、曰く付きの仮眠室を利用していた。
 ひっそりとした小さな部屋のパイプベッドに横たわる。ちょうど寝転がった頭の位置の隣、白に混じる点在した汚れをぼんやり見ているとほっとする。
 真っ白じゃない、今日もちゃんと汚れてる。葡萄色の染みを指先でなぞっていると、自分の中の汚れた部分と壁の染みが重なり合うような錯覚に陥り、だんだん眠気が襲ってくる。
 心地いい、夢かうつつかそのはざまで、扉を叩く音がする。セットした目覚まし時計じゃない音に起こされている、とはっきり気づいたのはノックが始まってからどれくらい経っていただろう。今までこの部屋に来訪者など一度もなかったから、その音が現実のものだと気づいた時には静はあまりに驚いて飛び起きていた。
「はい」
 返事をすると、ゆっくり扉がひらく。意外過ぎる人物が開いた扉から顔をのぞかせたため、静の上半身を支えるベッドについた左腕が、がくっと折れた。
「静さん、なんでこんな部屋使ってるんすか」
 首をすくめておずおずと室内に入ってくる須田に、静は寝起きの不機嫌を隠さず目をこすってうなだれた。
「なにしてるの、おまえ」
「なにって、近くで友達と飲んでて、まっすぐ帰ろうとしたんすけど、そういえば静さんと最近会ってないなぁってぼんやり考えて、もしかして今あの人、夜勤で病院にいるんじゃね? って思って勢いで会いに来ました」
 どうやら須田は酔っているらしい。それはわかった。しかし言ってる意味がわからない。
「勤務時間外にこんなとこ来てなにしてるんだよ、今すぐ帰れ」
 リハビリの仕事は日勤だけで、夜勤はない。
「嫌です。だって静さん夜勤が続くとなかなか会えないんだもん。あ、こっそり遊びに来たことはみんなに内緒すよ」
 須田がすごく真面目な顔つきで、唇の前に人差し指を立てている。
 シー、じゃないよ。この男はなにを考えてるんだ。
 鼻血のお礼の食事以降も、何度か昼を一緒に食べた。静は相変わらずしゃべらず、須田は相変わらず静の食事量に驚いていた。無口なつまらない自分をさらし続ければ須田は徐々に離れていくと考えていたが、まだその気配はなかった。だけど今日、須田のとったこの突飛な行動のおかげで、彼が自分への興味をまったく失っていないことに気づいて静は驚愕し、怖れた。
「それよりなんかこの部屋、寒くないすか?」
「寒いよ、霊がいるから」
 真顔で即答すると須田はヒッ、と情けない声を出して雷を恐れる子供のようにその場にうずくまった。室内に入ってきた時の様子から、須田も例の噂を誰かから聞いて知っていたのだろうとわかっていた。だから脅すことでここから出ていかそうとしたのに、うずくまったままなにやら鞄の中を漁っている。
「なにしてるんだ」
「んー……、この部屋怖いから、これ貼りましょう」
「なにそれ」
「さっきガチャガチャでとったんすよ」
 球状のカプセルをかぱっと二つに割って、須田はその中から取りだしたクマのキャラクターシールを白壁に貼りつけた。
「そ、そんな勝手なことしたらだめだろ」
「だいじょぶですって。この部屋どうせ静さんしか使わないんだからバレないバレない」
「はあ? そんな問題じゃないだろ」
 どうやら噂話とセットで、この部屋を使用しているのは静だけ、という情報も須田はすでに耳に入れているようだった。
 呆気にとられる静の隣で、酔っ払いは鞄から次々とカプセルを取りだし、壁にシールをペタペタと貼っていった。いったい何回ガチャガチャを回したんだ。葡萄色の染みの真上にさまざまなポージングを決めたクマが横一列に並べられ、殺風景な部屋の一部分が須田のせいで一気にファンシーな様相に変わってしまった。
「あ、いい感じ。これで怖くなくなりました。よかったぁ、一安心。また遊びに来ますね」
「は?」
 やりきった表情を見せて、須田は唐突に仮眠室を出ていった。酒が入った須田の拍車がかかった遠慮のなさに、静はしばらく閉じた扉を見つめて呆気にとられていた。

 須田は翌日も、静の夜勤の休憩中に仮眠室にやって来た。今日の須田の昨日と違った点は、シラフだということ。
「前にも一度言いましたけど、白衣の天使だと思ったんすよね」
 だけど須田はシラフでもやっぱりちょっとおかしいと、静は思う。
「初日の朝のミーティングの時、たくさん看護師さんたちがいる中で、唯一の男性である静さんがいちばん繊細そうでおとなしそうで綺麗で、あ、白衣の天使ってこんな感じかぁ、って思ったんです」
 ベッドに腰かける静の隣で、須田が延々静の第一印象について話している。自分のことを言われているのに相づちのひとつも打たず、静は夜食の弁当を食べたあとだというのに、須田が差し入れてくれたハンバーガーの三つ目に手を伸ばした。
「それがこれだもんなぁ」
 それがこれ。ため息まじりに須田が呟く。
 以前は見た目と健啖ぶりのギャップがいいと褒めてくれたが、やはり度が過ぎていると思い直し、須田は自分に落胆しているのかもしれない。そんなことを考えると、なぜか急に胸の辺りが苦しくなった。解いたばかりの三つ目の包み紙を元に戻して袋にしまう。
「あれ、もう食べないんすか?」
 つかえる胸をとんとん叩いて、静はペットボトルの水を飲んだ。
「甘いもののほうがよかった?」
 優しい声音で尋ねられ、静は隣を見た。須田は声と同じくらい、柔らかい表情をしていた。どうやら須田は食べすぎる自分にがっかりしているわけではなかったようだ。胸の中のつかえがすっと消えた。
「あ、ケチャップついてる。かわいい」
 静の頬に一瞬触れたぬくい指が離れていく。須田はそのケチャップのついた赤い親指を躊躇なく舐めた。
「だめ、だ」
「なにが?」
 顔が異常に熱い。
 須田がわけのわからない行動をとるから困る。須田が自分から離れていく気配を見せないから困る。
 だけどそんな須田の言動よりも、須田に冷たくされたと勘違いして傷ついたり、優しくされてほっとしたり、かわいいと言われてドキドキしている自分こそがだめだと思った。
 いったいなにを考えてるんだ。いつから須田にこんなふしだらな感情を抱いていたのか。
 静は自分の急速な心の変化に怯えて、頭を抱えた。
 男を見ると欲情する。きみは男だったら誰でもいいんだな。
 あの人に言われた言葉が頭をよぎって、静は青ざめた。
 こんな汚れた自分を誰より須田に知られたくないのに。白衣の天使なんかじゃなかった、と落胆されるのが怖い。一刻も早く須田に飽きられて距離を置かなきゃいけない。
 意図的に須田を自分から遠ざける。静はパニックになりながら唐突に決意した。
「須田くん」
「あ、呼び捨てでいいすよ。和真で」
「…………須田」
 一瞬、迷ってから呼び捨てると。
「あ、そっちね」
 ふっと吐きだした息に苦笑が混じっていて、あまり見ない大人っぽい感じの須田に新鮮さと魅力を感じている自分を意識してしまい、静の焦りがさらに大きくなる。
「もうここに来ないでほしい、迷惑だから。あと、昼食もひとりで食べたい」
 焦り過ぎていて須田への気づかいを忘れた。自分の希望だけを早口でオブラートに包まず伝えたら、須田の動きが一瞬止まった。傷つけた、と思う静自身がなぜか傷ついていたけれど、すぐさま須田は腰かけていたベッドに仰向けに転がって笑い出したので、静はもうなにがなんだかわからなくなった。
「な、なんだよ……」
「すごい、静さん、ド直球!」
 ゲラゲラ笑い転げている須田を上から眺めながら、静は呆然としていた。ひどいことを言ったのに、どうして須田はこんなふうに笑ってくれるのだろう。
「なんで迷惑なんすか?」
 尋ねられてハッとする。さっきまで大笑いしていた須田が、笑いは引っこめたものの、好奇心に満ちた目でこちらを見上げていた。
 なんで迷惑かって。それは距離が近くなると、自分の汚れた本性を須田に知られてしまうからだ。白衣の天使なんて言葉とは程遠い自分。今でも元に戻れるのなら、なにも知らなかった純粋で真っ白なあの頃に戻りたい。
「まあいいや」
 なんと答えていいかわからず固まっていると、須田が勢いをつけて上半身を起こした。
「オレはね、迷惑とか、平然とありのままに伝えてしまう静さんのことを、今すごく気に入ってるんです。だから迷惑だなぁって思いながらでもいいから、オレのこと近くにおいてくださいよ」
 笑いをふくんだ楽しそうな声で須田は言った。こんな陰気で取り柄のない男を気に入ってるとか、意味がわからない。困る。距離を離さなきゃいけないのに。そんなぐるぐる回る思考の裏で、心音が速まっていく。
 しばらく沈黙が続いた気まずい雰囲気の中、どこからか静の声が聞こえてくる。
「朝だ、朝だ、朝だ、朝だ――」
 同じ言葉が同じ調子で同じ音程で、延々と繰り返される。それを止めるまで。
 静が今、発声したわけではない。それは休憩時間終了の十分前にタイマーでセットしておいた目覚まし時計から流れてくる音だった。
「な、なになになに?」
 驚く須田の背後に手を伸ばして、目覚ましを止める。
「なんすか、今の『あさだあさだ』って」
「目覚まし時計」
「自分で吹きこんだの?」
「そう」
 もらいもののアニメキャラクターの目覚まし時計は、デフォルトで入っていたキャラクターの声があまりに高かったため、内蔵されていた録音機能を使って自分で声を吹きこんだ。『朝だ』のひとことだけを入れたため、自分の暗い声でそれが何度も繰り返されると滅入ってくるが、キャラクターの声の時みたいに音が大きすぎてびっくりしないことと、陰気な声を聞いていたくなくて早く止めることができる、という利点がある。
 貸して、と言われたので手渡すと、須田がせっかく止めた目覚ましをまた鳴らしている。じっとうつむいて聞いているのかと始めは思ったが、肩を震わせて笑っているのだと途中で気づいた。
「返せ」
「アハハハハ、『朝だ』がゲシュタルト崩壊しそう」
「おまえのせいで眠れなかったんだから」
 思わず恨み言が口をつく。人に対して激しい気持ちをぶつけることなどめったになかったため、静はそんな自分の暴走にまた驚いた。
「ごめんね」
 甘い声で謝罪されて、心臓がキュッと縮んだような錯覚を起こす。
 だめだ、と制止する思考と焦りは、須田に引っ張られていく気持ちに追いつけない。
「今度からはさっと来てさっと帰ります」
「もう来るなよ」
 無駄だと思いつつも伝えたら、須田は楽しそうに笑っていた。





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白に混じる幸福(1)


 四月の空気が苦手だ。
 職場に新人が入ることで、ゆるみかけていた一年がリセットされ、新鮮な空気が漂う。希望に満ちた真新しいものを見ると、まぶしくて目を背けたくなる。それはきっと自分が汚れているからだと、静は思う。
 ただでさえ病院の中は白が多くてまぶしい。
 院内にいると白色のものがしょっちゅう目に入ってくる。壁、天井、医者の白衣に、自分たち看護師が着用している制服も白一色だ。ここでは血や嘔吐物、排泄物で汚れたものはすぐさま廃棄、洗浄され、快適で清潔な白だけがいつも人の目につくようになっている。
「静くん、さっきはありがと。十号室のバイタルチェック行ってくれて」
「先輩、忙しそうだったので」
「ほんっと助かる。あー静くんのおかげで今日も主任に怒られなくて済むー。あの鬼主任、十秒の遅刻で十分のお説教垂れるんだもん」
 一年先輩の女性看護師は腕時計を確認すると、いつもサンキュ、と静の二の腕を叩いて速足でナースステーションへと向かった。静も、自分の腕時計に目を落とす。陽に当たる機会の少ない自身の腕の生白さにすら目がチカチカする、夜勤明け間近の八時四十分。朝のミーティングのちょうど五分前。
 総合病院の病棟看護師の仕事はハードだ。日勤と夜勤があるため生活のリズムは狂うし、患者の急変やわがままで簡単に残業とストレスは増えていく。男の静でも体力的にきつい時がある。女性なら、なおさらだろうと思う。

「ミーティングは以上です」
 朝のミーティング終了後に申送りノートを日勤の担当者に手渡す。夜勤の仕事はこれで終わり。そのままナースステーションを出ようとしたところで主任に呼び止められた。
「静くん、紹介するわ。彼、昨日から病棟のリハビリに来てくれてる須田和真くん」
 そういえば昨日出勤前の夕方に、新しいリハの人間がひとりこのフロアに来ていると誰かから聞いた気がする。
 小さくて丸っこい主任の隣に立つとスラリとした長身が際立つその男は、深く素早く頭を下げてから頑丈そうな白い歯を見せて、理学療法士の須田です、と名乗った。学生時代、絶対モテたであろう体育会系のさわやか青年という感じ。初々しさとこなれた感じが混じった印象で、とにかくただきらきらとまぶしい。夜勤明けのにごった目に一秒だって映していたくない、四月の空気をまとった男だ。
「静です」
 小さく告げ、こちらもそっと頭を下げると。
「名前、なんすね」
 言われた意味がよくわからず、聞き返す代わりに軽く目を合わせたら、須田は好奇心に満ちた目を静の名札に向けた。
「静朋史。変わった苗字ですよね。男の名前で静ってあまりいないし、苗字とは思いもしなかったからあだ名かと思いました。なんかおとなしい、静かな人っぽいから。あ、ほら、みなさんミーティングの時にあなたのこと静くんって呼んでたので、勘違いしたんです」
 人がおとなしいかおとなしくないか、会って間もないのになんでわかるんだ、とは思わなかった。すぐに露呈してしまう。静は自分が放つ暗い雰囲気を自覚していた。
 だけど初対面の人間に、そんなにこやかになれなれしく話しかけられてもなにを返せばいいかわからない。黙っていると主任が見かねたのだろう、苦笑いでフォローしてくれた。
「静くんはたしかにおとなしいけど、仕事はできるからね。あなたも女性看護師より男性のほうがいろいろ話しやすいでしょ? 患者や病棟のことでわからないことがあったら彼に相談して。静くんもわかることは須田くんに教えてあげてね。受けもつ仕事は違うけど、チーム医療でお互い協力していきましょう」
 二人の手首をつかんだ主任に導かれ、須田の手と手が触れる。陽に焼けた須田の手は、見た目の印象どおり触れると体温が高く、静の青白く冷たい手とは対照的だった。まるで自分が死んでるみたい。静は生きている人間の生々しさに触れた気がして身震いした。
「お世話になります」
 笑顔で告げられ、まぶしさから思わず目をそらす。小声でよろしく、とだけ返した。力強く握ってくる接触から逃げるように手を引き、静はふたたび須田と目を合わすことはせず、その場をあとにした。


 白が多い院内のまぶしさは苦手だが、静は看護師の仕事が好きだった。体力的にも精神的にもきついぶん、やりがいがある。だけど誇りは持っていない。自分のすることで人の命は救えないから。医者がいて初めて、患者は救われる。
 看護師は立派じゃない。男で看護師なんてやってるのは底辺の人間だ。自分が誰かを助けられるなんて思い上がるな。勘違いするな。
 今から四年前。約一年間にわたって何度も繰り返し吹きこまれた言葉はその後もずっと静の心に植わっていて、もう今じゃ自分の考えみたいにそこに存在している。
「痛っ、てー!」
 比較的近くから聞こえてきたその叫び声に、思考が途切れ、静の眉間に微かな皺がよる。声の主はこの四人部屋の病室内にいるのか、もしくはすぐ外の廊下か。
「誰の声だ?」
「……さあ、誰でしょう」
 術後のガーゼを交換していた患者からの問いに首を傾げつつも、静はその声が誰のものだかはっきりとわかっていた。
 声質が独特だからだ。音だけで判断すると低い部類に入る。だけど話し声に弾んだような抑揚があるせいで、声全体が明るい雰囲気をまとっていた。まあ、明るく感じるのは彼がよく笑うせいもあるかもしれない。
「なにかあったら呼んでください」
 ガーゼ交換を終えた患者に告げ、仕切りカーテンを開ける。と、病室の入口にうずくまっているさきほどの叫び声の主である長身の男を見つけて、静はひとつため息を落とし、そっと近づいた。
「どうかした?」
 かがんで声をかけると、のそっと、彼らしくない緩慢な動作で顔を上げ、涙目で静を見上げてくる。どのパーツも自分の1・5倍くらいありそうな、男らしく派手な顔立ちが今ちょっと間抜けに見えるのは、鼻からぽたぽたと血が垂れているせいだ。
「静さーん」
 母親に助けを求める幼子のような情けない声を出して、須田が今に至る経緯を話しだす。病室の、開けると自動で閉まる自閉式の引き戸を外から開けて、中に入ろうとしたら廊下から患者に声をかけられ、ひと言ふた言交わしたのち、開けたつもりでいた病室に入ろうとしたところ、自動で閉まっていた扉に顔面をぶつけたということだった。
「立ち上がろうとしたら頭くらーっとして。あぶねーって思ってしゃがんでじっとしてたら、今度は鼻血がぼたぼた出てきて、全然血が止まんなくて」
 立ちくらみがして鼻血が出るほどだ、どれだけ派手にぶつけたのか。
 医療用カートからティッシュを取りだし須田の鼻に軽く詰め、ガーゼを濡らして鼻の付け根を冷やす。静は須田の説明を聞きながらも着々と処置を施し、血液で濡れた須田の手と床をアルコールを含ませたナプキンで拭って、立ち上がった。
「二、三十分経っても血が止まらなかったら、先生に診てもらって」
「白衣の天使」
「は?」
「って感じ。静さん」
 しゃがんだまま見上げてくる須田からすーっと目をそらす。須田が突然恥ずかしげもなくおかしなことを言いだすせいで、頬のあたりが熱を持った。
「意味がわからない」
 そのままカートを押して病室を出たら、須田があとからついてくる。
「しばらく安静に」
「もう大丈夫っす」
「おまえ、八号室に用があったんじゃ……」
 どうしてついてくるんだ。扉に顔面をぶつけたことで、本来の用事を忘れてしまったのではないかと危惧したら。
「静さんが八号室に入ってくの見かけたから、追っかけたらこんなことに」
 振り返ると、ティッシュを詰めた自分の鼻を指さし笑う。通りすがりの女性医師が須田の顔を見てちょっかいをかけて去っていった。
 こういう男がモテるのかもしれないと、静はふと思う。完璧な容姿で完璧を求めないところとか、どこかちょっと抜けていて憎めないところとか。いつ会っても陰りが見えない太陽みたいに明るい男。自分とは違う世界の住人。まぶしくて苦手だ。
「僕になにか用?」
 追いかけてきたというのだから、質問でもあったのだろう。主任にチーム医療で協力してわかることには答えてあげて、と言われていたことを思い出す。
「お昼一緒にどうかなって思って」
 一瞬、自覚できるくらいに静の鼻の付け根に皺が寄った。
「もう食べたから」
「マジ? いつの間に」
 ふたたびカートを押して歩きだす。須田はまだついてくる。
「じゃあ明日は? 今日のお礼にごちそうさせてください」
 憂鬱。絶対嫌だ。ご飯くらいひとりで食べたい。そう思いながら曖昧に頷いた。付き合いの悪い人と思われることすら面倒だった。
 なつかれたくないけれど、悪目立ちもしたくない。ただそれだけの理由で、静は須田からの誘いを断らなかった。


「え、静さんそんなに食うんですか?」
 メインの親子丼と冷やし中華のほかに小鉢を三つ、隙間なく詰まった静のランチトレイの中身を見て須田は驚愕している。
「食べないと午後がもたないから」
 財布にきびしいと文句を垂れるくせに、静が自分で支払うと申し出れば、これはお礼で約束だから、と須田は頑として譲らなかった。
 昨日、鼻血の処置のお礼にごちそうさせてください、と言われ頷いたけど、その約束を静はできれば現実にしたくなかった。だけど早めの昼休憩のためにこっそりナースステーションを抜けだしたところで、須田に捕まってしまった。
 午前十一時の院内食堂は、まだお昼のピークを迎える前で人が少ない。窓際の二人掛けのテーブルに、須田と向かい合わせで座る。
「意外すね。食細そうに見えるのに」
 食べるぞ、と気合を入れて腕まくりしたところで須田がぼそっと言った。目線の先はシャツをまくった静の、ところどころ青紫の静脈が浮き出た細い腕。
「悪かったね、貧弱で」
 胃下垂なのか、静は昔からどんなに食べても太れない体質だった。それに看護師は肉体労働だが、これも体質で毎日労働しても筋肉はほとんどつかない。正直目の前の男がうらやましいと思う。同じ職場で働き始めて一週間が経つが、須田は細めなのに全身にしなやかな筋肉がついているようで、日常の動きを見ていても無駄がなく、体幹のバランスがいいのがわかった。
 そんな理想体型に貧弱な体を見られ続けるのが居たたまれなくて、静は一刻も早く食べ終えてこの場を離れようと、手を合わせて食事を始めた。
「いや、そうじゃなくて。いいなって思って、ギャップが」
「ギャップ? なんだそれ」
 まだ全体を混ぜきっていない状態の冷やし中華を端からずるずる吸いこみながら、静は首を傾げた。
「そう。ギャップ萌えってあるでしょ。それです。デートに誘った女の子がちょっとだけ食べて『もうおなかいっぱい』とか言うの、オレあんま好きじゃないんすよ。細くっても気持ちよく食べる人って、見てるこっちも気持ちよくなっちゃうっていうか。だからいいっすよ。静さんみたいにおとなしくて繊細そうな人が健啖家なのって」
 静の麺をすする手が一瞬止まって、すぐ再開する。なんと答えればいいかわからなかったし、須田がなにを考えてそんなことを告げてくるのかもわからなかった。デートに誘うような女の子と自分を比較されても困る。
 でもその後の会話で、須田がなにも考えてないことはわかった。黙々と食べ続ける静の前で、須田は脈絡もないことをしゃべり続けていたから。その内容の九割が須田自身のことで、残り一割が静への問いかけ。
「静さん、部活なにしてました?」
「帰宅部。須田くんは」
「中高とサッカー部でした」
「それっぽい」
 いつも陽に当たってる、青春の主役のイメージ。そう伝えると須田ははにかんで笑った。
 六年間サッカーに打ちこんだことと、怪我による離脱。その時のリハビリ経験があったから、理学療法士を目ざした過去。学生時代の友達とのくだらないエピソードから、人生を決めた重大な出来事まで、冷やし中華と親子丼と三つの小鉢を平らげる間に、須田のさまざまな情報が静の頭に記憶された。
「本当に全部食べちゃったんすね……」
 須田の独り言を聞き流して、空になった自分のランチトレイを手に席を立つ。しゃべり過ぎてまだ完食していない須田を置いて売店に向かい、アイスコーヒーと売店名物のあん入り蒸しパンを二つずつ購入して席に戻った。
「ごちそうさま。これ、よかったらどうぞ」
 須田の前にコーヒーと蒸しパンを置いて自分は先にその食後のデザートを食べ始めていると、あんぐり口をひらいた須田と目が合う。
「なに」
「あれだけ食べたのにまだ食うの」
「悪い?」
「悪くないすけど、静さんの食欲すげー!」
 すげーすげー、と連呼するのを無視。というか、もう今まで交わした須田との会話の中で何度も、答えられないことに対してスルーを決めこんでいるのだけど、須田はそんな静の非情な行為をまったく意に介していないように見える。
 暗かったり口数が少なかったりするから、静の周りに人は集まらない。看護師仲間の女性たちは業務上では話しかけてくれたり頼ってくれたりするが、何度か誘ってくれた飲み会や食事会などで静がほとんどしゃべらないため、いつからか彼女たちとのプライベートでの交流はなくなっていった。
 須田もきっとそうなる。静の無口で反応が薄いことにつまらなさを感じて、時間の経過とともに自分から離れていく。
 早くそうなるといい、となぜか今までより強く思った。汚れた自分を知られる前に、須田が自分に対する興味を失うことを静は強く望んだ。





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新連載のこと


ひさびさにボツ作品をブログに載せてみようと思います。忘れぬうちに。
本当にひさびさだ。いつ以来だ。なんだか緊張します‥。

第21回山猫様新人大賞 もう一歩『白に混じる幸福』
第12回小説カカオ様新人賞 C評価『君に触れて光射す』

タイトルは違いますが、内容は同じものです(たぶん)
今見ると、どちらのタイトルもいまいちですが、じゃあよりいいタイトルが浮かぶかというと、浮かびませんorz



【登場人物】
静朋史(しずかともふみ)・・・病棟看護師
須田和真(すだかずま)・・・理学療法士
森橋安奈(もりはしあんな)・・・理学療法士
久保田(くぼた)・・・医師


【あらすじ】
総合病院の病棟看護師をしている静のフロアに、新人の理学療法士・須田が配属される。須田は控えめな静の意思を無視して距離を詰めてくるが、静には誰にも知られたくない秘密があって…



1回目を今日このあと、以降は週末の更新になると思います。
お時間のある時にでも読んでいただけたら幸いです。

ご感想やご意見もどしどしお待ちしております<(_ _)>
すこし遅れるかもしれませんが、必ず返信いたします。




プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
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