白に混じる幸福(8)R-18【終】


 部屋に入るなり須田は、静さんっぽい部屋だと言った。借りたDVDはまだ鞄の中。たぶん観ないと思う。店で選ぶ時から二人とも上の空で、最終的によくわからないものを借りてしまったから。
「お茶でいい?」
「おかまいなく」
 ソファーに座る須田の前に麦茶と氷の入ったグラスを置く。
「ちょっとちょっと、なんで床に座るんすか」
 こっち、と呼ばれ、二人掛けソファーの須田の隣に緊張しながら腰を落とす。
「映画、観たいのなかったすか?」
 映画館をキャンセルした理由を問われる。
「あったけど、二人になりたかったから」
 正直に答えると須田がガクッと項垂れた。
「ヤバいですって。本気で。この距離でそういう発言はやめましょう。いろいろ我慢できなくなっちゃうんで勘弁してください」
「我慢しなくていい。僕は、須田としたい」
 これから一緒の時間をたくさん過ごす、と須田は言ってくれた。夢みたいな話だ。でももし途中で嫌われてしまったら。元々ゲイではない須田に、やっぱり無理だったと放り出される近い未来を想像すると怖くなった。
 だからできるだけ早いうちに、須田には全部を知ってもらいたい。久保田との過去をすべてさらけ出しても須田は引かずに受け入れてくれたが、聞くのと実際に自分が経験するのとではいろいろ違ってくることも多いはずだから。幻滅されるなら早いうちに。傷は浅いうちに。
「なに考えてます?」
 皺の寄った眉間を指でさすられて、ハッとする。目の前の須田の優しい顔から目をそらし、準備してくる、と静は立ち上がった。

 自分のあとに須田がシャワーを使っている。急いで寝室のカーテンを閉め、室温を調節し、ベッドの皺を伸ばす。部屋を薄暗くして、ベッドサイドテーブルにコンドームと拡張用の器具とローションの代わりになるハンドクリームをひと通り並べてみた。
「静さん?」
 シャワーを終えた須田がリビングから呼んでいる。扉を開け、準備を整えた寝室に招き入れると、須田はギャハハと笑った。
「なにこの怪しいSMみたいな雰囲気」
「あ」
 電気を点けて部屋を明るくした須田が、ベッド脇の拡張用器具のアダルトグッズを手に取った。
「こういうの、使うんすか」
「四年前に使ったきり、だけど」
「へえ、そう」
 須田は不機嫌を隠そうともせず、今度はコンドームを手に取った。それも四年前、久保田とのセックスで使ったものの残りだ。使用期限を確かめてまだ使えるので引きだしの奥から出してみたが、考えてみると須田に対して非常に失礼なことをしているのかもしれないと思い直す。
「あの、うちにはこれしかなくて」
 情けない声で言い訳をすると、不機嫌そうな顔をしていた須田の表情がふっとゆるんだ。
「オレ静さん相手だとだいぶ嫉妬深くなるな。これ使いますよ。コンドーム大事だもん。でもこっち! こっちはいらない」
 拡張用器具を指さす須田に、静はそれがないと入らないと説明した。
「オレが指とか舌でほぐすもん」
「指とか、し……! バカなに言って」
「だめ?」
「絶対だめ」
 拒否しつつも、自分の中に須田の指や舌が入るところを想像して赤面する。
 久保田とのセックスは全部自分で準備した。久保田のものが入る状態になるまで口で大きくしながら後ろは自分で拡張した。久保田としか経験がない静にとって、セックスにおいてはそれが当たり前のことだったから、須田の発言には驚きすぎて心臓がドキドキした。
「おいで」
 須田に腕を握られ、ベッドに座らされる。
「待って、まだ準備が」
「準備はもうおしまいです」
 ベッドサイドに伸ばしかけた手を取られ、そのままベッドに転がされる。抗議しようとしたら唇をふさがれた。二回目のキスは、一回目を思い出させるような触れるだけの優しいキスだった。こんな簡単に気持ちよくなってしまっていいのだろうか。須田にのしかかられたこの状態のまま、ふかふかのベッドの底まで沈んでしまいそう。
「準備……」
 くちびるが一瞬離れた隙に、まだあきらめきれず呟くと気持ちいいの? と尋ねられる。
「あのオモチャ」
「気持ちよく、はないけど」
「じゃあいりません。静さんが気持ちよくならなきゃ意味ないよ」
「っ……ぅ、ぁふ」
 また反論しようとひらいた唇をふさがれる。今度は須田の舌が口内に入ってきて、静の舌に重なった。意志を持って動く舌が、縮こまる静の舌の真ん中の窪みを器用に突く。溜まった唾液をかきだすようにちろちろ舐められると、恥ずかしくて顔に血が昇ってくる。
「ちょっと、あんまり照れないでくださいよ」
 静の顔が赤いことに気づいた須田が、わざわざキスを中断して話しかけてくるのでにらみつけた。
「無理」
「静さん、自分のこと変態で淫乱とか言ってましたけど、オレの変態っぷりに比べたらまだまだひよっこですよ」
 上唇を須田の唇で挟まれ、びよんと引っ張られたあとちゅ、ちゅと鳥のようについばんでくる。まだしゃべれる状態だったからやだ、と言ったら、オレもやだ、と返ってくる。
「だめだっ」
「だめ?」
 ちゅー、と今度は下唇を吸われた。
「ら、め」
 恥ずかしすぎる。自分のペースに持っていけない不安からパニックになって須田の胸を拳でどんどん叩くと、そのまま体をぎゅっと抱きしめられた。
「須田、放して」
 気持ちよすぎるキスから解放され、涙声で訴えた。もっと冷静に、主導権を握って事を進めたい。ただでさえ幻滅される可能性が高い状態で、キスだけでこんなとろとろにされてしまっていてはこの先が思いやられる。まず部屋をふたたび薄暗くして、須田のを口で大きくして、自分のを拡張する。混乱する頭でこのさきの手順を確認していると、須田が耳元でなに考えてるの、と問うてくる。
「須田に、嫌われたくないから」
「うん」
「だからこのさきは、僕にさせてくれ」
「どうやってするんすか?」
 聞かれて簡単に手順を説明すると、須田は静の頭の横に手をついて顔を起こした。
「それって、あの人としてたのと同じ方法?」
 眉間に皺を寄せた須田の表情を見て、また失敗したことに静はやっと気づいた。久保田のことを想像させる行為は須田を不愉快にしてしまう。だけど静は久保田との経験しかないため、それ以外のやり方を知らない。
「あー違う違う、怒ってませんから!」
 泣きそうな顔でもしていたのか、須田は慌てた様子でまたギュッと抱きしめてきた。
「こういうことってたぶん、やり方とかないと思います。オレも経験豊富じゃないから絶対とは言えないけど」
「嘘」
「嘘ってなんすか」
「経験豊富のこと」
 静の首元に顔を埋めた須田がクスクス笑うのでくすぐったい。
「今までのことは忘れましょう。そんで、静さんとオレが気持ちいいようにしようよ」
「でも、そんなふうにしたら、須田は僕に幻滅するかも」
「幻滅はしないってば」
 幻滅の響きが可笑しかったようで、須田はまた笑った。だからそれ首くすぐったいって。
「しよ?」
 耳に吹きこまれた言葉に、静はしぶしぶ頷いた。うまくできなくても幻滅はしないと言ってくれたから、すこしだけ安心した。

 ハンドクリームをまぶした須田の指が、部屋の明かりに照らされてヌラヌラてかっている。信じられないことに性器をさんざん舐め尽くされたあと、穴も舐めるというのを拒否したらこの展開になった。
「や……、っ」
「痛いすか?」
「痛くはない、けど怖い。自分でしたい」
 正直に言ったら、させてよ、と返されて、入り口をくすぐっていた指が中にぐいっと入りこんできた。
「だいじょぶだから、力抜いて」
「ふ、うぅ……、ぅ」
「静さんのこと好きになってすぐ、こういうやり方ネットで調べまくってたオレって相当変態でしょ」
 実践はまだだけど情報は頭に詰まってる、と自慢してくる須田の手つきにはたしかに迷いがない。
 過去に自分で器具を使ってほぐした時の感覚と、須田に触れられる感覚は、時のへだたりを差し引いてもまったくの別物だった。クリームをたっぷり塗りこまれた内側の粘膜が、ぬちゃぬちゃと音を立てる。どこをどのようにされてそんな音が出ているのかわからないが、ただただ気持ちいい。
「はぁ、っ……」
「脚、自分で持っててください」
 仰向けのまま、立てた両膝の裏に自分の両腕をかまされる。そうすると腰が浮いて、尻が丸見えになってしまう。
「やだっ」
「だいじょぶだいじょぶ」
 さっきから何度もそう言ってくるけど、一度も全然だいじょぶじゃない。
「う、ぁっ」
 体勢が変わったことで、指の挿入角度も微妙にずれていたらしい。さっきとは違う場所に、須田の硬い指先がぐっと当たった。
「ここっぽい、かな?」
「そこ、あ、あぁ、ぁっ……、んぅ」
 出た指が挿ってくるたびに、須田は確実にそこに当ててくる。もうすでに勃っていた静の性器の先端から、ぷくっと透明の液体があふれ出てきた。おいしそう、と聞こえた気がした直後、静の張りつめた性器が須田の口に含まれる。
「や、待て、ぁ待って待ってだめ、ぇっ……、ひ、ぃぁ、んっ」
 じゅる、と先を吸われながら、内部を指の腹で抉られた瞬間、静は顎を仰け反らせて昇りつめていた。
「あ、んっ」
 だめって言ったのに。バカ。
 心の中の言葉は声にならず。内腿が勝手に震えて、しばらくすると脱力した。でもそこで余韻に浸ってるひまはない。上半身を起こした静は、自分の性器から口を離した須田がニッと笑うのを見て青ざめた。
「おま……、僕が、だ、出したのは……」
 どこ、と尋ねると。
「飲んじゃった。あ、嫌だった?」
「ばかッ! 嫌なのはおまえのほうだろっ」
「嫌なら飲まないですって」
 なんて順応性の高さだ。驚きが引いていくと、青かった顔が恥ずかしさでどんどん赤く染まっていく。
「さて、」
 楽しそうに首を傾げる須田が、まだ下着を脱いでいないことに静は今さら気づいた。自分だけ裸でこんなに気持ちよくしてもらって申し訳ない気持ちになってくる。三角テントを張った下着にそっと触れると、あんっ、と須田がふざけた声を出す。
「おまえは口と手、どっちがいい?」
 男に咥えられることに抵抗があるかと思って遠慮がちに尋ねたら。
「静さんの中がいいな。って今のこのやりとりなんか、お風呂とご飯どっちにする? オマエにするー、ってのに似てません?」
「似てるけどどうでもいい」
 勃起させながらくだらないことを言う須田の下着に手をかけると、マジで、と切羽詰まった声で須田が静の耳元で囁く。
「余裕ないんで、今すぐ静さんに挿れたいす。……だめ?」
 肩にしなだれかかってきて額をくっつけ、ぐりぐりこすりつけてくる。今すごく年下の須田の年上を相手にした、セックスのこなれた部分が見えた気がして、静はイラッとしながらも心臓をどきどきさせていた。
「いいけど、何人目」
 こんな常套手段にまんまと引っかかっている自分にも苛立ち、静はわざととげとげしい声を出して須田に詰め寄った。
「なにがすか?」
「セックスの相手、僕で何人目」
「突然どうしたんすか」
「言わないのか」
「いやぁ、聞いても楽しくないでしょ」
 聞かなくても楽しくない。プリプリしながらも下着を脱いだ須田を仰向けに押し倒し、挿入の準備をしようとして須田の視線に気づきハッとする。
「静さんこそ、迷いなくその体位選んでる理由ってなんすか」
 しまった。久保田との行為ではほとんどがこの騎乗位で、挿入と言われた瞬間これ以外思いつかず、ついうっかり須田に乗っかってしまった。
「う、あの……、ごめん」
 素直に謝ると、須田が笑う。
「こっちもなんかごめんなさい。まああれだ、過去のことが気にならなくなるくらい、これからいっぱい二人でしましょう、ね?」
「うん」
 そんなふうに言ってもらえて、さっきまでイライラしていたくせに今度は嬉しくて涙が出そうになった。感情の起伏が激しすぎて自分でも笑えてくる。
「今日はとりあえず、騎乗位以外でお願いします」
「あー、……うん」
 なにがいいと聞かれたが、わからないのでおまかせしたら、正常位ということになった。
「静さんの感じてる顔が見たいから」
 いらぬことを報告してから、須田は仰向けになった静の窄まりに熱の先端を添え当てた。直後、ぐっと押しこまれて息が止まる。
「静さん、力抜ける?」
「ふ、ぅ……、っ」
 頭の膨らんだ部分が入口を広げ、奥へと進む。圧迫感がものすごくて、とにかく力を抜くことだけに集中した。須田は時間をかけてくれた。苦しい場所が通りすぎた頃、頬に冷たい感触が落ちてきて、静はつむっていた目を開けた。自分を見下ろす須田と目が合う。黒髪の短い毛のさきに引っかかっていた汗が、また自分の頬にぽとりと落ちた。
「いちばん、奥まで、来ちゃいました」
 ちょっと苦しげな顔ではにかんで笑う須田が愛しくて、静は手を伸ばしてキスを要求した。近づいてきた顔を引き寄せ口づける。舌を差しだし須田の口内でれろれろと絡ませた。
「んんぅ、ふ……、うごい、て」
 口づけながら伝えると、須田の性器がゆっくり中から出ていく。お互いの唇をベタベタにしながら、ゆっくりゆっくり挿入を繰り返しているうちに、静の腰も須田に合わせてゆらゆら揺れ動き始める。
「これ、すっごく気持ち、いいんすけど」
「う、んっ、いい……っ、ぼく、も」
 間近で見つめ合いながら、時々キスを交わし、動きはみるみる激しくなっていく。ピストンの幅が徐々に狭まっていき、須田の性器の先端が静のいちばん奥を執拗にノックする。
「あ、んっー……! だ、めっ……、もう、いきそう……ぁっ!」
「いって見せて?」
 上半身を起こした須田がそんなことを言ってちょっと悪い顔で笑った。今さらだけど、好きな顔なのだと思う。だって今の表情とか、かっこよすぎて寝転んでるのにクラクラする。
「これ、いいとこに当たってます?」
 須田が静の脚を腕で抱え、角度を変えてさらに奥を突く。
「あ、あっぁあっ!」
 キスができないくらい離れたぶん、須田の動きがよく見える。嫌らしい腰使いや、下唇を噛んだ余裕のないセクシーな表情を見ていると、もうたまらなくて静はベッドに両手を突っ張って腰を浮かせた。
「静さん、エロすぎそれ、やばいって」
「だって、もう……、ふ、わ、ぁ……っ!」
 須田と目が合った瞬間、快楽が脳の奥ではじけた。
「んぁ!」
 直後、射精の余韻で揺れる静の腰の中で、ぬくい液体がばらまかれる。
「く……、っ」
 苦しそうな表情で片目をつむった須田が、快楽をやり過ごしたあとどさりと顔の横に倒れこんできた。二人して荒い息を整えながら重なっていたら、しばらくして須田がもぞもぞ動きだす。ベッドに手をついて顔を上げた須田が、オレがあなたに幻滅なんてするわけないでしょ、とちょっと怒った顔で言って唇を重ねてきた。


 白いレースのカーテンから、朝の日の光が漏れている。手を伸ばしてそっとカーテンを引くと、隣で眠る須田の裸の背面にやわらかな陽射しが当たる。触れてみるとすでにぬくかった。須田の体温と、太陽のぬくもり。
「ん?」
 目を覚ました須田が、静に触れられていることに気づいて笑う。たぶん、抱きしめようとしたのだと思われたのだろう。そのまま須田のほうから引き寄せてくれた。
「おはよーございまあー……す」
「おはよ」
 耳に吹きこまれるまた眠ってしまいそうな気だるげな挨拶に、静も笑った。
 密着した須田の肩越しに窓の外をのぞき見る。梅雨明けの太陽のまぶしさを静は久々に心地よく感じた。




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白に混じる幸福(7)R-18


 安奈と別れ、夜勤の業務をこなす。彼女と和解できたことで、心はすこしだけ凪いでいた。休憩のため曰く付きの仮眠室に入ると安心したからか、久々に眠気が襲ってきてパイプベッドに横になった。壁の葡萄色の染みの上、クマのシールをぼんやり見上げたら、須田が作ってくれた玉子焼きとおにぎりのことを思い出した。
「おいしかったな」
 声に出すと、須田に会いたい気持ちが膨らんだ。でも須田はやって来ない。今彼は、静を避けているから。まだお弁当のお礼も言えていないことを思い出す。
 だけど今度須田に会ったら、味の感想よりさきに自分は彼に好きだと伝えるのかもしれない。そんなことを考えながら、薄いタオルケットに体を巻きつけて静はひとり赤くなった。今は避けられているから、今度会うとしたら自分から呼びだすことになるのだろうか。というか、避けられてる理由はなんだろう。好きだと言ってくれはしたが、やはりいつまでも陰気な自分に嫌気が差してしまったとか。
 高潮した気持ちがゆるゆるしぼんでいく。眠ることも忘れて須田のことで一喜一憂していると、突然、どん、という音とともに扉が乱暴に外からひらかれた。びっくりして飛び起きる。
「朋史」
 静の名前を呼ぶ久保田は走ってきたのか、こめかみから一筋の汗が流れていた。後ろ手に扉を閉めて、ゆっくり近づいてくる。
「先生、どうされたんですか」
 パイプベッドから下りようとしたら、そばまで来た久保田に肩を上から押され、静はおとなしく座り直した。
「患者が死んだ」
 久保田のそのひと言で、静は悟った。
「わたしが手術した三日後だ、合併症で」
「そう、ですか」
 答えながら、冷や汗が背中を伝う。
「手術は成功した。八十過ぎた高齢の患者だったが、オフポンプで心臓動かしたまま二時間強で終わらせた。なんの問題もなかった」
 久保田の声が徐々に大きくなる。四年前と同じことが目の前で起こっている。そして久保田がこのあとどうなるか、静は知っている。
「手際の悪りぃクソみたいな助手ばっかつけやがって、わたしじゃなかったらあの手術も成功してないよ、ほかの奴がやったらその場で殺していたさ」
 口調が粗くなって、顔がゆがむ。いつもの穏やかで優しい久保田はもういない。
「せっかくわたしが生かしてやった命を三日後に殺すとは、ここの連中は相変わらず役立たずばっかだな。こっちがどんだけ神経すり減らしてメス握ってんのか、わかってんのかてめぇら」
 静のシャツの首元を掴んで揺らしてくる。術後合併症は注意していてもどうしても起こってしまう場合がある。久保田だってそんなことはもちろんわかっている。わかっていても彼はその憤りをどうしても抑えられない。久保田は静と付き合っていた時、それをすべて恋人である静にぶつけていた。
「しゃぶってくれよ、朋史。な? 今日だけだから頼むよ」
 急に猫なで声を出したかと思うと、静がすぐ行動に移さないのを見て頬を張る。
「なにぼーっとしてんだてめぇ。さっさとしろクズ」
 自分でスラックスの前をひらいて、昂っているペニスを静の口の前に差しだしてくる。それでも口を頑なに閉じたままでいると、今度は首を両手で絞められた。
「ぅ……っ」
「朋史はこうされるの好きだったな。付き合ってた最後のほうは、ケツに突っこまれながらこうやって首絞めてやらないとイカなくなっちまったもんな」
 違う。こんなの好きじゃなかった。久保田が望むから受け入れていただけで、ここでイケないともっと恐ろしいことをされるから必死だっただけだ。
 そんな反論はもちろんできない。興奮しているのか、久保田の手の力がどんどん強まってくる。昔のセックスの最中のお遊びとは手加減が明らかに違っていた。喉が圧迫されて、口が勝手にひらいていく。息ができない。口角からよだれが垂れ、苦しくて視界がどんどん狭まっていく。これは本当に危ないかもしれない、と頭の片隅で考えた直後だった。
『おはよ。静さん起きて、あいしてるよー』
 この状況にもっともそぐわない、能天気な殺し文句が聞こえた。それは何度も何度も繰り返される。止めるか時刻が過ぎるまで。
「なん、だ?」
 久保田の手がゆるんだ。その一瞬のすきに、静は渾身の力で久保田に頭突きをかました。
「な、にしやがる……っ」
 罵倒する声は途中で力なく消えた。時間差で痛みが襲ってきたのだろう。ベッドを降り、うずくまる久保田をまたいで目覚まし時計を手に取ると、静はほかになにも持たず仮眠室を飛びだした。

 仮眠室を抜け出してから足元がスリッパだと気づいた。でももう引き返せない。病院の外に出て、パタパタと音を立てながら暗闇を走る。梅雨明けはもうすこしさきのようだけど、空には雲がなく星が幾つか出ていた。
 徐々に速度を落とし立ち止まる。辺りを見回しても、真夜中だから路地に人通りはない。
 午前一時五分。アナログのキャラクター時計を今の時刻に合わせる。カチ、と音がして、須田の声が流れ出す。おはよ。静さん起きて、あいしてるよー。おはよ。静さん起きて、あいしてるよー。おはよ。
「起きてるよ。僕だって、あいしてるよ」
 時計を止めて返事をする。くだらないと思いながらそんな自分の言葉に笑ってしまった。
「戻らなきゃ」
 夜勤はひとりでも欠けると仕事が回らない。回れ右をする。久保田はもちろん追ってきてなどいない。でも一旦仮眠室には戻らないといけない。靴や名札が置きっぱなしだしエアコンや電気も点けっぱなしだ。久保田がいなくなっていることを祈りつつ歩きだすと、うしろから名前を呼ばれた。
「静さん」
 さっき聞いた目覚ましの声。低いけど明るい抑揚のある大好きな声。
 振り返るとすこし遠くに須田が立っていた。
「なにしてんすか」
 近づいてくるその表情が、どんどん曇っていく。
「どうしたのその顔」
 久保田に張られた頬がさっきからすこし熱い。もしかしたら腫れているのかもしれない。なにか冷たいもの、と言いながら自分のポケットを探って役に立ちそうなものがないとわかると、須田はちょっと悲しそうな顔をした。
 昨日まで避けていたくせに、あっさり声をかけてきた。こんな夜中になにしてるのだろう、と一瞬思ったが呼気からアルコールの匂いがしたから飲んでいたのだろうとわかった。
「誰と飲んでたの」
「安奈さん」
 やっぱり。なんとなくそんな気がした。
 歩きだすと須田はついてくる。
「それよりその顔!」
「うん」
「うんじゃなくて……」
 静は考え事をすると速足になる。須田がさらになにか言ってるが、その声はもう耳に入ってこない。ラッキーだと思った。今しかない。避けられているから呼びださなきゃ言えないと思ってたから、こんなふうに遭遇できた今は絶好のチャンスだ。だから、言おう。
「須田」
「なんすか? っていうかオレの話聞いてました?」
「聞いてない」
「おい」
「僕、須田のこと好きなんだ」
「え」
 振り返って伝えると、須田は一瞬驚いた顔をした。それからへぇ、って顔に変わった。たぶん、須田は静の気持ちになどとうに気づいていたのだろう。今の顔は言う気になったんだへぇ、って感じの顔だ。
 そのあとは一気に須田の顔が雪崩れていく。
「ちょっと待ってください、いきなりすぎて感情が顔に出ちゃう」
「嬉しいのか?」
「そりゃ嬉しいでしょ。好きな人に好きって言われて嬉しくないやつなんていない」
「最近僕のこと避けてたくせに」
「あれは作戦す。距離を置いてみたら追いかけてきてくれるかなって思って。まあ来てくれなかったすけど」
「くだらない」
 あーだめだ、と叫びながら須田が顔を両手で隠す。指のあいだから見える頬が赤い。
「須田でも照れることあるんだ」
 まじまじと隠された顔を見ていると、突然手を取られた。
「とりあえず病院に行きましょう。手当が先です」
 片手だけで顔を隠して、須田は静を引っぱって歩きだした。

 簡単な手当てをしてもらったあと、須田を仮眠室に残して静は夜勤の勤務に戻った。朝のミーティングに参加するまで、久保田には会わなかった。業務を終えて仮眠室を覗くと、須田はすでに起きていた。
「話を聞きましょうか」
 今日は休みだからじっくり話してもらう、と須田は言うが、そんなにしゃべることはない。


 過去のことを一から十まで、須田にすべて打ち明けてしまうと、気持ちは一気に軽くなった。言ってしまったあとは、なにをあんなに怯えていたのだろうと思う。
「話してくれて、ありがとう」
 そんなふうに言って須田は受け入れてくれた。汚れた部分も、つらかった過去も、自分を卑下する静も丸ごと包みこんでくれる。でも静は付き合っていた相手の名前だけはどんなに尋ねられても頑なに答えなかった。
「なんでそこだけは譲らないんすか? オレも知ってる人だから? 誰にも言ったりしませんよ」
 別に須田を信用していないわけじゃない。
「知ってどうするの」
「さあ、一発ぐらい殴るんじゃないすか? 静さんの首絞めて、大事な顔にひどいことするやつなんだから」
 須田には腫れた顔を見られてしまったため言い逃れすることはできず、昨夜の仮眠室で起きたことも、相手が誰かということは伏せて報告した。ひでーやつ、と須田は淡々と言った。静はそのひとことで簡単に救われた。
 病院の近くのファミリーレストランは、昼を回って人が増え始めていた。朝食時から入り浸っていた須田と静も、ひと通りの話を終えて注文したランチを食べ始めた。須田はハンバーグ。静はミックスフライ。
「人を殴る須田は見たくない」
 伝えると、須田はちょっとだけ困った顔をしていた。海老フライをひとつ須田の鉄板に乗せると、ハンバーグの欠片を返してくれた。
「あ、来た」
 ほのぼのしたやりとりに頬がゆるんでいた時、須田が立ち上がり静の背後に向けて片手を上げた。誰が来たのだろう。というか誰かと待ち合わせていたのか。振り返って確認すると、こちらに向かって歩いてくるのは久保田だった。
「な、なんで、久保田先生が……」
「呼んだから」
 だから、なんで。
「こんにちは、須田くんでしたっけ」
「久保田先生ですよね、こんにちは」
 和やかに挨拶をする、その顔は二人とも笑っていない。朋史詰めて、と言われ、慌てて硬いソファーの奥まで横移動する。静の隣に久保田が座った。
「呼びだしたのはなんの用かな。わたしは午後からも手術で忙しいんだが」
 病院内では誰にでも穏やかな久保田が、須田に対しては物言いがとげとげしかった。
「オレたち付き合うことになったんで、久保田先生にはその報告をと思って」
「…………へえ、そう」
 須田の報告に興味がなさそうな相づちを打って、久保田は静を見ておめでとう、と無感動な声で言った。
「だからもう静さんに近づかないでください。あと殴ったり首絞めたり、チンコ出して舐めろって強要したりしないでください」
 須田は静が頑なに口を割らなかったその相手を知っていたのだ。隣の顔がまたゆっくり振り返ってくるのを、静は横目ですら怖くて確認できず、うつむいて固く目をつむった。
「きみは男が相手なら、見境もなくなんでもペラペラしゃべるんだな」
「そうやってあなたは過去に静さんを追いつめていったんですね」
「こいつがそうされるのが好きなドMの変態だからな。きみはまだ知らないかもしれないが、夜になると本性を発揮するよ」
 ゆっくりと目をひらく。おそるおそる隣を見ると、久保田の蔑んだ視線とかち合う。不敵に笑って煙草に火を点けた久保田は、禁煙ですと伝えに来た店員にすぐ出るからと返し、渡された水の入ったグラスに灰を落とした。
「須田くんは理学療法士だったね。はは、お似合いだよきみたち。まあ療法士と看護師で無価値な者同士、末永く幸せになってくれよ」
 久保田は医師である自分以外の価値を認めない。須田に対してもそういう態度をとった。席を立とうとした久保田のジャケットの裾を、静は咄嗟に掴んだ。
「なんだ、朋史」
 久保田が振り返る。見下ろしてくる冷酷な視線に、いつもなら怯えてなにも言えなくなっていただろうけど、今は言葉がすんなり出てくる。
「訂正してください。須田は、無価値な人間じゃないので」
 目をまっすぐ見つめて伝えると、久保田は口の端をひくつかせてアホらしい、と言った。
「勝手にしろ、付き合ってられん」
 じゅ、と音がして煙草が水のグラスに浮いた。静の手を払い、久保田は席を離れていく。
「待って!」
 立ち上がり、追いかけて訂正させようとしたら須田に止められてしまった。
「気にしませんから。静さんがオレを価値のある人間だと思ってくれてるだけでいい」
 清々しい顔をした須田が自信に満ちた声でそんなふうに言ってくれたから、静の興奮はすっと冷めていった。
「知って、たんだな」
 厨房に煙草入りのグラスを持って謝りに行っていた須田が帰ってきたので聞いたら、知ってました、と答えた。
「安奈さんに聞いたから。あ、彼女もちろんオレ以外には誰にもこのこと言ってませんよ。静さんの秘密を知ってるとか言って自慢してくるので、オレが無理やり聞きだしたんです」
 また自慢とか言ってる。安奈がそうやって須田をあおったのはきっと、始めから彼には静のことを話そうと決めていたからかもしれない。怒ってます、と聞かれ、怒ってない、と答える。
「でも、須田けっこうしつこく相手が誰だったかって聞いてきたから、知ってたのになんで、とは思った」
「だって静さんの口から聞きたいじゃん」
「僕の口からは言えなかった」
「わかってましたけど! あなたそういうとこ義理堅そうだし。だけど嫉妬しちゃうじゃん。あんなダメなやつなのに静さん、最後まで守り抜くんだなーとか考えてしまったらさ」
 嫉妬? そうか須田は久保田に嫉妬してたのか。嫉妬と言えば。
「おまえだって」
「なに?」
「森橋さんと二人で飲みに行ってたんだろ」
「あ、嫉妬しました?」
「した」
「おー、マジすか」
「須田のほうが誰にでも優しいじゃない」
 静にしてはめずらしく言葉がポンポン出てくる。安奈が、須田に振られたあとも彼の態度が変わらず優しいから忘れられなかったと言っていたのを思いだす。静も須田に負けず劣らず、嫉妬が根深い。
 いやいや静さんのほうでしょ、須田だよ、と誰にでも優しいほうの押し付け合いをしながら食事を終えて、長居したファミリーレストランを出る。信号待ちをしながら、なんでだろうと改めて思った。
「なんで僕なんだ」
 須田は明るくて社交的で惹かれるに値する人間だけど、自分にその要素はひとつもない。
「白衣の天使だから? 鼻血拭いたから?」
「ああ、その話」
 大人っぽい顔で笑う隣を見上げてから、青になったので歩きだす。
「それもありますよもちろん」
「白衣? 鼻血? どっち?」
「両方両方。まあ些細なことから、心に繋がりそうななにかまで、まだ曖昧で掴みきれてないけどオレは静さんに確かに引っかかるところがあったんすよ。きっかけはなんにせよ、これから一緒の時間をたくさん過ごして、曖昧な部分を埋めて、お互いをわかっていくんじゃないすか?」
 これから須田と一緒に過ごすたくさんの時間を想像して、静はすこし速足になる。
「え、どこ行くの静さん、映画館こっちすよ」
 うしろから手を引かれ、立ち止まった。そうだった。お昼を食べたら映画を観にいくという話をしていたのだった。
 静の手を握ったまま歩きだそうとした須田がつんのめる。
「ちょ、ちょっと、静さん?」
「映画、家で観ない? DVD借りて」
 提案すると、やばくないすか、と問われる。
「なにが」
「なんかいろいろ、オレの気持ちとか、オレの下半身とか」
「いいからこっち」
 恥ずかしいことを言いだす須田に赤い顔を見られないよう、握られた手を引っぱって静は映画館とは反対の方向に歩きだした。




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白に混じる幸福(6)


 ここ数日、夜勤の休憩時間に眠らないようにしている。その理由のひとつは、中途半端に眠ってしまうと帰ってからのひとりの時間に眠れなくなって考え事をしてしまうから。
 そしてもうひとつの理由は、眠ると目覚まし時計に起こされてしまうからだ。
 すり替えられた新品のキャラクター時計は、須田の声で初めて再生されたあの日以来一度もセットしていない。だって須田の声を聞きたくないから。理由はそれだけだ。そう何度も繰り返し心に言い聞かせ、脳にいらぬことを考える隙を与えない。
 ただ眠らないとなると、食事もほとんど喉を通らなくなってしまった今、二時間もある長い仮眠時間にやることがない。じっと座っているとまた考え事をしてしまうので、静は家からいらない端切れを幾枚か持参して曰く付きの部屋の拭き掃除をすることにした。
 室内に物はパイプベッドとライティングデスクと椅子しかない。固く絞った布で高いところから低いところまで丁寧に拭いていく。椅子の裏や机の引き出しの中などが案外汚れていて、濡らした布が黒くなると静はやりがいを感じて嬉しくなった。
 やることがあるってすばらしい。考えなくて済む。次は壁と床を拭こう。汚れた布を洗うため洗面所へ向かう途中、廊下で視線を感じた。ふとそちらに目を向けると、須田が廊下の真ん中で突っ立っている。
「なにしてんすか、静さん」
「…………なにって、掃除」
 そっちこそなにしてるんだ。
「今休憩じゃないの?」
 休憩だけど。
 近づいてくる須田を、呆然と見つめる。
 須田はもうここには来ないと思っていた。というか食堂での一件で嫌われてしまって、今後は院内ですれ違うことがあっても声をかけられることはないのだと思っていた。
「あ、」
 近づいてきた須田に丁寧に洗った布を奪われてしまった。
「夜食、食べました?」
「食べ、た」
「嘘つくな」
 手洗ってきて、と須田に命令され、素直に従う。彼がなんだか怒ってるように見えたから抵抗できなかった。まだ嫌われてはいないのだろうか。そして須田はいったいなにに怒っているのだろうか。
 混乱した頭を落ち着かせるため、石けんで丁寧に肘まで洗って仮眠室に戻ると、机の上に食事が用意されていた。
「おかえり。静さんのために作ってきたから。これ全部食って」
 アルミ箔の使い捨て容器に入った焼き色の強い玉子焼きと、ラップで包んだ俵型のおにぎりが二つ。ずっと食欲がわかなくてどのメニューを見ても心が動かなかったのに、今目の前に並んでいるものを食べたいと思ってしまった。須田が作った、というだけの理由で。それが悔しくて。
「もうかまうなって言っただろ」
 苛立ちに任せ勢いこんで発声したつもりが空腹のため力が入らず、かすれた声は口先からへなへなと真下に落下した。
「そんな元気ない状態で、よくかまうなとか言えますね」
 須田が怒りながらも料理を用意したりしてかまってくれるのは、自分が痩せて元気のない状態を須田の目の前にさらしているからなのかもしれない。かまうなと口では言っておきながら日に日に不健康になっていくさまを見せられては、人の良い須田は放っておけないのだろう。そんなふうに考えると、須田が怒ってるのにかまってくる理由が説明できる。
「元気ないからかまってくれるんだ」
 空腹がいき過ぎて頭が回らず、思ったままを口に出してしまう。
「静さんが! 元気ないからかまうんすよ」
 意味がわからないと思ったが、もう声にする元気もない。さきほど夢中で掃除に励んでいた時の体力はどこにいったんだ。
 食って、と目の前にプラスチックのフォークに刺さった玉子焼きを差しだされる。甘い玉子の匂いの誘惑に勝てず、目を固くつむって口をひらいた。口内に入ってきた玉子焼きを咀嚼するあいだも目を開けない。
「味が薄い」
 いつか患者が言ってたのと同じ感想だと気づいた。あの患者もきっと、久々に食べたまともな食事がおいしかったのだろう。
「やっぱり? 塩が足りなかったなって出来上がって味見した時に気づいたんすよ。だからおにぎりのほうは味濃いめにしました。塩鮭と明太子入り。一緒に食べて」
 目をひらくと、須田は笑顔になっていた。須田の怒りは自分が食事をとらないことが原因だったのか。
「おまえは、僕が元気になったらかまわなくなるのか」
「静さんは元気な時もオレにかまってほしいの?」
「かまってほしくない」
 距離を置きたい、とはっきり伝えると須田はまた笑った。ひでー、と楽しそうに言いながら。
「なんで? なんでそんな笑ってられるんだ。すごくひどいこと言ったのに、須田は傷つかないでいられるんだ」
「それは、静さんが本気でそう思ってないことがわかるからでしょ」
 顔にまだ笑顔は残したまま、須田は真摯にそう言った。
「須田は僕のなにをわかってるんだ」
 どうしていつもそんなに優しくする? 包みこむように見る?
 こんな陰気で無口で人付き合いの悪い男に、誰が見ても魅力的な須田がそこまで執着する意味がわからない。白衣の天使に見えたからか。鼻血の処置をしたからか。もしあの時、別の看護師が通りかかって須田の面倒を見てやっていたら、そっちを好きになったのか。
 自分の妄想が乱暴すぎることはわかっていた。だけど真意がわからないのだから暴走もする。
「わかってることも、わかったつもりでいることも、わからないこともあると思います。ただ、オレは静さんのことをもっとわかりたいって思ってる」
「なんで、」
「好きだからっしょ」
「あっさり言わないで」
「こってり言うのも難しいんすけど」
「…………なんで好き」
 恥ずかしいけど、いちばん知りたいことを聞いたら。
「きっかけはたぶん、静さんが静かだったから、かな?」
「はっ?」
 なんだそれ。
「人のこと気になるきっかけなんて、そんなもんすよ」
「きっかけはわかった。でもなんで僕から離れていかないんだ」
「なんで離れなきゃいけないんすか」
「暗いから」
「そんだけの理由で?」
「無口だし、陰気だし」
「静さん自分のことそんなふうに思ってるんすね」
「無口で陰気じゃなきゃ自分じゃない」
 反論するとまた笑われた。笑われたことに苛立った。
「それに変態だし、男好きだし、淫乱だし、汚れてるし、価値のない人間だし」
 苛立ちに任せて本当の自分を曝け出すと、須田は笑いを引っこめて首を傾げた。
「なにそれ」
 須田の態度が急変したことに怯えながら、でもさらに口が滑る。
「医者じゃなくて看護師だから、僕には価値がない」
「なんで看護師は価値がないんすか」
「人の命を救えないから」
 今まで久保田に言われ続けてきた言葉を自分の口から発したら、涙が出そうになった。
「静さんはいっつもそんなこと考えながら患者と向き合ってんすか」
 須田の鋭い言葉が冷えた心に刺さる。
 静が同僚たちとプライベートで仲良くできない理由はもうひとつあった。久保田に看護師は価値がないと言われ、それを受け止めることで周りの仲間たちも道連れにする。みんなにも価値がないのか。周囲を見回しても、一生懸命働く看護師たちに無価値な人間などいなかった。静は孤立した。孤立することで久保田の言葉を一身に背負うことにした。
「人の命を直接救える人だけが価値ある人間なんすか。違うでしょ。弱ってる時に優しい言葉をかけたり、つらい体をさすってあげたり、看護師がいることで助かってる人間がどれだけいると思ってんだよ」
 憤る須田の健全さに、今までの過去が全部洗い流されそうで静は怖くなった。
「医者がいるから看護師が働けてる。逆もまたしかりでしょ。お互いの仕事を尊重し合えないやつこそ無価値なんじゃないの」
「やめて」
「誰に言われたんすか」
 気づいてる。須田は静が自分の意思でなく、人から言われた言葉で自分を卑下していることに。
「誰が言ったんすか。静さんのこと、価値のない人間だって」
「言えない」
 言えるわけない。
「静さんにとってその人が、オレより大事な人だから?」
 須田より大事な人なんているわけない。
 だけど言えない。言ったら久保田の名誉に傷がつく。それはあってはならない。
「オレってもしかして今まで独り相撲してました?」
 めずらしく須田の弱った声がして、静はハッと垂れていた顔を上げた。憂い顔の須田がこっちを見ない。静から見つめて視線が合わないことが今までになかったのだと、気づいた。これまで須田がどんなに自分を見ていてくれたか。目が合わなくなって初めて知った。
「あの、須田は悪くない」
 なにか言わなきゃと思っても、適当な言葉が見つからない。須田にそんな悲しい顔をしてほしくない。いつも幸せで明るくいてほしい。そのために自分ができることはなにか。彼が元気を取り戻すためにできること。
 ここでなぜか頭に安奈の顔が浮かんだ。
「須田は、女性と付き合ったほうがいいと思う。おまえは、あの……、僕と違って、女性も好きになれるし、だから……」
 途中から間違ったことを言ってしまったのだと須田の表情を見てわかった。
「ほかの女と付き合えって?」
 目をすがめて見下ろしてくる。そんな凄んだ表情の中にも須田らしい温かさがすこし残っていて、比較するのは失礼だけど久保田と違うと思った。冷酷になりきれない須田が好きだ。そしていつもと雰囲気の違う凄んだ表情も、好きだ。
「ふざけんなよ、オレはあなたを好きなんだよ。好きになっちゃったんだよ。ほかの誰かのことなんて今考えられっか!」
 バカ、と暴言を吐いて、玉子焼きをひとつ指で摘んで食べる。怒ってるくせにやっぱ味が薄いとか自分の作ったものに文句をつけながら、須田は仮眠室を出ていった。その扉を見つめていると、すぐにまたひらく。
「それ、残りは全部食べてください」
「うん」
 返事をするとまたすぐ扉は閉まった。
「全部食べる」
 アルミ箔をむいておにぎりをひとつかじる。明太子のほうだった。米の塩味がすこし強めで、薄味の玉子焼きと一緒に食べるとちょうどいい加減だった。


 最近、須田に避けられている。あの日からだ。夜勤の休憩中、掃除をしてるところでやって来た須田にお弁当を渡された日。告白をされた日。
 いつもは探さなくても視界に入ってきた須田が、今は探してもなかなか見当たらない。お昼も誘いに来ない。もちろんナースステーションや廊下などで見かけることはあるが、向こうは今までみたいに手を振って近寄ってきたり声をかけてきたりしない。どころか目も合わない。
 ラクだ、と静は思っていた。須田が追いかけてこないのはラクでいい。
 ここ最近の須田との交流は頭の中だけ。あの時の須田の憂い顔を思いだす。こっちを見ない須田。静は脳内で弱った須田の髪を撫で、うつむいた目元に唇を落とす。触れるとまつ毛が震えるだろうかと想像する。
 須田がかまってこなくなったぶんを、脳内で補完する。足りないぶんは幾らでも補えばいい。どんどん人と話す機会が減って、口数が少なくなる。前の自分に逆戻りだ。久保田がいなくなって汚れを自覚しつつも穏やかに暮らしていた頃の自分。幸せでも不幸でもなかった時。凪いでいた時間。須田と出会う前。
 このままずっとこんな日が続くんだろう。でもふと思った。ずっとっていつまでだろう。
「静さん」
 夜勤前の夕方。機能訓練室の前で安奈と鉢合わせした。ちょうどリハビリを終えたところらしい。患者を見送った彼女の全開の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
「すこしだけ、時間ありますか?」
 笑顔で尋ねてくる安奈の言葉には、以前のような含みはなかった。

「あたしなにしてんだろうって、あとになって思ったんです。卑怯すぎますよね。静さんのこと脅迫して、和真から手を引かなきゃあのことばらすって言ってるようなもんですよあれじゃ」
「いや、その」
 バカみたい、と過去の自分を責め続ける安奈の話を静はどこで止めようかとうかがっていたが途切れない。前に話した時と同じ、食堂の窓際の席で向かい合う。暮れかかる夕日の光がまぶしい。外の景色が違うだけで今日はまるで別の場所にいるみたいだった。
「だから気にしないでくださいね。前の話。これからも絶対誰にも言いませんし、それにきっと終わったことなんでしょう? 久保田先生とは」
 うなずくと、本当にごめんなさい、と安奈は改めて頭を下げた。
「あーもうどう考えたって最低だ。過去のことで脅すとか、マジで卑怯。あたしクズだわ」
「もう、あの頭上げてください。あなたがこのことを今までずっと誰にも言わないでいてくれたことに、僕はすごく感謝してるんです」
 安奈の誠実さはもう充分すぎるくらい伝わっている。前回呼びだされた時の彼女はあきらかに様子がおかしかった。さっき見かけた、リハビリ患者の彼女を信頼した目つきを思いおこせば、本当の安奈の姿が浮かび上がってくる気がした。
「実はあたし、和真にはとっくに振られてるんです」
「え」
「去年の秋に告白して、だめで。でもそのあとも和真ずっと態度変えないでくれて、そんな優しいやつだからいつまで経っても忘れられなくて」
 アイスティーを飲み干したカップを覗きこむ安奈の瞳は、今日はどこか清々しく見えた。
「でももう、忘れなきゃ」
 微笑む安奈に静は首を横に振って抵抗した。
「だめです。忘れたら」
「どうして」
「前にお伝えしたとおり、須田はストレートで、女性を好きだから。あいつは絶対女性と付き合ったほうが幸せになれるんです。あなたは須田とお似合いだから……」
「お似合いだから?」
「そ……そうしたほうが、須田のためにも、あなたのためにも、いい気がして……」
 本心と裏腹のことを言葉に変換する唇が、なんだか自分と別の生き物みたいだと思った。前に同じことを須田に告げて怒られたばかりだったが、安奈にも同じように軽蔑される気がした。こうやって大切な人を遠ざけていくのかもしれない。今までみたいに、本当の自分を隠し続けてまた孤立する未来を想像したら急に怖くなった。
 自分を避けている須田が、この先もずっと話しかけてこなかったら――
「僕も、実は須田のことが好きなんです」
 懺悔する罪人のような悲惨な声が、静の喉から搾りだされた。
 伝える相手も違っているし、そもそも誰にも伝えるべきことではないはずなのに、ここ数日の内なる不安と恐怖が、安奈の優しさに導かれるように発露されてしまった。
「そうですか」
 安奈は驚かなかった。すでにわかっていたことだったのだろう。
「静さんは和真のことが好きなのに、どうして身を引くんですか? 和真やあたしのため? おかしいって。そんなの偽善だよ」
 偽善。その通りだと思った。
 須田や安奈の幸せを心から願ったわけじゃない。汚れを知られる恐怖と本心から逃げて、善いことをしたつもりになって、自分を納得させたかっただけだ。
「静さんに質問です」
 突然、安奈が耳の横に片手を上げた。何事かとうつむけていた顔を上げる。
「静さんには大好きな人がいます。好きで好きでどうしようもなくて、毎日会いたい、一緒にいたい、そんな人がいる状態で、他者がおすすめしてくれる静さんにとって条件のいい誰かと、付き合いたいと思いますか?」
「思い、ません」
「ですよね」
 即答すると、安奈は笑顔になった。
「簡単なことですよ」
 簡単なこと。思考をシンプルに、自分の気持ちとまっすぐ向き合う。
 久保田に一年かけて植えつけられた呪いの言葉の数々は、人と交わらない四年の月日の中で自分の考えと混ざり合い、心根に巣くっていた。
 一生、逃れられないと思っていたのに。心に風が吹く。
 須田の力強い言葉。ふっ切れた安奈の本心。自分が信じたい言葉はどこにある?
 考えるまでもなかった。心を覆っていた堅い壁にひと筋の罅が刻まれると、懐かしいやわらかな感情がふたたび芽を吹きだす。
「だけどあっさり告白しましたね、静さん。もしあたしが悪人で、前みたいに和真をあきらめなきゃ全部ばらしてやるって言ったら、静さんはどうするつもりだったんですか」
 尋ねられ、首を傾げる。そんなことはまったく考えていなかった。というか。
「森橋さんは悪人でない気がします」
「どうして」
「どうしてだろう。須田があなたを信頼してるからそう思うのかもしれない」
 もちろん、彼女自身の優しさや仕事への向き合い方を目の当たりにしたことも大きい。
「なにそれ、のろけですか」
「ち、違います」
必死で否定する姿が可笑しかったのか、安奈は静の焦りぶりを見て笑った。
「でもちょっとわかります。あたしも結局は静さんが和真の好きになった人だから、あきらめてもいいかなって思ってるんだもん」
 あたしたち似てますね、と言って安奈はまた笑った。須田が、彼女を好きにならなかったことが不思議なくらい、魅力的な女性だと静は改めて思った。



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白に混じる幸福(5)


 須田は静のことを静さんと苗字で呼ぶ。朋史さんとは呼ばない。
 前に呼び捨てにしていいと言われた時、静は須田と呼んだ。あの時和真と呼んでいたら、須田は今自分のことを朋史さんと呼んでくれていただろうか。
 夜勤の休憩時間。すこしだけでも寝ようと横になって、壁の葡萄色の染みを見つめながらそんなことを考えていたら眠れなくなった。
 昨日、居酒屋で須田と話したことを思い出そうとしても、頭に浮かんでくるのはその帰り道、仲良さげに話す須田と安奈の映像だった。須田が彼女を安奈さんと呼ぶ、その言い慣れた感じのする彼の声を思い浮かべるだけで、頭が沸騰しそうだった。
 嫉妬だ。ここまで激しく、誰かに対して妬ましく思うことは初めてだった。
 以前に須田も、嫉妬していると静に言った。静さんは誰にでも優しいんですね、と。
 だけど須田の嫉妬と自分の嫉妬では、きっと質が違うと静は思う。自分の今抱いてる感情は、あんなふうに相手にあっさりと打ち明けられるようなものじゃない。濁ったギトギトの油が心の柔らかい部分にまで染みこんでしまったような、誰かに知られると軽蔑されるような感情。
 そもそも嫉妬なんてしてる場合じゃなかった。須田のことを遠ざけようとしていたのに。だけどそんなことを思いながら、静はこの醜い感情を須田にぶつけたい衝動にも駆られていた。
「おかしい」
 寝転がったまま頭を抱える。
 須田にだけは知られたくないのに、須田にだけはわかってほしい。相反する感情のあいだを行ったり来たり。こんな状態をこのさきも続けたらおかしくなりそうだ。
 一睡もできないまま、静はパイプベッドの上で上半身を起こした。休憩時間はいらぬことを考えてしまってだめだ。仕事中は忙しさに追われてそれどころじゃなくなるから、かえってよかった。
 早めに休憩を切り上げて仕事に戻ろうと、目覚まし時計に手を伸ばしてなにか違和感を覚えた。なんだろう、と首を傾げた直後、秒針が天辺を指してセットしておいたアラームが鳴りだす。その音はいつもどおりの陰気な、自分の声じゃなかった。
『おはよ。静さん起きて、あいしてるよー』
 キャラクターがしゃべったのは、甘くて明るい、囁くような須田の声。
 あまりに驚いて、静は目覚まし時計を放り投げそうになった。止めないかぎり何度も繰り返される。あわててキャラクターの頭の出っ張りを押して音を止めた。
「な、なんだこれ」
 確かに自分の目覚ましだ。今までと同じ、もらいもののキャラクターの目覚まし時計。だけどよくよく見てみると、これは新品だった。さっきの違和感はそれだ。品物は同じでも、これは使い古した自分のものとは別物だった。アラームをセットする時はまったく気づかなかった。
 そういえば。
 昨日の夜の、居酒屋での須田との会話を思い出す。
『実はオレ、盗みを働いてしまったんすよ』
『あ、でも盗んだものの代替品はちゃんと用意しましたから』
 これのことか。ニコニコと微笑みかけてくるキャラクターを呆然と見つめながら、静は甘いため息を吐いた。
 須田の犯した罪。盗まれたのは自分の声が吹きこまれた目覚まし時計だった。
 暗い自分の声がたったひとことしかしゃべらない、価値のない目覚まし時計を、須田はなんのために盗んだ?
 甘い想像が脳内にじんわり浸透していく。
「バカ……」
 なんでこんなに、愛おしくさせるんだよ。
 なんで離れていってくれないんだよ。
 そんなふうに須田を責めながら、静の嫉妬で渦巻いていた心の中はすこしだけ満たされていた。

 勤務中は忙しくて、須田のことを考えずに済んだ。でも夜勤を終え更衣室で着替えていると、また頭の中は須田でいっぱいになる。
 安奈と仲のいい憎たらしい須田、目覚まし時計におかしな言葉を吹きこむ愛おしい須田。いつからこんなに彼のことばかり考えてしまうようになったのだろう。過去を振り返っても、その感情の境界線は見えない。始めは疎ましかったはずだ。だけどそうやって遠ざけようと躍起になっていたことすら、須田を意識していたゆえの行動だった気がする。
 須田がここまで自分にかまわなければ、彼を意識しなかっただろうか。低いけど弾んだような抑揚ある明るい声、よく笑う表情豊かな顔、体幹のしっかりしたバランスのいい身体。須田は自分が持っていないものばかり持っていた。そして気づいたら目で追っていた。
 男なら誰でもいい変態だと久保田に言われ、極端に男性を避けていた自分がどうしても惹きつけられた。須田は静にとって初めから、特別な男だった。
 今日は朝のミーティングで見かけなかったから、須田は休みなのかもしれない。そんなことを考えながら更衣室を出てエレベーターに向かう途中で、背後から声をかけられた。
「静さん、すこしだけ時間いいですか?」
 振り返るとそこには安奈がいた。おとといの夜に見た時と同じ薄化粧で、今は就業前なのだろう、制服を着ていた。
「話があるので。すぐに済みます」
 驚いて返事もできないでいる静を追い越し、安奈は廊下を歩きだした。

「あたし、和真のことが好きなんです」
 食堂の座席につくや、安奈は唐突に言った。
 外はどしゃぶりの雨で朝の時間帯の食堂にはほとんど人けがなく、窓際のいちばん端の席に座れば、雨が建物を叩きつける音にかき消されて会話は誰にも聞かれない。だから心配ないとわかっていたが、安奈があまりに堂々と告白するので静は思わず周りを見まわしてしまった。
「あの、話ってその……」
「このことじゃないです。今のはただあたしが、言いたかっただけ」
 買ったばかりのアイスティーを飲み干してしまった安奈に、まだ口をつけていないアイスコーヒーを勧めたが、遠慮されてしまった。雨でじめじめしているのとはまた別の、異様な空気感が二人のあいだにあった。静も喉が渇いていたが、カップを口に運ぶ余裕もないほど緊張していた。
「あたし、ずいぶん前から静さんのことを知ってるんです」
 空の紙コップの中をのぞきこみながら安奈が言った。静にとって安奈はおととい初めて会った相手だったので、その発言には驚いた。だけど同じ病院内で働いているわけだから、見かけたことくらいはあったかもしれない。
「話は、したことないですよね」
「ええ、あたしが一方的に見かけただけです。中央区にあるホテルで」
 中央区にあるホテル。その言葉を耳にして、静の心臓がドクンと大きく波打つ。
「五年ほど前のことです。静さんは久保田先生と二人でいました。あたしは兄の結婚式で、家族と一緒にそのホテルにいたんです。あそこって病院からはけっこう離れてますよね。だからあんな職場から遠い場所で知ってる人たちを見かけるとは思いませんでした」
 嫌な汗がじわっと全身から出てきて、背中と乾いたシャツをくっつける。触れてもいない紙コップの中のコーヒーが微かに振動しているのを静はじっと見ていた。
「静さんのことはその時まだ知らなかったんですが、次の日病院で見かけて昨日の人だとすぐに気づきました。ルームキーをフロントで受け取った久保田先生と静さんは、寄り添って一緒にエレベーターに乗ってどこかへ向かいました。あたしが見たのはそこまでです」
 安奈はどこかへ、と言ったが、どこへ向かったのかはわかっている。そんな口調だった。
 久保田とは病院からできるだけ離れた遠方のホテルで密会していた。室内で待ち合わせることがほとんどだったが、たまにタイミングが合って一緒に部屋へ向かうこともあった。その滅多にないうちの一回を、偶然そこに居合わせた安奈に見られてしまっていたようだ。
「今までこのことは、誰にも話してません」
 そうだろうとすぐにわかった。当時もし安奈が誰かに話していたら、噂はまたたく間に病院中に広まっていたはずだから。同じ職場内で働いていたというだけで面識のなかった安奈が、面白半分で誰かにこのことを話さないでいてくれたことが本当にありがたかった。
「今後も誰にも話さない、つもりです」
 話していないと、さっきはきっぱり言いきった安奈の口調が、今度は歯切れが悪かった。話さないつもりという言い方は、なにかのきっかけで考えが変わる可能性を示唆しているようにも感じられた。
「お願いします」
 しぼりだした声がかすれていた。そのみっともなさをごまかすために、静は氷が解けて表面に透明の層ができたアイスコーヒーをひと口飲んだ。
 もし過去の久保田との関係が世間にばれてしまっても自分はいい。底辺の人間だ。二人がホテルで密会していたなんて噂が流れても、汚れた自分の一部が露呈されるだけの話で済む。もちろん須田に過去を知られることを想像したら怖い。だけどそんなことは久保田に汚点を残すことに比べれば取るに足りない。
 久保田はもうすぐこの病院に戻ってくる。数週間前まではただの噂だったのが、つい先日、正式に戻ってくる日が発表された。もう間もない。
 久保田の手で救われる命がたくさんある。院内で名医と呼ばれていた彼は四年の海外修行を経て、さらに手技に磨きをかけていることだろう。自分とのおかしな噂ひとつでそんな彼の名誉に傷がつくのは、許されない。
「もちろん誰にも言うつもりはありません」
 静が相当思い煩っているように見えたのだろう。安奈はいたわるように言ったすこしあと、ただ、とトーンを落とした。
「静さんにひとつ、聞きたいことが」
「…………なんでしょうか」
 緊張で飲みこんだ唾液は、アイスコーヒーの後味で苦かった。
「和真って、ゲイじゃないですよね」
 うつむいてテーブルを見ていた安奈が、顔を起こしてチラッと静と目を合わせた。一秒にも満たなかったと思う。だけどその一瞬の視線の交差で、静はわかってしまった。
 安奈が静を呼びだした理由。今までずっと自分の内だけに仕舞っておいたことを静に打ち明けた理由。座席についてすぐ須田を好きだと告白した理由。
 彼女は先手を打ったのだ。静の須田への想いに気づいて。その想いがはぜる前に。
 おとといの夜、須田といる静を見て女の勘でなにかを察知したのかもしれない。静の須田に対する秘めた感情が、態度に表情に視線に、隠しきれず漏れ出ていたのかもしれない。
 安奈はきっとこんな行動に出たくなかったのだろう。今まで緊張しすぎて観察する余裕がなかったが、よくよく見てみると、テーブルの空のカップをのぞきこむようにうつむいた彼女の前髪はかすかに震えていた。
「須田は、ストレートです」
 きっぱりと言い切ると、安奈が顔を上げた。でも目は合わない。
「そうですか。よかった、安心しました」
 静の背後を見ながら、安奈は言葉とは裏腹に不安そうな顔で笑った。では、と頭を下げて、唐突に去っていく後ろ姿を静はぼんやり見送った。きっとこの場から一刻も早く立ち去りたかったのだろう。
 ひとりになると忘れていた雨の音が耳に戻ってきた。緊張から解放されても、静の体には鉛を落とされたような重だるさが残った。


 院内がまるで四月のような、新鮮な空気で満ちている。
 久保田の挨拶が済むと、大きな拍手が送られた。月曜の朝のミーティングなんていつもは、殺気立っているか夜勤明けでぐったりしているかなのに、今日はみんなきらきらした目をして久保田の帰還を心から歓迎していた。ほかのフロアにも続いて挨拶に向かうのだろう、久保田はミーティング後に声をかけてきたひとりひとりに丁寧な対応をしたあと、一礼してナースステーションを出ていった。
「久保田先生、相変わらず素敵ね」
「未婚だなんて信じられない」
「理想が高いのかなぁ」
 誰かが口々に言って、全員が甘いため息を吐く。久保田が素敵と言われる所以は、自分の能力を驕らない低姿勢と人当たりの柔らかさだと、昔先輩看護師から教えられた。
「ほら仕事仕事」
 忙しい月曜なのにもかかわらず、主任が声をかけるまで看護師たちはみな、ぼんやり久保田の去ったあとを見つめていた。

 院内に久保田がいると考えるだけで、毎日が憂鬱だった。まだ彼が戻ってきてからは直接話をしていない。いつ話しかけられるか、と意識過剰に怯えながら仕事をこなす日々。
 昼食の時間に食堂のメニューや並べられた小鉢を見ても、食べたいものが見つからない。でも食べないと午後がもたないことはわかっているから無理やり詰めこんでいたら、このあいだついに吐いてしまった。体が受けつけてくれない。でもなにか食べなきゃ。
 何日か試行錯誤をしつつ体の様子を見て、売店のあん入り蒸しパンなら食べやすく腹もちがいいことがわかった。量を詰めこむとまた吐いてしまうので、ここ数日の昼は野菜ジュース一本とあん入り蒸しパンひとつで済ませている。
「静さん、最近なにかありました? なんかみるからにおかしいんですけど」
 須田がやって来て目の前の席に座った。うつむいたまま須田の顔も確認せず、なにもない、とひとことだけ告げて蒸しパンの続きを頬張った。
 久保田が戻ってきてからは、彼に遭遇しないよう祈りながら毎日を過ごしていたが、同時に須田のことも避けていた。昼休憩もできるだけ彼がリハビリに入ったタイミングで取るようにしていたのだけど、今日はすこしずれてしまった。
 数日前の安奈との会話を思い出す。彼女は須田を好きなのだ。そして、静の弱みを握っている。怯えながら静を脅してきた安奈の気持ちは、静にもすこしわかった。自分も女性だったら、彼女と同じ行動に出たかもしれないと思う。
 安奈の気持ちになって自分を客観的に見てみると、非常に気味が悪い。明るい人気者の須田にすこし気に入られたからって、舞い上がってその気になっているゲイの男。
 このままではだめなんだ。ストレートの須田をこちらの世界に引きこんではいけない。須田と出会う前の自分を取り戻さないと。
 須田に傾きかけていた気持ちは、心の奥底に沈めてある箱の中に封印する。過去の汚点がいっぱい詰まった中に、この気持ちも一緒くたにして押しこめる。二度と開けてはならない。二度と人前で露呈してはならない。
「痩せました、よね」
 うつむいていて須田の手が伸びてきたのに気付かなかった。手のひらが突然頬に触れて、思わず顔を上げる。
「その蒸しパン、食後のデザートじゃなくてそれしか食べてないんじゃないすか」
 本当に心配してくれているのが、須田の表情から触れられた温もりからわかってしまう。わかりたくなんてないのに。
「放せ」
 頬に触れたぬくい手を派手に振り払った。目の前の須田が驚いた顔をしている。須田といるとどうしても感情が激しくなってしまう。いつもは抑えこんで我慢できることが須田相手だとうまくできない。
「かまうな。放っておいて」
 きちんと冷静に伝えたつもりなのに、声が震えて媚びてるみたいに響いた。
「なんで?」
「なんでもだ」
「なんなの? なにかあったんならちゃんと説明してよ。最近、妙にオレのこと避けてるみたいだし。唐突にそういうことされると、すごいへこむんですけど」
「説明はしない。とにかく二度と、僕に近づかないで」
 頭を垂れ、心を平らにして、精一杯冷静な声を出した。言ったあとは、須田の表情を怖くて確認できない。
「なにそれ……、意味がわかんないんすけど」
 呆然とした様子で呟いた須田をその場に残し、静は食堂をあとにした。早足で廊下を進む。できるだけ遠くへ。
 きっと須田は怒ってる。理由も聞かされないまま一方的に近づくなと言われれば、誰だって不愉快だ。これで完全に嫌われたに違いない。だけどいいんだ。これですべてがうまくいくんだから。心にそう言い聞かせていないと涙がこぼれそうだった。
 昼間は人通りのすくない仮眠室のあるフロアに向かう。そのいちばん奥、いつもの曰く付きの部屋に入る。須田が張ったクマのシールが視界に入らないよう、壁に背を向けパイプベッドに腰かけた。
「これでいい。さっきの行動で合ってる」
 ひとりになって、心の中の呟きを言葉にした。自分の発した声を耳で聞いて自分を納得させる。だって須田を避けてる理由なんて教えられないから。安奈が須田を好きなことも、自分の汚れた過去も、今現在の自分の須田への想いも。伝えたいことはひとつとして須田に伝えることができない。
 これでいいんだ。
 うつむき頭を抱え、ぶつぶつと呪文のように呟き続けていた時、ノックもなしに扉がひらいた。須田がやって来たのだ、と思った。きっと怒って自分を問いつめるために追いかけてきてくれたんだって。
 ハッとして顔を上げると、そこには久保田が立っていた。
「あ、先生……」
「きみがここに入っていくのを見て追いかけてきたんだ。久しぶりだな、朋史」
 自分に向けられた柔和な笑顔も穏やかな話し方も、四年前と変わっていなかった。
「元気だったかい」
「はい、お久しぶりです」
 立ち上がって頭を下げる。急に寒気を感じて、震えだした唇を歯で噛みしめた。差しさわりのない近況報告などをし合ってしばらくすると、久保田が腕時計に目を落とした。
「そろそろ行かないと。みんなに怒られそうだ」
 ふふ、と細い目を糸みたいにして笑う久保田に合わせて静も笑おうとしたが、うまく笑顔が作れなかった。
「今度の水曜、きみ休みだよな? 夜、空いてるだろ」
「夜、ですか」
 帰ってくれると思ったタイミングで唐突に尋ねられ、心臓がどくんと跳ねる。
「ああ、ホテルを取ってあるんだ」
 まるで四年前の最後の日が今日と隣り合わせであるかのように、久保田は自然な口ぶりで誘ってきた。当然、静の答えがイエスであることを疑っていないのだろう。
「ひさびさだからな。初回だけは丁寧にほぐしてやるよ」
 初回だけ。
 柔らかい声音に不似合いな物騒な発言に、思い出だった過去がリアルに目の前に迫ってきているのを静は感じた。
「先生、僕は四年前に先生とはお別れしたつもりです。だからもう、こういうことは……」
 勇気を振りしぼって震える声で伝えると、久保田はさほど驚いた様子は見せず、へえ、と首を傾げた。
「やり直すつもりもないってことか」
「…………はい」
 目をそらさずに答えると、納得してくれたのか、久保田はすこし笑って扉へ向かった。ノブにかけた手が、回転せずに止まっている。
「まさか、恋人ができたのか」
 背中を向けたままの久保田が、今日いちばん優しい声で尋ねてきた。
「ち、違います」
「なら、好きな人ができたか?」
 二番目の質問には答えられず、固まってしまう。否定しないでいることは肯定したのと同じになってしまうと、焦って声を出そうとしても喉がひらかない。
「まあいいよ。きみの恋愛事情に興味はない」
 振り返ってそれだけ告げると、久保田は握っていたドアノブを回して部屋を出ていった。



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