白に混じる幸福(3)

 術後の経過が順調で、傷口をふさぐガーゼが日に日に小さくなっていく。体を切った直後は痛みと熱で食事も睡眠もままならなかったのが、今ではぐっすり眠ったあとの朝食の薄味に文句も言えるくらい元気になった。そんな患者の快復していく変化を見るのが、看護師という仕事をしている上でいちばん幸せだと静は思う。
「おしまいです」
 ガーゼ交換のあと、全身の清拭をして新しい寝衣に着替えさせた老年の患者が、嬉しそうに静を見た。
「やっぱり静ちゃんがいちばんだぁな。丁寧だし、気ぃつかってくれるし、優しいしさ」
「なんですかそれ」
「女はだめよ。顔はニコニコしよっても、腹でなに考えてるかわからんから」
 処置を終えてベッドの仕切りカーテンをひらくと、四人部屋のほかの患者たちも聞き耳を立てていたのか、話に入ってくる。
「そうそう。俺ぁこの前、新人の女の看護婦さんに体拭いてもらったんだけど、着替える時に腕引っぱられてちぎれそうになったんで」
「痛いって言っても、ごめんなさぁい、我慢してくださいねぇ、とかぬかしやがる。女は誠意が足りんのよ」
「新人は新人でも、あの男はよくやってくれてるぞ。ほら、この前ここの戸で顔ぶつけて鼻血出しよった」
「須田、ですか」
 静が名前を出すと、須田のリハビリを受けていない患者までもがそうだそうだ、あいつはいい男だ、と同意しだす。
「まだ新人だけど勉強熱心でな。あいつは闇雲に明るいだけじゃないよ。思うとおりに体を動かせんワシの気持ちを理解しようとしてくれてる。そういうのが伝わってくるから、こっちもリハビリ頑張ろうって思えるのよ」
 思わぬところから須田の評価を耳にして、静はなぜか胸がじいんとなった。患者との接し方にも人間が出る。リハビリの仕事は看護師以上に患者と深く関わっていく。人が好きでないとできない仕事だ。理学療法士は、裏表のない須田に向いているのだろう。
「なに静くん、ニヤニヤしてめずらしい」
 ナースステーションに戻ると、先輩看護師に指摘されて静はゆるんでいた表情を引き締めた。自分でもなにがそんなに嬉しいのかと思う。自分とは関係のない須田が褒められただけだというのに。
「ちょっといい加減にして、あなた」
 突然、怒りをまとった主任の声が響き、ステーション内の空気が一瞬でピリッと固まる。
「できない、じゃないの。やってちょうだい」
 嗚咽を隠しきれないくらい泣きじゃくっている女性の新人看護師に、主任は慈悲もなくそう言い残してステーションを出ていった。主任の姿が見えなくなると十秒ほどざわざわとした空気が流れたが、その後はみな自分の業務に戻っていく。今日は月曜で朝から新たな入院患者が入ったり、ベッド移動があったり、検査が多かったりで、誰もが人を手助けするような余裕がなかった。
 いつもは助けてくれる先輩たちが目も合わせてくれないのを見ると、新人看護師はさらに目に涙を溜めた。静も自分の仕事があったが、そんな状態の彼女を放っておくわけにはいかない。
「どうしたの」
 通路の邪魔になっている彼女を移動させ、尋ねると、すこしホッとした様子で事情を説明してくれた。数日前に一度失敗した同じ患者の、点滴のルート確保が怖くてできない、という話だった。
「今日は僕がやるから、隣で見てて」
 彼女と一緒に準備をして病室へ移動する。その男性患者はまだ四十代と若く、血管も太く柔らかそうで、静脈を見つけだすルート確保が難しくはなさそうだったのだけど。
「絶対失敗するなよ」
 彼はきっと一度目の時も同じことを言ったのだろう。針を見た直後に発せられた患者のひとことで、彼女がプレッシャーによって恐怖を感じているのだとわかった。
 一発で針を刺して点滴を通し、病室を出る。ナースステーションに戻る途中、うしろを歩く新人看護師にそっと声をかけた。
「ああいうこと言う人たまにいるけど、気にしなくていいから」
「はい……。静さんくらいになると、もうどんな状況でも失敗しなくなるんですか?」
 自分くらい、と言われるほどに経験を積んでいるわけではなかったが、その点は指摘せず、あるよ、と答えた。
「たまに外す」
「ほ、ほんとですか。そういう時、どうするんですか?」
「謝る」
「それだけ、ですか?」
「うん」
 難しく考えすぎている彼女に、静は自分の失敗談を聞かせた。
「新人の時、強面の患者さんに三回刺して失敗して、殴られたこともある」
「な、殴られちゃったんですかっ」
「うん、女の子は殴られないから羨ましい」
 男は相手が同性だと容赦しないのだと教えると、彼女はふふ、と後ろで小さな笑いをこぼした。
「どんな立派な看護師も失敗した経験があって今があるんだと思う。辛いことも多いけど、やりがいもあるから。困った時は声かけて。出来る限りのことはしたいと思ってるから」
「……はいっ」
 芯のある返事を聞いて、振り返り、彼女の顔を確認する。涙のあとのきらきらした目で見つめてくる新人看護師とその場で別れ、静は自分の仕事に戻った。


「静さんって誰にでも優しいんですね」
 午後三時。食堂ですっかり遅くなった昼食をとっていると、休憩でコーヒーを飲みに来た須田がテーブルの向かいに座った。
「なんだそれ」
「内田さんから話聞いたんすよ。静さん、さっきフォローしてあげたでしょ。彼女と廊下でばったり会って、泣き腫らした目でニコニコ笑って歩いてるから何事かと声かけたら、仕事で困って泣いてる時に静さんに助けてもらっちゃったって、自慢されました」
 それを自慢と受けとる須田はどうかしてる。静は黙々とざるそばをつゆにつけてすすりながら、須田は女性看護師の新人とちょっとしたことで声をかけ合うくらいに親しいんだな、とか考えている自分もどうかしてると思う。
「僕は優しくない」
 そばを平らげたあとは、チキン南蛮定食、小鉢のとろろ納豆と白和えとほうれん草まで、テーブルに並べたすべてを食べきってから静は訂正した。あまりに間が空いていたため須田は一瞬ほうけたような顔をしたが、静の言ってる意味に気づくとなぜ、と反論してきた。
「静さんは優しいですよ。いろんな人から話聞くもん。仕事ができる、気を使える、優しい人って、誰からの評判もいいですよ」
 裏でなにをこそこそ聞きまわってるんだ、と頭の片隅で非難しつつ、まっすぐ見つめてくる目から目をそらして、静も反論した。
「それは僕が、いい人の振りをしてるから」
「振り?」
「僕はいい人じゃないから、いい人の振りをしてる。優しくないから、優しく見えるように努力してる。悪人が善人ぶってるだけだ」
 いつも気をつけている。できるだけ自分の汚れが露呈しないように、目立たないように、誰の目からも変態であることを隠すように。人と接する時はそのことだけを考えている。
「みんなそうだよ」
 ひどくそっけなく告げられた須田の言葉に、静はうつむいていた顔を上げた。
「根が優しい人なんて、ごく一部なんじゃないすか? みんないい人に見られたいとか、人に好かれたいとか、いろんな理由で人に優しくしてるんじゃないかな。少なくともオレはあなたを見ていて優しいと感じるし、静さんの周りの人たちもみんな静さんをいい人だと認識してます。人の目にそう映れば、もうそれが真実なんすよ。だから優しいんだよ、あなたは」
 言いきる須田にまた反論しようとしたら、手のひらを顔の前にかざされて止められる。
「あ、この考えは絶対譲りませんからオレ」
 目を細め、凄んだ表情で須田がにらみつけてくるので、気が抜けた。ふっと息を吐くと柔らかい気持ちがむくむくとこみあげてきて、こらえる余裕もないまま静はなんだか笑ってしまった。
「めったに笑わないけどさ、笑うとかわいいすよね、静さんって」
 目は細めたまま、表情をゆるめた須田がそんなことを言うので、漏れ出てくる笑いを引っこめたら。
「そうやって気持ち隠すの、やめたほうがいいよ」
 ありがた迷惑な忠告に、眉間に皺が寄る。
「あ、今、うるさい須田黙れ、って思ったっしょ」
 須田の言ったことが心の声とほとんどぴったり合ってたので、もう我慢できず噴きだしてしまった。笑顔を見られないようにランチトレイを須田のほうに押しやって突っ伏して笑った。
「あーなんかたまらん。静さんが感情豊かにしてるの嬉しいし可愛いしたまんないす」
「本当にちょっと黙って」
「やっぱりさっきも心の中で思ってたでしょ。オレの言ったこと当たってたでしょ」
「うるさい須田黙れ」
 声をあげて笑う須田につられて、静もテーブルに向かってクスクス笑い続けた。

「残業おつかれっす」
 業務が長引いて遅くなったその日の帰り、職員通用口を出た静を須田が出迎えた。無言で隣を通過すると、あーあ、鉄仮面に戻ってる、とぼそっと呟くので、静は昼休憩の時の名残でまたこっそり笑ってしまった。
「そういえば、患者さんがおまえのこと褒めてたよ」
 隣に並んだ須田のことは見ないで伝えると、え、と一音なのに喜んでいるのがまるわかりな反応が来た。
 昼間の患者たちとの会話を思い出して須田の評判を本人に教えると、素直に嬉しい、と言った。
「裏表がないのに評判がいい須田こそ、本物の優しい人なんじゃない」
 本音ではあったが、これを言うことで須田は調子に乗るんじゃないかと思ったら、意外にも否定の言葉が返ってくる。
「いや、オレこそ真の偽善者ですから。人は好きだし、本気で仕事に取り組んでるけど、いざ仕事を離れたところで患者さんたちに優しくするかって言われたらしないもん。仕事だから真剣に向き合ってるけど、プライベートではオレけっこう人に冷たいんすよ」
「嘘だ、優しいじゃないおまえ」
 須田は遠慮がないが、その大胆不敵な言動の裏には優しさが透けて見えたりするので訂正したら、だからさ、と甘い声が耳に吹きこまれる。
「それは静さんが相手だからでしょ」
「なにそれ」
「静さんは、オレがプライベートでも優しいと思ってもらいたい人ってことです」
「意味がわからない」
「あ、そのさ、意味がわからないっていうの、静さんの口癖ですよね。本当はわからないんじゃなくて、わかりたくないんすよね。そのことについて深く考えたくないんでしょ」
「おまえ本当うるさい」
「あー、静さんが無視しないで感情をぶつけてくれるようになったことが幸福」
 指で数えられるほどしか星の見えない夜の空を見上げて立ち止まる須田を置いてくと、怒った? と嬉しそうに尋ねながらすぐに追いついてくる。
「ちなみに昼間オレが食堂で、静さんに優しいって言ったの、あれ内田さんに対する嫉妬から出てきた発言ですから」
 嫉妬。
 須田は、静さんは誰にでも優しいんですね、と言った。それが嫉妬だというのか。
「なんで男が男に嫉妬するんだよ」
 静は自分で言って可笑しくなった。まさに自分自身が男に嫉妬する人種であるというのに、非難めいた声を須田にぶつけているのが滑稽だった。
「静さんってさ、男はだめ?」
「なに言ってるんだ」
 うしろを歩いていた須田が隣にやって来て、真剣な声音でそんなことを言いだすから、心音がますます速まっていく。
 男がだめなんじゃない、男しかだめな自分。
 だけどそんなことを唐突に直球で尋ねられても、静のほうは正直に答えられない。
「男相手とか、気持ち悪いって思っちゃいます?」
「そう思うのは、須田のほうだろ」
 以前、デートに誘った女の子が少食だと嫌だ、と話していた。須田はそうやって今までに何度も女の子をデートに誘ってきたということだ。ああ嫌だ。こんなずいぶん前の須田との会話の中の、些末な一部分を覚えている自分の気持ち悪さに鳥肌が立ってきた。
「オレのほうは平気っていうか、むしろ積極的に静さんと交わりたいっていうか」
 右手が、右側を歩く須田の左手とぶつかった。偶然触れただけだと思ったそのすぐあと、指先をまとめてぎゅっと握られて、ただでさえ速すぎた心臓が爆発しそうになり、静はその場に立ち止まった。
「オレは今までは女性としか付き合ってこなかったけど、静さんだったら、というかもうそんな問題じゃないや。たぶんすでに落ちてるんだと思う」
 独り言のような伝える気のなさそうな須田の声が、うつむいたつむじの辺りに重くかぶさってくる。暗い夜道との境が曖昧な自分の真っ黒なスニーカーをじっと見つめていると、繋がれた手とは反対の須田の手が、うつむいた頬に触れた。こんなに激しくドキドキしている裏側で、須田の体温の高さに居心地のよさを感じている自分がゆるせなくなって、その怒りを須田にぶつけようとしてキッとにらめつけるように顔を上げたところで、キスされた。唇に。
 その唇もやっぱり温い、と感じたのは一瞬。
「…………っ、ぅ」
 驚いて口を開けそうになって留まる。抵抗もできないまま、だけど、気持ちいい、と意識しそうになる程度には長いくちづけだった。
「やらけー」
 キスの直後に感想とか言うやつはバカだ。とか心の中だけでも悪態を吐いていないと、顔がどんどん赤くなっていってしまう。今が夜でよかったと思う。
「ねえ、だめ?」
 甘い声で須田が尋ねてくる。男相手はやっぱりだめか、と問うてくる。
 正直に答える必要なんてなかった、と数分後には後悔していた。だけどこの時は突然のキスの興奮で体が火照っていて、内側からなにかを発散しないと沸点を超えて脳みそが爆発しそうだったから、静は濡れた唇を手の甲で拭って、須田をにらみつけながら告白してしまった。
「僕はゲイだから」
 ほとんどやけくそだった。
「ずっと男が好きだから。男相手に気持ち悪いって思わない」
 早口の声が上ずる。おまえみたいに女と付き合ったことのある人間とは違う。本物の男好きを見て幻滅するならしろ、とどこか傷つきながら思ってたら。
「マジで? ラッキー」
 軽くてのどかな声がして、指先を握る手にきゅっと力がこめられた。
 この男がどこまで本気なのかわからない。
 触れられた手を振りはらう。とにかく怖かった。
「でもだめ」
「だめって、オレがだめってこと?」
「そうだ」
「じゃあさ、静さんはどういう男の人がタイプなんすか?」
 タイプなんてない。自分はただ男が好きなだけ。男だったら誰だっていい。そう、淫乱で変態なんだから。
 あの人に言われた。何度も何度も。おかしな行為の最中に植えつけられた言葉が頭の中をぐるぐる回る。
「カッコいい人? 優しい人? 面白い人?」
 誰だっていい。
「須田以外」
「はい?」
「須田以外の人がタイプ」
 とにかくおまえはだめだと伝えたかった。この言葉で須田を傷つけることは確実だったけど、手段を選ぶ余裕が静にはなかった。
 そしてこの発言で、須田を傷つけると同時に嫌われることになる。最悪の方法だけど、彼を遠ざけることができるんだからこれでよかったんだと自分に言い聞かす。嫌われることに怯え、傷つけることに傷つき、ほかに幾らでも人との距離を取る方法なんてあるはずなのにそれを思いつけない自分の対人スキルの低さに嫌気が差す。
 よく知りもしないくせに、白衣の天使だとか過大評価をして距離を詰めてくる須田が憎い。だけどそんな須田に惹かれ始めている自分の心が、いちばん憎い。
「どういうことすか、それ」
「言葉、どおりの意味だ」
 なにも持たない手が震えだす。さっきまで須田に握られていた手を、今はひとりきりでぎゅっと握りしめていたら。
「だとしたら、ひでー」
 須田は夜空に向かって言葉を放つと、腹を抱えて笑い出した。なんでひどいと言っておきながら、そんなに笑えるのか。本気で意味がわからない。
「でもそれって、すっごい意識されてる気がしますね」
 確かに。当たってる。須田のことをすごく意識してる。
 須田を意識し始めたのは、いったいいつからだろう。ふとそんなことを考えて時間を巻き戻し始めると、『名前、なんですね』と言った須田との最初の会話がぽん、と頭に浮かんで、まさかそんな出会いの頃から意識していたわけないだろ、とドキドキしながら静は自分の思いつきを否定した。
「おまえは僕を買いかぶってる。僕は須田が思ってるような人間じゃないから」
「オレが静さんのことをどんな人間だと思ってるか、わかってるみたいな言い方しますね」
「白衣の天使だろ」
「アハハ、やっぱ静さんおもしれーな」
 自分で言ってて恥ずかしかったが、そもそもそれは須田が言いだしたことだ。なにも間違ってないのにバカにされて言い返そうとしたが、今はそんな小競り合いをしてる場合じゃないと思い返す。
「とにかく、須田はだめ」
「はいはい」
 適当にあしらわれたことは納得いかなかったが、そもそも須田はそこまで本気でアプローチしているわけではないのかもしれないと思い直す。須田はきっと、いや絶対モテる。軽い気持ちで、その場のノリで口説いて口づけてみただけ、ということもありうる。
 自分だってまだ須田がどんな男かよく知らない。静はそう気づいたのと同時に、もっと知りたいと思っている自分を戒めた。




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ううむ、

わたしやっぱり、りんこさんの文章好きだなあ。
最後まで楽しみにしてます。

Re: ううむ、

たつるさまへ

わああ、嬉しいよう‥!
また頑張って書きたくなりました。
この話も最後までお楽しみいただけますように人

なんでしょうか

もう読んでてキュンキュンします(≧▽≦)
須田君みたいに明るくグイグイくるキャラ、めっちゃ良いわぁ~♥

Re: なんでしょうか

オーサカマウスさまへ

キャー、キュンキュンしてもらえて感無量です( ;∀;)
須田はこの先もグイグイいってくれるはず、です‥(不安)
最後までぜひお楽しみいただけますように!
プロフィール

りんこそ

Author:りんこそ
宗川倫子(そうかわりんこ)
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